「俺は人間だ」
呟いて、少しだけそのままでいた。
壁に手をついている。荒い息がゆっくり落ち着いていく。蓄積のダメージはまだ完全には引いていない。内側のどこかが滲んでいる感触——出血ではない。もっと深い層の、何かが削れた跡だ。
立てる。
それだけ確認して、壁から手を離した。
部屋を見た。
セヴェルは死んでいる。床に伏している。最後まで動作に無駄のなかった存在が、今は静物と同じだ。
奥に通路があった。
さらに奥へ続いている。
セルヴァンへの依頼は「発生源を潰せ」だった。それは終わった——たぶん。意図したわけではないが、結果として潰した。
しかしここは終点ではない、という空気が漂っていた。
通路の先が、そう言っている。
歩き始めた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
通路は下へ傾いていた。
足元の石が細かく削られている。目的があって削られた跡だ——ただの通路ではなく、何かを運ぶために整備された道だ。何を運んだのか、それは分からない。壁に燭台の跡がある。今は空だ。明かりは手持ちの分だけ。
呼吸の音だけが続く。
蓄積の残りがじわじわと消費されていく感触がある。動いている間は代償が払われ続ける。止まっても、少しずつ。オーバードラフトを使い果たした後の、清算の尻尾だ。
気にしても仕方がない。動き続ける。
通路の途中に一度、横穴があった。
覗いた。暗い。崩落している。入れない。
先に進んだ。
変質した者の気配はなかった。
セヴェルが死んだことと関係があるかもしれないし、元から深部にはいなかったのかもしれない。理由は分からないが、静かだった。
静か、ということがかえって落ち着かない。
戦っていた方が分かりやすい。何かを処理している間は、他のことを考えずに済む。
「俺は人間だ」と、さっき呟いた。
さっきはあまり信じられなかった。今も、あまり信じられない。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
通路の先が広がった。
天井が高くなる。空気の質が変わった——遺跡の内側にいる感触とは違う。もっと古い。積み上げてきた時間の量が、この空間では違う。
広間だった。
ただし、セヴェルのいた部屋とは性質が違う。あちらは「儀式を行う場所」だった。ここは違う。
保管するための場所だ。
壁に沿って、棚が並んでいる。
石を削り出した作りだ——棚も壁も一体になっている。その上に、板状のものが並んでいた。石板だ。一枚一枚に、何かが刻まれている。
文字だ。
読めない文字ではなかった。古い書体だが——判読はできる。傭兵仕事で古い遺跡を渡り歩くうちに、かじった程度の知識はある。
一枚、手に取った。
重い。
表面の刻み跡を指でなぞった。細かい。刻んだ者は時間をかけた——残す気があって刻んでいる。
読み始めた。
難解だった。単語は拾えるが、文脈が飛ぶ。何かを省略しながら書かれている——書いた者が前提を共有している相手にだけ向けた記録だ。
それでも、いくつかの単語は繰り返し出てきた。
血。贄。羊。牧する者。
最後の言葉が、引っかかった。
牧する者。
別の石板を取った。また別のものを取った。同じ言葉が出てくる。そして別の言い方も——牧羊者。血と贄を貪る牧羊者。
知っている言葉によく似ている。
牧師。パストル——カルドレクの宗教組織が「守護神」と呼ぶ存在の通称。
しかし、ここに刻まれている名は違う。
血と贄を貪る牧羊者。
一度、石板を置いた。
壁を見た。棚を見た。並んでいる石板の数を目で数えた——数えきれない。この広間にある記録のすべてを読む時間はない。
読める分だけ読んだ。
「守護神」として現代の人間が信じているものの、正式な名称がここに書かれている。それが何を意味するか——まだ分からない。
ただ、「牧師」と「血と贄を貪る牧羊者」は、同じ存在を指す別の名だと確信できた。
なぜ名が二つあるのか。どちらが真実か。
持ち出せる量ではない。頭に入れられる分だけ入れた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
広間の奥に、また通路があった。
短い。
突き当たりに、部屋があった。
小さな部屋だった。
中央に、それがあった。
台座の上に据えられた、石の構造物。形はセヴェルのいた部屋の床の文様に似ている——ただし、あれは床面全体に展開されていた。こちらは立体だ。球を半分に割ったような形。内側に向かって溝が走り、複雑な経路を描いている。
儀式装置。
セルヴァンが言っていた「発生源」は、おそらくこれだ。
近づいた。
台座の石に手をついた。表面が冷たい。空気が乾いている。何かが起動しようとして、止まった跡がある——溝の中に、焦げたような変色が残っている。セヴェルが途中まで動かしていた。完成しなかった。
完成していれば、何が起きていたかは分からない。
ただ、止まっている今は——静かだ。
沈黙している。動く気配はない。壊れているわけではない——だが、途中まで動いた形跡がある。完成まで何かが足りなかった、というだけだ。
その問いを持ち越したまま、部屋を出た。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
石板の広間を抜けた。
来た道を戻る途中で、壁の一部に気づいた。
石の継ぎ目が違う箇所がある。後から塞いだ跡だ。人間の作業ではない——岩を組んだものでもない。何かの力で固めた跡。最近のものでもない。
その向こうに何があるか——壁を見ただけでは分からない。
ただ、ただの崩落や補修ではないことだけは分かった。隠している、という意志だけが残っていた。
塞がれた理由も分からない。
ヴォルフは立ち止まり、しばらくそれを見た。
それだけだった。触れなかった。壊さなかった。
残っているものには、残っている理由がある。その理由が分からない間は、動かさない方がいい——そういう判断ができる程度には、今の自分は消耗している。
踵を返した。
上へ向かった。
通路を登る。脚の感触が鈍い。蓄積のダメージの残りが、じわじわと動きを重くしている。止まって休む気にはなれない。遺跡の中で力尽きるのは最悪の選択だ。
出口まで持てばいい。
それだけを考えて、歩いた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
外に出た。夜だった。
冷気を感じる。遺跡の中の空気と、外の空気の違いが肺で分かる。深く吸った。蓄積の残りがまだある。今夜は動かない方がいい。
遺跡の外壁に沿って、風が当たらない窪みを見つけた。そこに背を預けた。動けるようになるまで待つ。
空を見た。星が出ている。
血と贄を貪る牧羊者。
頭の中でその言葉を繰り返した。
「守護神」がそういう名前を持っているということと、現代の人間が「牧師」と呼んでいることの間に、何かある。それが何かは——まだ分からない。
セルヴァンへの報告に使える話かもしれない。あるいは使わない方がいいかもしれない。
判断は後でいい。
しかし、ひとつだけ確かなことがあった。
石板のうちの一枚に、はっきりと書いてあった。
神話時代の人間が儀式を行った。扉を開いた。向こう側にいた何かを、自分たちの世界に招き入れた——正確には、招き入れてしまった。記録の書き手は「招いた」とも「解放した」とも書いていない。使った言葉はただ一つ、「呼び出した」だった。
呼び出した側の人間は、もういない。
呼び出された側の何かは、今もいる。
姿は見えない。声も聞こえない。
しかし、いる。
「守護神」でも「牧羊者」でもない——人間が呼び出した、元締が。
今は、生きて戻ることだけ考える。
夜明けとともに立ち上がった。
往路は迂回と探索で二日かかった。戻りは道が分かっている。一本道を急げば一日で戻れる。
カルドレクへ向かって歩き始めた。