ワールドエンダー 終末の物語   作:ニカン

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第5話

荒野を二日歩いた。

 

舗装はない。踏み跡すらない。草が膝丈まで伸び、土が柔らかく、歩くたびに足が沈む。空は晴れていたが、光が白く平らで、影が薄い。距離感がつかみにくい地形だった。

 

魔物には三度遭遇した。いずれも単体。大きくはなかった。

 

倒した。『ブラッドボーン』は使わなかった。

 

人狼への変化と、それに伴う代償を敵に押し付け、敵の血と死で回収する——それが、あの変身を自由自在に使える理由……〈ブラッドボーン〉とよんでいる技の構造だ。儀式的、あるいは呪術的と呼ぶ者もいる。ヴォルフ自身はそう呼ばない。ただの取引だ。血と殺した相手の死の重さで強化を受け取り、清算する。

 

問題は、相手が軽い場合だ。

 

荒野の魔物三体は、いずれも軽かった。あの程度の死では、人狼変化のコストを精算しきれない。足りない分は自分に戻ってくる——熱のような、うずくような、名前をつけたくない感覚として。

 

だからノコギリ鉈だけで殺した。

 

面倒な、とヴォルフは思った。弱い敵ほど後始末が悪い。強敵を殺す方が、よほど後腐れがない。逆説的だが、そういう仕組みだった。

 

二日目の夕方、地形が変わった。

 

草が減り、土が固くなり、岩が増えた。岩の色が、周囲の地面より暗い。古い染みのように、長い年月をかけて何かが沁み込んだ色をしている。

 

臭いも変わった。草と泥の臭いの下から、湿った石と、腐敗とも腐食とも違う、古いものの臭いが滲み出てきた。

 

地下に何かある。

 

遺跡の入口は、岩盤に刻まれた裂け目だった。人の手が入っている——縁が整えられ、内側に向かって段が切ってある。しかし手入れはとうに途絶えており、石に苔が這い、段の一部が崩れていた。

 

中は暗かった。

 

目を変えた。虹彩が変わる感触——皮膚の下で何かが動き、視界が切り替わる。暗がりの輪郭が浮かび上がり、遠くの壁の質感が読めるようになる。最小限の変化だ。これくらいなら制御の範囲内。

 

奥に通路が続いていた。天井が低い。壁に彫り込まれた紋様が、松明もないのに微かに燐光を放っている。古代のものだ。何のために彫られたのかは分からない。

 

歩いた。

 

最初の遭遇は、通路の角を曲がったところだった。

 

立っていた。

 

それが最初の印象だった。立っている、という状態を保っているが、そのために使っている筋肉や骨格の配置が、人間のものとずれている。背骨の湾曲がおかしい。首の向きが逆に近い。腕が長すぎる。

 

しかし顔は——顔の下半分は、人間のままだった。

 

顎の線。唇の形。ひげの剃り跡。それがそのまま残っている。

 

傭兵か、あるいは兵士か。装備の残骸がある。革の帯が体に巻き付いたまま、肉と一体化しかけている。この遺跡に来て、変質した者だ。いつのことかは分からない。

 

ヴォルフの気配に反応して、頭が動いた。目が合った。

 

目に光はなかった。しかし何かが宿っていた。人間の目が持つものとは違う何かが。

 

判断は一秒で終わった。

 

相手は人間ではない。すでに変質が完了している。戻る見込みはない。倒す。ただし——この個体の死の重さは、どの程度か。

 

変質した元人間。元が人間だったとして、今の状態は何に近いか。魔物か、人か。その答えによって、〈ブラッドボーン〉の回収効率が変わる。

 

踏み込んだ。

 

ノコギリ鉈を抜いた。

 

相手は音に反応して向き直った。動きは速くない。ただし力はある——腕を振ってきたとき、風圧が分かった。当たれば骨が折れる水準の質量だった。

 

潜った。腕の下に入り込み、側面に回り、首の付け根に刃を当てた。引く。ノコギリの刃が肉を引っ掛けながら抜けた。

 

血が出た。

 

浴びた。

 

熱が来た——皮膚の下に走る、あの感覚。蓄積が増える。しかし量が少ない。元が人間だったものは、魔物ほど血の価値が高くない。あるいは変質が完全でないために、どちらの基準でも「半端」になっているのか。

 

相手は倒れなかった。傷口を無視して向き直った。再生しているわけではなく、痛覚が消えているだけのようだった。

 

面倒な。

 

二度目の踏み込みで、今度は頸椎を狙った。爪を出す。黒く硬化した爪の先を椎骨の隙間に差し込み、引き抜く。それで動きが止まった。脊椎への干渉は、再生が追いつくより先に機能を止める。倒れた。

 

清算が来た。

 

『ランサムウェア』。内臓への攻撃と、それに伴う精算を特にそう呼んでいる。

しかし、少なかった。使った出力に対して、返ってきた対価が薄い。返り血を浴びた分の貯金を踏まえても、赤字だ。差分がうずいた。

 

二体目は奥の部屋にいた。

 

天井の高い空間に、ひとつの塊のように蹲っていた。こちらが入ると、ゆっくり顔を上げた。こちらの方が変質が進んでいる。人間の形の比率が低い。骨格の再構成が進み、四肢の数が増えている。

 

これは重い。

 

直感的にそう判断した。元人間だが、変質の密度が違う。この遺跡の深部に長くいたものだ。蓄積された異質の何かが、死の重さを押し上げている。

 

踏み込み方を変えた。

 

まず削った。

 

一合、二合——深追いせず、腕を振るたびに刃を当てて引く。傷口が開くたびに血が出た。浴びた。少しずつだが、蓄積が積み上がっていく。内臓を狙う一撃が失敗したとき、少しでも赤字の量を減らすための貯金だ。この相手が重いなら、それだけ踏み倒せる額も増える——はずだ。確信はない。試算だ。

 

三合目で相手の動きが変わった。攻撃に慣れ始めている。長引かせるつもりはなかった。

 

距離を取った。爪だけを出し、血の臭いを先に取った——腕を伸ばして壁に触れるように、〈ブラッドボーン〉を血の探知として使う。敵の体の中心に何がある。どこに密度がある。

 

心臓の位置が分かった。

 

変質しても心臓はある。場所が移動していたが、ある。

 

踏み込んだ。腕の下から潜り込み、胸郭の変形した骨の隙間に爪を差し込んだ。感触を追う——骨、膜、拍動。掴んだ。引いた。握りつぶした。

 

血が溢れた。

 

今度は熱が違った。

 

皮膚の下を走る熱が、一段濃かった。視界が鮮明になる感覚。音が増幅する感覚。身体が喜んでいる。

 

俺は人間だ、とヴォルフは思った。声には出さなかった。出す必要がある場面ではまだなかった。

 

清算が来た。今度は十分だった。黒字だ。

 

間違いない——奥に、この遺跡の元締めとなる何かがいる。ただ、それがあの日俺に呪いをかけて振り返りもせずに去っていった背中の持ち主なのか、別の何かなのかは正確には分からない。だがどちらでもいい——それを仕留めるために来た。

 

通路はまだ続いていた。

 

二体の残骸を置いて、歩いた。

 

遺跡の奥に向かうほど、変質の密度が上がる。最初の一体より二体目の方が重かった。それが続くなら、深部に向かうほど清算の効率は上がる。

 

皮肉な構造だ、とヴォルフは思った。奥へ行くほど危険になる。しかし奥へ行くほど、〈ブラッドボーン〉の後腐れも減る。

 

荒野の魔物と、この遺跡の二体目と、どちらが「楽」だったか。

 

答えは明確だった。

 

二体目の方が、後が楽だった。それが、この力の歪んだ設計だ。弱いものを殺すほど消耗する。強いものを殺すほど、清算が取れる。

 

歩きながら、右手の爪をゆっくり引き込んだ。蓄積は残っている。使っていない分だ。

 

まだ奥がある。

 

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