とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase10「覚醒 -アウェイクニング-」

(PM2:12)

 

 静まり返った倉庫の中で、弓箭猟虎と時ヶ谷凛音はお互いに数メートルの距離を挟んで、まるで鏡写しのように動かずに立っていた。

 お互いの視線がぶつかり合い、ただ沈黙だけが空気の中でじわじわと濃度を増していく。

 

 先に口を開いたのは、優雅な笑みを浮かべた時ヶ谷だった。

 

「――リコ……、でしたかしら? あなたがつけた名前ですの? ま、悪くないお名前ですわ」

 

 その声はあくまでも上品で、まるで日常の世間話でもするような軽さだった。しかし、弓箭の耳には、どこか探るような含みを感じた。

 

「…………」

 

 弓箭は何も答えなかった。

 リコ――それはは佐天涙子がつけた、あくまで仮の名前である。

 

 目の前の少女は、どうやら本来の名前を含めて、彼女について重要な情報を知っているようだ。

 つまり――この女を倒せば、リコの正体に迫れるかもしれない。

 

 しかし、

 

(まずいですね…)

 

 弓箭は小さく息をついた。冷静に状況を分析する。

 彼女の主戦場は、雑踏の中。人波に紛れ、離れた距離から対象を仕留める狙撃こそが、自分の本領。

 だが今は、人気のない倉庫。広く静まり返った空間に、物音一つが響いてしまうほどの静寂。

 

 ――自分にとっては、あまりにも不利なフィールド。

 しかも、相手の力量は未知数。どこまでが本気で、どこまでが余裕なのか。

 

 不用意な一手が、即座に命取りになりかねない。

 その静かな緊張を察知したのか、時ヶ谷はわずかに唇をほころばせた。

 

「あら、攻めてこないんですの? ならば、こちらから行かせていただきますわよ?」

 

 そう言うと、彼女はまるで舞踏会の一幕のように、優雅な仕草で右手をひらりと掲げ、横へと軽く振った。

 

 それだけ――のはずだった。

 

 だがその瞬間、弓箭の直感が警鐘を鳴らす。

 反射的にリコの手を引き、身をひるがえして横へと走る。

 

 ――ひゅう!

 

 直後、弓箭がいた場所に風の奔流が迸った。

 すさまじい圧力を帯びたそれは、背後に積まれていた段ボールの山を軽々と吹き飛ばし、空中で舞い散らせる。

 

「リコさん、わたくしたちから離れて。できれば、何かの陰に身を隠していてください!」

 

 弓箭の声に、リコはびくりと肩を震わせたが、小さく頷き、足を震わせながらも必死に駆け出した。

 二人の戦いに巻き込まれまいと、弓箭たちから遠ざかっていく。 

 物陰に身を潜め、膝を抱えるようにして息をひそめる。

 

 倉庫の扉は時ヶ谷の背後――つまり、リコにとって退路となるはずの出口は塞がれている。逃げることは叶わない。

 戦闘において『守り』は『攻め』よりも遥かに難しい。リコを庇いながらでは、圧倒的に不利――弓箭はそう即座に判断したのだろう。

 

 時ヶ谷は律儀に、リコが安全な場所へ避難するのを待っていた。彼女にとっても、確保対象が流れ弾に当たっては都合が悪いのだろう。

 リコが身を隠したのを確認するや否や、時ヶ谷は間髪入れずに攻撃を再開する。先ほどと同じように右手をひらりと振ると、空気が唸りを上げて渦を巻き、弓箭へと殺到した。

 

 弓箭は床を転がるようにして辛うじてそれを回避する。

 とはいえ、防戦一方というわけではない。

 

 ――パシュッ。

 転がりざま、彼女の左袖から放たれた弾丸が風を切って飛び、時ヶ谷の右腕を正確に狙う。

 

 だが、その瞬間。

 時ヶ谷の姿が、一陣の風のように視界からかき消える。

 弾丸は空を裂きながら、何もない虚空を貫く。

 

「っ!」

 

 反射的に、弓箭は身体を右へと跳ねさせた。

 刹那、背後から時ヶ谷の手刀が空を裂き、鋭い風が走る。標的を外れたその一撃は、余波だけで倉庫の鉄扉を叩きつけ、鈍い音とともに、光の差し込む唯一の出口を閉ざす。

 

 倉庫は一転して、夜のような闇に沈んだ。

 気配もなく背後を取られていた。

 弓箭の弾丸を回避すると同時に、時ヶ谷は彼女の死角へと踏み込んでいたのだ。

 

 あまりに一瞬のことだった。

 見てから避けるなど、到底できない。

 それでも弓箭がそれを回避できたのは、直前の『読み』と――『暗部』で培った、実戦の勘があってこそ。

 

(速度はこちらより上……長期戦になれば、消耗で押し切られます)

 

 冷や汗が伝う。それでも、立ち止まるわけにはいかない。

 

 パシュッ、ピシュッ。

 弓箭は右腕の近距離戦用の仕組み銃から、立て続けに銃撃を放つ。

 至近距離から放たれた弾丸は、時ヶ谷の姿を正確に捉えていた――はずだった。

 

「――遅すぎますわよ」

 

 時ヶ谷は目にも止まらぬ速さで、銃撃を一つ、また一つと躱しながら踏み込み、鋭く蹴りを放つ。

 弓箭は即座にバク転で距離を取る。

 

(こんな至近距離で、銃弾を躱せるなんて尋常じゃありません)

 

 銃弾を見てから避けるのでは、間に合わない。

 撃ち手の動きから予兆を読み取り、撃つよりも早く動かなければならない――それが、弾丸を避ける唯一の方法だ。

 しかも、これほど近い距離で正確に躱し続けるなど、もはや人間業ではない。

 

(……確かに命中するはずの軌道でした。それを風力操作だけで成し遂げられるとは思えません。風で加速できたとしても、あの精密さは説明がつきません)

 

 たとえば風を足元に集中させてダッシュすれば、一瞬で距離を詰めることはできる。

 だが、それは一直線かつ大雑把な突進には向いていても、変則的な動きや急停止には不向きだ。

 それに、

 

(霧ヶ丘は常盤台と違い、イレギュラーかつ再現の難しい能力の開発を主軸としています。本当に霧ヶ丘の生徒だというのなら、『風力系』のような[[emphasismark: ありふれた能力 > ﹅]]で済むはずがありません)

 

 時ヶ谷はなおも高速移動を繰り返し、弓箭を翻弄する。

 弓箭は辛うじて応じてはいるが――それがいつまで続けられるかはわからない。

 

 一瞬の読み違いで、次は確実に叩き伏せられる。

 弓箭は一歩後退しながら、視線だけで倉庫の内部を素早く見渡した。

 壁際に積まれた金属の部品、吊り下げられた古い照明、崩れかけた遊具のフレーム――。

 

 パシュッ、パシュッ。

 左腕に内蔵された中距離用の仕組み銃から、規則正しく弾丸が放たれていく。

 

 しかし、どれも時ヶ谷凛音の姿を捉えることなく、彼女の周囲の物体を次々と撃ちぬいていった。

 メンテナンス用の工具一式、予備の機材、観覧車の古びた部品。

 落下したそれらが床に散乱し、足場を塞ぐように積もっていく。

 

 時ヶ谷は一歩を踏み出しかけて、異変に気づいた。

 鉄骨と木材が足元を不規則に埋め尽くし、移動すらも阻まれ始めている。

 

(なるほど。わたくしを狙うように見せかけて、周囲の物体を撃ち落として障害物を作り、移動範囲を制限しようという魂胆ですか)

 

「……何の考えもなしに撃ってるわけじゃありません」

 

 弓箭が静かに呟いた、その直後。

 照準が最後に捉えたのは、時ヶ谷の頭上に吊るされた仮設照明だった。

 鋭く放たれた一弾が、ワイヤーを断ち切った。

 

 仮設照明が重たげな軋みをあげながら揺れ、ついに支えを失って落下する。

 今さら風で障害物を吹き飛ばして足場を確保しようにも――間に合わない。

 

 ガシャアアンッ!

 巨大な照明が叩きつけられ、粉塵と土煙が暗い倉庫内に広がっていく。

 

(……やりました、か?)

 

 刹那――。

 

 ゴォッ!

 爆ぜるような風圧。

 

 煙も、落ちた残骸も、床の部品さえも一斉に吹き飛ばされ、視界が一気に薙ぎ払われる。

 次に見えたのは――土煙の向こうから、一瞬で距離を詰めてきた時ヶ谷の姿。

 

「っ――!」

 

 右拳が、一直線に突き出される。

 弓箭は反射的に両腕を交差させ、顔を庇った。

 

 直後――

 

 バギィッ!

 金属が砕けるような、内部から破裂する音が響く。 

 衝撃が腕から全身へ伝わり、思考が一瞬揺れる。

 

(しまっ――!)

 

 彼女の両腕に内蔵されていた仕込み銃が、拳の一撃で完全に砕けた。

 

 吹き飛ばされる。

 視界が乱れ、重力の軌道に体が引きずられていく。

 弓箭の身体は弧を描きながら、段ボールの山へと叩きつけられた。

 

 鈍い衝撃。衝撃の余波が、倉庫の空気を再び震わせた。

 布と紙の衝撃では緩和しきれず、肺の奥から空気が押し出される。

 

 咳き込みながらも、彼女は顔を上げた。

 目の前に、音もなく着地する時ヶ谷の姿があった。

 

 ――落下する仮設照明は、時ヶ谷の頭上に届くことはなかった。

 彼女の周囲の空間に展開された分厚い風の障壁が、それを受け止めたのだ。

 まるで見えない壁にでもぶつかったかのように、巨大な照明は空中で弾かれ、鋭い音を立てて横に転がった。

 

「ぐっ」

 

 崩れ落ちた段ボールの山。鈍る視界と脈打つ痛みに耐えながら、弓箭は数秒遅れてようやく状況を飲み込んだ。

 

(……最初にわたくしの銃撃を『避けた』のは、あえて『防げない』ように見せかけて、こちらに『隙がある』と思わせるため――でしたの…?)

 

「らっこ!」 

 

 弓箭が倒れてから、およそ2分経ったところか。

 陰で二人の戦いを静かに見守っていたリコが、慌てて弓箭のもとへ駆け寄ってくる――尋常ではない速さで。

 

(……ん?)

 

 その動きに、弓箭は思わず眉をひそめた。何かがおかしい――妙な違和感が、頭の片隅に引っかかる。

 崩れた段ボールを勢いよくかき分け、倒れている弓箭に手を伸ばしながら、リコが叫ぶ。

 

「らっこ、だいじょうぶ!?」

 

 ――その声はどこか急き立てられるように、妙に早口に聞こえた。

 まるで、動画を倍速で再生しているかのような錯覚すら覚える。

 倒れたまま、弓箭は自分の手足を動かそうとする――が、ふと気づく。

 

 ……重い。

 感覚が、鈍い。

 意識だけが浮いているような、奇妙な不一致。

 

 確かに今の一撃は強烈だったが、咄嗟に両腕にダメージを分散したおかげで、怪我は最小限に抑え、意識も飛ばなかった。

 なのに――動かない。否、動きが遅れている。

 

(……あの瞬間から?)

 

 そう、時ヶ谷に殴り飛ばされた『あの瞬間』から。

 世界の歯車がズレたように、すべてが合わなくなっている。

 

(まさか……)

 

 弓箭はゆっくりとポケットに手を伸ばし、幸いにも壊れずに残っていたスマートフォンを取り出した。震える指先でロックを解除し、表示された時間に目を落とす。

 

 ――午後2時15分。

 

(……あの女が現れたのが、午後2時12分ごろ。わたくしが倒されたのは、その2分後――2時14分前後のはずです)

 

 そして、今。リコが駆け寄ってきたのが、2時15分。

 本来なら、弓箭が倒れてから、まだ1分しか経っていない計算になる。

 

 ――けれど。

 体感では、すでに2分は過ぎていた。

 

 身体の動きも、反応も、何もかもが妙に重くて鈍い。

 まるで、自分だけがスローモーションの中に取り残されているような違和感。

 

 計算が合わない。感覚と現実が一致しない。

 それはつまり――

 

「……わたくしの『時間』だけが、遅れている……というてことですか…?」

 

 思わずつぶやいた言葉と同時に、脳裏を駆け巡る。

 あの瞬間から今までに起きた、数々の『違和感』。

 

 最初に彼女が現れたとき――足音が、しなかった。

 手を振るだけで、突風が起きた。

 

 視界から消えるほどの速さで、翻弄された。

 そして――彼女に触れられた瞬間から、すべてが狂い始めた。

 

(……そういうこと、ですか)

 

 すべてが、繋がる。

 

「あなたの能力は、自身や触れた対象の『固有時間』そのものを操作するもの――加速させることも、遅らせることも、意のままに…」

 

 足音が消えたのは、音の振動そのものを遅延させたから。

 突風は、手の動きに伴う風圧を強制的に加速させた結果。

 空気を『触れた状態』に保ち続ければ、超加速された空気層は防壁にもなる。

 

 そうとでも考えなければ、辻褄が合わない。

 

 倒れた弓箭の前方、静かに佇む時ヶ谷凛音が、ふいに口元を吊り上げ、小さくニヤリと笑った。

 その微笑みは、まるで「正解ですわ」と無言で告げるかのように――どこまでも上品で、どこか優雅で、それでいて『底の知れなさ』を滲ませていた。

 

「――『時間制御(クロノシフト)』」

 

 その言葉は、まるで演奏の出だしのように、静かに響いた。

 

「『倍速化』と『遅延化』という限定的な範囲ではありますけれど――わたくし自身や触れた対象の『時間』そのものに干渉する力。おかげで、希少能力の温床とも言われる霧ヶ丘の中でも、わたくしは特別扱いされておりますの――もっとも、これをもってしても、『二番手』止まりでしたけれどね?」

 

 その目には、どこか愉悦と、悔しさを捻じ伏せた誇りが浮かんでいた。

 

「…………」

 

 弓箭猟虎は、かすかな戦慄を覚えた。

 無論、『スクール』にいた頃にも、高位能力者との交戦は幾度となく経験している。

 

 だが、これほどの『規格外』は、指折りにすぎない。

 彼女は自らを『二番手』と語っていたが――では、その『一番手』とは、一体どれほどの怪物なのか。 

 

「さて――これで、もう貴女は戦えませんわね」

 

 涼やかに、しかし確信に満ちた声音で、時ヶ谷凛音が一歩、こちらへと歩み寄る。

 

「得物は壊れ、体感時間は0.5倍。――たぶん、その子のほうが、今の貴女より動けるんじゃなくて?」

 

 ちらりと、弓箭の隣にしゃがみ込むリコに視線を送る。その目には敵意も憐れみもない。ただ、どこか愉しげな光だけが揺れていた。

 

「それでも、まだ続けますの?」

 

 ふっと浮かべた笑みは、まるで舞踏会の誘いを差し出す令嬢のようで――その優雅さの奥に潜む、どこまでも冷ややかな残酷さを、弓箭は確かに感じ取っていた。

 

 その時だった。

 

 ガンッ!!

 鉄扉が再び開き、外の光がまぶしく差し込んだ。反射的に、時ヶ谷、弓箭、リコの三人が同時にそちらへ視線を向ける。

 そこに立っていたのは――

 

「――あっ、本当にリコがいた…って、それに弓箭さんも!?」

 

 ゲコ太のぬいぐるみを抱えた佐天涙子だった。

 呆然としたその表情は、まるで予期せぬ演劇の舞台に迷い込んだ観客のようだった。

 

「るいこ!?」

「……佐天……さん!?」

 

(佐天さんが、どうしてここに!?)

 

 段ボールの山に倒れた弓箭のもとへ、佐天が駆け寄った。

 

「弓箭さん、怪我してるの!?――ていうか、なんでここに!? 帰ったんじゃ……」

 

 焦り交じりに呼びかける佐天に、弓箭はゆっくりと顔を上げた。

 

「……だい、じょうぶ、です」

 

 そう言いながら、ふらつきながらもなんとか身体を支え、上体を起こす。

 

「ちょっと、そのケガで大丈夫なんですか!? もう少しじっとしていたほうが……」

 

 佐天が手を伸ばしかけた、そのときだった。

 

 ――妙だ。

 弓箭の口が動いているのに、その声がねっとりと遅れて耳に届く。

 

「……こういうの……べつに……はじめてじゃ、なくて……慣れて……ますので……」

 

 言葉の端々が引き伸ばされ、まるで音声をスロー再生しているように聞こえる。

 

(……なに、これ……?)

 

 佐天は、喉元を何か冷たいものが這い上がるような感覚に息を呑んだ。

 ちらりと、時ヶ谷を見やる。

 

「あなたが……やったの?」

 

 問いかけに対し、時ヶ谷は表情一つ変えず、微笑を崩さぬままに答えた。

 

「警告を与えたまで、ですわ。これ以上、無粋な真似はなさらないように」

 

 リコは倒れた弓箭の傍に膝をつき、震える手でそっとその肩に触れた。

 

「らっこ、しっかりして……!」

 

 目元には涙がにじみ、必死にこらえようとしても声が震えてしまう。

 弓箭猟虎は、うっすらと開いた瞳でその姿を見上げた。

 

「佐天、さん……はやく……リコさんを……つれて……逃げて……」

 

 細く、途切れがちな声。けれど、その言葉には確かな意志が宿っていた。自分よりも、彼女たちを――守るべき対象として、最優先している。

 

 そんなやりとりを、時ヶ谷凛音は静かに見つめていた。

 

「その子に危害を加えるつもりはありませんわ」

 

 まるで穏やかな提案でもするかのような、柔らかく澄んだ声音。

 

「むしろ、こちらに引き渡すことが――その子のためになりますのよ」

 

 リコは戸惑いの中で固まっていた。

 やがて、ぎゅっと唇を噛みしめ、ぽつりと尋ねる。

 

「……わたしが、あなたについていけば、二人を見逃してくれる……よね?」

「ええ、その通りですわ」

「……わかった。いくよ」

 

 その返答に、弓箭の背中に、ぞくりと冷たいものが這い登る。

 恐怖とも怒りともつかぬ感情が、胸の内で膨れ上がる。

 なんとか言葉を絞り出す。

 

「ちょ……なに、を…」

 

 佐天もまた、思わず息を呑んだ。

 

「だ、だめだよリコ!」

 

 リコはゆっくりと顔を下げ、視線を落としたまま、小さく首を振った。

 

「…ごめんね、らっこ、るいこ」

 

 その言葉は、震える声で紡がれ、彼女の心の中の迷いと決意が交錯しているのが感じ取れる。

 

「わたしのせいで、らっこが傷ついたんだもん……。もう、これ以上、二人に迷惑をかけたくないの……」

 

 彼女はゆっくりと立ち上がり、足元が頼りないながらも、時ヶ谷に向かって一歩、また一歩歩き出す。

 

「ありがとう、るいこ。記憶を失って、何もわからないまっさらなわたしに、『リコ』っていう名前をつけてくれて、ご飯を作ってくれて、可愛いお洋服を着せてくれて……それに、わたしをゆうえんちに連れてきてくれて」

 

 その言葉には、かつての何も知らなかった自分を見守ってくれたことへの感謝がにじみ出ていた。

 足元の不安定さはあれど、リコの歩みは確かだった。その背中には、今までの自分を捨て去り、誰かを守ろうとする覚悟が宿っている。

 

「それに……らっこも。らっこが作ってくれたココア、すっごくおいしかったよ」

 

 その言葉には、ひとしおの感謝と、ほんの少しの温かい思い出が込められていた。

 

「二人とも、ありがとう。短い間だったけど、楽しかった」

 

 その言葉は、まるで彼女の心の中に溜まった思いが一気にこぼれ出すように、静かに、けれど確かに響いた。まるで時間が彼女のその一言を受け止め、少しだけ遅れて動き出すような、そんな感覚。

 

「…………」

 

 佐天は無意識のうちに、深く息を吸い込んでいた。胸の奥に沈んだ感情が、じわじわと形を成し、喉元までこみ上げてくる。

 

「…………けるんじゃないわよ」

 

 その声は、風に溶けてしまいそうなほど小さな囁きだった。

 けれど――確かに空気が変わった。

 

「え……?」

 

 リコが思わず足を止め、揺れる瞳で佐天を見返す。

 

 

 

「――ふざけるんじゃないって言ってんのよ!」

 

 

 

 鋭い声が、空気を裂いた。抑えていた感情が、堰を切ったようにあふれ出す。

 それは誰かを責めるための怒鳴り声ではない。どうしても、言わずにはいられなかった。心の底からの、叫びだった。

 

「あなたは言ったわよね。リコを引き渡すことが、彼女のためになるって。……でも見てよ、弓箭さんはあんなふうに傷ついてる! 本当にそれが、正しいことだって言えるの!?」

 

 震える拳を胸の前で握りしめ、佐天は必死に言葉を紡ぐ。

 

「あたしは、そんなの……受け入れたくない!」

 

 静かな空気の中で、少女の声が真っ直ぐに響く。 

 

「……感情で世界が動くと思っているのなら、それこそ幻想ですわ」

 

 時ヶ谷は少し真剣な表情を浮かべて、

 

「貴女がその子と一緒にいることで、何が残りますの? 何を守れます? 未来も保証もなく、安全も知れたものではありません。……そんな『気持ち』に、何の意味があるというのです?」

 

 その声には、現実だけを見つめ、切り捨てるような冷たさがあった。

 

「意味なんて、なくてもいい。メリットも、未来も、分からなくていい」

 

 唇を噛み、言葉を絞り出す。

 

「それでも、一緒にいたいって……心から、そう思ったの。その気持ちに勝手に値段をつけて、『無意味』だなんて決めつける権利なんて、誰にもない」

 

 リコの瞳が、大きく揺れた。

 胸の奥が、じくじくと痛む。

 頭では分からない感情が、体の奥から湧いてくる。彼女は知らぬ間に、足を震わせていた。

 

「たとえそれが幻想でも、偽物でも……あたしは、リコに自分の足で立ってほしい。誰かに『させられる』んじゃなくて、自分の意志で『選んで』生きてほしいのよ!」

「……まるで絵本ですわね。願いだけで現実が変わると信じているなんて、子供の特権ですわ」

 

 時ヶ谷の声音は、あざけるようでも、どこか哀れむようでもあった。

 

「うん、そうかもね」

 

 佐天は、わずかに笑ってみせた。悔しそうな、それでも真っすぐな笑みだった。

 

「だったら、現実を知らないままでいい。あたしはリコのことを――『素性の分からない女の子』としてじゃなく、『友達』として見てるから。そこに理由なんかいらない。損得じゃない。ただ、一緒にいたいって思った。それだけで十分でしょ?」

 

 静寂が訪れる。

 佐天の声が、再び震えながら続いた。

 

「リコ……。もし本当に、あの人と行くって、あなたが『自分で』決めたのなら――あたしには、止めることはできない」

 

 そこには偽りのない本心があった。

 

「でも……一つだけ、教えて。あたしたちと一緒に過ごした時間は――そう簡単に切り捨てられるほど無意味だったのかな…? それが……本当に、リコの本心?」

 

 リコの視線が、足元に落ちる。口は閉ざされたまま。けれど、拳が震えていた。

 佐天は最後の一言を、静かに、でも強く告げた。

 

「『さよなら』を言うのなら、それは、あなたの言葉で……あなたの意志で言って。誰かに操られてじゃなくて、あなた自身の気持ちで。――それだけは、どうか間違えないで」

 

「…………」

 

 段ボールの山から起き上がり、ようやく自分の足で立つことができた弓箭は、膝をついて背を伸ばし、今のやりとりに耳を傾けていた。

 

(……こんなに怒った佐天さん、初めて見ました)

 

 彼女は目を細め、黙ってその背中を見つめる。

 まっすぐで、不器用で――けれど、何よりも真摯なその姿を。

 

(あぁ…、だからこそ、わたくしに対しても……)

 

 リコは、その場に立ち尽くしていた。

 何かを言おうとしても、声にならず。何かを考えようとしても、意識が空白に沈む。佐天の言葉が、胸に刺さって離れない。突き放されることへの恐怖。拒絶されるかもしれないという怯え。でも、それ以上に――

 

 言ってほしかった。

 誰かに、あんなふうに、真正面から。

 リコの小さな肩が震えていた。唇がかすかに動く。けれど、その声は、まだ風の中で迷子になっている。

 

「……わたしは……」

 

 掠れた声は、微かに届いた。

 リコの目に、涙がにじんでいた。自分でも知らない感情が胸を突き上げる。佐天の叫びが、まだ耳の奥で反響している。

 

「いきたく……ない」

 

 それは、とてもか細い声だった。

 けれど、場の空気を一瞬で変えるには、十分だった。

 

 少女はゆっくりと振り返る。迷いをたたえたままの瞳に、今にも壊れそうな脆さと、けれど確かに、芯のようなものが宿りはじめていた。

 そして、まるでそれが自分の意志かどうかを確かめるように、足を踏み出した。

 

 一歩。

 その小さな動きに、世界がかすかに揺れた気がした。

 もう一歩。

 

 胸の奥が痛む。呼吸が浅くなる。それでも、引き返さない。

 リコは、佐天と弓箭の元へと――自分の足で、走って戻ってきた。

 

「……ほんとうに、いいの?」

 

 震える声で、少女はそう問いかけた。

 何かを噛みしめるように、ゆっくりと、しっかりと。

 

「わたし……怖いこと、いっぱいあるし、分からないこともいっぱい。でも、るいこが言ってくれたこと、嬉しかった。わたしを、リコって呼んでくれたことも、友達って言ってくれたことも……」

 

 言葉が詰まる。けれど、リコは泣きながらも、小さく笑った。

 

「だから、もう、だれかに決められるのはイヤ。わたし、自分で決めたいの。ここに……いたい!」

 

 佐天も、こらえていたものが弾けたように――

 

「……リコ……!」

 

 まるで母親のように、リコをぎゅっと抱きしめる。

 小さな身体が、自分の胸の中にすっぽりと収まる。ぬくもりが確かに伝わってくる。それだけで、胸の奥の固くなっていた何かが、ふっとほどけていくようだった。

 ほどなくして、名残惜しそうにリコの肩から手を離すと、

 

「これ、落とし物」

 

 ちょこんとリコの両手に乗せられたのは、ピンク色のゲコ太のぬいぐるみだった。

 

「……もう二度と無くさないでね? 探すの大変だったから」

 

 リコは小さく頷くと、ぬいぐるみを胸に抱きしめた。

 まるで、それが自分の居場所だと確かめるように――

 

「――ままごとも、そこまでにしていただけませんこと?」

 

 氷のように冷たく、鋭い声だった。

 まるで見かねたように、時ヶ谷凛音は静かに一歩、前へと進み出る。

 先ほどまでの淑やかで優雅な佇まいは、どこかに霧散していた。その瞳には、初めて露わになった『感情』が交っている。

 

「穏便に済ませようと考えておりましたけれど……どうやら、実力行使を余儀なくされましたわね」

 

 和らいでいた場の空気が再び軋みを上げて凍りつく。

 その中で、佐天涙子は一歩、前へと進み出た。

 

 リコの前に立ち、まるで守るように両手を広げる。

 怖くないわけじゃない。けれど、その足取りは震えていなかった。

 

「あたしの友達に、手出しはさせない」

 

 その声は、小さくとも確かに凛としていた。

 

「貴女に……何ができると仰るのですか? 見たところ、そちらのお嬢さんと違って『暗部(こっち)』の人間でもない、ただの一般人に過ぎない貴女が、この場をどうにかできるとでも?」

 

 時ヶ谷の言葉は冷たく突き刺さるようだった。だが、佐天は少しだけ俯きながらも――

 すぐに顔を上げ、真っすぐに言い返した。

 

「分かってる。あたしには、能力(ちから)もなければ、弓箭さんみたいなすごいスキルもない」

 

 一拍。

 まるで、自分自身の覚悟を確かめるように。

 

「それでも……あたしは、リコを守る。力があるからじゃない――誰かを守りたいって思う気持ちこそが、『本当の力』になるって、信じてるから!」

 

 その言葉に、時ヶ谷はしばし黙っていた。

 

「……その真っすぐな気持ち、嫌いではありませんけれどね」

 

 口元に浮かぶ微笑。その奥に、わずかな影が揺れていた。

 まったく――どこまでも能天気で、前向きな子。

 

(本当に、誰かに似ていますわね……)

 

 心の中でそう呟きかけて、時ヶ谷は思考を断ち切る。

 

「……ですが、残念ながら――少しは『現実』というものを、見せて差し上げましょうか」

 

 穏やかな声のはずなのに、その響きは空気を凍らせるほどの威圧感を帯びていた。

 

 その瞬間、弓箭がゆっくりと立ち上がる。

 狙撃銃を失い、体感時間が遅くなってしまった今――それでも彼女は、ためらわず佐天の隣に並び立った。

 

 佐天も横目でそれを確認すると、静かに頷く。

 言葉はなくても、伝わっていた。お互いが、ここで引かないということを。

 そんな二人の背後で、リコは目を見開いたまま、じっと彼女たちの背中を見つめていた。

 

「……らっこ、るいこ……」

 

 頼りない声が漏れる。けれどその小さな声は、確かな熱を帯びていた。

 二人の無能力者(レベル0)の少女は、自分のために――立ち向かおうとしてくれている。

 

 力がないと言いながら、何かを賭けるように立ってくれている。

 だから、自分も……。

 

 

 

「負けないで…… 負けないで、らっこ、るいこ!」

 

 

 

 その叫びが空気を震わせた、次の瞬間だった。

 

 内に眠っていた何かが、音を立てて目を覚ます。

 胸の奥から、熱が吹き上がる。

 

 薄暗かった視界が、まばゆい光で塗り替えられる。

 リコの瞳が、燦然と黄金に輝いた。

 

 同時に――空間そのものが、ざわめき始めた。

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