とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase12「負荷 -オーバーロード-」

(PM2:25)

 

 弓箭の手に握られた多機能LED懐中電灯が、最後の閃きを絞り出すようにひそやかな悲鳴を上げた。

 目を瞑り耳を塞いだまま床に伏せていた佐天とリコが、眩しさの引き際を感じ取り、ゆっくりと身を起こす。

 

 ジジッ――ッ!

 内部で回路が焼き切れる音が鋭く響き、柱のように伸びていた光が、まるでその使命を終えたかのように、静かに途絶えた。

 

「……ここまで、ですね」 

 

(入鹿ちゃんへのプレゼント、考え直したほうが良さそうですね…)

 

 弓箭は静かに手を下ろし、深く息を吐きながら、そっと前方に視線を移す。

 空中に揺れる光の残滓が、ゆるやかに沈んでいく。その向こうに見えたのは――

 

 倉庫の外壁。

 熱線で貫かれたその一点に、大きな風穴が空き、そこから白く眩い外光が差し込んでいた。

 ……だが、肝心の時ヶ谷の姿はどこにもない。

 

「っ!?」

 

 肩が跳ね、弓箭の背筋が粟立つ。

 

 確かに、今の攻撃は強力だった。

 人間を炭化させるには十分、即死をもたらすには過剰なほど。

 けれど、『完全に』姿形を消し去るには至らない。

 

 「……ふふっ」

 

 静かな笑い声が、耳朶を撫でた。

 その声の主がどこにいるかを探すまでもなく、直感が警鐘を鳴らす。

 

 弓箭は即座に背後を振り返った。

 

 そこには、時ヶ谷凛音が静かに佇んでいた。

 もっと正確に言えば――佐天とリコのすぐ後ろに。

 焼け焦げもなく、先ほど潰れたはずの目と耳も、まるで何事もなかったかのように回復している。

 

 弓箭の背筋が、ぞくりと冷える。

 

「佐天さん、後ろっ!」

 

 声が裏返るのも構わず叫んだ。

 

「その女に触れられると……動きが鈍ります‼」

「――えっ?」

 

 佐天が振り返ろうとした、その刹那。

 

 時ヶ谷の手が、ひどく自然な動作で、佐天の肩にそっと触れた。

 その指先はまるで、幼子の寝顔に触れるような柔らかさ。

 

 けれど、その瞬間――

 佐天の身体に電流が走るような衝撃が走り、視界が、音が、時間そのものが、ゆっくりと歪み始める。

 まるで、自分だけが水の中に沈められたかのように。

 

 気がついたときには、時ヶ谷の手が、すでにリコの小さな腕をしっかりと掴んでいた。

 直後、リコの身体は力を失い、糸の切れた凧のように――静かに、床へと崩れ落ちた。

 

「り……こ……」

 

 佐天の叫びは、まるで空気ごと引き延ばされたかのように、スローモーションで響く。

 時間が歪む。世界がねじれる。

 動かそうとした体は鉛のように重く、思考さえ、どこか遠くで反響しているかのようだった。

 

「佐天さん、リコさん――!?」

 

 反射的に、弓箭は全力で二人の元へ駆け出す。

 

 多機能LED懐中電灯は、さっきの熱線で限界を迎えて焼き付き、もう光ることはできない。

 スタングレネード代わりに使ったスマホも、出力に耐えきれず、一発で本体ごと焼き切れてしまった。

 残されているのは……爆音攻撃に使った、あの銀色のホイッスルくらいか。

 

 そんな中、時ヶ谷の声が静かに響く。

 

 

 

「――さて、そろそろ『制限時間(タイムリミット)』でしょうか」

 

 

 

「……?」

 

 意味を聞き返す暇もなく、弓箭の胸に、不穏なざわめきが走った。

 

 次の瞬間――

 

 ズキンッ!

 脳髄を杭で貫かれるような、鋭く苛烈な痛み。

 

「ぐっ、あああっ……!」

 

 弓箭は呻き声を上げ、頭を抱えてその場に崩れ落ちる。

 それでも、視界の端に映るものを確かめるように、震える眼差しを佐天たちへと向けた。

 

 そこには、同じように頭を押さえ、苦悶に顔を歪める佐天の姿があった。

 ただし、彼女の『体感時間』は、時ヶ谷の能力で引き延ばされている。

 

 痛みの波は、ゆっくりと、けれど逃れられぬ運命のように、静かに迫っていた。

 その隣で、リコはすでに意識を手放していた。力を使い果たし、まるで眠るように目を閉じて。

 

 時ヶ谷はそんな三人を見下ろし、わずかに口元を緩めて言った。

 

「――『能力強化』の副作用ですわ。たった五分間の恩恵と引き換えに、制限時間を迎えると、こうして激しい頭痛に襲われますの。……わたくしも『経験者』ですから、どれほど辛いものかは、身をもって存じておりますわ」

 

 戦場が、再び――絶望の色に塗り替えられる。

 焼けるような頭痛に視界が歪み、立っていることすらままならない。

 それでも弓箭は、唇を噛みしめ、震える声で問いを投げた。

 

「……そんなことより、あなたは……どうやって、わたくしの攻撃を……? それに……目と耳は……」

 

 光も、音も――すべてを遮断したはずだった。

 加えて、あのスタングレネードの効果まで……。

 あれほど強烈な閃光と轟音。まともに食らえば、しばらくは感覚が戻らないはず。それを――どうやって、あの短時間で?

 

「あら、最後の熱線攻撃のことですか?」

 

 時ヶ谷は、ほんの少しだけ肩をすくめてみせる。

 その声は驚くほど穏やかで、けれど底冷えするような余裕がにじんでいた。

 

「確かに、あれは厄介でしたわね。視覚と聴覚を封じられた上、どこから狙われているかも存じ上げません。ふふ……少しばかり、スリルを味わいましたもの」

 

 冗談のような口ぶりに、弓箭の胸がざわめく。彼女は本気で言っているのだ。あの極限の状況すら、まるで優雅な舞台劇の一幕のように受け止めている。

 

「でも――お忘れではなくて?」

 

 時ヶ谷の表情がわずかに引き締まり、声に艶やかな棘が混じる。

 

「その直前、わたくしがあの子の作った気流の『噴射点』を吹き飛ばして、周囲の風の流れを一気に『減速』させたことを」

「……まさか……」

 

 視線が彷徨い、弓箭の中で過去の記憶が繋がっていく。確かに、あの瞬間――空気の流れが、まるで死んだように止まった。

 

「ええ、周囲を『無風状態』に保てば、空気の微細な振動がくっきりと浮かび上がるのです。人が動けば、空気がわずかに震えます。声なき波が、風のない世界に輪のように広がります……それを感じ取れれば、敵の動きなど手に取るように分かりますわ」

 

 時ヶ谷の視線が、ふいに佐天へと移る。何かを試すような、あるいは──導くような眼差し。

 

「こちらの『空力使い(エアロハンド)』のお嬢さんも。いずれ能力を使いこなせるようになれば、同じような芸当ができるのではなくて?」

 

 佐天は肩をわずかにすくめ、小さく息をのむ。

 時ヶ谷は、その反応すら見逃さず、くすりと微笑む。

 

「まあ……あとは『加速』を復活させてしまえば、あの程度の攻撃、回避するのは容易いものですわ。それから――視覚と聴覚をどうやって回復させたのか、でしたかしら?」

 

 彼女は右手を軽く耳に添え、無駄のない仕草で言葉を続けた。

 

「答えは単純。目と耳に手を当てて、『回復に必要な時間』を加速させる――それだけのことです。機能の修復ではなく、時間の短縮……すなわち、『完了までの過程』を早めてしまえばよろしいのです」

 

 舞台役者のような優雅な微笑み――だが、そこから放たれる威圧感は、容赦なく場を支配していた。

 

「……さて、これでご納得いただけましたかしら?」 

「…………」

 

 未だ頭痛に苛まれながら、弓箭はしばし沈黙を貫いていた。

 せっかく掴んだ一筋の希望が断たれ、再び絶望の奈落へと突き落とされる――そんな感覚だった。

 

 リコの『強化』はすでに解除され、佐天の『体感時間』も引き延ばされたまま。そして、絶えず続いているのはこの頭痛。

 どうにか思考を巡らせようとするも、痛みに意識が引き戻され、打開策はついに見えてこなかった。

 

 ――チェックメイト。

 嫌でも、その言葉が脳裏をよぎった。

 体は動かず、思考も鈍る。ただ敗北の実感だけが、静かに、確実に胸の奥を冷たく締め付けていく。

 

「ま、『お遊び』も――ここまでですわね」

 

 時ヶ谷はゆるやかに首を傾げ、舞台の幕引きを告げるような優雅さで、視線を倒れたリコへと落とす。

 

「この子のお世話をしていただいたことには、感謝いたしますわ」

 

 その声音には、意外なほどの誠意がにじんでいた。

 ただの皮肉やお世辞ではない。ほんの一瞬、そこに本物の感謝が込められていると錯覚させるほどに。

 

「でも――『迷子』は、正しい場所に戻るべきですもの。たとえ、自分でそれを忘れていたとしても、ね?」

 

 そして――時ヶ谷が、ゆっくりとリコに手を伸ばした。

 彼女の白い指先が、すべてを終わらせる引き金のように、静かに少女へと迫っていく。

 

 ――その瞬間だった。

 

 ギィンッ!

 空気を裂く、甲高い風切り音。

 膝をついた弓箭の頭上を、鋭い何かが凄まじい速さでかすめていく。

 

 ――それは、鉛筆より少し長い金属矢の群れだった。

 無数の金属矢が、一直線に――時ヶ谷へと殺到する。

 

「っ!?」

 

 時ヶ谷が瞬時に横に身を引くと、耳を劈くような金属音が空気を裂き、背後の壁面を砕いていった。

 

 その攻撃はどこから来たのかを確認するように、弓箭はゆっくりと振り返る。

 すると――先ほど『猟弓』で開けた壁の大穴の前に、逆光を浴びて、一人の少女の姿が浮かび上がった。

 

 歳は十四、十五といったところか。

 紫がかった長い髪を二つに結い、黒いパーカーに淡い色のショートパンツ。

 ただし異質なのは、背中にはコウモリのような翼、腰の後ろからは矢印に似た尾が生えていることだった。

 

(……だれ?)

 

 弓箭がその少女と目を合わせた瞬間、妙な感覚に包まれる。

 見覚えはない――なのに、どうしてだろう。まるで、初めて会った気がしなかった。

 

「…………」

 

 少女は一瞬弓箭の顔を見つめたあと、すっと視線を逸らす。

 

 ばさり!

 次の瞬間、銀の翼が音を裂き、爆ぜるような風圧とともに羽ばたいた。

 

 少女の姿が掻き消え、弓箭のすぐ脇を、白銀の残光だけを残してすり抜ける。

 目にも留まらぬ速度で、一直線に――時ヶ谷へと飛び込んだ。

 

 気づいたときには、少女の手には一本の細身の剣。光を弾く銀の刃が、風を裂いて振り下ろされる。

 対する時ヶ谷も即座に反応する。掌に風を集め、瞬時に半月状の刃を生成――迎え撃つ。

 

 ギィィンッ!

 金属の剣と風の刃がぶつかり合い、空間が悲鳴を上げた。

 

 鋭い衝突音とともに、空気が捩れ、倉庫中に暴風のような乱流が吹き荒れる。

 空間ごと軋むような鍔迫り合いが数秒続いたのち――

 

 両者は、呼吸を合わせたかのように同時に距離を取り、静寂が戻る。

 少女は重力を感じさせない動きで、ふわりと佐天とリコの隣に舞い降りた。

 

 時ヶ谷は、視線だけをそちらに向け、鋭く少女を見据えていた。

 

「………やっぱり追っていらっしゃいましたのね。人の『大切なもの』を横からかっさらうなんて、一体どういうご了見かしら、警策さん?」

 

 少女――警策看取は、淡々とした声で返す。

 

「オヤオヤ、ちびっ子を冷凍保存してたアンタに言われたくないわね。 お嬢様方というのは、そろいもそろって歪んだご趣味をお持ちなのかしら?」

 

 警策はふと、足元に倒れているリコにちらっと目をやり、その後、再び時ヶ谷へと視線を戻した。

 

「……にしても、ずいぶん面白いものを見せてもらったわ。なるほど、これが彼女の『能力(ちから)』の片鱗ってワケ」

 

 時ヶ谷はその言葉に鋭い目を向け、軽く首を傾げる。

 

「あら、いつから御覧になっていたのですか?」

 

 警策はわざととぼけるような調子で、

 

「サー? あそこの下っ端三人が、あちらのスナイパーちゃんにボコられたあたりからかな」

 

 そう言って、警策は横目で床に転がる三人組――青髪、黒髪、金髪の少年たちに一瞥を送り、それから弓箭へと視線を移した。

 ――実のところ、ドリーやカイツと別れた後、警策は小型の人形を通じて、弓箭たちの行動をずっと陰から見守っていたのだ。

 

「……ずっと傍観していたってことですか? どうして今まで手を出さなかったのです?」

 

 時ヶ谷が問いかけると、警策は少し肩をすくめて、

 

「――あのコは私らの戦いの最中に目を覚ましたのよ。彼女の目の前で戦うとどうなるか、分かったモンじゃないわ。それに…」

 

 その言葉を待たずに、時ヶ谷がすっと言葉を挟む。

 

「……その『能力(ちから)』を自分の目で確認したかった、のですか?」

 

 その眼差しには珍しく、どこか非難めいた色が込められていた。

 

「…………」

 

 警策はしばらく無言で立ち尽くしていた。

 ――正直に言えば、弓箭が時ヶ谷に『遅延化』をかけられたとき、一度は助けに入ろうかと考えた。

 だが、その直後に佐天が割って入り、妙にいい感じの空気になったものだから、さすがに割り込むタイミングを躊躇ってしまった。

 

(あそこで私が出てったら、まるで空気読めないKY女ってヤツに見えるじゃん…)

 

「――さてと、本来ならここでケリをつけたいところだケド」

 

 軽い調子の声と裏腹に、警策の瞳は鋭く時ヶ谷の背後を凝視していた。

 その視線が、時ヶ谷の背後にある、今やすっかり開け放たれた扉の方に止まる。

 

「……どうやら、招かれざる客が入ったようね」

「きゃく?」

 

 時ヶ谷が小首を傾げる。

 直後、倉庫の外から微かに響く音が空気を変えた。

 

 ――ウー……ウゥウウ……!

 低く唸るようなサイレンの音が遠くから響き、徐々に近づいてくる。

 

「……警備員(アンチスキル)? 騒ぎに嗅ぎつけないよう蒼石さんに情報操作を頼んだはずですが」

 

 時ヶ谷はゆるやかに瞬きをし、警策の視線を追うように扉の外へと目をやる。

 その顔に焦りの色はない。だが、明らかにこれは彼女の『想定外』だった。

 

 遊園地でリコが攫われた際、通報が入ることは当然予測していた。

 それを受けて蒼石優太は、現場周辺に設置された監視カメラの映像を改竄し、警備システムに『誤報信号』を注入することで、通報内容と実際の異常発生を意図的にズラすよう細工を施していた。

 

 さらに、警備員(アンチスキル)の携帯端末に表示される座標情報を偽装し、誘導先が本来の遊園地ではなく、第六学区にある廃ホテルとなるようプログラムしていた。

 実際、先ほどの戦闘でも時ヶ谷は、余波が外部に漏れないよう先に扉を閉じ、能力の出力も必要最小限に抑えていた。

 万全とは言えなくとも、多少の騒ぎで――しかも、こんな短時間で踏み込まれるほど、『暗部』の隠蔽工作は甘くなかったはずだ。

 

「わたくしたちの現在位置にたどり着く確率は1%以下だったはずですのに……」

 

 時ヶ谷は小さく首を傾げ、何かを吟味するように顎に指を当てる。

 

「……他の誰かが勘づいて、警備員(アンチスキル)に通報したうえ、端末に仕込まれた妨害プログラムまで解除したってコト?」

 

 警策が肩越しに呟く。

 

「そんな芸当ができるのって……よほどの凄腕ハッカーくらいなもんだケドねぇ」

 

 それから、時ヶ谷に向き直って、

 

「さぁ、どうする? いくら『暗部』でも警備員(アンチスキル)に顔が割れるのは、結構めんどいっしょ?」

「…………」

 

 時ヶ谷は無言のまま、ほんの一瞬、瞼を伏せる。

 

 『暗部』に属する者が最も忌避するのは、表の人間にその存在を認識されること。

 たとえその気になれば、警備員(アンチスキル)の束など物の数ではない。

 否、それどころか、時ヶ谷凛音ほどの高位能力者ならば、装甲車両の群れでさえ瞬時に無力化できるだろう。

 

 だが――だからこそ、裏の存在であるべき自分たちが表舞台に露見するのは致命的だ。

 裏の顔が露わになれば、今の生活を維持することは不可能になる。

 家族、学園、肩書き、日常――すべてを捨てる覚悟が必要になる。

 

「…………」

 

 僅かな沈黙のあと、時ヶ谷が微かに吐息を洩らした。

 

「――分かりました。ここは一旦、退くといたしましょう」

 

 制服のスカートの裾を指先で摘み、優雅に一礼する。

 その所作には一片の乱れもない。だが――その瞳には、どこか名残惜しさを滲ませていた。

 踵を返しかけたその瞬間、ふと足を止め、視線が警策へと流れる。

 

「――次こそは、余計な邪魔の入らぬ舞台で、全力でお相手していただけることを、心より願っておりますわ……警策さん」

 

 涼やかな声が、まるで風鈴の音のように静かに空気を揺らす。

 その言葉が放たれるや否や――時ヶ谷凛音の姿は、一陣の風に紛れるようにして掻き消えた。

 

 それを見届けたあと、警策は小さく息をついた。

 背に広げていた銀の翼が、霧のように空気に溶け、尾もまた音もなく霧散していく。彼女の意志でナノ粒子に戻されたのだろう。

 

「終わった、の……?」

 

 時ヶ谷の姿が消えてから数秒――否、佐天にとってはもっと長く感じられたかもしれない。

 ずっとスローモーションの中に閉じ込められていた佐天の身体が、ようやく本来の時間に戻る。

 

 脳裏を締め付けていた頭痛も、いつの間にか薄れていた。

 おそらく、これ以上『遅延化』をかける必要がないと判断した時ヶ谷本人が、能力の効果を解除したのだろう。

 

 近くでうめいていた弓箭も、肩を押さえながらゆっくりと立ち上がる。

 弓箭は、裾を翻しながら小走りで佐天の元へ戻った。

 

「佐天さん、ご無事ですか?」

 

 その声には、かすかに焦りと安堵が混ざっていた。

 

「ええ、あたしは平気です。弓箭さんこそ、怪我の方は大丈夫ですか?」

「ご心配なさらず。段ボールの山に叩きつけられたくらいで弱音を吐くほどヤワではありませんわ」

「ならよかったです」

 

 ふう、と佐天は安堵の息をついた。

 

「それより…」

 

 弓箭の視線が、佐天の背後へと流れる。

 佐天もその視線を追い、振り返った。

 

 二人の視線の先、静まり返った倉庫の片隅で――警策は一人、そっと膝をついていた。

 倒れ伏したリコの傍らに身を寄せ、彼女の呼吸の有無を確かめるように、頬のあたりに手をかざす。

 表情には大きな変化はない。だが、その仕草には、戦闘時の鋭さとは異なる、どこか柔らかい気配が宿っていた。

 

「あのう…」

 

 佐天が思わず声をかけようと口を開いた、その瞬間だった。

 

「その子から手を放してください」

 

 ぴしゃりと空気を裂くような声が、静寂を打ち破った。

 弓箭は一歩前に出ると、警策に向けてまっすぐ視線を向ける。その双眸には、明らかな警戒の色が浮かんでいた。

 

「ちょ、弓箭さん。あの人、あたしたちのことを助けてくれたんじゃ…」

「助けられたからって、味方だという保証にはなりません」

 

 食い気味に返された言葉に、佐天は口を噤む。

 

 リコと初めて話したとき、彼女は確かにこう言っていた。

 目を覚ますと、見知らぬ部屋――研究施設のような無機質な空間にいて、そこには、男が三人と、戦っている女が二人いたと。

 

 男三人は、今ここに倒れている誘拐犯ども。

 『戦っていた』女の一人は、さきほどまで交戦していた時ヶ谷。

 

 そして彼女はこう言っていたのではないか。

 ――あのコは私らの戦いの最中に目を覚ましたのよ、と。

 

「…………」

 

 弓箭の警戒心むき出しの言葉に、警策はゆっくりと視線を上げた。

 夜空のように深く、底知れぬ暗さを湛えた瞳が、わずかに細まる。

 

「別に、味方だなんて名乗った覚えはないし、疑うのはソッチの勝手だケド……」

 

 軽く言葉を投げ、倒れたリコの額にそっと手を伸ばす。

 

「今は、そんな悠長なコトを言ってる場合じゃないわね」

「何を……?」

 

 弓箭が問いかけた瞬間、警策は待たずに声を一段低くして続けた。

 

 

 

「――このコ、血圧が異常に低い。脈も浅いし、皮膚が冷たくて、汗だく……これ、薬か能力の反動かもしれないケド、放っておいたら命に関わるわよ」

 

 

 

「「っ!?」」

 

 その言葉に、弓箭と佐天は同時に息を呑み、顔を引きつらせてリコの元へと駆け寄った。

 近くでよく見ると、リコの顔はひどく血の気が引いており、唇は青白く、呼吸も浅い。

 

 佐天はそっとリコの手を握りしめながら、震える声でつぶやく。

 

「そんな……リコ、どうして……」

 

 その場に立ちこめる空気は、まるで時間が止まったかのように張り詰めていた。誰もが言葉を失い、ただ息を呑んでリコを見つめていた。

 ――その沈黙を突き破るように、倉庫の入口から怒声が響いた。

 

警備員(アンチスキル)じゃん、動くな!」

 

 声の主は、警備員(アンチスキル)の制服に身を包んだ女性――黄泉川愛穂だった。

 防弾シールドを構え、鋭い眼差しで現場を見渡す。その背後から、制服姿の男性警備員(アンチスキル)たちが十数名、次々と突入してくる。

 

 だが、佐天も、弓箭も、警策も、誰一人として振り返らなかった。

 ――まるで、今はそれどころじゃない、と言わんばかりに。

 

 黄泉川はすぐに異様な現場の空気を察し、眉をひそめる。

 

「遊園地で誘拐事件があったとの通報を受けて、急いで来たんだが……どうやらもう片付いてるみたいじゃん?」

 

 ざっと見渡すと、現場には高校生くらいの少年三人と、中年の黒服の男たち四人が倒れて気絶していた。

 誰が敵で、誰が味方か。その判断すら追いつかない混沌とした空間に、黄泉川の表情が僅かに引き締まる。

 倒れている男たちが誘拐犯だとすれば、被害者は――この場に居合わせた四人の少女たちの中にいるはずだ。

 

「それで、誘拐されたは誰じゃんよ?」

 

 黄泉川が問いかけた、そのときだった。

 

「……あたしです」

 

 ――そう、静かに、そしてはっきりと答えて立ち上がったのは、佐天涙子だった。

 

「えっ?」

「………」

 

 弓箭は一瞬、困惑の色を浮かべ、警策は沈黙を守ったまま、じっと佐天を見つめる。

 

 だが、佐天はその視線をしっかりと受け止めるように、小さく頷きながら続けた。

 

「あたし、あの男たちに連れ去られそうになって……。でも、そのとき、弓箭さ……えっと、友達が助けに来てくれて。あと、こっちの方にも、です」

 

 『こっちの方』と軽く目線を向けた先には、警策がいた。

 

 黄泉川は肩をすくめるようにして、やれやれとばかりに呆れ顔を見せる。

 

「お前、またか……。この前も誘拐されかけて、こっちでしばらく保護してたばかりじゃんよ?」

「あ、そういえば……そうでしたね」

 

 言われてようやく思い出したように、佐天がぽつりと呟く。

 確かに以前も、佐天は誘拐未遂や人混みに紛れたスナイパーに狙われる事件に巻き込まれていた。

 しかも、そのスナイパーの正体が弓箭だったと思うと――なんとも皮肉な話だ。

 

「今回も何故狙われたか心当たりはないじゃんよ?」

 

 疑念を隠そうともせずに問いかける黄泉川に、佐天は苦笑いを浮かべた。

 

「そう、ですね。……あ、でも今回は保護施設に入らなくて大丈夫ですから!」

 

 声のトーンは軽く装っていたが、その目は真剣だった。けれど黄泉川の表情は、どこか納得しきれていない。

 

「ふーん……ま、話の流れはだいたい分かったじゃんよ」

 

 腕を組んで、周囲の倒れた男たちをざっと一瞥する。その視線が次に向かったのは、静かに横たわるリコの姿だった。

 

「でも――まだ一つだけ、分からんことがあるじゃん。そちらで横になってるお嬢さんは、誰じゃんよ?」

 

 その一言に、佐天の胸がぎゅっと締めつけられた。

 

「あ、えっと……」

 

 思わず言葉に詰まる。喉の奥に何か硬いものがつかえたような感覚。視線が自然と下を向いた。

 ――リコのことを正直に話してしまえば、彼女は警備員の手で保護され、きっと事情聴取を受けることになる。

 だから、佐天は咄嗟に嘘をついた。

 

「彼女は……その、通りがかりに巻き込まれた子で。ちょっと体調を崩してしまって……今は安静にさせてるところです」

 

 なるべく動揺を悟られないように、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 黄泉川はじっと佐天の目を見つめていたが、やがてふっと息を吐き、視線を逸らした。

 

「……そういうことにしとくじゃん。今は他にも片付けることが山ほどあるしね」

 

 明らかに何か裏があると察してはいるが、それ以上踏み込む様子はなかった。

 そう言い残し、倒れた男たちの身元確認に向かっていった。

 

 佐天はほっと胸を撫で下ろし、そっとリコの手を握り直した。

 そして、小さく息を吸ってから、静かに言った。

 

「……とりあえず、救急車を呼びましょう」

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