意識が落ちる。
と思ったはずなのに、俺はどこかにいた。
暗い部屋だった。
壁の素材は分かる。石ではなく、木だ。天井が低い。窓が小さい。
知っている場所だ。
「兄さん、それ読めるの?」
声がした。
振り返る前から分かっていた。妹——リゼルだ。
「読めない」
「じゃあなんで持ってるの」
「拾った」
「捨てれば」
「お前が欲しいなら持ってけ」
「いらない」
そう言いながら、リゼルは隣に来て同じものを覗いた。拾ってきた紙——読めない字が書いてある。ふたりで揃って読めないものを眺めた。
少し経って、リゼルが言った。
「絵みたいで、きれいとは思う」
「そうか」
「捨てていいよ」
「捨てる」
でも、すぐには捨てなかった。
それだけのことだった。何の意味もない夜の、何でもないやり取りだ。ふたりでいる、ということが当たり前だった頃の——ただの一場面。
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次の映像が来た。
同じ部屋だった。別の夜だ。
「食べた?」
またリゼルの声だった。
「まだ」
「食べて」
それだけだった。押しつけがましくない。要求でも懇願でもない。ただ、言う。
俺は答えなかった。が、席についた。
テーブルの上に器が置かれる。粗末な食事だ。旨いとは言えない。それでも温かかった。
「なんで笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってる」
リゼルは笑っていた。笑ったまま、自分の分を食べ始めた。
俺も食べた。
それだけだった。ふたりで、食べた。それだけが、俺たちの日常だった。
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次の映像が来た。
同じ部屋。また別の夜だ。
俺はテーブルに座っていた。手の中に何かある。
小さい。丸い。
指輪だった。
拾ったものだ。
どこで、というのはもう思い出せない。傭兵仕事の帰り道か、あるいは廃屋の中か。特別なものじゃない。誰かが落としたか、捨てたか。金属の質感が悪くない——それくらいの理由で、ポケットに入れた。
今になって、出してきた。
なぜかは、あまり考えなかった。
背後で気配がした。
「何それ」
リゼルだった。
振り返らなかった。
指輪をテーブルに置いて、一拍置いた。
「お前にやる」
「え」
「勇気が出るように」
間があった。
長い間ではない。でも、一瞬だけ、返答が来なかった。
「……もらっていいの?」
「そう言っている」
また間があった。今度は少し短い。
足音が近づいた。テーブルの向こうに立つ気配。指輪が持ち上げられる感触——正確には、テーブルの振動としてそれが分かった。
「紐を通してもいい。ネックレスにすれば邪魔にならない」
「うん」
「なくすなよ」
「なくさない」
それだけだった。
大事にする、とは言わなかった。大切にする、とも言わなかった。でも「なくさない」と言った。
俺は何も返さなかった。
それで終わりだった。
特別なやり取りではない。普段の、他の何でもない夜の、一場面だ。
しかし——あの夜まで、俺は知らなかった。あの指輪を、リゼルがたまに持ち歩いていたことを。普段は家に置きっぱなしのものを、ここぞというときだけ服の内側に隠して身につけていたことを。
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次の映像が来た。
路地だった。
夜だ。明かりが遠い。
俺は一人だった。
何かが来た——感覚より先に、全身の何かが反応した。おかしい、という認識すら形になる前に、身体の内側で何かが崩れ始めた。
振り返った。
背中があった。
立ち去ろうとしている。高い。細い。
こちらを見ていない。
それが最後の、鮮明な記憶だ。
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次は断片だ。
止まらない。
それだけが分かる。
手が動いている。走っている。叫んでいる——喉から出ているのは声じゃない。唸りだ。意識はある。見えている。聞こえている。しかし止まらない。
壁に触れた。石が崩れた。
誰かが叫んだ——遠くで。俺の声ではない。人の声だ。逃げる音がした。それでも足は止まらなかった。
怖い、という感覚はなかった。
それが怖かった。
恐怖もない。痛みも薄い。ただ身体だけが動き続ける。本人の意思など関係なく、もっと大きな何かが動かしている——そういう感覚だった。
止めようとした。
止まらなかった。
俺は人間だ、と言おうとした。
言葉にならなかった。
身体が喜んでいる。熱がある。力がある。それが一番、許せなかった。
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気配がした。
来るな。
思った。だが、言葉にならなかった。声も出なかった。しかし確かに思った——来るな、来るな、来るな。
気配は止まらなかった。
近づいてくる。怯えた足音ではなかった。震えてもいなかった。
止まってほしかった。逃げてほしかった。知らないふりをしてほしかった。
来るなと叫びたかった。
声は出なかった。
顔が見えた。
暗い路地で、それでも見えた。
妹——リゼルだ。
来るな。
また思った。また言えなかった。
表情は——恐怖ではなかった。
もっと正確に言えば……恐怖の後、何かに気づいたようだった。
その瞬間に俺の中の何かが軋んだ。恐怖であってくれれば、まだよかった。でも。
その表情が何を意味していたのか——俺には今も分からない。
そして、もう永遠に分からない。
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静寂が来た。
気づいたときには、路地に伏していた。
何かが光った——地面で。
小さく。弱く。
指輪だった。
紐が切れていた。服の内側に隠されていたものが、地面に落ちていた。
ここぞというときに身につけて出る、おまじない。
普段は持ち歩かない。あの夜だけ、意図して持ってきていた。
なぜ。
なぜ持ってきたのか。
それを答えられる人間は、もういなかった。
俺の言葉が——「勇気が出るように」という言葉が——
あの夜、あの路地に。
彼女を、連れてきた。
拾った。
拾うことしか、できなかった。
都市を出るとき、それだけを持っていった。他には何も要らなかった。
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意識が戻った。
遺跡の床だ。跪くようにして壁に手をついている。
荒い息が出ている。
周囲は静かだった。
セヴェルは死んでいる。俺は生きている。蓄積のダメージはまだ全部は引いていない。
右手を開いた。
手のひらは空だ。指輪はコートの内側にある——革の小さな留め具で固定してある。落とさないように。なくさないように。
「なくさない」と言ったのはリゼルだった。
今、なくさないでいるのは俺だ。
「俺は人間だ」
呟いた。
今は——あまり、信じられなかった。