舞台の上に、二人が揃う。
ヴォルフは着地の勢いを殺しきる前に、ノコギリ鉈を構えた。
カエサルは動かない。
スポットライトの真下で、ただ立っている。
それだけなのに、もう舞台そのものがあちら側へ寄っていた。
カエサルが片手を上げる。
「では、始めましょう」
声は穏やかだ。
だが次の瞬間、劇場の空気が一枚裏返った。
「幕引きのヴェール」
派手な斬撃ではなかった。
光でも、炎でも、刃でもない。
薄い布のような。
帳のような。
境界だけが曖昧に波打つ層が、ヴォルフの前を撫でるように通り抜ける。
反射で身をずらす。
避けた、はずだった。
なのに冷たいものが胸を横切った。
傷は浅い。
だが感触が悪い。
皮膚の上だけではなく、傷口の周囲そのものがじわりと死んでいく。
熱が引き、再生の感触が鈍る。
ヴェール由来の汚染。
ただ切るための技ではない。
終わりへ向けた処理を始める技だ。
ヴォルフが舌打ちするより先に、劇場の奥で何かが噛み合った。
舞台袖。
客席の上。
暗闇の縁。
見えない場所が、一斉に起きる。
カエサルは微笑んだままだ。
「最初は、あの子」
その瞬間、空気が裂けた。
弾丸。
ヴォルフはほとんど反射で横へ飛ぶ。
頬のすぐ横を何かが貫き、背後の舞台床へ小さな穴を穿った。
遅れて二発目。
三発目。
セヴェル。
本人の姿はない。
だが圧だけは一瞬で分かる。
常にどこかから撃ってくる。
起こりを読んでから避けるのでは遅い。
避けた先を先に潰される。
攻めに移る気配そのものを試され続ける。
ヴォルフは前へ出た。
止まれば撃ち抜かれる。
段差を蹴り、舞台の端を使って角度を変える。
それでも弾道は追ってくる。
「セヴェル」
カエサルの講評は、まるで演目の紹介みたいだった。
「あの子は、観ることしか知らなかった」
弾丸が舞台床を裂く。
ヴォルフは転がり、すぐ立つ。
「理解することと壊すことを、同じ手つきでやる子だったわ」
さらに一発。
肩を掠める。
「舞台なんて要らなかったの。あの子自身が、完成した劇場だった」
その言葉が終わる頃には、ヴォルフの呼吸はもう一段速くなっていた。
セヴェルだけで終わらない。
これは一幕ではない。
この圧は薄く残ったまま、次へ重なる。
舞台床が脈打つ。
次に来たのは下からだった。
床。
壁。
舞台袖の影。
あらゆるところから、手の口が現れる。
ラサン。
噛みつく。
食う。
取り込む。
ヴォルフは足場を切り替えながら、その顎をノコギリ鉈で払った。
噛み合う前に断ち切る。
だが切った端から、別の場所でまた口が開く。
蒸気が噴く。
視界の横を、クレーンめいた鈍い打撃が薙いだ。
舞台全体が工業的な捕食装置へ変わっていく。
「ラサン」
カエサルはやはり穏やかだ。
「あの子は、触れたものを全部、自分のものだと思っていた」
ヴォルフは段差を蹴り、蒸気の柱を越える。
その着地先を、まだ残っていたセヴェルの弾道が狙ってくる。
完全には切れていない。
「喰べることと支配することを、区別できない子だった」
ラサンの再演は長くない。
だが短い分だけ、他の圧へ自然に溶ける。
次は視線だった。
どこから見られているのか分からない。
なのに、着地先だけが先に死ぬ。
シレ。
頭上から、いくつもの小型の影が落ちてくる。
避ける。だが爆発する。
避けた先へ、さらに落ちる。
その先には、セヴェルの弾が待っている。
見られている。
その事実そのものが、攻撃へ直結していた。
ヴォルフは舞台の端から客席側へ跳ね、椅子の背を足場にして軌道を捻じ曲げる。
爆発が連なる。
熱と破片が服を裂く。
「シレ」
カエサルが名を置く。
「あの子は、見ている限り負けないと信じていた」
観測。
先読み。
怯え。
その全部が、ここでは最悪の落下点として返ってくる。
「誰より怯えていたからこそ、誰より先に見たがったの」
ヴォルフはノコギリ鉈を振り、飛び込んできた一体を叩き落とす。
爆発しないよう、切るというよりすくい上げるように。
だが叩いた隙を、また別の弾道が狙う。
一つずつなら、まだ読める。
そう思った矢先、空気がまた変わった。
今度は血の刃だ。
正面からだけではない。
客席の死角。
列柱の陰。
舞台袖の裂け目。
あらゆるところから、血の刃が不快な角度で飛ぶ。
クロヴ。
ヴォルフは身を沈め、斜めに入ってきた一閃を紙一重で外した。
次は足場そのものを捨てる。
今立っている場所が、もう安全ではない。
舞台は奪われ、作り替えられる。
守備圏ごと噛まれる。
「クロヴ」
カエサルが笑う。
「あの子は、新しい舞台を見つけるのが上手だった」
血刃が椅子列を裂く。
残骸の飛び方まで、こちらの進行方向を狭めるために計算されているようだった。
「奪った街をもり立てて、それが終わればまた次の街を作りに行く子だった」
クロヴの圧は短い。
だが短いからこそ、舞台全体の支配感だけを濃く残す。
そこへ最後の一撃が来る。
水の音。
直前に戦ったばかりの重さだ。
舞台の上空で、一気に水が収束する。
形を結ぶ時間は短い。
だが密度だけで十分だった。
ガベル。
本人の姿はない。
ただ、門番だった一撃だけが抽出される。
重い。
正面から殺し切るためだけの水砲弾。
ヴォルフは横へ飛ぶと同時に、斧で受け流しの角度を作った。
完全には逸らせない。
衝撃が肩口まで食い込み、身体ごと持っていかれる。
舞台床へ叩きつけられる前に、姿勢を戻してなんとか着地する。
「ガベル」
カエサルの声が落ちる。
「私のことを一番案じてくれた子だった」
ヴォルフは床を削りながら立ち直る。
正面に立つカエサルは、今もまだほとんど動いていない。
「少しばかりやんちゃだったけれど、最後まで番犬に徹していた」
再演はこれで一巡した。
だが終わりではない。
ヴォルフは荒い息を吐き、口の中の血を吐き捨てる。
どの再演にも、本人の姿は出ていない。
姿ではなく、その幹部を象徴する圧と舞台性だけが抜き出されている。
能力模倣ではない。
演目だ。
ここまでの戦い全部を、カエサルの劇場の中で再構成している。
「気づいた?」
カエサルが問う。
「私はちゃんと見ていたのよ」
視線がヴォルフの武器へ向く。
「それも、あの子をみて作ったのね」
何を指しているのか、曖昧にはしない。
敵の技術を奪い、削り、繋ぎ合わせてきた道程そのものを見通している声だった。
「面白いわ」
「あなた自身も、もう立派にこの劇の一部だもの」
ヴォルフは答えない。
代わりに一歩、前へ出た。
押し込まれている。
だが下がってはいない。
ここで足を止めれば、その瞬間に舞台の都合へ閉じられる。
だから進む。
セヴェルの弾丸がまた来る。
ラサンの口が床から噛み上がる。
シレの落下点が着地先を殺す。
クロヴの射角が視界の外から差し込む。
ガベルの重い一撃が、正面から殺意だけを押しつける。
一つずつならまだ読める。
その前提が、ゆっくり崩れ始めた。
再演の残滓同士が、噛み合い始める。
セヴェルの弾丸が避け先を作る。
その先をシレが見ている。
足場を変えればラサンが口を開き、退路をクロヴが削り、最後にガベルの重みが真ん中から押し潰す。
もう個別ではない。
カエサルがそこで、初めてほんの少しだけ両手を広げた。
「では」
劇場全体の空気が、さらに一段深く沈む。
「終幕のアブソリューション」
名前が落ちた瞬間、再演の圧が一つへ寄り始めた。
まだ全部同時ではない。
だが一つずつ読んでいた戦い方が、もう通じなくなるのは分かる。
再演は終わった。
次は、それ全部が一つになる。