とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase15「着信 -シークレットコール-」

 翌日の朝。

 弓箭猟虎と佐天涙子はリコのお見舞いのために、二人並んで病院へと向かっていた。

 街はまだ目を覚ましたばかりで、通りを行き交う人影もまばらだ。早朝の空気は少し肌寒く、白い吐息がふわりと浮かんでは消えていく。街路樹の葉が風に揺れ、控えめなざわめきが足元をなでていた。

 

「昨日はよく眠れました?」

 

 静かな歩みの合間、佐天がふと顔を上げて、隣を歩く少女に問いかけた。

 弓箭は一瞬だけ空を見上げ、それから控えめに首を縦に振る。

 

「少しだけ、ですかね……佐天さんは?」

「あたしもあんまり。リコのことが心配で……なんだか、目を閉じると色々考えちゃって」

 

 佐天の声には、かすかな翳りが滲んでいた。どこか気丈に振舞おうとしているのはわかる。けれど、その奥にある感情は隠しきれていなかった。

 弓箭はちらりと横目で彼女を見た後、少し躊躇ってから、さっきから気づいていたことをそっと口にする。

 

「……ところで、着けてくださったんですね――そのペンダント」

 

 佐天の首元には、小さな銀色のペンダントが揺れていた。

 ハート型に繊細な花模様が刻まれ、中心に埋め込まれたブルーのサファイアが朝の光を受けて微かに輝いている。

 

 それは昨日、弓箭が射的ゲームで取って、佐天にプレゼントした景品だった。

 今日の佐天は、明るい色のカーディガンに、ひらりと揺れるフレアスカートという、どこか秋の深まりを感じさせるような穏やかな装いだった。首元のペンダントが、その雰囲気によく馴染んでいる。

 

 一方の弓箭は、どこかきちんとした印象を受ける装いだった。

 白いブラウスはふわりと胸元で膨らみ、ウエストには太めのベルトが巻かれている。膝上丈の黒いスカートから伸びる脚は黒タイツに包まれ、膝下まで覆うレザーのロングブーツが、すらりとしたシルエットを際立たせていた。

 

 ペンダントのことを指摘されると、佐天は少し驚いたように目を見開いたあと、ぱっと表情を明るくした。

 

「うん、可愛いし気に入っちゃって!……へへ、こういうのって、誰かにもらうと余計に嬉しくなるもんですね」

 

 そう言って、佐天は軽くペンダントに触れながら、ほんのりと照れくさそうに笑う。

 弓箭はその仕草を見て、視線をわずかに逸らすと、唇の端をほんの少しだけ引き上げた。

 

「……それなら、良かったです」

 

 小さく呟いたその声は、風の中に紛れていったが、どこかほっとしたような色を帯びていた。

 弓箭はしばらく無言で歩いていた。足音だけが、静かな朝の空気に溶け込んでいく。

 

 思考は、昨夜の警策との会話に戻っていた。あのとき語られた言葉が、脳裏にこびりついて離れない。

 

 ――かつて、木原幻生という研究者は、リコの能力を利用して『絶対能力(レベル6)』を作り出そうとしていた。

 そして、最も衝撃的だったのは、彼がリコの体内に『体晶』を大量に投与していたという事実だった。

 

 『体晶』――能力者の力を極限まで引き出すために使用される、極めて危険な物質。過剰に摂取すれば、命に関わる可能性すらある。

 それは、決して許されない非道な行為。研究と呼ぶにはあまりに一方的で、倫理という言葉から最も遠い所業だった。

 

 けれど――。

 それでも、彼がリコの能力に目を眩ませた理由は、わからなくもなかった。

 

 『才人工房(クローンドリー)最大の禁忌』と噂されたその力は、根も葉もない作り話などではないことは、もはや明白である。

 

 あの力は、学園都市における『能力開発の常識』そのものを根底から覆す。

 使い方次第では、無能力者ですら高位能力者に匹敵する力を得られるのだ。

 

(……わたくしや佐天さんのような『無能力者(レベル0)』でさえ、あれだけの力を引き出せたんですから。もし、それを最初から高位能力者に使ったら……)

 

 弓箭の脳裏に、嫌でも恐ろしい未来像が浮かび上がった。

 

 ――その能力が、戦争や兵器開発に転用されたら。

 ――もし、もっと悪質な研究者の手に渡っていたら。

 

 そのとき生まれるものは、希望などではない。ただの地獄だ。

 彼女は唇をきゅっと引き結び、歩を止めかけたが、すぐに気を取り直して佐天の隣を歩き続けた。

 

「…………」

 

 一方、弓箭の隣を歩く佐天も、彼女と同じく考えに耽っていた。

 思い出すのは、昨日リコの病室で初春に言われたことだった。

 

 

 

 

「――えっ、リコの身元、もう特定できたの!?」

 

 驚きのあまり、佐天の声は思わず大きくなった。

 初春はいつものように冷静な口調で、けれどどこか表情は複雑だった。

 

「はい。……ですが、どうも腑に落ちない点がいくつかあって」

 

 佐天が眉をひそめると、初春は少し躊躇いながら続けた。

 

「『書庫(バンク)』のデータベースを一通り照らし合わせてみたんです。でも、リコさんと一致する人物は一人も見つかりませんでした。最初は単純に登録漏れかと思ったんですけど……それにしては不自然すぎて」

「不自然……って?」

「はい。通常、能力者の基礎データは、小学校入学前の『身体検査(システムスキャン)』のタイミングで自動的に登録されるんです。でも、そこにも記録がありませんでした。ですから、まさかと思って――就学前の児童記録、つまり幼稚園の顔写真を含めたバックアップ領域を片っ端から検索してみました」

 

 その作業量は想像するだけで気が遠くなる。だが初春は、それをやり遂げたのだ。

 

「……そうしたら、一件だけ、該当する顔写真がヒットしました――これです」

 

 そう言いながら、初春は手元のタブレット端末を操作し、一枚のプロフィール画面を開いて佐天に手渡した。

 

 画面に映し出されたのは、一人の幼い少女の顔写真だった。

 絹糸のように滑らかで艶やかな髪。透き通るように白く色素の薄い肌。そして、どこか虚ろな色を湛えた双眸。

 写真に写るその少女の姿は、歳こそ少し幼く見えるが――それでも佐天にはわかった。

 

 間違いなく、あのリコだ。

 プロフィールには簡単な個人情報が添えられていた。

 名前の欄には、こう記されている。

 

「――雨束(あまつか)日花璃(ひかり)……?」

 

 思わず口に出したその名前は、どこか儚げで、澄んだ響きを持っていた。

 綺麗な名前だな、と佐天はふと思った。

 

 漢字で五文字。読み仮名にすれば七文字。

 妙に耳に残るその名前が、なぜか彼女の胸に引っかかる。

 

 それにしても――なぜ、この少女の情報は『書庫(バンク)』に存在しなかったのか?

 どうして、こんなにも徹底的に抹消されていたのか?

 

 その答えを知るためには、もっと深く、もっと危うい領域へと踏み込む必要がある。

 その先に何が待っているのかは、誰にも分からない。けれど、もう後戻りはできない。

 

「この子が、リコってことだよね?」

 

 静かに尋ねる佐天の声には、確信と、わずかな躊躇が入り混じっていた。

 しかし、初春はすぐには答えず、少し難しそうな顔をして言った。

 

「……どうでしょうね。これ、七年前のデータなんです」

「え、七年前!?」

 

 佐天が思わず声を上げる。

 

 七年前に幼稚園生ということは、今の年齢は十三か十四。中学一年か、二年生のはず。

 けれど、今のリコは、どう見ても小学生にしか見えない。

 年齢と外見の著しい不一致。それは、単なる成長の遅れなどでは説明がつかない。

 

(もしかして……身体的な成長が止まってる? それとも、もっと根本的に……)

 

 佐天の背筋に、じわりと冷たい悪寒が這い上がる。

 ふと、脳裏に浮かんだのは、昨日、遊園地の倉庫で耳にした、警策の皮肉めいた言葉だった。

 

『オヤオヤ、ちびっ子を冷凍保存してたアンタに言われたくないわね。 お嬢様の趣味って、みんなこんなに歪んでるのかしら?』

 

(れいとうほぞん……って、もしかして冷凍睡眠のこと?)

 

 冷凍睡眠――コールドスリープ。

 それは、生体を一時的に活動停止状態にすることで、時間の流れから切り離す技術。

 

 代謝を極限まで落とし、体温を人工的に制御して、文字通り『眠らせる』。

 元々は医療分野――たとえば難病の治療法が確立するまでの時間稼ぎなどに使われる技術だ。

 

(まさか……リコは、数年間も眠らされていた?)

 

 その可能性が頭をよぎった瞬間、佐天は言葉を失った。

 成長が止まっている理由も、書庫に記録が存在しなかった理由も、すべてが一本の線で繋がっていく。

 

(そんな……そんなこと、あり得るの? じゃあ、リコはずっと――)

 

 彼女の胸に、言いようのない重苦しさが広がっていく。

 その手にはまだ、雨束日花璃と記されたプロフィールが残っていた。

 だが、あの無垢な少女が歩んできた時間は、きっとその名前が持つ響きよりも、ずっと重く、痛ましい。

 

「――それと、佐天さんが見つけたあの都市伝説、私もちょっと気になって調べてみました」

 

 そんな佐天の考えを知る由もないのか、初春は話を続けた。

 

「最初にあの書き込みが投稿されたのは、10月10日でした。つまり、わりと最近なんですよね」

 

 スマホを操作しながら、初春は小さく首をかしげる。

 

「でも、あんな短期間で急に話題になるって、ちょっと不自然で……。普通、情報って少しずつ拡散されていくものじゃないですか。でもこれは、投稿された直後から異常な勢いで再投稿されて、数時間のうちに『まとめサイト』や『動画付き解説』まで出回ってました」

「……最初から注目されるように仕組まれてた、ってこと?」

 

 佐天の問いに、初春はこくりと頷く。

 

「可能性は高いです。しかも、投稿元のIPアドレスを追ってみたら――公共図書館の共有パソコンからのアクセスだったんです」

「うわ、古典的……」

「ですよね。でも、さらに厄介なのが、その投稿が『予約投稿』だったことです」

「予約投稿……って、時間を指定して自動で書き込まれるやつ?」

「はい。つまり、投稿者本人は、投稿時刻にその場にいる必要がないんです。あらかじめ設定しておけば、あとは勝手にアップされる仕組み。履歴も利用者IDも匿名設定で――ここまで徹底されると、正直、身元の特定はかなり難しいですね」

 

 初春は、彼女にしては珍しく、少しだけ肩をすくめるような仕草を見せた。

 

「あと、気になる書き込みは、もう一つあったんです」

 

 そう言って、彼女はさくっと検索をかけると、スマホを佐天に手渡した。

 

「ハンドルネームは『Rache』。……たぶん、Rachel(レイチェル)のスペルミスですかね?」

「これ……」

 

 画面をのぞき込んだ佐天の声が、少しだけ低くなる。そこに表示されていたのは、彼女にも見覚えのある投稿だった。

 

 

 

ハンドルネーム:Rache

 

『かつて、人工的に「天才」を創出することを目的とした研究施設が存在したという記録がある。その設立の契機となったのは、『能力を意のままに捻じ曲げる』とされる、ある一人の少女の存在であったらしい。仮にその存在が完成された場合、既存の能力開発理論を根底から覆す革新がもたらされるとまで言われていた。

 

しかしながら、その力の異常性ゆえに、当該少女は長きにわたって封印され、現在に至るまで行方は知れない。

 

そして、これは近年になって得られた新たな知見であるが、第七学区の外縁部に位置する、ある旧研究施設の存在が注目されている。当該施設は、老朽化にもかかわらず度重なる取り壊し計画を回避しており、いわば「曰く付きの物件」として知られていた。

 

この点に疑問を抱いた一部の建築専門家が非公式に内部構造の調査を試みたところ、施設の設計にはいくつか不自然な点が確認されたという。とりわけ、構造的に説明のつかない空間の存在から、隠し部屋が設けられている可能性が指摘されている。

 

以上の事実を踏まえると、当該施設に噂の少女が現在もなお幽閉されている、という仮説もまったくの荒唐無稽とは言い切れないだろう』

 

 

 

「これ……弓箭さんと都市伝説探しに行ったときにも見たよ。そのときは、ただのネタかなって思ったけど――」

 

 佐天は小さく息をつき、スマホの画面からゆっくりと視線を外した。

 画面に映る投稿は、まるで都市伝説というより内部告発に近い、リアルな情報の塊。冗談半分で訪れた廃施設が、笑えない現実を抱えていたことに、今さらながら背筋がぞくりとする。

 

「あの場所、行ってみたら施設が崩れてて……ほんと、びっくりしたよ」

「ですよね。でも、それだけじゃないんです」

 

 初春の声色が僅かに硬くなった。そこには、彼女なりの警戒と困惑がにじんでいた。

 

「実はあの施設――倒壊したのは、佐天さんたちが現地に向かう、ほんの一時間ほど前のことだったんです」

「え?」

 

 佐天は目を見開き、思わず眉をひそめる。

 

「じゃあ、私たちがもう少し早く到着してたら……崩れてなかったってこと? それって……偶然にしては、ちょっと出来すぎてない?」

「不可解な点が他にもあります」

 

 初春は真剣な面持ちのまま、タブレットの画面をスライドし、例の『Rache』と名乗る投稿者の書き込みを表示させる。

 その視線には、ただのネット投稿では片付けられない、明確な異質さへの警戒があった。

 

「この書き込み、やけに詳細なんです。普通じゃ知り得ない情報が多すぎます。……どう見ても関係者しか知りようのない内容です。ですから、試しに投稿元のIPアドレスを追ってみたんですけど――」

 

 そこで、初春の言葉が不意に止まった。唇を噛み、ためらうように視線を落とす。

 

 

 

「……IPアドレス、ありませんでした」

 

 

 

「え?」

 

 室内に沈黙が落ちた。

 

「ないって……どういうこと?」

 

 佐天が思わず身を乗り出すと、初春はゆっくりと首を横に振った。普段は冷静な彼女が、ほんのわずかに動揺しているのが分かる。

 

「文字通り、『最初から存在しない』んです。正確には、ログに何の痕跡も残っていませんでした。どれだけ高性能な匿名化ソフトを使っても、痕跡の一つや二つは必ず見つかるものなんです。でもこれは……まるで――」

 

 初春は、そこまで言って言葉を切った。

 まるで、デジタル空間をすり抜ける『幽霊』のように。

 

 誰かが確かに情報を落としていった。だが、その『誰か』の存在は、この世界に一切の形跡を残していない。まるでこの現実に属していない者――そんな不気味な違和感が、じわじわと室内の空気を冷たくしていく。

 

 佐天は思わず身震いしながら、スマホの画面に視線を戻した。

 そこには、『Rache』と名乗る謎の投稿者の書き込みが、何事もなかったかのように鎮座していた。

 

「とにかく怪しいですから、佐天さん、気をつけてくださいね」

 

 初春は、ほんのわずかに表情を引き締めて言った。

 その声には、分析屋としての冷静さと、友人としての真摯な思いやりが、等しくにじんでいた。

 

「……わかってる」

 

 佐天は短く、しかし確かな声音で頷いた。

 

「さて、私もそろそろ仕事に戻らないと」

 

 初春は手元のタブレットを閉じ、静かにスマホをポケットへしまい込む。

 

「無理はしないでくださいね。情報が必要なら、いつでも連絡を」

「うん、ありがとう。……初春も、ね」

 

 佐天の声には、どこか申し訳なさの混じった優しさがあった。

 初春が病室の扉に手をかけた、そのときだった。

 

「あ、初春!」

 

 ふと佐天が呼び止めると、初春はその手を止めて振り返る。

 

「……お願いがあるんだけど」

 

 言いかけて、佐天は言葉を選ぶように一瞬目を伏せる。

 だが、初春はその先を待たずに、静かに微笑んだ。

 

「――わかってますよ。このこと、御坂さんと白井さんには内緒、ですよね?」

 

 その笑みは、何も聞かず、ただ佐天の選択を尊重する者の優しい表情だった。

 重たい真実を前に、それを誰に告げるかの境界線を、自分で引こうとしている――

 

 その佐天の覚悟を、きっと初春は敏感に察していたのだろう。

 佐天は、目を伏せながら小さく頷いた。

 やがて扉が静かに閉まり、部屋には再び、静かな空気だけが残された。

 

 

     ◇

 

 

 朝の光が、診療室のカーテン越しに柔らかく差し込んでいる。

 

「――今日のメンテナンスは、これくらいでいいかね?」

 

 カエル顔の医者が、軽く手を払うような仕草で診療機器のスイッチを切った。

 その声はいつも通り飄々としていたが、調整を終えた手つきには、一分の狂いもない確かな技術がにじんでいた。

 

 すぐ隣の椅子に腰かけていた、紺ブレザーに白プリーツスカートの少女――警策看取は、ぺこりと頭を下げる。

 

「今日もありがとうございました」

 

 その言葉に、カエル顔の医者は肩をすくめるように少し笑ってみせた。

 

「礼なんて結構だよ。君が連れてきてくれるだけで、彼女も元気でいられるんだからね?」

 

 視線の先には、診療室のベッドで上体を起こしたドリーが座っていた。

 病人とは思えないほどに顔色はよく、長い茶色い髪を揺らしながら「もうおわった?」と小さく首をかしげる。

 

「ああ、バッチリよ。今日も絶好調だって」

「えへへ、よかった。なんだか、チョーセーのあとはからだがすっきりするんだよね」

 

 朗らかな声で笑うドリーに、警策もつられて小さく微笑んだ。

 

 彼女――ドリーは、かつて学園都市のとある研究機関で生み出されたクローン人間。

 成長を早めるために投与された薬剤の影響で、細胞の劣化スピードに課題を抱えていた。

 だが今は、定期的に『寿命調整』をこのカエル顔の医者に受けながら、普通の女の子としての生活を取り戻しつつある。

 

「……次は一ヵ月後に来ればいいんですよね?」

「うん、数値は安定してるし、生活にも支障はない。運動も制限しなくていいよ。……まあ、あんまり無茶はしないようにね?」

 

 ドリーは元気よく「はーい!」と手を挙げ、遠足前の小学生みたいに明るく返事をした。

 

 その様子を見届けてから、警策は静かに席を立つ。

 帰り際、ドリーがベッドからぴょんと降りて、カエル顔の医者に満面の笑みを向けた。どうやら、この医者のことをすっかり気に入っているようだ。

 

「またね、リアルゲコたせんせい!」

「こら、ドリー。先生にそんなこと言わないの」

 

 警策がくすっと笑いながらも軽くたしなめる。

 その声音には、どこか母親のような柔らかさがにじんでいた。

 

 

 

 診療室のドアが静かに閉まる。

 二人が診療室の前の廊下に出た、そのときだった。

 

「――もう終わったかしらぁ?」

 

 壁際から、甘く、とろけるような声がふいに響いた。

 目を向けると、すぐ隣の壁に一人の少女が背を預けて立っていた。

 

 長い蜂蜜色の髪が、病院の白い照明を柔らかく受けて揺れている。

 ぱっちりと大きな瞳には星のような輝きが宿っていて、制服姿ながらまるで少女漫画から抜け出してきたかのような存在感。

 名門・常盤台中学の制服が、彼女の中学生離れしたプロポーションをさらに際立たせていた。

 

 その顔を見るなり、ドリーの表情がぱっと明るくなる。

 

「みさきちゃん! やっときてくれたんだね!」

 

 そう言うなり、ドリーはパタパタと駆け出して、少女――食蜂操祈の胸に勢いよく飛び込んだ。

 

「ちょ、ドリー……! いきなり抱きつかない!? あとくんくんにおいを嗅ぐのやめて!」

 

 抱きつかれた食蜂が、困り顔ながらもどこか嬉しそうに抗議の声を上げる。

 そんなふたりの無邪気なじゃれ合いを見守りながら、警策は肩をすくめ、小さく苦笑した。

 

「……しばらく会ってなかったから、よけいに嬉しかったでしょうね」

「まったく……しょうがない子ねぇ」

 

 食蜂は小さく息をついて、胸の中のドリーの頭をそっと撫でる。茶色い髪が、指先でさらさらと音を立てるように揺れた。

 

「でもぉ、元気そうで安心したわぁ。あの先生も、ちゃんと診てくれてるみたいだしぃ?」

「うん、ちゃんと『すうち』もだいじょうぶっていってた! ね、みーちゃん!」

 

 振り返ったドリーが、期待に満ちた瞳で警策を見る。

 

「ああ、問題なし。運動も制限なし、って言われたばっかだよ。……ただし、無茶はしないこと、だってさ」

「なるほど……それなら一安心だわぁ」

 

 食蜂は軽く目を細め、安堵のため息をついた。その口調はあくまで穏やかだが、心底ほっとした様子が伺える。

 

 そんな彼女に、警策が少し声を低くして問いかけた。

 

「……で、ようやく顔を出せたってことは、『アレの件』、何か分かったってことだよね?」

「まぁ、それなりにねぇ。看取さんこそ――『そっちの件』、だいぶ進んだってカイツさんが言ってたけどぉ?」

 

 その問いに、警策はわずかに目を細め、低く応じた。

 

「――ええ、ていうか……今この病院にいる」

「………そうかしらぁ」

 

 食蜂は特に驚いた様子も見せず、ただ頷く。その反応に、やはり予想していたのだろうと警策は確信する。

 

 訳の分からない会話に、ドリーがくるりと二人を見比べて、首をかしげた。

 

「ふたりとも、さっきからなんのはなししてるの?」

 

 素朴な問いに、警策と食蜂はふと目を合わせ、軽く目配せを交わした。

 

「んー? ちょっとした大人力の話よぉ」

「ドリーには、きっと退屈過ぎて眠くなっちゃう話だと思うからサー」

「なーんだ、つまんないの」

 

 ドリーは頬をぷくっとふくらませながらも、それ以上は何も聞かずに口をとがらせた。

 けれどその目には、不機嫌の色は見えない。むしろ――小さな拗ね方が、彼女なりの甘えにも見えた。

 

「それより、今日はお昼どうする? せっかくだから、どっか寄って帰ろっか」

 

 診察室の前を離れた廊下で、警策がふと話題を切り替えた。その声色はどこか意図的に明るく、空気を変えようとする気遣いがにじんでいる。

 そのひと言に、ドリーの顔がぱっと――本当に花が咲いたように輝いた。

 

「うんっ! みさきちゃんもいっしょにいこうよ!」

 

 パーカーの袖を小さく揺らしながら、振り返るドリー。満面の笑みには迷いも遠慮もなく、ただまっすぐな好意と期待だけが浮かんでいた。

 その笑顔に、食蜂操祈はほんの少しだけ口元を緩めた。彼女にとっては慣れたじゃれ合いのようなものだが、どこかくすぐったい感情も伴う。

 

「えぇ〜? せっかくのお誘いだけどぉ……どうしよっかなぁ〜?」

 

 肩をすくめるようにして、食蜂はからかうような声で返す。その瞳には、ドリーの反応を楽しもうとする悪戯っぽさが揺れていた。

 すると、ドリーは何かを思い出したように小さく「あっ」と声を上げ、ぱんっと手を打った。

 

「そうだ! わたし、いちどびょういんのしょくどうでランチしてみたいっておもってたんだ」

 

 唐突な提案に、警策は意外そうに眉を上げ、食蜂は一瞬だけ目を瞬かせたのち、思わず苦笑を漏らす。

 

「……それでいいのぉ? ちゃんとしたお店なら、外でいくらでもごちそうしてあげるのに」

 

 冗談めかして言う食蜂の声には、どこか本気の気遣いが滲んでいる。彼女にとっては、たかが食堂、されど大切な時間――そう理解しているからこその口ぶりだった。

 

「うん! なんかたのしそうでしょ? たんけん、みたいで!」

 

 ドリーは胸の前で手を組み、わくわくと目を輝かせた。まるで新しい世界への扉が目の前に開かれたかのように――純粋な興味と好奇心が全身から溢れている。

 それを見ていた警策は、ふっと目を細め、静かに息を吐いた。

 

「……いいじゃない。ドリーがそう望むなら」

 

 短く、けれどあたたかい言葉。その芯には、ドリーへの深い思いやりが込められていた。

 食蜂も、肩をすくめながら口元に笑みを浮かべる。

 

「ふふっ、まぁ、たまにはそういうのも悪くないかもねぇ。病院食って意外とバカにできないのよぉ? 栄養バランスしっかりしてて、健康力高いんダゾ☆」

「操祈ちゃんって、やっぱりそういうトコ変わらないよね……健康オタク」

 

 そうして、三人はそろって歩き出す。向かう先は、病院の小さな食堂。

 特別でも豪華でもない。でも、誰かと過ごす時間としてはきっとかけがえのない場所。

 そんな予感を胸に、三人の影はゆっくりと廊下の先へと伸びていった――

 

 ――その時だった。

 

 ブルブルッ。

 和やかな空気を破るように、微かな振動音が静けさを裂いた。

 

 音はないはずなのに、廊下の白い壁がそのわずかな震えを確かに伝える。

 振動の主は、警策のスマホだった。

 

 三人は思わず足を止める。

 食蜂はゆっくりと視線を向け、わずかに眉をひそめた。

 

「看取さんに着信って……珍しいわねぇ? カイツさんかしらぁ?」

 

 警策は液晶を一瞥し、首を小さく横に振った。

 

「……イヤ、知らない番号だね。ちょっとゴメン」

 

 そう言って通話ボタンを押し、スマホを耳に当てる。

 

 数秒の沈黙――

 

「……わかった」

 

 一言だけを呟いて、警策は通話を切った。

 

「誰だったの?」

 

 食蜂が静かに問いかける。

 警策は一度、ちらりとドリーを見やってから、少し躊躇った末に言葉を選ぶようにして口を開いた。

 

「……操祈ちゃん。悪いんだケド、ドリーと先に行っててくれないかな? ちょっと、行くとこがあってさ」

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