ワールドエンダー 終末の物語   作:ニカン

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第7話

 舞台は死んだ。

 

 カエサルの鼓動が止まってから、地下古代首都を満たしていた何もかもが、ひどく急に意味を失った。

 

 劇場は、光を失って死んでしまったかのようだった。

 あるいは最初からそうだったのか。

 

 壁面に埋め込まれていた記録機械も沈黙した。拍手。歓声。泣き声。処刑前のざわめき。別れの言葉。終わりを飾るためだけに繰り返されていた断片は、もう二度と映らなかった。

 

 静かだった。

 

 だが、その静けさは、それまでの劇場にあった張り詰めた静けさではない。

 

 誰かが次の台詞を待っている静けさではなく、すべての台本が焼け落ちた後にだけ残る、ただの空白だった。

 

 ヴォルフはカエサルの席から立ち上がった。

 

 足元は重かった。肉体の芯にまで潜っていた痛みは、精算されたあとでも消え切ってはいない。だが、それでも立てた。歩けた。終わったのだと、遅れて身体が理解し始めていた。

 

 舞台へ視線を向ける。

 

 ついさっきまで激闘を繰り広げていたきらびやかな劇場は、ひび割れた石と、黒ずんだ布と、古びた金具の残骸になっていた。壮麗さなど最初からなかったように、そこにあるのは朽ちた遺構だけだった。

 

 都市そのものも同じだった。

 

 劇場を出たあと、ヴォルフは長い大通りから首都の全景に目を向けた。降りてきた時には、あまりにも整いすぎていて、それ自体が一つの悪意に見えた死都。だが今は違う。道の端は崩れ、塔の肌には長い風化の傷が走り、窓の奥はどれも暗い。整えられていたのではない。ただ、無理やり死を化粧されていただけだった。

 

 その化粧が剥がれた。

 

 だからもう、ここには何もいない。

 

 ヴォルフはそれを確認するように、一歩ずつ進んだ。

 

 昇降機へ戻る道中、異形の気配はなかった。幹部たちの影も、カエサルの視線も、舞台の続きを求める圧もない。ただ、地下古代首都という巨大な墓が、本来の沈黙を取り戻しているだけだった。

 

 それでいい、とヴォルフは思った。

 

 誰かに見送られる終わりではない。

 

 拍手もいらない。

 

 舞台が潰えたなら、あとは地上へ帰るだけだ。

 

 

 数日後。

 

 カルドレクの外れにある高台は、風がよく通った。

 

 石壁と石壁の隙間を抜けてきた風が、草を低く揺らしていく。遠くには、修復のために組まれた足場が見えた。異形の大量発生による傷はまだ癒えず、街はまだ傷だらけだったが、それでも人の手は止まっていない。煙が上がり、荷車が動き、誰かの怒鳴り声と誰かの笑い声が混ざって、下の方から聞こえてきた。

 

 生きている音だった。

 

 ヴォルフは石段に腰を下ろし、紙袋から串焼きを取り出した。味は悪くなかった。血の匂いではなく、脂の焼ける匂いが鼻につく。それだけで少し変な気分になった。

 

 隣に立っていたリヴィルが、小さく息をつく。

 

「ずいぶん普通の場所を選んだね」

 

「文句があるなら帰れ」

 

「別に。今の君に薄暗い廃墟は似合わないと思っただけさ」

 

 そう言って、リヴィルも近くの石に腰を下ろした。

 

 しばらくの間、二人は黙って風の音を聞いた。以前なら、その沈黙はもっと尖っていたはずだった。互いに何かを測り合い、簡単には譲らず、必要ならすぐ次の戦いへ踏み出せるような沈黙だ。

 

 今は違う。

 

 言葉がなくても、それで崩れるものはもうないと分かっている沈黙だった。

 

「それで」

 

 先に口を開いたのはリヴィルだった。

 

「これからどうするつもりだい」

 

 ヴォルフは串から肉を外して飲み込み、それから空を見た。

 

「そうだな」

 少し考える。

 

 大きな理想も、立派な看板も、別になかった。

 

 世界を救ったあとに何をするかなんて、そんなものを真面目に考えたことは一度もない。死ぬ前提でずっと進んできたのだから、残った先の話に実感が薄いのは当然だった。

 

 だから、口から出たのはひどく現実的な答えだった。

 

「肉屋にでもなろうと思っている」

 

 リヴィルがゆっくりと顔を向けた。

 

「肉屋かい」

 

「血に濡れるのは気にならない」

 

それに、と続けて。

 

「内臓を引っこ抜くのは得意だ」

 

「……君らしいと言うべきかね」

 

 呆れた声だった。

 

 だが、完全に嫌がっているわけではない。半分は本気で、半分は笑いを堪えている声だ。

 

「もう少しこう、なかったのかい。英雄らしい次の目標とか」

 

「ないな」

「即答」

「英雄じゃない」

 

 ヴォルフは言って、串の先に残っていた欠片を噛み切った。

 

「向いてる仕事を言っただけだ。どうせ仕込みも解体も、人が嫌がるところから始まる」

 

「向いているのは否定しないけどね」

 

「食うために働く。悪くない」

 

 リヴィルはそこで短く笑った。

 

 肩の力が抜けるような、小さい笑いだった。

 

「……まあ、たしかに。君が変に立派なことを言い出したら、それはそれで気味が悪い」

 

「だろうな」

 

「似合うかどうかは別として」

 

「似合う必要はない」

 風が吹いた。

 

 リヴィルの髪が揺れ、その横顔が一瞬だけ柔らかく見えた。

 

 その時になって、ヴォルフは懐に入れていた小さなものを思い出した。

 

 取り出したのは、ひとつの指輪だった。

 

 リヴィルの表情が変わる。

 

 それを見た瞬間に、ただの装飾品ではないと理解したのだろう。ヴォルフは何も言わず、その指輪を掌の上に乗せたまま、彼女へ差し出した。

 

「やる」

 

「いや、君……これは」

 

「復讐は、終わった」

 

 

「大事なものだ。だが、引きずり続けて抱え込むのもなにか違うと思った」

 

 

 リヴィルはすぐには受け取らなかった。

 

 目だけで指輪を見つめる。その沈黙には軽さがなかった。戦いのあとに交わす冗談とは違う、もっと奥の方へ触れる時の慎重さがあった。

 

「……それを、私に渡すのかい」

 

「ああ」

「どういう意味だい」

 

 まっすぐな問いだった。

 

 茶化しも逃げもない。

 

 ヴォルフは少しだけ視線を外し、それからまた戻した。

 

 たぶん、ここで上手いことを言うべきなのだろう。

 そういう場面なのだということくらいは分かる。

 

 だが、もともと器用な方ではない。

 

 何かを飾って渡せるような性分でもなかった。

 

 だから、少し考えた末に、出てきた言葉は結局これだった。

 

「そうだな。勇気が出るように、とでもしておこうか」

 

 リヴィルは目を瞬かせた。

 

 それから、ふっと笑う。

 

 今度の笑みは、さっきまでの軽いものではなかった。困ったようで、嬉しいようで、どう受け取ればいいのか少しだけ迷って、それでも拒まないと決めた時の顔だった。

 

「……なんだい、それは」

 

「駄目か」

「悪くないさ」

 

 リヴィルはそこでようやく手を伸ばし、指輪を受け取った。

 

 掌の中に収まった小さな輪を、壊れものでも扱うように静かに握る。

 

「うまくはないし、不器用だし、説明にもなっていないけど」

 

「そうか」

「でも、分かった」

 

 その一言で十分だった。

 

 ヴォルフはそれ以上を聞かなかったし、リヴィルもそれ以上は言わなかった。

 

 下の街から、誰かが工具を落としたらしい音が響く。少し遅れて怒鳴り声がして、さらにそのあとに笑い声が重なった。

 

 生きている。

 

 都市も、人も、これからまた面倒なことをいくらでも抱えるのだろう。壊れたものは多い。埋めなければならない穴も、返さなければならない借りも、言葉にしきれない喪失もある。

 

 それでも、終わった先には続きがある。

 

 舞台の上ではなく、誰かに割り振られた役でもなく、ただ自分の足で踏みしめる続きが。

 

 ヴォルフは立ち上がった。

 

「行くか」

「そうだね」

 

 

どちらともなく、空を見上げた。

 

青い空の、高いところを一羽の鳥が飛んでいた。

 

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