しばらくのあいだ、水没都市は妙に静かだった。
風はある。
水も動いている。
それなのに、さっきまで戦場そのものに張りついていた圧だけが、きれいに消えていた。
ヴォルフは倒れたガベルを見た。
動かない。
呼吸も、殺気も、もうない。
終わったのだと、それだけ確認する。
左腕の雷光の楔は沈黙したままだった。
熱だけが残っている。
排熱も再充填も、すぐには済まない。
最初から一戦一発。
想定通りではある。
ヴォルフは一度だけ腕を振って具合を確かめた。
痛む。
だが折れてはいない。
他も打ち身と浅手ばかりで、動けなくなるほどではなかった。
それから、周囲を見る。
すぐ道が開いたわけではない。
昇降機らしき構造物も、まだ大部分は水の下だ。
ただ、流れが変わっていた。
さっきまで中枢区画へ押し込まれ続けていた水が、今は逆に引いている。
最初は錯覚かと思う程度だった。
だが崩れた柱の根元に刻まれた水線が、見ているうちに少しずつ下がっていく。
ガベルが止まったからだ。
この水没そのものが、あいつの制御下にあった。
今になって、ようやく実感がついてくる。
ヴォルフは露出しかけた基壇へ降りた。
引き始めた水の下から、人工的な直線が覗いている。
ただの遺構ではない。
巨大だ。
だが何なのかまでは、まだ分からない。
分からないものを、ここで一人で眺めても仕方がない。
ヴォルフは短く息を吐き、中枢区画を離れた。
帰路でも、水は引き続けていた。
来るときには半分沈んでいた街路が、帰る頃には石畳の輪郭を見せ始めている。
高い壁面に残った水位の跡が、あらためて異常の規模を物語っていた。
あれだけの水域を、一人で維持していたのか。
ガベルは強かった。
己の庭で戦い、己の庭そのものを牙に変えていた。
強かった。
ただただ、それだけが印象に残った。
カルドレクへ戻った時には、もう夜が近かった。
門をくぐるなり、先に見つけたのはリヴィルだった。
待っていたというより、最初から出迎える位置に立っていたような顔をしている。
「生きて帰ってきたね」
「見れば分かるだろう」
「そこはほら、たまに見た目ほど無事じゃないこともあるから」
軽い口調だったが、その目はヴォルフの傷と装備を素早くなぞっていた。
左腕の固定具。
乾ききっていない血。
濡れた外套。
そして雷光の楔が、使い切られたまま沈黙していること。
「ガベルは?」
「殺した」
短く返す。
リヴィルは頷き、それ以上そこには触れなかった。
「で、どうなったんだい?」
「水が引いてる」
その一言で、リヴィルの表情が少しだけ変わる。
「……本当に?」
「目に見えて。すぐ全部というほどではないが、引き続けている」
ヴォルフは現地で見たものを順に話した。
ガベルを倒した直後に流れが変わったこと。
中枢区画の水位が時間差で落ち始めたこと。
広場跡の下に、ただの遺構ではなさそうな巨大構造物が見え始めたこと。
リヴィルは途中で一度も口を挟まなかった。
聞き終えると、すぐ踵を返す。
「人を集めよう。これはもう、こっちだけで抱えていい話じゃない」
「今からか」
「今からだよ。むしろ遅いくらいだ。そもそもあのまま水が広がり続けていたらどの都市も危険だった」
言いながら、もう別の段取りを頭の中で回している顔だった。
「カルドレクには補給を。アイゼンガルには技術者と解析班を。私は観測記録と情報網をまとめる形で進めようか……。ほかも声をかけよう」
「そうか」
「君が帰ってくる前から、半分くらいはそのつもりだったからね」
その言い方に、ヴォルフは少しだけ眉をひそめた。
「死んでたらどうするつもりだった」
「その時はその時で、もっと面倒な話になってたろうさ」
リヴィルは肩をすくめる。
「でも帰ってきた。なら次へ進める」
それから数日は、妙に慌ただしかった。
ヴォルフはその中心にはいない。
だが、止まってもいられなかった。
カルドレク側は物資をかき集める。
完全には立ち直っていない街で、最低限の補給線だけを無理やり繋ぐ。
セルヴァンは表に出ないまま実務を回し、文句を言う暇も惜しんで人と物を動かした。
アイゼンガル側からは技術者が来る。
店主本人こそ来なかったが、癖の強そうな職人と記録読みの人員が寄越された。
エリスも顔を出し、ヴォルフの左腕を見てまず最初にため息をついた。
「まあ、そうなるよね」
「壊れてはない」
「壊れてないだけで褒めてほしいの?」
そう言いながらも、手つきは早い。
固定具の歪みを見て、焼けた部材を外し、次に使える状態かどうかを黙々と確かめていく。
リヴィルは記録と鳥を飛ばし続けた。
水位低下の速さ。
露出面積の変化。
各地から集まる断片情報。
それらを束ね、現場へ流し込む。
まだ安定していない。
だが止まってもいられない。
そういう足並みだけは、奇妙なほど揃っていた。
再び水没都市へ集まった時、中枢区画の景色はもう前とは別物になっていた。
水はかなり引いている。
かつて広場だったらしい空間の輪郭が見える。
沈んでいた階段は途中まで姿を現し、基壇の縁も露出していた。
崩れた柱列の下から、さらに太い人工構造が突き上がっている。
最初に見た時は、塔かと思った。
だが違う。
縦に深い。
上へ伸びるためではなく、下へ続くための構造だ。
アイゼンガルの技術者たちが、露出した壁面と接合部を見て何か言い合っている。
石の継ぎ目。
埋め込まれた金属。
排水路とも違う太い溝。
その横で、リヴィルが紙束を押さえながら口を開いた。
「鳥網から上がってきた地形記録と、カルドレク側に残っていた古い断片、それにアイゼンガルの構造知識を重ねた」
「それで?」
「ほぼ間違いない」
リヴィルは露出した巨大構造を見上げる。
「これは記録によると、絶界の昇降機と呼ばれているものらしい」
その場にいた何人かが、言葉を失った。
昇降機。
ただ降りるための穴ではない。
ただの塔でも、坑道口でもない。
地上の水没都市から、地下古代首都へ至るための、最初からそういう用途で作られた巨大施設。
ヴォルフは無言でそれを見た。
なら話は繋がる。
ガベルは扉そのものの管理者ではなかった。
扉に至る門を、物理的に閉じる最後の門番だったのだ。
侵入者は結局ここへ来る。
だからあいつは動く必要がなかった。
あの中枢区画を、自分の庭ごと閉じていればよかった。
「厄介な配置だねえ」
リヴィルが半分感心したように言う。
「門番ひとりで上の入口を塞ぎ、水位そのものまで変えて近づきにくくする。分かりやすい」
「分かりやすく殺しに来てたな」
「実際、死にかけてた顔をしてるよ」
ヴォルフは答えず、露出した構造の縁へ近づいた。
下はまだ暗い。
深さも分からない。
だが見えてしまった以上、もう見なかったことにはできない。
ここから先が本番だ。
その感触だけは、嫌というほどはっきりしていた。
周囲では、技術者たちが次々に測定と確認を始めている。
どこまで安定しているか。
起動に何が要るか。
そもそも人が乗れる状態か。
ヴォルフはその細かい話には加わらなかった。
今必要なのは、自分が次も動けるかどうかだけだ。
武器はまだある。
雷光の楔は整備と再充填が要るが、他は生きている。
身体もまだ終わっていない。
なら進める。
リヴィルが隣へ来る。
「門番は倒した」
「ああ」
「でも、やっと入口だ」
「見りゃ分かる」
「分かってるならいい」
軽く笑ってから、リヴィルもまた昇降機を見下ろした。
その顔には、いつもの余裕だけではない硬さがある。
誰にとっても、ここから先は未知だ。
水位はさらに落ちていく。
崩れた駅前広場の下に隠れていた全景が、少しずつ姿を見せる。
巨大な縦構造。
人の都合で組まれた階層。
下へ向かうための、明らかな意思。
ヴォルフは目を細めた。
勝ったから終わりではない。
勝ったから、ようやく次が見えた。
門番は倒した。
だが、まだ入口に立っただけだ。
露出しきっていない昇降機の黒い口が、その先を黙って待っていた。