カルドレクに着いたのは翌日の夜だった。
蓄積のダメージはまだ完全には引いていない。足の感触が鈍く、息が少し浅い。死ぬほどではない——ただし動き続けていい状態でもない。
門を抜けた。守衛が顔を見た。通された。
宿に向かいながら、気づいた。
鳥がいる。
前からいた。カルドレクに来てからずっと——屋根に、軒先に、壁の突起に。以前はただ多いと感じただけだった。今は違う。遺跡を往復して戻ってきた目で見ると、配置が偶然に見えなかった。
門から宿への道を歩く間に、特定の一羽がこちらに追従していた。追っているとも、ただ止まっているとも言える角度で。飛び立たない。人間が通っても微動だにしない。
前もそうだった。
カルドレクに来た最初の週からずっと、同じような鳥がいた。気にしなかった——他に気にすることが山ほどあった。だが今、遺跡から戻った直後の消耗した頭で見ると、引っかかった。
鳥は、ヴォルフを見ていた。
宿に入った。
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部屋の扉を開けた瞬間に、声が来た。
「おかえり。随分と派手に消耗してるね」
リヴィルだった。
窓際に座っている。部屋の中に明かりはなく、外の薄明かりだけがある。それでも不自然に視界に入る場所取りをしていた——意図して選んだ定位置だ。
「また勝手に入っているのか」
「鍵ぐらい開けられないと、この商売は成立しないさ」
リヴィルは肩をすくめた。外套の背が少し動いた。翼の骨格が動いた気配。
ヴォルフは扉を閉めた。椅子に座るか迷ったが、立ったままでいた。消耗した状態で座ると立ち上がれなくなるかもしれない。
リヴィルは部屋を一度だけ見回してから、ヴォルフに向き直った。
「遺跡まで行ったんだろう。何か掴んだんじゃないか?」
ヴォルフは答える前に一拍置いた。聞かれると思っていなかったわけではない。ただ、こちらから切り出すつもりでいた。
「……深部まで入った。古い石板を読んだ」
リヴィルの表情は変わらなかった。ただ視線の質が少し変わった——計算の密度が上がった、というような。
「守護神の正式な名前が書いてあった」
間があった。
「へえ」とリヴィルは言った。声のトーンは崩れていない。崩れていないことが逆に答えだった。
「知っていたか」
「……薄々、ね。そういう記録がどこかにあるとは聞いていた。見たことはなかった」
「血と贄を貪る牧羊者」
リヴィルはしばらく黙った。
はじめて見る沈黙だった。計算ではなく、咀嚼している沈黙。
「そのまんまだね」と最終的に言った。「牧師(パストル)、か。牧羊者。羊を管理する者——人を、羊として管理している者」
「俺には解釈する気はない。事実として渡した」
「ありがたく受け取るよ」リヴィルは一拍置いた。「もう一つあるんじゃないか」
ヴォルフは答えなかった。
「遺跡の深部に、何かあったでしょう。名前を記録するだけの場所じゃない」
「装置があった」
「起動するための装置」
「起動直前で止まっていた。異形を率いる奴が動かしていた可能性がある。だが、完成しなかった」
リヴィルはゆっくりと息を吐いた。演技ではない——本物の安堵が漏れた。それが珍しかった。
「止まったのは、君がそれを倒したから」
「おそらくは」
「……そうか」
短い言葉だったが、リヴィルはそれ以上続けなかった。窓の外を見た。空が少しずつ白くなってきている。
「もう一つある」
リヴィルが窓から視線を戻した。
「守護神とは別の話だ。石板にそう書いてあった」
「別の」
「神話時代の人間が儀式を行った。扉を開けた。何かを呼び出した。その呼び出された何かが、今もいる。守護神の話じゃない——外から来た何かだ」
セヴェルのことを考えた。
肌に毛穴がなかった。動きに揺れがなかった。目が——あの目が、人間のそれではなかった。あれは擬態だったのだと、石板を読んでから初めて腑に落ちた。人間に「なっていた」のではなく、人間に「見せていた」だけだ。
その呼び出された何かの、一体。
リヴィルはしばらく黙った。今度の沈黙は長かった。
「……それは」と最終的に言った。「大きい話だ」
「俺もそう思う」
「確かな記録か」
「石板に書いてあった。俺が読んだ。書き手が嘘をついていなければ確かだ」
リヴィルは一度だけ目を閉じた。開いたとき、視線の質が変わっていた——計算の層が一段深くなったような。
「……渡してくれてありがとう。軽い話じゃないのは分かってる」
ヴォルフは答えなかった。渡したのは義理でも好意でもない。情報屋が持つべき情報を渡しただけだ。
「俺の話は終わりだ」
ヴォルフが言うと、リヴィルは窓から視線を戻した。
「そうだね。じゃあ、こっちの番か」
立ち上がった。外套を少し整えた。商売の体勢に戻った——そういう動作だった。
「先程わたしてくれた情報と交換ということにしよう。二つある。一つ目。東の方角の都市圏から、渡り鳥が来なくなっている。二つの都市——直線距離で三日と五日の場所。五日の方が先に途絶えて、三日の方が後から途絶えた。つまり——」
「移動しながら潰している。別の異形が」
「そういうことになるね。君が倒した異形がここにいる間も、別の場所で同じことが進んでいた。ここの装置が止まっても、全体は止まらない」
ヴォルフは黙っていた。
「二つ目」とリヴィルは続けた。「こっちは少し毛色が違う。宗教組織に関する話だ」
「聞く」
「使徒が戦場で死ぬ——宗教組織はそれを殉教として讃える。知ってるね」
「知っている」
「じゃあ、こっちは知らないかもしれない。殉教者が増えるたびに、組織の内側で何かが変わる。リソースが動く。資産が動く。死者の持ち分が特定の場所に流れていく」
「どこへ」
「それがまだ掴めていない。掴めているのは、流れているという事実だけ。でも——流れ先が、表の帳簿には出てこない」
ヴォルフは少し考えた。
「セルヴァンは知っているのか」
「どうだろうね」リヴィルは首をかしげた。「知っていて黙っているのか、知らないのか。それも分からない。ただ——この規模の流れを、あの人が把握していないとは考えにくい」
「俺に言って何になる」
「君が今後もセルヴァンと取引をするなら、持っておいた方がいい情報だと思ってね。無料で渡せる内容じゃないけど——今日もらったものへのお返しとしては、妥当なラインだと判断した」
ヴォルフはリヴィルを見た。
リヴィルは笑った。計算の笑顔だったが、目の奥が少しだけ違った。
「ありがたく受け取っておく」
「そう言ってもらえると助かるよ」
リヴィルは扉に向かった。途中で足を止めた。振り返らないまま言った。
「……牧羊者、か。羊を守っているんじゃなくて、羊を管理している。使徒が死んでも、殉教として信仰が強まって——組織が強くなって——その資産はどこへ行くのかな」
独り言のようだった。
扉を開けかけたまま、もう一言。
「しかし、よく一日で戻れたね。帰りは北の尾根を回ったろう。あの道は日が落ちると歩けたものじゃない——夜明け前に出たか」
軽い口調だった。世間話のように。
何かが引っかかった。言語化できない。しかし今の一言に、何かがある。
だから、聞いた。
「待て。なぜ知っている?」
リヴィルの方が先に気づいた。
扉の取っ手に手をかけたまま、一瞬だけ動きが途切れた。振り返った——初めて見る表情だった。計算でも演技でもない。ただ、自分の口から出たものを確認しているだけの顔。
「……あー」
短い声が出た。困っている声だった。
「今の、要らなかったね」
ヴォルフは何も言わなかった。
リヴィルは扉の縁に額を軽くつけた。自分自身に呆れている動作だった。計算で生きてきた人間が、計算の外側で滑った。それを自分で分かっている。
「……うっかりしてた。疲れてるのかな、わたしも」
声が少し笑っていた。照れ隠しだった——しかし照れ隠しを選んだこと自体が、リヴィルとしては珍しかった。いつもなら別の言い訳をもっと滑らかに被せるはずだ。
ヴォルフは答えなかった。答える必要がなかった。
リヴィルは顔を上げた。振り返りかけて、やめた。
「……企業秘密だったんだけどね」
小さく言って、出ていった。
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扉が閉まった。
ヴォルフは動かなかった。
さっきの一言。あのとき言語化できなかったものが、今、形になり始めている。
帰りは北の尾根を回った——事実だ。しかしそれを知っている人間がいない。門を抜けた時刻は深夜だった。守衛に顔を見せた以外、帰路で誰にも会っていない。どの道を通ったかを言える人間は、自分しかいないはずだ。
リヴィルは何気なく言った。世間話のように——しかし、あれは計算された世間話ではなかった。計算ならあの情報は出さない。出す理由がない。
漏らしたのだ。
帰路を知っていた。道を知っていた。夜明け前に出たことを知っていた。
門の前にいた鳥を思い出した。
屋根の上で動かずにこちらを見ていた鳥。カルドレクに来てからずっと、屋根と軒先に並んでいた鳥。人間が通っても飛び立たない鳥。第三話で最初に気づいた、あの不自然な数と配置。
情報が来なくなった都市と街の話を、リヴィルは正確に語った。直線距離で三日と五日。どちらが先に途絶えたかまで知っている。商人の伝聞ではこの精度は出ない。
——鳥か?
渡り鳥のネットワーク。翼の亜人が、鳥の声を聞き、鳥に情報を運ばせている。ヴォルフの帰路を追った鳥が、リヴィルに報告した。だから帰りの道も、出発の時刻も知っていた。
企業秘密のつもりだったのだろう。しかし最後の一言で——ただの世間話のつもりで、漏らした。
椅子に座った。
蓄積のダメージが腹と、脚のあたりにある。今夜は動けない。
リヴィルの言葉を頭の中に並べた。
離れた別の都市圏。別の異形が動いている。装置は複数あり、同時に進行している。
使徒の死後に流れる資産。流れ先が見えない。
そして——鳥。
あの情報屋は、都市の壁の中に閉じ込められていながら、鳥を通じて外を見ていた。自分が都市を出なくても、外の情報が入る仕組みを作り上げていた。だから「情報が来なくなった」ことの意味を、誰よりも早く理解した。商品ではなく——あれは仕事道具が壊されたことへの危機感だ。
セルヴァンへの報告は今日でなくていい——セルヴァンは急かさない。明日でもいい。
目を閉じた。
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翌日の昼過ぎに、宗教施設へ向かった。
廊下を抜ける間、すれ違う者がヴォルフを見た。視線のほとんどは嫌悪か、あるいは意図した無視だ。気にしない。
セルヴァンの部屋に通された。
以前と同じだった。装飾は少ない。どこに立つかで力の配置が分かる構造。セルヴァンは机の向こう側にいた。立っている。座るよう促すつもりはないらしかった——あるいは、こちらが座らないことを既に知っていた。
「お帰りなさい」
穏やかな声だった。
「無事でよかった。随分と……手こずりましたか」
「手こずった」
「ですが、遺跡の異形の発生は——」
「止まる。おそらくだが、発生源は潰した」
確認は必要だろうが、とまでは言わなかった。
セルヴァンは表情を変えなかった。変えなかったことで、安堵したことが分かった。
「ご苦労様でした。依頼の内容は完遂ということで」
「そうなる」
「見返りの件は変わりません。カルドレクでの滞在の黙認と、清浄の儀の適用除外——引き続き有効です」
ヴォルフは頷かなかった。頷く必要がない確認だった。
間があった。セルヴァンが間を作った——こちらが何かを言うか試している。
「発生源の正体は何でしたか」
「異形の巣だった。中心を叩いた」
「……そうですか」
セルヴァンは少し考えるような間を置いた。「それ以上は特に」とは言わなかった。聞かなかった——それがセルヴァンの返し方だった。こちらが何かを伏せていると察しながら、それを表に出さない。
「遺跡の中に、何か特別なものは」
「古い場所だった。それだけだ」
「……そうですか」
同じ言葉を繰り返した。音量も表情も変わらなかった。察知していない、とは思わない。察知した上で引き下がった——そういう間だった。
「また何かあれば、お声がけします」
「構わない」
「では、また」
ヴォルフは背を向けた。
廊下に出た。重い扉が閉まった。
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宿への帰路、石畳の上を歩いた。
昼の市街は人が多い。すれ違う者がヴォルフを見て目を逸らす。距離を開ける者もいる。数人は何かを言った——声は聞こえたが、言葉は処理しなかった。
カルドレクは変わっていない。
セルヴァンへの依頼は終わった。発生源は潰した。取引の内容は履行した。
東の方角で、別の何かが動いている。
ここに留まる理由は薄い。しかし去る理由も今はない。今日のところは休む。
復讐は終わったが異形はまだまだ残っている。
すべて殺すまで、終わらない。終わらせるつもりはない。
蓄積のダメージが完全に引いてから、また動く。
宿の前まで来たとき、屋根の端に鳥が一羽いた。
じっとしている。
飛び立つ気配がない。
ヴォルフは見上げた。鳥はこちらを見ていた——鳥の目が、正面から外れた角度でこちらを捉えていた。
見られている。そして、報告される。
一秒ほど、それだけだった。
中に入った。