ワールドエンダー 終末の物語   作:ニカン

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第5話

 戻らない鳥が増えていた。

 

 最初は、そういう日もある、で済む話だった。

 

 風向き。

 獣。

 単純な見落とし。

 

 伝令鳥は便利だが、万能ではない。

 戻らない日があること自体は珍しくない。

 

 だが、数が増えていた。

 

 リヴィルは宿の机に地図を広げ、端へ小さな石を並べた。

 戻った鳥。

 戻らなかった鳥。

 戻ったが、様子がおかしかった鳥。

 

 黒い点が、少しずつ偏っていく。

 

 通い慣れた道が、目に見えない泥に沈んでいくようだった。

 

 肩の鳥が一度だけ鳴いた。

 

 「そうだね」

 リヴィルは答えた。

 返事というより、確認だった。

 

 窓辺には、今日戻った鳥が三羽いる。

 一羽は羽が湿っていた。

 一羽は脚の泥が乾ききっていない。

 もう一羽は、巣材らしい細枝をまだ嘴に咥えたままだった。

 

 そこで、リヴィルの手が止まる。

 

 細枝は軽い。

 高地にしか生えない木のものだ。

 

 それ自体はおかしくない。

 高い場所から拾ってきたのだろう。

 

 おかしいのは、その表面だった。

 

 薄緑の藻。

 水腐れの痕。

 泥の筋。

 

 高地の乾いた枝に、本来つく類のものではない。

 

 リヴィルは指先でそれを受け取り、机の上へ置いた。

 肩の鳥が首を傾げる。

 

 「うん。私もそう思う」

 

 独り言みたいに言ってから、古い記録束を引いた。

 

 カルドレクで聞いた臭いの話。

 戻らない鳥の数。

 戻ってきた鳥の濡れ方。

 低地の湿り気。

 長引いた雨。

 それぞれ単独なら、気にするほどのことではない。

 

 だが、重ねると形になる。

 

 自然現象にしては早すぎる。

 

 水位の変化も、湿りの広がりも、地形の書き換わり方も。

 全部が少しずつ、しかし確実に、同じ方角を指していた。

 

 水没都市。

 有名な場所だ。

 

 水に沈んだ、しかし何もない場所として。

 

 そこが膨らんでいる。

 

 都市そのものが、ではない。

 もっと悪い何かが、その周囲の輪郭を書き換えながら広がっている。

 

 扉。

 あるいは、その先。

 

 まだそこまでは断定できない。

 だが、中心があそこにあることだけは、もうかなり固い。

 

 リヴィルは小さく息を吐いた。

 

 「嫌だね」

 肩の鳥が鳴く。

 

 「嫌だけど、面白い、は別なんだよ」

 

 正直に言うと、少しだけ楽しかった。

 断片が繋がる瞬間というものは、だいたい気分がいい。

 問題は、繋がった先が大抵ろくでもないことだった。

 

 扉が叩かれた。

 

 リヴィルは振り返らない。

 

 「開いてるよ」

 

 ヴォルフが入ってきた。

 相変わらず足音が薄い。

 

 「何だ」

 

 「君にしてはずいぶん雑な聞き方だね」

 

 「呼んだのはお前だ」

 「そうだった」

 

 リヴィルは机上の枝を指で弾いた。

 

 「鳥が持ち帰った。高い場所の枝だ。でも見ての通り、水っぽい」

 

 ヴォルフが黙って見る。

 

 「他にも戻らない鳥が増えてる。戻っても濡れてる。泥がついてる。カルドレクで聞いた臭いの話とも繋がる」

 

 「水没都市か」

 「たぶんね」

 たぶん、と言った。

 だが、その声に迷いはあまりない。

 

 ヴォルフは枝を手に取らなかった。

 見るだけで十分だと思ったらしい。

 

 「どれくらいおかしい」

 

 「毎日見てると、見落とすくらいには地味」

 

 リヴィルは石を一つ動かした。

 

 「でも、並べると駄目だ。自然じゃない。水位も湿り気も、変わる速度が速すぎる」

 

 「行けば分かるか」

 

 「行けば、少なくとも今よりは」

 

 ヴォルフは少しだけ黙った。

 

 迷っている、というより、並べている。

 今ある手札。

 距離。

 補給。

 左腕の重さ。

 水相手に持っていく武器。

 

 工房で作った杭が、今さら頭の中で輪郭を持ち直す。

 

 雷光の楔。

 

 あれは、たぶんこのためだった。

 

 「放っておけない、か」

 

 「私はおすすめしないね。面白い方向へは転がりそうだけど、安心できる方向へはまず転がらない」

 

 「聞いてない」

 

 「そうだろうと思った」

 

 リヴィルは笑った。

 だが、普段より少しだけ薄い笑いだった。

 

 ヴォルフは机の枝をもう一度見た。

 高い場所の木。

 そこについた水腐れ。

 

 それだけで十分だった。

 

 「行く」

 短い。

 驚きも、気負いもない。

 

 最初からそこへ向かうために準備していたものへ、ようやく名前がついただけの声だった。

 

 リヴィルは頷いた。

 「だろうね」

 

 肩の鳥が小さく羽を鳴らした。

 窓辺の鳥が一羽、外へ飛ぶ。

 

 連絡が走り始める。

 

 平穏と呼べるほどのものではなかった。

 だが、少なくともここしばらくの呼吸は、そこで終わった。

 

 水没都市へ行く。

 

 静かなまま、決まった。

 

 出発した朝の空は、まだ普通だった。

 

 雲は薄い。

 風も重くない。

 遠目には、荒野はいつもの荒野に見える。

 

 だから最初は、気のせいみたいだった。

 

 少し進んだところで、ヴォルフは足を止めた。

 

 ヴォルフは答えず、地面を見た。

 

 乾いたはずの土に、薄く湿りが残っている。

 昨夜の雨なら、もう少し抜けているはずだった。

 

 靴先で削る。

 表面だけではない。

 少し下まで、じっとりしている。

 

 ヴォルフはまた歩き出した。

 

 進むほどに、異常は増えた。

 

 低地でもない場所に水溜まりがある。

 浅いくせに、妙に引かない。

 岩の割れ目には、緑が薄くこびりついている。

 川筋でも湿地でもないのに、藻だけが先に来ていた。

 

 匂いも違う。

 海でもない。

 川でもない。

 動かない水が長く滞った時の、重い湿りだ。

 

 途中、半ば崩れた石造りの小屋を見つけた。

 屋根は生きている。

 壁も立っている。

 

 だが基礎だけが駄目だった。

 

 下から噛まれている。

 木材が黒ずみ、石の継ぎ目には水腐れが回っていた。

 

 ここまで水が上がってきたことがある。

 

 しかも、一度や二度ではない。

 

 ヴォルフは柱の根元へ指を当てた。

 泥がつく。

 数日なら見落とす。

 通るたびに少しずつ変わるだけなら、誰でもそうだ。

 だが数週間単位で見れば、話は別になる。

 

 地面が沈んでいる。

 水の跡が高くなっている。

 乾くはずの場所が、乾ききらない。

 

 自然現象にしては早すぎる。

 

 昼を回る頃には、風まで変わっていた。

 

 乾いた荒野の風ではない。

 まとわりつく。

 服の内側へ細かく入り込み、皮膚の表面だけを濡らす。

 

 見えてきたものに、軽口を挟む余地はなかった。

 

 道が途切れていた。

 崩落ではない。

 沈んでいる。

 

 先の方まで石畳は続いているはずなのに、その途中から水が覆っている。

 鏡みたいに静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 ヴォルフは迂回して高い側へ寄った。

 そこならまだ乾いている。

 

 だが高い側の壁面にも、水位の跡がある。

 

 高すぎる。

 

 ヴォルフもそう思った。

 

 ここまで来ると、もう観測の話ではない。

 目の前の風景そのものが、おかしい。

 

 水没都市の外縁へ入ったのは、その少し後だった。

 

 最初に見えたのは、上の方だった。

 半分だけ水面から出た建物。

 傾いた外壁。

 割れた窓。

 その間を渡るはずだった通路の残骸。

 

 次に見えたのは、下だ。

 

 街路が沈んでいる。

 看板が半分だけ水から出ている。

 残骸が浮いている。

 浮いているようで、実際にはどこかに引っかかって動かない。

 

 水面の下にも、街の続きが見えた。

 

 道。

 階段。

 転がった鉄骨。

 何かの骨組み。

 

 全部まとめて、戦場の障害物になっている。

 

 ヴォルフは周囲を見た。

 

 少し判断を誤れば、足場を踏み外す。

 水の中には見えない段差がある。

 流れは遅いが、ないわけではない。

 静かな水面ほど、下に何があるか分からない。

 

 アイゼン・ラピッドと身体能力は活きる。

 だが、この地形そのものが敵になる。

 

 だから逆に、ここで戦う相手は強い。

 

 中枢区画へ近づくにつれ、水面が広くなる。

 建物の残り方も変わる。

 ただ沈んだのではない。

 何かに合わせて、戦いやすい形へ削られたようにも見えた。

 

 その中央に、人影があった。

 

 隠れていない。

 逃げる気配もない。

 

 待っていた側の立ち方だった。

 

 長身。

 無駄のない肉の付き方。

 拳を使う人間の立ち方。

 

 セヴェルとは違う。

 見るだけで分かる。

 

 あれは、正面から潰す側だ。

 

 相手が先に口を開いた。

 

 「ほう、わざわざこんなところを訪れるやつがいるとはな」

 

 声音に余裕がある。

 ここまで来ること自体は、驚いていない。

 来るなら結局ここだ、と知っていた声だ。

 

 ヴォルフは止まった。

 

 「このあたりの惨状の原因はお前か?」

 

 「そうだ」

 即答だった。

 隠す気はない。

 

 「俺を殺しに来たということか?」

 

 「そうだ」

 男は少しだけ笑った。

 

 「では戦う前に名乗らせてもらおうか」

 

 水面の向こうで、姿勢がわずかに変わる。

 

 「ガベル。『右腕の』ガベル」

 

 「お前の名は?」

 「ヴォルフ」

 

 

 噛みしめるように、頷くのが遠くに見えた。

 

 「……名乗りは終わった。始めようか」

 

 ガベルが、静かに息を吸った。

 

 次の瞬間、その声だけが一段強く響く。

 

 「ウォーターボーン、展開!」

 

 周囲の水面が揺れた。

 爆ぜたわけではない。

 むしろ逆だ。

 散っていた飛沫と霧が、一斉に同じ方向へ引かれる。

 

 ガベルの腕。

 足元。

 その周囲に、水の層が集まり始める。

 

 静かなのに、質量だけが増していく。

 

 水面の輪郭が鋭くなる。

 飛沫の一粒ごとが、急に刃物めいて見えた。

 霧までが、ただの湿りではなくなる。

 

 戦場が切り替わった。

 

 ここから先は、こいつの庭だ。

 

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