潮の臭いはコクピットにまでは来ないはずなのに、どこか、嫌な臭いがした。
機体の揺れがおさまっている。さっき艦の警笛が聞こえたから、基地に着いたのだろう。
……あの人を乗せないまま。
もう、どうでも良い。沢山の人を守ることはできた。桜木も。……でも。
いちばん守りたかったのは、あの人だったのに。
視界に映る両手に、水が垂れた。一瞬遅れて、自分の涙と気付く。…あの黒い機体の識別番号は、消えたままだ。それが分かっているのに、ついモニターを触った。冷たい感触は、冷水のように感じられる。…あの人が、颯が行ってしまった場所のように。
ああ。俺は。守れなかった。颯も、桜木の笑顔も。
と、コクピットが開く音がした。女性の声が間髪入れずに耳に入る。
「機体から降りろ。メシを食え」
俺の視界は変わらなかった。ただ、手と操縦桿だけが視界に入る。刹那、舌打ちの小さな音と共に胸倉を掴まれた。嫌でも視界に声の主が入る。
「榊副司令!そこまでしなくても…」
……この声は…どこかで…ああ、長屋か。この女性士官の後ろで、食事のトレーらしき物を持って立っている。彼女は振り向きもせずに言った。
「知ってるか?軍隊では誰が糧食を食べたかははっきり分かる。兵士の健康状態も分かるようにな」
声は聞こえたが、それが頭を通らない。ただ、抜けていく。
「貴様、帰投中何も食っていないだろう。いや、そもそもコクピットから出てさえいないな。後ろにいる彼を降ろしたら、後は籠もりきりだ」
胸が痛い。それは捕まれているからか、実際には無い痛みなのか。ただ涙を流すことしか出来なかった。
「気づいているだろうが、もう港に到着している。機体の搬出も白鳥以外は済んだ。…デブリーフィングにも出ずに」
目の前の眼光が、切れそうで痛い。でも、目の奥は俺と同じだ。ぼんやりと感じた。
「……早く機体を出せ。まだ貴様にはやるべきことがある筈だ。…奴のためにも」
もっともらしい言葉だ。軍隊にありがちな。全てを轢き潰す言葉。それを聞いて、俺は目を見開いた。鍛えていても、やはり華奢な女性の腕を掴んで叫ぶ。血を吐くように。
「はっきり言ってくださいよ!隊長は…死んだんだ!俺のせいで!俺の…俺が殺したんだって!」
耳に破裂したような音が入った。熱い左の頬。俺のものではない冷たい雫。気づけば、俺の顔が右に傾いている。
「奴が死んだのは!奴自身が選択したからだ!今の貴様如きが、よく奴の死を騙る!それは貴様が言われたい言葉だろう!」
胸倉が、少し赤く染まっていた。手の隙間から赤の液体が垂れてきている。真っ白な手に、それは醜く、でも綺麗だな、と場違いにも感じた。
「死んだのは奴だけじゃない!陽動の段階で、何機落とされたか!どれくらいそいつらの家族が悲しんでいるか…分かるか!……自惚れるな!自身が他人の命を左右するなど!」
声が止まる。俺はまた手をぶらりと下げるしか無かった。長屋の止める声も消えていた。ただ、沈黙が薄暗い場所に残る。冷たい雫は、まだ垂れていた。目の前のひとから、流れてきていた。
「……それならば、敵はどうなるのかね。榊副司令?」
唐突に、暗闇の中で声が響いた。男の声。冷たくて、燃えているような熱さ。新しい人間が、格納庫に来たようだ。階級の高いこの男が、どうしてこんな場所に。そんな事をぼんやり思いながら、俺はその炎のような男を見た。
「東宮司令……貴方がそれを言いますか。味方殺しの作戦を作っておいて…!」
「私はある情報と資源から最大の効果を出す作戦を立てたのみだ。奴らを…一体でも多く倒すためにな」
榊副司令との話を断ち切り、奴はこちらに言葉を掛けた。俺を縛り付けるように。長屋が動きかけたが、次の言葉を聞いて、動きをとめる。
「そもそも深海棲艦どもがいなかったら、この作戦も必要無かった。違うかね?」
「…そんな仮定は意味がありません!この話をする必要は!」
榊の言葉を振り切り、奴は続ける。その顔は影になって、表情は見えなかった。いや、真剣な眼差しだけははっきり見える。光のように。
「斬雲颯…彼を殺したのは、深海棲艦だ」
世界が止まった。時間が止まった。誰もが動けなかった。
「奴らが彼を殺し、桜木少佐も、君自身も悲しませたのだ」
「奴らはこれからも君の物を奪うだろう。彼女も、そこにいる仲間も。……君自身も」
声はそこまで大きい訳では無い。ただ、諭すような口調。でも、それが耳を離さない。それを許さない。
「倒さねばなるまい。奴らを倒す。一体残らず。それが残された者の使命ではないのかね?」
「奴らを倒さなければ。…死んでいった者たちのために。彼らを救うために」
胸倉をつかんでいた腕が消える。俺が床に体を落とすのと、東宮の苦痛の声と共に殴る音が2つ響いたのは、同時だった。…俺の耳に入ることはなかったが。俺は呟いていたから。その言葉の意味も理解せすに。
「颯の…ために…」
自分の腕を掴み、目を見開く。さっきの声が、耳の中で回転する。二度と離れないなのだ、と何処かで思った。
……俺を責め立てるかのように。
――― ――― ―――
神浜基地の朝の光はぼんやりとしていてよく見えない。どんよりとした空の下、時雨は工廠に向かっていた。
冷たさを感じる早朝でも、この基地は休んでいない。妖精や艦娘、整備兵までもが慌ただしく動いていた。神浜から移動するために。
「それにしても、大型電磁砲台とはね…。奴らがそんな物を使ってくるとは…」
「レ級が終末誘導してたって話だろ?現に島一つ吹き飛んでんだ。神浜にブチ込まれたら全滅だ。急げよ」
側を歩く兵士の話し声が聞こえる。だが、時雨は敢えて聞かないようにした。聞いたら崩れてしまうと思ったから。
作戦終盤に飛行場姫に着弾した光はレールガンによる長距離狙撃弾だった。神浜はグアム諸島に存在するその砲台の有効射程距離にある事が分かり、司令部は設備や要員を神浜より一時移動させることを決定した。
時雨はゆっくりと歩く。ゆっくりとしか歩けない。それが彼女の精一杯だった。手に双眼鏡の紐を握りしめながら、彼女は歩き続けた。
目の前に来た工廠の扉を開け、中に入る。今回は彼女とぶつかることも無かった。…今は誰も中にはいなかったから。
頭を振り、いつもの少しだけ口角を上げた表情を作り、自分の艤装に向かった。
「……大丈夫。大丈夫だよ。僕は」
自分で頭を叩く。その言葉は誰に向けたものか。時雨は表情を保ちながら、整備を続けた。
――― ――― ―――
「また盛大に壊しやがって…」
第三格納庫で神浜の整備班長、長屋は顔をしかめていた。
「機体のすべてのフレームにガタが来てます。頭と右腕は交換すれば済みますが…オーバーホールには時間が掛かりますね」
「朱雀のフレームパーツと交換だな。そうすれば2日でフルスペックにできる」
傍らの部下に指示を出しながら、彼はデッキに向かう。佇む黒髪の男の元へ。
「おい玲!しっかりしろ!雪風の嬢ちゃんは仕方がなかったんだ!お前がしゃんとしないと基地全体が不安になるんだよ!」
男は弱々しく頷き、機体の整備状況を確認した後、彼の方を向いた。
後悔
悲哀。
諦め。
歓び。
そのすべてを持ち、すべてを感じさせない顔をしたまま。
「お前…」
表情に驚いた長屋を他所に、彼は握りしめていた書類を見せた。司令部が作成した報告書、そして一枚の作戦司令書。皺がよった紙を何とか解き、内容を読む。
「…誰も連れて行かないつもりだ。後のことを頼みたい」
斬雲の言葉に目を見開く。紙が再び握りつぶされた。黒い機体からまだ乾いていない海水が垂れてくる。長屋の意志とは裏腹に。血の気が多い手が白くなった。あまりの力に、血流が止まったからだろう。顔は怒りに染まっていたが。
格納庫に肉のはじける音が響く。黒鳥はただ海水を黒い装甲に伝わせるだけだった。
――― ――― ―――
「整備も終わった…。荷物も纏めた…。最後の便の護衛準備もよし…」
やることがなくなってしまえば、何かを考えてしまう。ましてや趣味などする気が起きないときはなおさらだ。
時雨は自室のベッドに体を横たえる。朝整えることさえせずに出ていった布団で全身を覆ってみる。暗闇の中で、ただ思考が加速するだけだった。
「駄目だ…。コレは…」
頭を振り、布団を引き剥がす。急いで整えた後、窓から夕日が差していたのに初めて気がついた。
「…散歩でもしようか…」
今は何も考えたくない。時雨は自室を出て、宿舎の外を歩いた。
外の音は煩い。設備の解体と非常時に備えた爆破の準備が続いている。しかし、時雨にはどこか物足りないように思えた。大事な物が足りないように。と、解体のための小さな爆発音が聞こえた。思わず耳を塞ぐ。思い出したくなかったから。自分の笑顔が砕けてしまうのが、怖かったから。
彼女は逃げるように走った。ただ、前さえ見ないで。ただ、ただ。失いたくなかった。守りたかった。守れなかった。認めたくなかった。
「ここは…」
気がつけば、彼女は慰霊碑の前に来ていた。つい近づいて、石碑を撫でる。そこに雪風の名前は無かった。彫る時間など、今の神浜には無かった。
つるつるとした墓石を撫でる。そこに傷一つ無いことが、悲しい。腹立たしい。悔しい。地面に涙が落ちる。もう、限界だった。自分に言い聞かせるのも、他人に笑顔を向けるのも。声を押し殺すことも出来ないまま、涙を拭く。拭いても意味は無いというのに。
どれくらい立っただろうか。いつの間にか暗くなりかけている空。その下で泣く時雨の肩に、手が置かれた。長年の戦闘で鍛えられ、傷だらけの手。厳のようなゴツゴツした手。斬雲が彼女の肩に手を添えていた。
「提督…」
時雨は呟き、涙を止めようとした。この人に、自分の弱い姿は見せたくない。そう思ったから。しかし彼は、頬を拭う時雨を見て、ただ首を振った。何故か頬に赤い殴られた後がある頭を。彼女を赦すかのように。何も言わないまま。
「雪風が……僕は…雪を…」
彼は何も言わない。ただ、時雨は彼を抱きしめた。縋るように。今はもう、何かに一緒にいて欲しかった。声を上げた。初めて、声を上げて泣く。温かい胸元の中で、それが出来る事を感謝した。だから、彼女がもういないことが辛かった。守れなかった事が苦しかった。
彼は何も言わない。ただ、目の前の背中を撫で続けるだけだ。ひたすらに。自分未来と過去の行いを悔いるように。
冷たくて、温かい夜。男の胸で、一人の艦娘はただ声をあげて泣いた。