舞台は死んだ。
カエサルの鼓動が止まってから、地下古代首都を満たしていた何もかもが、ひどく急に意味を失った。
劇場は、光を失って死んでしまったかのようだった。
あるいは最初からそうだったのか。
壁面に埋め込まれていた記録機械も沈黙した。拍手。歓声。泣き声。処刑前のざわめき。別れの言葉。終わりを飾るためだけに繰り返されていた断片は、もう二度と映らなかった。
静かだった。
だが、その静けさは、それまでの劇場にあった張り詰めた静けさではない。
誰かが次の台詞を待っている静けさではなく、すべての台本が焼け落ちた後にだけ残る、ただの空白だった。
ヴォルフはカエサルの席から立ち上がった。
足元は重かった。肉体の芯にまで潜っていた痛みは、精算されたあとでも消え切ってはいない。だが、それでも立てた。歩けた。終わったのだと、遅れて身体が理解し始めていた。
舞台へ視線を向ける。
ついさっきまで激闘を繰り広げていたきらびやかな劇場は、ひび割れた石と、黒ずんだ布と、古びた金具の残骸になっていた。壮麗さなど最初からなかったように、そこにあるのは朽ちた遺構だけだった。
都市そのものも同じだった。
劇場を出たあと、ヴォルフは長い大通りから首都の全景に目を向けた。降りてきた時には、あまりにも整いすぎていて、それ自体が一つの悪意に見えた死都。だが今は違う。道の端は崩れ、塔の肌には長い風化の傷が走り、窓の奥はどれも暗い。整えられていたのではない。ただ、無理やり死を化粧されていただけだった。
その化粧が剥がれた。
だからもう、ここには何もいない。
ヴォルフはそれを確認するように、一歩ずつ進んだ。
昇降機へ戻る道中、異形の気配はなかった。幹部たちの影も、カエサルの視線も、舞台の続きを求める圧もない。ただ、地下古代首都という巨大な墓が、本来の沈黙を取り戻しているだけだった。
それでいい、とヴォルフは思った。
誰かに見送られる終わりではない。
拍手もいらない。
舞台が潰えたなら、あとは地上へ帰るだけだ。
数日後。
カルドレクの外れにある高台は、風がよく通った。
石壁と石壁の隙間を抜けてきた風が、草を低く揺らしていく。遠くには、修復のために組まれた足場が見えた。異形の大量発生による傷はまだ癒えず、街はまだ傷だらけだったが、それでも人の手は止まっていない。煙が上がり、荷車が動き、誰かの怒鳴り声と誰かの笑い声が混ざって、下の方から聞こえてきた。
生きている音だった。
ヴォルフは石段に腰を下ろし、紙袋から串焼きを取り出した。味は悪くなかった。血の匂いではなく、脂の焼ける匂いが鼻につく。それだけで少し変な気分になった。
隣に立っていたリヴィルが、小さく息をつく。
「ずいぶん普通の場所を選んだね」
「文句があるなら帰れ」
「別に。今の君に薄暗い廃墟は似合わないと思っただけさ」
そう言って、リヴィルも近くの石に腰を下ろした。
しばらくの間、二人は黙って風の音を聞いた。以前なら、その沈黙はもっと尖っていたはずだった。互いに何かを測り合い、簡単には譲らず、必要ならすぐ次の戦いへ踏み出せるような沈黙だ。
今は違う。
言葉がなくても、それで崩れるものはもうないと分かっている沈黙だった。
「それで」
先に口を開いたのはリヴィルだった。
「これからどうするつもりだい」
ヴォルフは串から肉を外して飲み込み、それから空を見た。
「そうだな」
少し考える。
大きな理想も、立派な看板も、別になかった。
世界を救ったあとに何をするかなんて、そんなものを真面目に考えたことは一度もない。死ぬ前提でずっと進んできたのだから、残った先の話に実感が薄いのは当然だった。
だから、口から出たのはひどく現実的な答えだった。
「肉屋にでもなろうと思っている」
リヴィルがゆっくりと顔を向けた。
「肉屋かい」
「血に濡れるのは気にならない」
それに、と続けて。
「内臓を引っこ抜くのは得意だ」
「……君らしいと言うべきかね」
呆れた声だった。
だが、完全に嫌がっているわけではない。半分は本気で、半分は笑いを堪えている声だ。
「もう少しこう、なかったのかい。英雄らしい次の目標とか」
「ないな」
「即答」
「英雄じゃない」
ヴォルフは言って、串の先に残っていた欠片を噛み切った。
「向いてる仕事を言っただけだ。どうせ仕込みも解体も、人が嫌がるところから始まる」
「向いているのは否定しないけどね」
「食うために働く。悪くない」
リヴィルはそこで短く笑った。
肩の力が抜けるような、小さい笑いだった。
「……まあ、たしかに。君が変に立派なことを言い出したら、それはそれで気味が悪い」
「だろうな」
「似合うかどうかは別として」
「似合う必要はない」
風が吹いた。
リヴィルの髪が揺れ、その横顔が一瞬だけ柔らかく見えた。
その時になって、ヴォルフは懐に入れていた小さなものを思い出した。
取り出したのは、ひとつの指輪だった。
リヴィルの表情が変わる。
それを見た瞬間に、ただの装飾品ではないと理解したのだろう。ヴォルフは何も言わず、その指輪を掌の上に乗せたまま、彼女へ差し出した。
「やる」
「いや、君……これは」
「復讐は、終わった」
「大事なものだ。だが、引きずり続けて抱え込むのもなにか違うと思った」
リヴィルはすぐには受け取らなかった。
目だけで指輪を見つめる。その沈黙には軽さがなかった。戦いのあとに交わす冗談とは違う、もっと奥の方へ触れる時の慎重さがあった。
「……それを、私に渡すのかい」
「ああ」
「どういう意味だい」
まっすぐな問いだった。
茶化しも逃げもない。
ヴォルフは少しだけ視線を外し、それからまた戻した。
たぶん、ここで上手いことを言うべきなのだろう。
そういう場面なのだということくらいは分かる。
だが、もともと器用な方ではない。
何かを飾って渡せるような性分でもなかった。
だから、少し考えた末に、出てきた言葉は結局これだった。
「そうだな。勇気が出るように、とでもしておこうか」
リヴィルは目を瞬かせた。
それから、ふっと笑う。
今度の笑みは、さっきまでの軽いものではなかった。困ったようで、嬉しいようで、どう受け取ればいいのか少しだけ迷って、それでも拒まないと決めた時の顔だった。
「……なんだい、それは」
「駄目か」
「悪くないさ」
リヴィルはそこでようやく手を伸ばし、指輪を受け取った。
掌の中に収まった小さな輪を、壊れものでも扱うように静かに握る。
「うまくはないし、不器用だし、説明にもなっていないけど」
「そうか」
「でも、分かった」
その一言で十分だった。
ヴォルフはそれ以上を聞かなかったし、リヴィルもそれ以上は言わなかった。
下の街から、誰かが工具を落としたらしい音が響く。少し遅れて怒鳴り声がして、さらにそのあとに笑い声が重なった。
生きている。
都市も、人も、これからまた面倒なことをいくらでも抱えるのだろう。壊れたものは多い。埋めなければならない穴も、返さなければならない借りも、言葉にしきれない喪失もある。
それでも、終わった先には続きがある。
舞台の上ではなく、誰かに割り振られた役でもなく、ただ自分の足で踏みしめる続きが。
ヴォルフは立ち上がった。
「行くか」
「そうだね」
どちらともなく、空を見上げた。
青い空の、高いところを一羽の鳥が飛んでいた。