ワールドエンダー 終末の物語   作:ニカン

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第7話

意識が落ちる。

 

と思ったはずなのに、俺はどこかにいた。

 

暗い部屋だった。

壁の素材は分かる。石ではなく、木だ。天井が低い。窓が小さい。

 

知っている場所だ。

 

「兄さん、それ読めるの?」

 

声がした。

振り返る前から分かっていた。妹——リゼルだ。

 

「読めない」

 

「じゃあなんで持ってるの」

 

「拾った」

 

「捨てれば」

 

「お前が欲しいなら持ってけ」

 

「いらない」

 

そう言いながら、リゼルは隣に来て同じものを覗いた。拾ってきた紙——読めない字が書いてある。ふたりで揃って読めないものを眺めた。

 

少し経って、リゼルが言った。

 

「絵みたいで、きれいとは思う」

 

「そうか」

 

「捨てていいよ」

 

「捨てる」

 

でも、すぐには捨てなかった。

 

それだけのことだった。何の意味もない夜の、何でもないやり取りだ。ふたりでいる、ということが当たり前だった頃の——ただの一場面。

 

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次の映像が来た。

 

同じ部屋だった。別の夜だ。

 

「食べた?」

 

またリゼルの声だった。

 

「まだ」

 

「食べて」

 

それだけだった。押しつけがましくない。要求でも懇願でもない。ただ、言う。

俺は答えなかった。が、席についた。

 

テーブルの上に器が置かれる。粗末な食事だ。旨いとは言えない。それでも温かかった。

 

「なんで笑ってる」

 

「笑ってない」

 

「笑ってる」

 

リゼルは笑っていた。笑ったまま、自分の分を食べ始めた。

俺も食べた。

 

それだけだった。ふたりで、食べた。それだけが、俺たちの日常だった。

 

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次の映像が来た。

 

同じ部屋。また別の夜だ。

 

俺はテーブルに座っていた。手の中に何かある。

小さい。丸い。

 

指輪だった。

拾ったものだ。

 

どこで、というのはもう思い出せない。傭兵仕事の帰り道か、あるいは廃屋の中か。特別なものじゃない。誰かが落としたか、捨てたか。金属の質感が悪くない——それくらいの理由で、ポケットに入れた。

 

今になって、出してきた。

なぜかは、あまり考えなかった。

 

背後で気配がした。

 

「何それ」

 

リゼルだった。

振り返らなかった。

 

指輪をテーブルに置いて、一拍置いた。

 

「お前にやる」

 

「え」

 

「勇気が出るように」

 

間があった。

長い間ではない。でも、一瞬だけ、返答が来なかった。

 

「……もらっていいの?」

 

「そう言っている」

 

また間があった。今度は少し短い。

 

足音が近づいた。テーブルの向こうに立つ気配。指輪が持ち上げられる感触——正確には、テーブルの振動としてそれが分かった。

 

「紐を通してもいい。ネックレスにすれば邪魔にならない」

 

「うん」

 

「なくすなよ」

 

「なくさない」

 

それだけだった。

 

大事にする、とは言わなかった。大切にする、とも言わなかった。でも「なくさない」と言った。

 

俺は何も返さなかった。

 

それで終わりだった。

 

特別なやり取りではない。普段の、他の何でもない夜の、一場面だ。

 

しかし——あの夜まで、俺は知らなかった。あの指輪を、リゼルがたまに持ち歩いていたことを。普段は家に置きっぱなしのものを、ここぞというときだけ服の内側に隠して身につけていたことを。

 

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次の映像が来た。

 

路地だった。

夜だ。明かりが遠い。

 

俺は一人だった。

 

何かが来た——感覚より先に、全身の何かが反応した。おかしい、という認識すら形になる前に、身体の内側で何かが崩れ始めた。

 

振り返った。

 

背中があった。

立ち去ろうとしている。高い。細い。

 

こちらを見ていない。

 

それが最後の、鮮明な記憶だ。

 

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次は断片だ。

 

止まらない。

 

それだけが分かる。

 

手が動いている。走っている。叫んでいる——喉から出ているのは声じゃない。唸りだ。意識はある。見えている。聞こえている。しかし止まらない。

 

壁に触れた。石が崩れた。

 

誰かが叫んだ——遠くで。俺の声ではない。人の声だ。逃げる音がした。それでも足は止まらなかった。

 

怖い、という感覚はなかった。

 

それが怖かった。

 

恐怖もない。痛みも薄い。ただ身体だけが動き続ける。本人の意思など関係なく、もっと大きな何かが動かしている——そういう感覚だった。

 

止めようとした。

止まらなかった。

 

俺は人間だ、と言おうとした。

言葉にならなかった。

 

身体が喜んでいる。熱がある。力がある。それが一番、許せなかった。

 

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気配がした。

 

来るな。

 

思った。だが、言葉にならなかった。声も出なかった。しかし確かに思った——来るな、来るな、来るな。

 

気配は止まらなかった。

近づいてくる。怯えた足音ではなかった。震えてもいなかった。

 

止まってほしかった。逃げてほしかった。知らないふりをしてほしかった。

来るなと叫びたかった。

 

声は出なかった。

顔が見えた。

 

暗い路地で、それでも見えた。

 

妹——リゼルだ。

 

来るな。

また思った。また言えなかった。

 

表情は——恐怖ではなかった。

 

もっと正確に言えば……恐怖の後、何かに気づいたようだった。

 

その瞬間に俺の中の何かが軋んだ。恐怖であってくれれば、まだよかった。でも。

 

その表情が何を意味していたのか——俺には今も分からない。

 

そして、もう永遠に分からない。

 

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静寂が来た。

 

気づいたときには、路地に伏していた。

 

何かが光った——地面で。

 

小さく。弱く。

 

指輪だった。

 

紐が切れていた。服の内側に隠されていたものが、地面に落ちていた。

ここぞというときに身につけて出る、おまじない。

 

普段は持ち歩かない。あの夜だけ、意図して持ってきていた。

 

なぜ。

なぜ持ってきたのか。

 

それを答えられる人間は、もういなかった。

 

俺の言葉が——「勇気が出るように」という言葉が——

 

あの夜、あの路地に。

彼女を、連れてきた。

 

拾った。

 

拾うことしか、できなかった。

都市を出るとき、それだけを持っていった。他には何も要らなかった。

 

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意識が戻った。

 

遺跡の床だ。跪くようにして壁に手をついている。

 

荒い息が出ている。

周囲は静かだった。

 

セヴェルは死んでいる。俺は生きている。蓄積のダメージはまだ全部は引いていない。

 

右手を開いた。

 

手のひらは空だ。指輪はコートの内側にある——革の小さな留め具で固定してある。落とさないように。なくさないように。

 

「なくさない」と言ったのはリゼルだった。

今、なくさないでいるのは俺だ。

 

「俺は人間だ」

 

呟いた。

 

今は——あまり、信じられなかった。

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