戻らない鳥が増えていた。
最初は、そういう日もある、で済む話だった。
風向き。
獣。
単純な見落とし。
伝令鳥は便利だが、万能ではない。
戻らない日があること自体は珍しくない。
だが、数が増えていた。
リヴィルは宿の机に地図を広げ、端へ小さな石を並べた。
戻った鳥。
戻らなかった鳥。
戻ったが、様子がおかしかった鳥。
黒い点が、少しずつ偏っていく。
通い慣れた道が、目に見えない泥に沈んでいくようだった。
肩の鳥が一度だけ鳴いた。
「そうだね」
リヴィルは答えた。
返事というより、確認だった。
窓辺には、今日戻った鳥が三羽いる。
一羽は羽が湿っていた。
一羽は脚の泥が乾ききっていない。
もう一羽は、巣材らしい細枝をまだ嘴に咥えたままだった。
そこで、リヴィルの手が止まる。
細枝は軽い。
高地にしか生えない木のものだ。
それ自体はおかしくない。
高い場所から拾ってきたのだろう。
おかしいのは、その表面だった。
薄緑の藻。
水腐れの痕。
泥の筋。
高地の乾いた枝に、本来つく類のものではない。
リヴィルは指先でそれを受け取り、机の上へ置いた。
肩の鳥が首を傾げる。
「うん。私もそう思う」
独り言みたいに言ってから、古い記録束を引いた。
カルドレクで聞いた臭いの話。
戻らない鳥の数。
戻ってきた鳥の濡れ方。
低地の湿り気。
長引いた雨。
それぞれ単独なら、気にするほどのことではない。
だが、重ねると形になる。
自然現象にしては早すぎる。
水位の変化も、湿りの広がりも、地形の書き換わり方も。
全部が少しずつ、しかし確実に、同じ方角を指していた。
水没都市。
有名な場所だ。
水に沈んだ、しかし何もない場所として。
そこが膨らんでいる。
都市そのものが、ではない。
もっと悪い何かが、その周囲の輪郭を書き換えながら広がっている。
扉。
あるいは、その先。
まだそこまでは断定できない。
だが、中心があそこにあることだけは、もうかなり固い。
リヴィルは小さく息を吐いた。
「嫌だね」
肩の鳥が鳴く。
「嫌だけど、面白い、は別なんだよ」
正直に言うと、少しだけ楽しかった。
断片が繋がる瞬間というものは、だいたい気分がいい。
問題は、繋がった先が大抵ろくでもないことだった。
扉が叩かれた。
リヴィルは振り返らない。
「開いてるよ」
ヴォルフが入ってきた。
相変わらず足音が薄い。
「何だ」
「君にしてはずいぶん雑な聞き方だね」
「呼んだのはお前だ」
「そうだった」
リヴィルは机上の枝を指で弾いた。
「鳥が持ち帰った。高い場所の枝だ。でも見ての通り、水っぽい」
ヴォルフが黙って見る。
「他にも戻らない鳥が増えてる。戻っても濡れてる。泥がついてる。カルドレクで聞いた臭いの話とも繋がる」
「水没都市か」
「たぶんね」
たぶん、と言った。
だが、その声に迷いはあまりない。
ヴォルフは枝を手に取らなかった。
見るだけで十分だと思ったらしい。
「どれくらいおかしい」
「毎日見てると、見落とすくらいには地味」
リヴィルは石を一つ動かした。
「でも、並べると駄目だ。自然じゃない。水位も湿り気も、変わる速度が速すぎる」
「行けば分かるか」
「行けば、少なくとも今よりは」
ヴォルフは少しだけ黙った。
迷っている、というより、並べている。
今ある手札。
距離。
補給。
左腕の重さ。
水相手に持っていく武器。
工房で作った杭が、今さら頭の中で輪郭を持ち直す。
雷光の楔。
あれは、たぶんこのためだった。
「放っておけない、か」
「私はおすすめしないね。面白い方向へは転がりそうだけど、安心できる方向へはまず転がらない」
「聞いてない」
「そうだろうと思った」
リヴィルは笑った。
だが、普段より少しだけ薄い笑いだった。
ヴォルフは机の枝をもう一度見た。
高い場所の木。
そこについた水腐れ。
それだけで十分だった。
「行く」
短い。
驚きも、気負いもない。
最初からそこへ向かうために準備していたものへ、ようやく名前がついただけの声だった。
リヴィルは頷いた。
「だろうね」
肩の鳥が小さく羽を鳴らした。
窓辺の鳥が一羽、外へ飛ぶ。
連絡が走り始める。
平穏と呼べるほどのものではなかった。
だが、少なくともここしばらくの呼吸は、そこで終わった。
水没都市へ行く。
静かなまま、決まった。
出発した朝の空は、まだ普通だった。
雲は薄い。
風も重くない。
遠目には、荒野はいつもの荒野に見える。
だから最初は、気のせいみたいだった。
少し進んだところで、ヴォルフは足を止めた。
ヴォルフは答えず、地面を見た。
乾いたはずの土に、薄く湿りが残っている。
昨夜の雨なら、もう少し抜けているはずだった。
靴先で削る。
表面だけではない。
少し下まで、じっとりしている。
ヴォルフはまた歩き出した。
進むほどに、異常は増えた。
低地でもない場所に水溜まりがある。
浅いくせに、妙に引かない。
岩の割れ目には、緑が薄くこびりついている。
川筋でも湿地でもないのに、藻だけが先に来ていた。
匂いも違う。
海でもない。
川でもない。
動かない水が長く滞った時の、重い湿りだ。
途中、半ば崩れた石造りの小屋を見つけた。
屋根は生きている。
壁も立っている。
だが基礎だけが駄目だった。
下から噛まれている。
木材が黒ずみ、石の継ぎ目には水腐れが回っていた。
ここまで水が上がってきたことがある。
しかも、一度や二度ではない。
ヴォルフは柱の根元へ指を当てた。
泥がつく。
数日なら見落とす。
通るたびに少しずつ変わるだけなら、誰でもそうだ。
だが数週間単位で見れば、話は別になる。
地面が沈んでいる。
水の跡が高くなっている。
乾くはずの場所が、乾ききらない。
自然現象にしては早すぎる。
昼を回る頃には、風まで変わっていた。
乾いた荒野の風ではない。
まとわりつく。
服の内側へ細かく入り込み、皮膚の表面だけを濡らす。
見えてきたものに、軽口を挟む余地はなかった。
道が途切れていた。
崩落ではない。
沈んでいる。
先の方まで石畳は続いているはずなのに、その途中から水が覆っている。
鏡みたいに静かだった。
静かすぎた。
ヴォルフは迂回して高い側へ寄った。
そこならまだ乾いている。
だが高い側の壁面にも、水位の跡がある。
高すぎる。
ヴォルフもそう思った。
ここまで来ると、もう観測の話ではない。
目の前の風景そのものが、おかしい。
水没都市の外縁へ入ったのは、その少し後だった。
最初に見えたのは、上の方だった。
半分だけ水面から出た建物。
傾いた外壁。
割れた窓。
その間を渡るはずだった通路の残骸。
次に見えたのは、下だ。
街路が沈んでいる。
看板が半分だけ水から出ている。
残骸が浮いている。
浮いているようで、実際にはどこかに引っかかって動かない。
水面の下にも、街の続きが見えた。
道。
階段。
転がった鉄骨。
何かの骨組み。
全部まとめて、戦場の障害物になっている。
ヴォルフは周囲を見た。
少し判断を誤れば、足場を踏み外す。
水の中には見えない段差がある。
流れは遅いが、ないわけではない。
静かな水面ほど、下に何があるか分からない。
アイゼン・ラピッドと身体能力は活きる。
だが、この地形そのものが敵になる。
だから逆に、ここで戦う相手は強い。
中枢区画へ近づくにつれ、水面が広くなる。
建物の残り方も変わる。
ただ沈んだのではない。
何かに合わせて、戦いやすい形へ削られたようにも見えた。
その中央に、人影があった。
隠れていない。
逃げる気配もない。
待っていた側の立ち方だった。
長身。
無駄のない肉の付き方。
拳を使う人間の立ち方。
セヴェルとは違う。
見るだけで分かる。
あれは、正面から潰す側だ。
相手が先に口を開いた。
「ほう、わざわざこんなところを訪れるやつがいるとはな」
声音に余裕がある。
ここまで来ること自体は、驚いていない。
来るなら結局ここだ、と知っていた声だ。
ヴォルフは止まった。
「このあたりの惨状の原因はお前か?」
「そうだ」
即答だった。
隠す気はない。
「俺を殺しに来たということか?」
「そうだ」
男は少しだけ笑った。
「では戦う前に名乗らせてもらおうか」
水面の向こうで、姿勢がわずかに変わる。
「ガベル。『右腕の』ガベル」
「お前の名は?」
「ヴォルフ」
噛みしめるように、頷くのが遠くに見えた。
「……名乗りは終わった。始めようか」
ガベルが、静かに息を吸った。
次の瞬間、その声だけが一段強く響く。
「ウォーターボーン、展開!」
周囲の水面が揺れた。
爆ぜたわけではない。
むしろ逆だ。
散っていた飛沫と霧が、一斉に同じ方向へ引かれる。
ガベルの腕。
足元。
その周囲に、水の層が集まり始める。
静かなのに、質量だけが増していく。
水面の輪郭が鋭くなる。
飛沫の一粒ごとが、急に刃物めいて見えた。
霧までが、ただの湿りではなくなる。
戦場が切り替わった。
ここから先は、こいつの庭だ。