椅子に腰かけた背中は、しばらく動かなかった。
映像の光だけが、その輪郭を白くなぞっている。
舞台の方を向いているのに、視線の先にあるのは舞台そのものではない。
壁面いっぱいに流れる、古い映像の断片だ。
喝采。
別れ。
処刑。
終幕。
掠れた音が混ざり合い、何かの終わりだけを妙にはっきり伝えてくる。
ヴォルフは客席通路をさらに進んだ。
最前列まで、あと少し。
そこで足を止める。
伏兵の気配はない。
背中はまだ振り返らない。
やがて、その人物が口を開いた。
「劇、というものは素晴らしいわね」
声はやわらかい。
女の声だ。
だがその柔らかさの奥に、最初から決められた調子がある。
「この世界の人間も、それを理解しているのはとても良いことだわ」
一拍。
「終わりを、終わりとして飾ろうとする」
映像の光が、頬の線だけをうっすら浮かべる。
「別れを、別れとして残そうとする」
まだ振り返らない。
「そういうところは、本当に愛おしい」
ヴォルフは黙って聞いていた。
相手もまた、返事を求めていない。
最初から自分の間で話している。
やがて、その人物が椅子から立ち上がった。
ここで初めて正対する。
パーティドレスを纏った、貴婦人めいた姿だった。
上品だ。
所作にも無駄がない。
遠目に見れば、完成された一人の女に見える。
だが近くで見ると、何もかもがわずかに噛み合っていなかった。
肌の質感。
首の角度。
視線の焦点。
笑みの置き方。
人間として成立しているようで、その成立そのものが一枚薄い。
皮膚の下に、別の理屈があるような違和感が消えない。
女はやわらかく微笑んだ。
「はじめまして」
それは社交の場の挨拶みたいに自然だった。
「私の名前は、征服のカエサル」
名乗ったあとも、座り直すことはない。
そのまま立ったまま、ヴォルフを見ている。
征服のカエサル。
やはりここが中心だった。
ヴォルフは短く息を吐く。
「ずいぶん趣味の悪い出迎えだ」
カエサルは少しだけ楽しそうに首を傾げた。
「そうかしら。私は気に入っているのだけれど」
視線がヴォルフの武器へ落ちる。
ノコギリ鉈。
斧。
銃。
左腕の雷光の楔。
それらを一つずつ見たあと、カエサルは小さく笑った。
「それにしても、あなたのそれは実に面白いわね」
「何がだ」
「猿真似よ」
あまりにもあっさり言うので、一瞬だけ言葉の意味が遅れた。
カエサルは続ける。
「向こう側の原理を借りて、こちら側の手で無理やり形にしている」
「借り物の理屈。模倣。継ぎ接ぎ。とても美しい猿真似」
ヴォルフの目が細くなる。
「気に入らない言い方だ」
「勘違いしないでちょうだい?」
カエサルはすぐにほどくように言った。
「バカにしているわけではないの」
そして本当に、そうらしかった。
侮蔑ではない。
むしろ興味と評価が先にある。
「だって、あらゆる演技は猿真似から始まるもの」
「他者の仕草を真似る。声を真似る。役割を真似る。そこからしか、劇は始まらない」
笑みが深くなる。
「猿真似にしてはあまりに上出来」
「借り物の理屈でここまで辿り着いたのなら、もう立派な役者でしょう?」
ヴォルフは答えない。
だが否定もしない。
こいつは原理を軽んじている。
それでも、使い手としてのこちらを低く見てはいない。
そのねじれた評価だけは分かった。
カエサルはふと、視線を横へ滑らせた。
劇場の闇に向かって、誰かの名を呼ぶみたいに。
「セヴェル。ラサン。シレ。クロヴ。そして、ガベル」
静かに、一人ずつ。
「あの子たちは、本当に素晴らしい演者たちだったわ」
個別の思い出を長々と語ることはしない。
ただ、その一言に十分な重みがあった。
道具を数える調子ではない。
役者の名を舞台裏で確認するみたいな響きだった。
ヴォルフはそこへ初めて口を挟む。
「お前にとっては、連中も芝居の駒か」
「駒?」
カエサルは少しだけ目を瞬かせた。
それから、やんわり否定する。
「違うわ」
「支配は、奪うことじゃないもの」
客席をゆっくり見渡す。
誰もいない席へ向けて話しながら、その言葉だけは真っ直ぐだった。
「役を与えること」
「導くこと」
「そして最後まで見届けること」
「それが支配の責任よ」
責任。
愉快犯の言葉ではない。
支配そのものに酔っているだけでもない。
それを当然の義務として引き受けている声だった。
カエサルは微笑みを崩さないまま続ける。
「私たちは、みんな向こうから来たものだから」
ヴォルフの眉が動く。
「……待て」
「向こうから来た、だと?」
カエサルはそこで初めて、少し楽しそうに笑った。
「ああ。そこから説明した方が良いかしら」
客席最前列の椅子に片手を置いたまま、言葉を整える。
「扉は、ただの転移門ではないの」
「もともとは古代人類が築いた、生産施設網の一部」
「世界の深いところから力を汲み上げて、各地へ配るための構造だった」
ヴォルフは黙って聞く。
クロヴの縄張り中枢で見た、訳の分からない保守記録。
アイビスで拾った断片。
扉の残骸。
制御盤。
あれらが頭の中で繋がり始める。
カエサルはその反応すら見えているように話を続けた。
「でも接続する機能がある以上、逆向きの往来も成立してしまう」
「力だけじゃない。向こう側にいるものも、こちらへ来られる」
「アイビスなんて、都市としてはとっくに死んでいたわ。残っていたのは扉系統だけ」
「クロヴはそこへ後から入り込んで、開いた扉ごと侵略地を維持する巣に変えた」
なら。
ならやはり、各地に散った扉は末端でしかない。
もっと深い場所に、統括系統がある。
ヴォルフが薄く察していたことを、カエサルは平然と肯定する。
「そう。系統の根はもっと深い」
「ここ。首都の中枢へ繋がっている」
そして、わずかに顎を上げた。
「古代人類は、扉の向こうから来る存在を」
そこで一度、区切る。
「侵征する者たち《インベイダー》と呼んだわ」
その言葉は妙に古く、妙に馴染んだ。
名前だけが長い時間を越えて、今ここへ落ちてきた感じがある。
「古代人類がつけた名よ」
「でも文明が途切れるあいだに、その語も意味も失われた」
「今の人間は名前も由来も知らないまま、ただ異形として怯えている」
哀れみ半分。
嘲り半分。
カエサルは本当に、その両方を同時に持っていた。
「あの子たちも、ただの侵略者ではないわ」
今度は幹部たちの名が、役割と共に置かれる。
「セヴェルは休眠中の扉を起こして回った。何もないところから最初の一歩を始める役」
「ラサンは開いた扉群へ資源を流し込んだ。侵食と兵站を止めないための役」
「シレは観測。圧力、流入量、接続状態を見て、必要なものを上へ渡す役」
「クロヴはすでに開いた土地を治めた。侵略地を安定させる役」
「そしてガベルは入口を閉じた。ここへ至る導線を物理的に封じる最後の門番」
全部、配役だ。
それぞれが単独で暴れていたわけではない。
扉システム全体を動かし、維持し、守るための役割として置かれていた。
ヴォルフは低く言う。
「よく喋るな」
「せっかくの対面だもの」
カエサルは気軽に返した。
「舞台裏を少しくらい明かした方が、観客も喜ぶでしょう?」
それから、ふと思いついたみたいに問う。
「ねえ」
「……あの子たちの中で、いちばん印象的な演者は誰だったかしら?」
口元が愉快そうに歪む。
「主演最優秀賞を決めようと思うの」
ヴォルフは即答しなかった。
少しだけ考えてから、短く言う。
「セヴェルだ」
カエサルの目が細くなる。
「まあ」
「理由は?」
ヴォルフは視線を逸らさないまま答える。
「あいつだけ、何も整ってなかった」
「ラサンにも、シレにも、クロヴにも、ガベルにも、それぞれ自分に有利な舞台があった」
「でもあいつは違う」
「有利な場所でもなければ、構造もなかった。あいつ本人だけで理不尽だった」
言っていて、今さらその感触が蘇る。
準備された舞台なしで成立していた、あの一人分の圧。
「もしあいつに、有利なテリトリーまであったなら」
ヴォルフはそこで少しだけ息を吐く。
「今でも勝てたかどうか分からない」
カエサルは楽しそうに笑った。
高くはない。
だが本当に愉快そうな笑いだ。
「いい答えね」
「見世物じゃなく、ちゃんと中身を見ているわね」
その言葉に嫌味は薄い。
むしろ満足している。
ヴォルフが「あの子たち」を実質で見ていたことを、素直に受け取った顔だった。
やがてカエサルは、椅子の脇に置かれた映像記録機械へ手を伸ばした。
指先が触れる。
壁面の映像が止まった。
拍手が消える。
音楽が消える。
笑い声も、別れの台詞も、途切れた。
劇場が完全に暗転する。
正面には、何も映っていない巨大な黒だけが残った。
「古い物語も悪くはないけれど」
カエサルが言う。
「新しい劇のほうが好きだわ」
会話を終えたその流れのまま。
カエサルは暗がりの中を舞台へ向かって歩き始めた。
ヴォルフはついていかない。
客席側に残る。
カエサルだけが、一人で舞台へ上がる。
それだけで場の支配がさらに強くなる。
暗闇の中から、声だけが落ちる。
「では」
「まずは、あの子から始めましょうか」
セヴェル。
さっきの問答が、ここで次へ繋がる。
舞台へ上がった、その瞬間だった。
初めてスポットライトが灯る。
白い光が、カエサルだけを真上から切り出した。
映像の光。
暗転。
そしてスポットライト。
過去の劇を消し、新しい劇だけを始めるための儀式みたいだった。
光の中で、カエサルが客席側を向く。
ドレスの裾が静かに揺れる。
その姿だけは、もう完全に舞台の主役だった。
「さあ、舞台の幕を上げましょう」
声が、劇場全体へ澄んで落ちる。
「演目は……終末の物語《World Ender》」
一拍。
小さく、楽しそうに笑う。
「ふふ」
「楽しみね」
その宣言の直後、ヴォルフが動いた。
ついていくのではない。
自分から飛び込む。
客席の段差を蹴り、舞台へ跳ぶ。
着地の音が、空の劇場へ鋭く響いた。
カエサルは歩いて舞台へ上がった。
ヴォルフは飛び上がって舞台に入った。
質の違いが、そのまま動作に出ている。
ヴォルフはノコギリ鉈を引き抜いた。
舞台の上に、二人が揃う。
劇はもう始まっていた。