ガベルの足元で、水が鳴らずに集まっていく。
音はない。
だが静かさそのものが、質量を持ち始めたようだった。
腕。
脚。
肩口。
まとわりつく水の層が、ただ濡らすためのものではないと分かる。
あれは纏っているのではない。
武装だ。
ガベルが口の端を吊り上げた。
「来い!ヴォルフ!」
次の瞬間、右拳がわずかに沈む。
お互いの姿が豆粒のように見えるほどの、明らかに遠い距離。
遠距離攻撃か。
「水穿!」
ヴォルフは反射で横へ飛んだ。
さっきまでいた場所を、圧縮された水塊が一直線に穿つ。
遅れて音が来た。
石が砕ける。
半没した壁の一角が、撃ち抜かれたように吹き飛んだ。
重い。
速い。
しかも軌道に無駄がない。
ヴォルフは着地の勢いのまま、露出した鉄骨へ飛び移った。
もう一発。
今度は低い軌道。
鉄骨の根元を狙ってくる。
ヴォルフは踏み切りを変え、崩れた看板を蹴って上へ抜けた。
背後で足場が割れる。
「ハッ」
ガベルが笑った。
「ぴょんぴょん跳ねて、うさぎの真似事か?」
返事はしない。
言葉に付き合っている余裕はない。
あの一撃は、見えてからでは遅い。
拳の沈み、肩の切り返し、腰の乗せ方。
撃つ前の気配だけを拾って、先に避けるしかない。
三発目。
四発目。
五発目。
ガベルの位置はほとんど動かない。
ただ立ったまま、拳から水穿とやらを撃ち続ける。
それなのに、戦場全体を押し込まれていく。
ヴォルフは半没建造物の屋根を蹴り、高さを変えた。
高い位置からガベルを狙う。
短銃を抜いて、引き金を絞る。
銃声。
火花。
弾丸はまっすぐ飛んだ。
だが、ガベルの前腕に纏った水がぬるりと盛り上がる。
次の瞬間、それは薄い壁のように硬化し、弾を止めた。
「軽いな」
止めた本人は、顔色一つ変えない。
「様子見のつもりか?」
言いながら、また水穿。
ヴォルフは屋根の端を蹴り抜き、落下でかわした。
水弾が頭上を裂く。
飛沫が頬を掠めただけで、皮膚がひりついた。
水そのものの密度が違う。
まともに受ければ終わる。
なら、受けない。
ヴォルフは沈んだ街路へ一瞬だけ降り、浅い足場を踏み抜く直前で跳ねた。
そのまま露出した骨組みを連続で繋ぐ。
大きく躱して跳躍し、空中へ
そこで初めて、違和感が増えた。
拳を見ていたのに、横から来た。
アイゼン・ラピッドで跳躍の軌道を強引に変えた。
ギリギリで躱した。
一体どこから?
疑問はすぐになくなった。水面だ。
割れた標識の根元に溜まった淀みから、同じ質の水弾が飛ぶ。
ヴォルフは肩を捻って避けたが、今度は背後の水溜まりが弾けた。
さらに高所の飛沫が、細い槍のように収束する。
ガベル本人を見ていても足りない。
この街そのものが、射線になる。
ヴォルフは舌打ちを呑み込み、無理やり前へ出た。
逃げるほど、長引く。
実質的に、逃げ場がない。
なら逆だ。
近づいて、打たれる時間を減らすしかない。
都市の繁華街のめいた中枢区画の残骸が、ようやく輪郭を見せる。
沈んだ階段。
傾いた柱列。
露出した基壇。
その全部を足場に換え、ヴォルフは一直線に肉薄した。
ガベルの口元がさらに歪む。
「ほう。情けなく逃げ回るのがうまいようだな?見た目はどうあれ、ここまで近寄れるやつはそういない」
ノコギリ鉈が唸った。
下から斬り上げる。
ガベルは半歩だけずらし、前腕で受けた。
水の衣が刃を滑らせる。
浅い。
返す刃。
今度は噛みつくように横へ裂く。
だが斬り込みの瞬間に、水がまた壁になる。
水が瞬間的に硬化している。
軌道をずらされ、肉まで届かない。
ヴォルフは間を置かずに踏み込んだ。
肩。
肘。
喉。
切っ先と身体をまとめて押し込み、崩しにいく。
それでもガベルは慌てない。
受ける。
流す。
逸らす。
武術だ。明らかに何らかの術理に基づいて動いている。
しかもそのうえから、水の防御が一枚被さっている。
噛みついたはずの斬撃が、肉に届く前に失速する。
崩したと思った肩が、水の層に乗って逃げる。
「うさぎというのは間違っていたようだ」
ガベルが低く言った。
「訂正しよう。野良犬が」
同時に、短い打撃が返ってくる。
拳というより、打点だけを置くような掌底。
ヴォルフは刃の腹で受けた。
そのはずだった。
衝撃と水が、腕を抜けて肋へ来た。
息が詰まる。
浸透する打撃!
防いだ感触のに、中だけが叩かれる。
ヴォルフは後ろへ流して距離を殺したが、その間にも二打、三打。
どれも重くはない。
だが浅く受けるたび、奥へ残る。
近づけば殴り合える。
その前提が、ここで壊れた。
ヴォルフはなおもノコギリ鉈で押した。
斜め上から叩き込み、返しで脚を刈る。
ガベルは受ける。
受けながら、また打つ。
「牙はある」
拳が放たれる。
武器で受ける。
衝撃が抜ける。
「だが浅い」
肩口へ肘が入る。
踏み込みをずらされる。
「噛みつき方が下手くそだ。手本を見せてやろう」
次に来たのは連撃だった。
激流のような打撃の連打。
重い打撃が絶え間なく繋がる。
左右へ抜けても、拳が打ち込まれる。
下がれば、水面からの水弾が待っている。
真正面から押し込んでも、連撃で真正面から潰される。
ノコギリ鉈では押し切れない。
判断は早かった。
ヴォルフは一歩だけ踏ん張り、持ち手を変える。
刃が退く。
代わりに断重の鉄塊斧が手に収まった。
短い状態のまま、正面からぶつける。
拳と斧が噛み合った。
鈍い衝撃。
今度は相殺できる。
重い打撃のような一撃なら、完全に潰されはしない。
ヴォルフは受け、弾き、殴り返した。
斧頭で前腕を打ち、柄で喉元を狙う。
ガベルもまた拳で返す。
互いに近い。
重い。
速い。
だがここでも、浸透が混じる。
受け切ったと思った一打の奥から、衝撃だけが胸へ抜ける。
噛み合わせたはずの一撃の裏で、肘が肋骨を叩く。
対応できている感触そのものが、信用できない。
ヴォルフの呼吸が少しずつ荒くなる。
近距離を続けるほど不利だ。
その判断が固まった瞬間、ヴォルフは無理やり拍を作った。
斧を押し込み、至近のまま銃口を差し込む。
引き金を引く。
ガベルの攻撃に合わせて撃った。
攻めへ重心を乗せて、拳を放つ寸前だった。
ほんのわずか、水の衣の反応が遅れる。
弾丸が浅く通った。
脇腹を掠め、赤い線を刻む。
致命傷ではない。
だが確かに通った。
ガベルの目が、そこで初めて細くなる。
ヴォルフは見逃さない。
攻撃へ寄せた瞬間だけ、防御が薄くなる。
そのまま斧を長柄へ切り替えた。
伸びた間合いを無理やり押しつけ、ガベルを一歩退かせる。
空いた距離へ、自分も飛び退く。
中距離。
ヴォルフは血を噛んだ。
胸の奥が鈍く痛む。
だがまだ動く。
なら次だ。
左腕を払い、血と復讐の刃を振りかざす。
ブラッド・アンド・リヴェンジ。
今までなら決定打になった中距離の刃が、赤い軌跡を引いて飛ぶ。
狙いは牽制ではない。
削りだ。
少しでも通せれば、流れを変えられる。
だがガベルは鼻で笑った。
「水の扱いで勝てるとでも思ったか? マヌケが」
拳を振るうでもない。
ただ周囲の水流が巻く。
血刃はそこで捌かれた。
流体同士の土俵に引きずり込まれ、軌道を崩され、逸らされる。
切る前に、殺される。
ヴォルフは二手、三手と角度を変えた。
だが結果は同じだった。
ノコギリ鉈では決め切れない。
斧でも押し負ける。
ブラッド・アンド・リヴェンジすら、こいつには決め手にならない。
そこまで見て、ガベルは息を吐いた。
「大体わかった。これ以上は時間の無駄だ」
声音から遊びが消える。
門番として、侵入者をここで止め切る。
そういう声だった。
足元の水が動く。
大渦。
中枢区画の水面そのものが、大きく歪んだ。
流れが一方向ではなくなる。
沈んだ階段が滑り、残骸が引かれ、立っているだけで姿勢を奪われる。
ヴォルフは崩れた柱の上へ飛んだ。
そこも安定はしない。
次の瞬間には、柱ごと流れに持っていかれる。
さらに来る。
水面。
飛沫。
濁流。
あらゆる場所から攻撃が走る。
壊滅。
細かく見れば複雑なのだろう。
だが体感としては単純だった。
生き延びるだけで限界だ。
ヴォルフはアイゼン・ラピッドを全開で使った。
沈んだ建物の窓枠を蹴る。
露出した骨組みを渡る。
傾いた外壁を駆け上がり、崩れる直前の屋根へ飛ぶ。
高所へ。
低所へ。
横へ。
縦へ。
三次元に逃げても、少しずつ追い込まれていく。
回避そのものはできている。
まだ食らってはいない。
だが、その回避が全部、同じ場所へ誘導されている。
受けられない一撃を、最も受けやすい位置へ。
そこでヴォルフは気づいた。
ガベルの右腕だ。
さっきから、打撃に使わない。
明らかに余している。
よく見れば、散っていた飛沫も、濁流の一部も、自然に右腕へ寄っている。
構えでも見せびらかしでもない。
攻撃の裏で、当たり前のように溜めている。
終端打。
あれが来る。
ヴォルフは次の足場へ飛び移りながら、呼吸を殺した。
勝つためではない。
その瞬間まで、生きるために動く。
外壁が砕ける。
足場が沈む。
背後から濁流が牙を剥く。
ヴォルフは身を捻り、肩を掠めさせて抜けた。
浅く血が滲む。
だがまだ軽い。
まだ終わっていない。
次の瞬間、逃げ場が狭まった。
広場跡の縁。
半ば露出した基壇の上。
背後は深い水域。
左右は壊れた柱と流れで塞がれている。
ここだ。
ガベルが正面に立つ。
右腕に集まった水が、もう拳ではない。
圧縮された塊だ。
静かなのに、今にも爆ぜそうな密度で脈打っている。
「終わりだ!」
ガベルが踏み込む。
その刹那、ヴォルフは確信した。
薄い。
霧の円環も。
瞬間硬化防壁も。
感知も防御も、今だけ攻撃へ寄っている。
待っていたのは、この瞬間だ。
ヴォルフは受けなかった。
避けもしなかった。
左腕を前へ出す。
雷光の楔。
固定具が噛み合い、撃発機構が吠える。
短く、重い振動。
次の瞬間、杭が走った。
真正面。
壊滅の終端打と、雷光の楔が噛み合う。
激突した瞬間、世界が白く裂けた。
圧縮水塊の内側へ、雷が食い込む。
外から砕くのではない。
中に通った瞬間、性質の違いそのものが崩壊を起こす。
水の拳が、内側から割れた。
蒸気。
閃光。
遅れて轟音。
ガベルの目が見開かれる。
その中心へ、物理貫杭が通った。
重い手応え。
肉。
骨。
その奥まで、楔が貫く。
衝撃でヴォルフの左腕も軋んだ。
だが構わない。
押し切る。
ガベルの身体が一歩、二歩と後ろへ揺れる。
右腕の水はもう形を保てない。
壊滅はそこで途切れた。
しばらく、音だけが残る。
崩れた水流が広場へ叩きつけられ、遅れて静まっていく。
ガベルは立っていた。
だが膝がわずかに沈む。
血が落ちる。
その赤が水に広がり、すぐ薄まった。
「相性……」
口端から血をこぼしながら、ガベルが言った。
ひどい顔だった。絶対に認められない現実を、無理やり受け止めるための痛み。
噛み砕けなかった現実を、無理やり飲み下そうとする顔だった。
「いや……それも含めて、実力か……」
ヴォルフは答えない。
呼吸を整える余裕もまだない。
左腕は熱を持ち、雷光の楔はもう沈黙している。
一戦一発。
最初から、そのつもりの武器だ。
ガベルはゆっくりと頭を上げた。
「やるじゃないか……」
その目に、見苦しい否定はない。
ただ負けた事実と、それをどうしても快くは飲めない悔しさだけが残っている。
「お前の、勝ちだ……」
身体が傾く。
長身が、ようやく倒れた。
大きな水音。
それで終わりだった。
ヴォルフはしばらく動かなかった。
追撃の必要はない。
もうガベルは立たない。
それだけは分かる。
荒い息を吐き、短く言う。
「……勝った」
それだけだ。
相性はあった。
雷光の楔が、あいつに対してたまたま有効だったのも事実だ。
だが勝ちは勝ちだ。
それ以上でも以下でもない。
少しして、異変が起きた。
水位が下がり始める。
最初は本当にわずかだった。
だが止まらない。
広場跡の階段が一段、また一段と姿を見せる。
沈んでいた基壇の輪郭が露出する。
引いていく水の下から、今まで隠れていた巨大な構造物の端が覗いた。
昇降機。
まだ全貌は見えない。
だがただの遺跡ではないと分かるだけの、人工的な直線と巨大さがある。
ヴォルフはそれを見下ろし、何も言わなかった。
ガベルは自分の庭で戦っていた。
この水没都市そのものを武器にし、この中枢区画を閉じるためだけに立っていた。
それでも、越えた。
風が少し変わる。
水の匂いの奥で、沈んでいた石の匂いが上がってくる。
次の道が、ようやく水の下から顔を出し始めていた。