ワールドエンダー 終末の物語   作:ニカン

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第3話

 カルドレクは、外から見ればうまく回っていた。

 

 祈りは続いている。

 物流も止まっていない。

 治安も、ぎりぎりの線ではあるが保たれている。

 

 街路には人が戻りつつあった。

 商いも死んでいない。

 少なくとも、明日にも崩れる街には見えない。

 

 その評価自体は間違っていなかった。

 

 間違っていないだけで、楽に回っているわけではまったくないが。

 

 机の上に積み上がった書類を見て、セルヴァンは心の底からうんざりした。

 

 誰だ、これを全部こちらへ回したのは。

 いや知っている。

 責任の所在が曖昧になった瞬間に、面倒なものから上へ積む無能どもだ。

 

 視線を落とす。

 至急決裁。

 担当不明。

 前任死亡。

 確認待ち。

 再承認。

 差し戻し済み。

 馬鹿なのか。

 馬鹿なのだろう。

 知っていた。

 パストルが死んだ。

 

 その一事だけで済むなら、話は早かった。

 

 実際にはそうならない。

 

 加護が消えたことで前線の戦力は落ちる。

 祈りが届かなくなったと騒ぐ信徒が出る。

 教義の解釈を勝手に始める司祭も出る。

 おまけに、こういう時に限って自分の椅子を一段でも高くしようとする小物が湧く。

 

 湧くな。

 せめて時期を選べ。

 いや、選べる程度の頭があれば最初からこんな手合いにはなっていないか。

 

 扉が叩かれた。

 

 セルヴァンは顔を上げる前に、机上の紙束を端へ寄せた。

 見せる必要のないものは見せない。

 それだけのことだ。

 「入れ」

 

 入ってきたのは若い補佐役だった。

 緊張した顔をしている。結構なことだ。今のカルドレクで緊張感のない人間は役に立たない。

 

 「北区の司祭たちが、救護物資の配分について異議を」

 

 「却下だ」

 

 「まだ最後まで言っておりませんが」

 

 「言わなくていい。異議そのものではなく、配分権を握りたいだけだろう」

 

 補佐役が口を閉じた。

 図星らしい。

 

 実に腹立たしいことに、だいたい分かる。

 こういう連中は、神が消えようが街が傾こうが、自分の取り分にしか興味がない。

 

 いや、それ自体は構わない。

 人間とはそういうものだ。

 問題は、その程度の欲をもう少し上手く隠せないことだった。

 

 「物資は予定どおり流せ。顔だけは立てておけ。名目はこちらで後から作る」

 

 「承知しました」

 

 「あと、南区の見回りを一隊増やせ。熱心な連中がまた騒いでいる」

 

 「はい」

 

 「刺激するな。押さえつけるより先に、聞いているふりをしておけ」

 

 「……神に見捨てられた、と」

 

 「一部は本気でそう思っている」

 

 セルヴァンは書類を一枚取り上げ、ざっと目を通した。

 

 「だが大半はそこまで熱心じゃない。ただ、何かがおかしいと感じているだけだ。不安は面倒だが、熱狂よりは扱いやすい」

 

 補佐役は少しだけ顔を強ばらせたが、異議は挟まなかった。

 

 賢明だ。

 

 この状況で必要なのは、信仰の純度ではない。

 崩れない運用だ。

 「次」

 

 補佐役は抱えていた書類束を差し出した。

 

 まだあるのか。

 あるのだろう。

 知っていた。

 

 セルヴァンは表情を動かさずに受け取った。

 

 内心では、今すぐ火をつけて暖を取りたい気分だった。

 

 上に立つというのは、要するにこういうことだ。

 

 権限が集まる。

 責任も集まる。

 ついでに、無能まで集まる。

 

 実に素晴らしい。

 集まってきた無能をまとめてゴミ箱にでも放り込めれば、より素晴らしいだろう。

 

 いや、理解はできる。

 権力そのものに酔いたいだけの連中なら、掃いて捨てるほど見てきた。

 問題は、そういう手合いが今この瞬間にも、こちらの足元を掘り返そうとしていることだった。

 

 「他は」

 

 補佐役が一瞬ためらった。

 

 ああ、面倒な類だなとセルヴァンは察した。

 ためらう人間は嫌いではない。自分が持ってきた報告の質を理解しているということだからだ。

 理解していない馬鹿よりずっといい。

 

 「……第二司祭補のユルゲンが、閣下のご負担を案じていると」

 

 「死ねばいいのに」

 補佐役が固まった。

 

 セルヴァンは目を上げた。

 

 「今のは独り言だ。続けてくれ」

 

 「は、はい。ええと、補佐人員の増員と、決裁権限の一部委譲を提案しています」

 

 「つまり帳簿と命令系統を覗かせろと言っている」

 

 「……はい」

 

 「全く。実にわかりやすく醜い」

 

 ユルゲン。

 大した能力もないくせに、目端だけは利く男だ。

 こういう混乱期になると必ず湧いてくる。大物の器ではないが、小さな隙を見つけて入り込むことだけは上手い。

 

 最悪なのは、完全に無視もできないことだった。

 無視して勝手に腐らせると、今度はそれを材料に別の連中が騒ぎ出す。

 面倒事とは、潰しても潰しても形を変えて戻ってくる。

 

 害虫か。

 「丁重に断っておけ」

 「理由は」

 

 「多忙につき、で通せ。あと、彼には救護院の在庫確認を任せておけ」

 

 「在庫確認、ですか」

 

 「帳簿が好きなんだろう。好きなだけ見せてやれ。ただし最前線の泥付き倉庫だけをな」

 

 補佐役が、わずかに口元を引きつらせた。

 

 理解したらしい。

 結構なことだ。

 

 「功績が欲しい人間には、功績に見えなくもない雑務を与えておけ。責任だけ重くて旨味の薄いものが理想だ」

 

 「承知しました」

 

 「それで潰れるならその程度だ。潰れないなら少しは使える」

 

 紙をめくる。

 次。

 次。

 次。

 

 南区の祈祷所で泣き崩れる信徒が増えている。

 東門の詰所から、加護消失後の士気低下について意見具申。

 北側の流通路で検問権限が曖昧になり、物資が半日止まった。

 旧教義派の司祭が「試練」という便利な単語で全部を片づけようとしている。

 

 雑だな。

 

 いや、雑だからこそ広がるのか。

 中途半端に分かりやすい言葉はいつだって厄介だった。

 

 「東門の件は?」

 

 「隊長が、加護なしでの巡回人数では持たないと」

 

 「持たないだろうな」

 「増員を?」

 「しない」

 補佐役が顔を上げた。

 

 「できないからだ。できるなら最初からしている」

 

 セルヴァンは椅子にもたれた。

 

 「巡回路を短くしろ。見せる範囲を減らす。全部を守ろうとするな。守っているように見せる場所だけ守れ」

 

 「住民への印象を優先する、と」

 

 「戦力が落ちた時に一番困るのは、実際の穴じゃない。穴が見えることだ」

 

 自分で言っていて嫌になる。

 だが事実だった。

 神は死んだ。

 加護は途絶えた。

 それでも街は今日も回さなければならない。

 

 奇跡の代わりに必要になるのは、結局のところ数字と配置と顔つきだ。

 

 なんとも夢のない話だった。

 

 「あと、熱心な信者の集まりですが」

 

 「殺す必要はない」

 「はい」

 

 「散らせ。順番に疲れさせろ。誰か一人を殉教者に仕立てるな」

 

 「……殉教」

 

 「この時期に一番いらない。象徴は増やすな。疲れた集団はただの群衆だ」

 

 補佐役は必死に書き留めていた。

 

 その姿勢自体は悪くない。

 悪くないが、いずれこいつも面倒な案件をこちらへ積む側に回るのだろうと思うと、少しだけ気が滅入った。

 

 人の上に立つというのは、つまり未来の面倒まで育てる作業でもある。

 

 まったく、救いがない。

 

 その日の最後の書類に印を入れた頃には、外はもう暗くなっていた。

 

 まだ終わっていない案件はある。

 あるが、今ここで自分が机に張り付いていても処理速度は大して変わらない。

 人間の頭は、使い潰せば鈍る。

 鈍った頭で決裁を回すくらいなら、少しだけ休んで効率を上げた方がましだった。

 

 もちろん、それをそのまま言うつもりはない。

 

 セルヴァンは上着を替え、襟元を崩した。

 髪も少しだけ整え直す。

 見慣れた聖職者の輪郭から、ほんの半歩ずらすだけでいい。

 完全に別人になる必要はない。

 目立たず、しかし舐められすぎない程度。

 場末へ降りるなら、そのくらいがちょうどいい。

 

 扉の外には、護衛が一人だけ待っていた。

 

 「一人か」

 「見える範囲では」

 優秀だ。

 余計なことを言わない人間は使いやすい。

 

 「付いてくるなとは言わない。見えるところには出るな」

 

 「承知しました」

 

 セルヴァンは廊下を歩き出した。

 

 神が消えた後の教会は、静かだった。

 信仰が静まったのではない。

 ただ、皆が少しずつ、自分の足場がどこまで崩れているかを測っている。

 騒げる段階を過ぎた連中の沈黙だ。

 

 実に面倒くさい。

 

 それでも、面倒だと分かっているだけまだ扱いやすい。

 本当に厄介なのは、自分が何に怯えているのか理解していない群衆の方だった。

 

 場末の酒場は、下層の外れにあった。

 祈りより酒と油の匂いが強い場所だ。

 こういう店は嫌いではない。

 誰も彼も、そこまで他人に期待していない顔をしている。

 信仰を語る場所より、よほど話が早い。

 

 カウンターに座る。

 安い酒を頼む。

 出てきた液体は、期待どおり安い味がした。

 

 結構。

 高い酒を飲みたい夜ではない。

 

 「景気は」

 店主が肩をすくめた。

 

 「前よりはましさ。前がひどすぎたとも言うがね」

 

 「違いない」

 

 「上が少しは回り始めたんだろ」

 

 「どうだろうな」

 

 セルヴァンは杯を傾けた。

 

 少なくとも、回しているのは私だが。

 などと口に出すほど安い見栄は持っていない。

 

 店主は客の顔色を見る種類の人間だった。

 こちらが何者か、正確には分からないだろう。

 だが、触れない方がいい線くらいは見えている。

 それで十分だった。

 

 隣の席では、物資がどうこう、見回りがどうこう、加護が薄くなった気がするだの、

 ぼやきとも噂ともつかない声が流れている。

 

 そうだろうとも。

 薄くなったのではない。

 消えたのだ。

 その事実だけは、どう取り繕っても戻らない。

 

 セルヴァンはもう一口だけ飲んだ。

 

 「神様ってのは、案外気まぐれらしい」

 

 誰にともなく言う。

 

 店主は愛想笑いで流した。

 隣の客は、聞こえたのか聞こえないのか微妙な顔をした。

 

 「いなくなってから困るなら、最初から全部預けるべきじゃなかったんだろうさ」

 

 我ながら、だいぶ感じが悪い。

 だが本音だった。

 

 信仰そのものを否定する気はない。

 使えるなら使えばいい。

 寄りかかれるなら寄りかかればいい。

 問題は、支柱が折れた途端に立てなくなることだ。

 

 そんなものを、組織の土台に据えるな。

 いや、据えていたのは他ならぬこちら側でもあるのだが。

 

 笑えない。

 「兄さん、仕事で?」

 

 隣の客が、少しだけ酔った声でそう聞いた。

 

 「似たようなものだ」

 「上の方は大変だな」

 

 「まるで他人事みたいに言う」

 

 「他人事だからな」

 

 その返しに、セルヴァンは少しだけ口元を緩めた。

 

 正しい。

 下の連中にとって、上の苦労など他人事でしかない。

 そして上から見れば、下の勝手さは腹立たしい。

 その断絶の上に組織というものは立っている。

 

 まったく、出来の悪い冗談だった。

 

 杯を空にして立ち上がる。

 長居をする理由はない。

 拾うべき空気は拾ったし、これ以上ここで愚痴を薄めても建設的ではなかった。

 

 勘定を置いて店を出る。

 

 夜気は冷えていた。

 通りは狭く、灯りもまばらだ。

 場末というのは、どこの都市でも似たような顔をしている。

 

 数歩進んだところで、気配が増えた。

 

 増え方が雑だ。

 隠れる気がないのか、あるいは隠しきれると思っていないのか。

 どちらにせよ三流だった。

 

 角の向こう。

 壁際。

 背後の足音が一つ。

 合わせて四。

 

 金で雇われたか、あるいはもっと安い見栄で集まった手合いだろう。

 身のこなしに統一がない。

 殺しに慣れている人間の静けさがない。

 

 つまり、面倒なだけで脅威ではない。

 

 「旦那ぁ」

 

 前に出てきた男が、妙に愛想よく笑った。

 歯が汚い。

 距離の詰め方も汚い。

 

 「ちょっと持ち物を確認させてもらいてえんですが」

 

 「断る」

 

 男の笑みが少しだけ引きつった。

 

 「そう言わずに」

 

 「言っただろう。断ると」

 

 背後の気配が動いた。

 合図としては下の下だ。

 

 次の瞬間、短い鈍音がした。

 

 振り返る必要もない。

 背後から来ていた一人が地面に沈んだ音だ。

 

 前の男が目を見開く。

 

 その喉元へ、横から伸びた腕が無駄なく入った。

 骨の鳴る音。

 男は声もろくに上げられず崩れ落ちた。

 

 壁際の二人がようやく状況を理解して引いたが、遅い。

 一人は膝を払われ、もう一人は手首を折られて壁に叩きつけられた。

 

 実に手際がいい。

 教育が行き届いていると仕事が早い。

 

 セルヴァンはため息をついた。

 

 「……雑だな」

 

 護衛が闇から姿を見せた。

 返り血も乱れもない。

 それでいて、足元には四人転がっている。

 

 「申し訳ありません」

 「君がではない」

 

 セルヴァンは倒れた男の一人を見下ろした。

 意識はある。運が悪い。

 

 「誰の差し金だ」

 

 男は呻くだけで答えない。

 根性があるのではなく、状況が飲み込めていない顔だった。

 

 やはり三流か。

 むしろ安心する。

 これが本当に上手い人間の仕事なら、今ごろ路地の空気はもう少し張っている。

 

 「吐ける頭があるようにも見えませんね」

 

 護衛の言葉に、セルヴァンは少しだけ口元を歪めた。

 

 「なら、喋れる者に聞け。依頼主まで辿れなくても、どの程度の連中が焦っているかは分かる」

 

 「承知しました」

 

 少なくとも、下剋上を夢見る小物が動き始めている。

 それだけ分かれば十分だった。

 

 神が消えた後の空白は広い。

 広い空白を見ると、そこへ自分の名をねじ込みたがる馬鹿が必ず出る。

 

 そして、そういう馬鹿はだいたい弱い。

 

 弱いくせに数だけは湧く。

 害虫か。

 

 セルヴァンは外套の裾を直した。

 

 「戻るぞ」

 「酒は」

 「まずかった」

 「それは残念です」

 

 「残念なのは、まずい酒でも飲まないとやっていられない状況の方だ」

 

 護衛はそれ以上何も言わなかった。

 

 賢い。

 この街で生き残るのに必要なのは、信仰よりまずその資質だろう。

 

 歩き出す。

 

 夜のカルドレクは、まだ静かに息をしていた。

 神はいなくなった。

 加護も消えた。

 それでも街は止まっていない。

 

 止めるわけにはいかないからだ。

 

 結局のところ、世界を繋ぐのは奇跡ではない。

 面倒を面倒なまま処理する人間の手だ。

 

 夢がないにもほどがある。

 

 だが、嫌いではなかった。

 

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