昇降機の先に広がっていたのは、街だった。
地下だというのに、最初の印象は遺跡ではない。
首都だ。
道幅がある。
建物の並びにも統一感がある。
広場へ流れ込むように街路が伸び、通りごとに役割まで分けられていた気配が残っている。
今の地上の都市より、むしろ整って見えるくらいだった。
だからこそ、おかしい。
静かすぎた。
人の気配がない。
敵の気配もない。
生活の残り香すら、ほとんど消えきっている。
整っているのに、死んでいる。
ヴォルフは昇降機を降りた。
足音が石畳へ落ちる。
その音だけが、この空間では妙に大きく響いた。
空気は冷たい。
ただ冷えるだけではない。
長いあいだ閉じられていた巨大な屋内の底で、じっと澱んでいたものをそのまま吸わされる感じがある。
見上げても天井は遠く、闇に溶けていた。
地下であることは分かる。
だが圧迫感より先に、空虚さの方が来る。
広すぎるのだ。
ヴォルフは一度だけ後ろを見た。
昇降機の入口は、今のところまだ開いている。
戻ろうと思えば戻れる。
だが、そういう話ではない。
前へ視線を戻す。
街はどこまでも整っている。
割れた柱一本、崩れた外壁一枚でさえ、ただ朽ちたというより、配置された舞台装置みたいに見えた。
壊れ方にまで秩序がある。
そこで初めて、光に気づく。
街そのものは暗い。
まともな街灯も、自然光もない。
なのに完全な闇ではないのは、各所で古い映像記録機械がまだ動いているからだった。
壁面に埋め込まれた板。
広場の片隅に立つ細い柱。
通りの角に据えられた箱状の装置。
形はまちまちだが、どれも映像を流している。
意味は分からない。
だが流れているものの傾向だけは、はっきりしていた。
終幕。
喝采。
処刑。
別れ。
誰かが頭を垂れる場面。
誰かが手を差し伸べる場面。
人波が何かへ熱狂している場面。
幕が落ちるように、視界が暗く切り替わる場面。
どれも断片だ。
繋がった物語ではない。
しかも装置ごとに別の映像が流れている。
音量も揃っていなかった。
あるものはほとんど無音で、画面だけが明滅する。
あるものは遠くの拍手だけを延々と流す。
またあるものは、意味の取れない台詞の最後だけを何度も切り返す。
街を歩くにつれて、それらが重なった。
遠くの音楽。
近くの拍手。
誰かの笑い声。
泣き声に似た長い息。
全部が断片だ。
なのに一つの方向へ揃っている。
誰かが用意した舞台。
そんな言葉が、自然に浮かぶ。
ヴォルフは立ち止まらずに歩いた。
こういう仕掛けを好む相手なら、隠れる気は薄い。
むしろ見せたがる。
なら、探すまでもなく一番目立つ場所にいるはずだ。
最悪、手当たり次第に潰していけばいい。
だがその必要はなさそうだった。
街路の先に、大通りがある。
広い。
まっすぐだ。
首都の中心へ人を流し込むための道だったのだろうと、一目で分かる。
そしてその終点だけが、露骨に明るかった。
劇場だ。
そう呼ぶのが一番近い。
巨大な建築が、大通りの果てに座っている。
左右へ広がる裾。
高くせり上がった正面。
階段。
列柱。
見る者の視線を正面へ集めるためだけに組まれたような輪郭。
街のほかの場所は映像機械の明滅に頼っているのに、そこだけは別だった。
建物そのものが、自前の光を持っている。
分かりやすすぎる。
だからこそ、そこ以外へ隠れる気もないと分かる。
ヴォルフは大通りへ踏み込んだ。
進むほどに、街の印象が変わっていく。
建物は街並みであると同時に、客席の外縁にも見える。
左右の通りは舞台袖へ続く廊下のようでもある。
流れ込む街路すべてが、大通りの先の建物へ人を運ぶために設計されていた気配があった。
都市というより、前室だ。
開演前の、巨大すぎる前室。
映像記録機械の断片も、それに拍車をかける。
通りの途中で見かけた装置は、観客席を映していた。
別の一台は、誰もいない舞台を。
また別の一台では、花束を抱えた誰かが頭を下げる直前で映像が途切れた。
歓声。
拍手。
幕。
この街全体が、そういう言葉へ寄っている。
ヴォルフは鼻を鳴らした。
悪趣味だ。
だが嫌いではない、という顔をしながら準備しているのが見えるのは、なお悪い。
劇場の正面へ着く。
入口は隠されてもいなかった。
閉ざされてもいない。
拒絶よりずっと露骨に、どうぞ入れと言っている。
待っている。
それだけは確かだった。
ヴォルフは扉を押した。
重いはずの扉は、拍子抜けするほど素直に開いた。
中もまた、空だった。
客席に人はいない。
舞台の上にもいない。
広い空間のどこにも、生きた気配が見当たらない。
スポットライトもまだ点いていなかった。
代わりに、壁面の各所へ街中と同じ映像が流れている。
終幕。
喝采。
処刑。
別れ。
外で見たものと同種の断片が、今度は劇場そのものの内壁に投影されていた。
映像の明滅だけが、客席の列と舞台の輪郭を浮かび上がらせる。
古い劇の残響の中へ迷い込んだみたいだった。
ヴォルフは通路を進む。
客席の段差を横目でなぞり、舞台との距離を測る。
隠しや伏兵の気配はない。
あるのは、空間そのものが待ち受けている感じだけだ。
数歩、さらに進んだところで、ようやく空ではないものが見えた。
客席の最前列近く。
椅子が一つ。
その脇に、古い映像記録機械が一台。
そして、その椅子に腰かけた背中。
舞台の方を向き、壁に流れる映像を眺めている。
人影は動かない。
だが、最初からそこにいたことだけは分かる。
ヴォルフは足を止めた。
首都の中心ではなく、劇の中心へ入ったのだと、その時はっきり理解した。