とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase16「起源 -オリジン-」

「――ここ、だね」

 

 警策看取は第七学区の人工林の奥深くにひっそりと佇む、苔むした旧校舎らしき建物を見上げながら呟いた。

 

 廃墟と化したその建物は、かつて誰かの声が響いていた面影さえ残っていない。

 窓ガラスのほとんどはひび割れ、蜘蛛の巣があちこちに無造作に張り巡らされている。かすかな風が林を揺らし、落ち葉をさらさらと足元に寄せていた。

 

 ――『幻の能力』にまつわる都市伝説。その最初の書き込みに登場した『怪談』の舞台が、まさにこの旧校舎だった。

 警策自身は知る由がないが――実はここは、弓箭と佐天が都市伝説探しに訪れた3件目の場所でもある。

 

 警策は一歩ずつ、旧校舎の正面扉へと歩を進めた。

 薄く苔むした取っ手に手をかけ、きい……と音を立てて押し開ける。

 

 内側は想像以上に静まり返っていた。

 人の気配はなく、あるのは埃と黴の混じった古い空気の匂いだけ。

 割れた窓から射す光だけが、細く床を照らしている。

 

(――ここのはず、だケド)

 

 警策は躊躇なく廊下を進んだ。

 何の案内板もないこの廃墟で、目的地へたどり着ける自信があったのは、事前に詳細な座標を指定されていたからだ。

 

 廊下の奥、左手の扉がわずかに開いていた。

 目指すのは、その教室。指定された場所だった。

 

 扉をそっと押し開けると、古びた蝶番が鈍い音を立てた。

 静まり返った空き教室に足を踏み入れると――

 

「――お待ちしておりましたわ」

 

【挿絵表示】

 

 凛とした声音が、静寂を切り裂くように響いた。

 声のした方へと目を向けると、風にゆらりと揺れるカーテンのすぐ傍、淡く差し込む光の中で、一人の少女が佇んでいた。

 

 長く艶やかな黒髪がさらりと揺れる。

 紺のブレザー制服のすそが、わずかな風に舞い上がるようにひるがえる。

 その少女は、紅のように深い瞳で、まっすぐにこちらを見据えていた。

 

 時ヶ谷凛音。

 警策看取が最も知る、そして最も厄介な『因縁の相手』。

 

「……ソロソロ接触してくるとは思ってたケド、直で電話を寄越すとは大胆ね。どうやって私の番号、調べたの?」

 

 口調は軽いが、探るように響きがある。

 時ヶ谷はくすっと微笑み、涼やかに返した。

 

「『暗部』の情報網をフル稼働させれば、それくらい造作もないことですわ」

「でしょうね」

 

 警策は、さして驚いた様子も見せなかった。

 彼女自身もかつて『暗部』にいた身だ。その情報網がどれだけ深く、どれだけ広く張り巡らされているかは、誰よりもよく知っている。

 

 先ほどの問いかけは、疑問というより――ただの軽い、答え合わせだった。

 間を置かず、警策は両手をポケットに突っ込み、斜に構えて言う。

 

「で? ワザワザこんな場所に呼び出して、一体何の用?」

 

 明らかに何かを察していながらも、とぼけている。

 それを見透かすように、時ヶ谷がひとつ、肩をすくめた。

 

「あらあら、白々しいですわね」

 

 微笑を浮かべたまま、時ヶ谷凛音は静かに窓辺から歩き出す。

 靴音も立てず、まるで床を滑るような足取り。制服のスカートの裾が、残された風にふわりと揺れた。

 

「もう、とっくに分かっていらっしゃるくせに」

 

 警策はその姿を真正面から受け止めるように見据えていたが、やがてふっと視線を外し、教室の中を見回す。

 打ち捨てられた机、破れかけた黒板、埃をかぶった教壇。どれも記憶にある風景ではない。だが――妙な既視感だけが、胸の奥をざわつかせる。

 

「……なら、ついでにここがどこか当ててみようか」

 

 小さくつぶやきながら、警策は壁際の掲示板に視線を向けた。すでに文字も色も褪せて判別できない行事予定表。

 だがそこに漂う空気に、彼女は確信を持ち始めていた。

 

「どうぞ」

 

 時ヶ谷は立ち止まり、わずかに首を傾ける。その声音には、どこか試すような響きが含まれていた。まるで、答え合わせを楽しみにする教師のように。

 警策はゆっくりと彼女の方へ歩みを進め、そして、確信を込めて口を開いた。

 

 

 

「ここ――アンタの出身校じゃないかしら?」

 

 

 

 教室に吹き込んだ風が、古びたカーテンをさわさわと揺らした。

 

 その一言に、時ヶ谷凛音の紅の瞳が僅かに細められた。

 時ヶ谷はしばらく黙したまま、窓の外に視線を向けていた。その沈黙こそが、何よりの肯定――警策は確信する。

 

「……まさか、こんな形でまた足を踏み入れることになるなんて」

 

 時ヶ谷はぽつりと漏らすように言い、そしてゆっくりと振り返る。

 

「ご明察。この場所は、かつて小学校として偽装されていた研究施設――そう言った方が正しいですわね」

「やっぱり、アンタも……」

 

 警策の言葉に、時ヶ谷は静かにうなずいた。

 

「ええ。私もまた、この場所にいた一人でした。そして、ここは――」

 

 一拍置いて、彼女はくるりと身を返し、正面から警策を見据える。その瞳には、覚悟と哀しみが複雑に入り混じっていた。

 

 

 

才人工房(クローンドリー)第零研究室『主観干渉(サブジェクト)』――才人工房(クローンドリー)の始まりとも言える、最初の実験場ですわ」

 

 

 

 言葉が落ちた瞬間、空気が重くなる。過去の影が、教室の壁にじわじわと滲み出すような錯覚さえあった。

 

 才人工房(クローンドリー)

 天才や偉人級の能力者を人工的に生み出すことを目的とした、学園都市暗部の研究機関。

 警策も、食蜂も、ドリーも、弓箭も――多くの被験者がそこに所属し、利用されてきた。

 

 そのすべての始まりこそが、今、二人の足元に広がるこの場所だった。

 そして、この施設が設立されたきっかけは、一人の少女であった。

 

「――貴女方が『リコ』とお呼びになっている女の子……」

 

 時ヶ谷凛音は、声音を落とし、静かに切り出した。

 

「彼女の本当の名は――雨束日花璃。……わたくしにとっては、かけがえのない、大切な友人の一人でございました」

 

 その瞳には、ほんのわずかに、翳りのようなものが差していた。

 だがその告白を聞いても、警策は眉一つ動かさなかった。

 すべてを見透かしていたかのように、ただ静かに耳を傾けるのみだった。

 

「――わたくしはね、幼い頃からずっと『トップ』でなければなりませんでしたの」

 

 長らく胸の奥に押し込めていた思いを吐き出すように、時ヶ谷はぽつりと口を開いた。

 

「裕福な家に生まれ、何不自由なく育てられ、美貌と才知を兼ね備えた少女――生まれながらにして何もかも手にしていたわたくしは、皆から持て囃され、羨ましがられ、そして……嫌われもいたしましたの」

 

 語るその声には、誇りというより、どこか自嘲めいた色が混じっていた。

 

「ですから、家柄にも名誉にも恥じぬよう、わたくしは、常に完璧であらねばならなかったのです。気づけば本当の自分を押し隠し、『淑やかで優等生なお嬢様』という仮面を、ずっと――演じ続けておりました」

 

 視線を宙に彷徨わせるその姿は、どこか解放されつつあるようにも見える。

 

「……演技を続けながら生きることが、どれほど退屈で、どれほど息苦しいものか――貴女にも、少しはお分かりいただけまして?」

「……分からなくはない、カナ」

 

 警策は淡々とした声でそう返した。

 その目には、かつての自分自身の姿がよぎっていた。

 

 研究者に気に入られるためだけに作り上げた笑顔。

 効率と理性を盾にして、自分を守る術。

 ――そんな仮面を、ただの『役割』としてかぶっていた日々。

 

 そんな自分を変えたのは、あの少女だった。

 裏も表もなく、ただ純粋に自分を見てくれる存在。警策はいつしか、その優しさに心を開き始めていた。

 

(……そうか。あの子が、私を変えてくれたんだね)

 

 そう思えば、ずっと抱えていた疑問にも、少しだけ答えが見えた気がする。

 なぜ、自分はあのスナイパーの少女を助けたのか。

 命の軽さに慣れきったはずのこの手で、なぜ、あの時だけは彼女に差し伸べたのか。

 

 きっとそれもまた――

 あの子が、自分の傍に戻ってきてくれたおかげなのだろう。

 

「そんなわたくしが、ここ――この研究施設で能力開発を受けておりました頃のことです」

 

 時ヶ谷凛音は、そっと視線を床に落としながら語り始めた。

 

「その頃、わたくしは……一人の女の子と出会いましたの」

 

 その口調には、どこか懐かしむような優しさが滲んでいた。

 いつもは優雅な振る舞いを崩さない彼女の、そのわずかな声の揺らぎに、確かな情の深さが感じられる。

 

「わたくしとは違って――彼女は、何もかもを持たずに生まれました。ごく普通の家庭で育ち、ご両親は離婚なさっていて……お母様もお仕事が忙しく、ほとんど顔を合わせることもなかったそうです」

 

 時ヶ谷はそこで一拍、わずかに息を吸うと、ほんの少しだけ、声を和らげる。

 

「才能にも恵まれず、能力開発の評価は、いつまでも『無能力者(レベル0)』のまま。……けれども、ですわ」

 

 そこで彼女は、ふっと微笑む。

 その微笑には、労わりと――そして、どこか憧れにも似た感情が宿っていた。

 

「彼女は、いつだって幸せそうでしたの。純粋で、能天気で、何の裏もなく――ただ、まっすぐに自分の気持ちを伝えてくるのですわ。そんな彼女の姿が……わたくしには、眩しくて、羨ましくて――たまりませんでしたの」

 

 その『羨ましさ』が、単なる嫉妬ではなかったことは、言葉の端々から伝わってくる。

 金銭でも名誉でも、能力でもない。

 

 ただありのままの自分で生きられるという、そんな自由さこそが――

 彼女にとって、最も遠くて、最も欲しかったものだったのだろう。

 

「……覚えていらっしゃいまして? わたくしが、警策さんと再会した際に最初にお尋ねしたことを」

 

 その問いに、警策はほんのわずかに目を細めた。

 いつもの軽口は影を潜め、彼女らしくもない、真剣な声音で応じる。

 

「ああ。……私が、霧ヶ丘を離れたことを後悔していないか、ってやつだね」

「ええ、そうですわ」

 

 時ヶ谷は静かに頷く。その目に、一瞬、柔らかな光が宿った。

 

「貴女が一度だって後悔していないと仰ったとき――少し、救われた気がしましたの。わたくしたち、やっぱり似た者同士なのかもしれないと……そう思えて、嬉しくて」

「そうか?」

 

 警策は小さく首を傾げながらも、否定はしなかった。

 

「わたくしね、警策さんには……『()()()()()()のです」

 

 その言葉に、警策はわずかに眉を動かした。

 意外だったのか、ほんの一瞬、目を見開いたまま沈黙する。

 

「ずっと『トップ』であり続けたわたくしが、中学生になって初めて――貴女に、主席の座を奪われたあのとき……あれは、生まれて初めて味わった敗北でございました。ええ、とても、悔しかったですわ」

 

 淡々と語る口調の中に、確かな熱があった。

 だがその熱は、過去の対抗心ではなく、今の彼女自身をかたちづくっている大切な一部だった。

 

「けれど……それと同時に、心のどこかで感じておりましたの――やっと、長いこと背負ってきた『トップの鎖』から、解き放たれたのだと」

 

 彼女はそこで、少しだけ視線を逸らす。

 まるで、それを自分でも恥ずかしく思っているかのように。

 

「わたくしは、負けて初めて、自分がいかに縛られていたのかを知りましたの。そしてそれを壊してくださったのが……他でもない、警策さんでございました」

 

 その目が、再び警策を真正面から見据えた。

 今の時ヶ谷凛音は、もう『演じる優等生』ではない。

 確かに、自らの意思で言葉を選び、思いを告げている。

 

 警策はふと、昨日――遊園地で柊木先生と再会したときの言葉を思い出した。

 

『君がいなくなってから、時ヶ谷さんはね、ずいぶん肩透かし食らったみたいだったよ』

 

 ……そうか。

 自分がいなくなったことで、時ヶ谷は再び『トップ』という座に引き戻されてしまったのだ。

 

 その重圧を、また一人で背負わされる羽目になった。

 だからこそ、警策が突然姿を消したことが――許せなかったのかもしれない。

 

 廃施設で再会したとき、彼女がやけに攻撃的だった理由。

 あれはただの戦闘狂としての執着だけではなかった。

 

 腹いせも――いや、置いていかれた悔しさや、裏切られたような思いも、少なからずあったのだろう。

 もちろん、万全な警策と真っ向から戦いたいという、純粋なライバル心もあったに違いない。

 けれど、それだけじゃない。あれはきっと――複雑な感情の、ぶつけどころのない出口だった。

 

「……アンタも、相当ひねくれ者ね」

 

 呟いた声に、どこか苦笑いのような響きが混じる。

 自分のことを言っているのか、彼女のことか。あるいは、ふたりともか。

 

 時ヶ谷が静かに言葉を継ぐ。

 

「まあ、ひねくれ者でなければ、とっくに壊れておりましたわ。……貴女こそ、よくぞ今さらそんなことにお気づきになって」

 

 その声音には、どこか含むような、けれどわずかに安堵すら滲む響きがあった。

 警策は、鼻を鳴らすようにして肩をすくめる。

 

「イヤイヤ、そんな回りくどい拗ね方されたって分かるワケないっつーの。……ツンデレかよ」

 

 時ヶ谷は目を伏せてひとつ微笑むと、ゆったりした口調で返した。

 

「それなら警策さんは、さしずめ『煽り上手な鈍感系ヒロイン』といったところですわね」

 

 口調こそ丁寧だが、完全に挑発の一手。

 警策は露骨に眉をひそめ、ジト目で睨む。

 

「喧嘩売ってんの?」

 

 その視線に、時ヶ谷は楽しげに小さく口元を緩めた。

 

「あらあら、またお相手くださると? 望むところですわ、昨日の続き――楽しみにしておりましたの」

 

 警策の口元も釣られるように吊り上がる。

 

「上等ね。今度こそ完膚なきまでに叩き潰してやるわ」

 

 二人の間に流れる空気が一瞬だけ張り詰める――が、それもまた長くは続かず、

 

 こほんと、時ヶ谷が咳払いをひとつ。

 

「……話が逸れてしまいましたわね。お手合わせは、まずはあの子――日花璃さんのことを解決してからにいたしましょう」

 

 その言葉に、警策もわずかに表情を引き締めた。

 ふざけ合えるのは、すべきことを済ませてから。お互い、そういう性分だ。

 

「アンタが、あの子を冷凍睡眠させたのは……彼女の命を助けるためだったのね」

 

 警策は、壁に寄りかかりながらも、その声に微かに鋭さを滲ませた。軽口を叩くようでいて、探るような視線が時ヶ谷の奥底を覗き込む。真意を測るように。

 時ヶ谷は、眉一つ動かさず頷く。その所作には一切の迷いがなかった。

 

「ええ。『体晶』の進行を止める手立てがなかった以上、あの子の命を繋ぐには、冷凍睡眠しかありませんでした。そのために『暗部』の技術が必要で、治療法が見つかるその時まで、彼女を眠らせる――それが……わたくしにできる、唯一の選択肢でした」

 

 その口調は理知的で、冷静だった。けれど、胸元で静かに組まれた両手には、ほんの少しだけ力がこもっているようにも見えた。

 

「……本当に、それだけ?」

 

 警策の言葉には、明らかな含みがあった。

 

「人助けだけのためなら、美談にすぎない。でも、あの子は『鍵』だって……アンタ、自分でそう言ってたじゃない」

 

 その一言で、時ヶ谷の肩がわずかに揺れた。だが、彼女はすぐに表情を引き締め、目を伏せずにまっすぐ警策を見返す。

 もはや、嘘や言い逃れが通じる相手ではないと分かっていた。ここで言葉を濁せば、それは信頼を裏切るに等しい。

 

「……ええ、仰る通りですわ。彼女は、わたくしの『目的』にとって――必要不可欠な存在です」

 

 時ヶ谷の瞳は、迷いを超えた覚悟の色を宿していた。感情を切り捨てた冷酷さとは違う、守るべきもののために自らを律した者だけが持つ、静かな決意。

 

 警策はしばらく黙って、時ヶ谷の返答を咀嚼するように思考を巡らせていた。目を伏せ、何かを思い出すように小さく息を吐く。

 

「……病院で医者が言ってたよ。あの子が搬送されてから、数時間だけ――『体晶』による侵食の進行が異常なほど遅くなってたって」

 

 そこで一拍、言葉を切ってから、警策は視線を向けた。今度は真っ直ぐ、相手の目を捉えて離さない。

 

「あれってアンタの仕業じゃない? 遊園地で、あの子の腕を掴んだとき……アンタ、能力で『時間の遅延化』をかけたんでしょ。侵食の進行を、一時的に抑え込むために」

 

 疑うような口調ではない。むしろ、確信に近い勘だった。

 時ヶ谷は、表情を変えなかった。けれど、ほんの一瞬だけ、睫毛が震えた。

 

「……ええ。ですが、それは応急処置にすぎませんわ。あの時の彼女の状態では、遅延できたのはほんの数時間が限度でした。いずれ手遅れになります――だからこそ、一刻も早く冷凍睡眠に切り替えるしかありません」

 

 そして、時ヶ谷はふと目線を上げた。次に紡がれた言葉は、冷徹な判断ではなく、懇願に近い響きを帯びていた。

 

「あの子を――こちらに引き渡していただけませんか?」

 

 命令ではなかった。脅しでも、駆け引きでもない。真正面からの、静かな願い。

 なぜ最初からそう言わなかったのか。警策には、うすうすその理由が分かっていた。

 

 リコ――雨束日花璃に『体晶』を大量に投与したのは、かの木原幻生である。

 そして自分は――かつて、彼の下で働いていた。

 

 時ヶ谷はその事実を知っていたのだろう。だから、信用できなかった。もしかしたら自分が今も幻生に加担していて、日花璃の能力を再利用しようとしているのでは――そう疑っていたのかもしれない。

 

 遊園地での再会。戦闘の最中、彼女は警策が傍観していたことをどこか非難するような口調で責めた。あのとき、どれだけ彼女の寿命が削られたのか。能力を使わせることのリスクを、あえて口にせず、圧し殺すように問いかけていた。

 

 それでも今、こうして真実を口にしたのは――病院に彼女を送り届けたこと、それだけは、偽れない証拠として伝わったのだろう。

 だからこそ、時ヶ谷はようやく信じた。警策に、悪意がなかったことを。

 

「そのコトなら、心配は要らないわ」

 

 警策の口調は、いつになく柔らかかった。淡々とした中にも、どこか安心させるような響きを帯びている。

 

「もう、あのコは信頼できる医者に預けてある。解毒剤の開発も進んでる。――今日中には、最初のサンプルが完成する予定なんだって」

「解毒剤? 長い間蓄積されてきた毒素ですよ? それを、たった一日で?」

 

 時ヶ谷の声には、驚きと疑念が色濃く滲んでいた。見開いた瞳が、真剣そのものだ。

 

「つい最近、あのコと似た症状で入院した患者がいたの。その治療過程で集めたデータが、今回のケースにも応用できたらしくてね」

 

 警策はそこで一拍置き、時ヶ谷の方へと視線を向けた。

 

「もちろん、まだ試作段階だし、確実とは言えない。でも――希望はあると思うよ」

「そう、ですか……」

 

 時ヶ谷の声にはわずかな震えが混じっていたが、その表情には確かに安堵の色が浮かんでいた。張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩む。

 そんな彼女の様子を見ていた警策が、ふと思い出したように口を開いた。

 

「――にしても、あの場に柊木先生がいたのは驚いたわね」

 

「柊木先生が……病院に?」

 

 時ヶ谷は不思議そうに眉を寄せる。

 

 柊木澄玲。

 かつて霧ヶ丘中学に設けられた、特別クラスの担当教員。そのクラスは、警策と時ヶ谷という『特例中の特例』のためだけに存在していた。研究者としても高名な人物であり、二人にとってはただの教師以上の意味を持つ存在だった。

 

 警策は軽く頷きながら続けた。

 

「専門家として呼ばれたってさ。あの先生、正直どんな分野の人かよく知らなかったケド――なかなかやるわね」

「…………」

 

 時ヶ谷の表情には、どこか腑に落ちないものが滲んでいた。

 言葉にするのをためらうように、しばしの沈黙――やがて、静かな声がその口からこぼれる。

 

「――昨日、蒼石さんに少し調べものをお願いしましたの」

 

 突然の話題転換に、警策は目を細め、訝しげに眉を寄せる。

 

「蒼石って……あの青髪の引きこもりクン?」

「ええ。本人は下部組織に甘んじていますが、ハッキングの腕は確かですわ」

「へぇ、たしか『書庫(バンク)』にクラッキングして捕まったとかなんとか……まあ、使いどころはあるか」

 

 言いながらも、その目には警戒の色がわずかに浮かんでいる。

 

「それで? 調べたのって、第十学区の監視カメラの件?」

「はい。正確には、その中でも第十学区の墓地周辺の映像です」

「墓地……?」

 

 警策が眉を寄せるのと同時に、空気がわずかに張り詰めた。

 死者が眠る場所。生者とは最も縁遠いその地名は、無言のうちに何かを告げていた。

 時ヶ谷は小さく頷く。目に、ふと悲しげな色を浮かべながら、静かに続けた。

 

「はい。先ほど、わたくしはここで一人の女の子と出会ったとお話ししましたわよね?」

 

 一拍。言葉を選ぶように視線を伏せ、声を低くして――

 

「その子は紗綾(さや)と言いまして……数年前に、この場所で起きた『惨劇』の犠牲者です」

「………」

 

 その言葉に、警策は黙り込んだ。

 ここがかつて『小学校を偽装した研究施設』であり、今は無人の廃墟となっているという事実――それだけで、過去に起きた出来事の重さは語らずとも知れる。

 

「――『歪曲揺光(フラクチュエイト)』」

 

 時ヶ谷の口から洩れたのは、聞き慣れぬ――しかし妙に重みを帯びた響きの単語だった。

 その音の一つ一つが、空気に微かな歪みを生むような感覚すらある。

 

「光子の揺らぎ――すなわち、人間の『タマシイ』と思われる量子意識(クァンタムマインド)に特殊な光を照射することで、能力者の『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』を意のままに捻じ曲げる能力ですわ」

 

 彼女の声は静かだが、どこか硬質な響きを孕んでいた。

 教科書には決して載らない、禁忌に触れるような口ぶりだった。

 

「能力の強化、弱体化、時には性質そのものの変質さえ可能になる……と、されました」

 

 警策は小さく眉を動かしながら、黙って聞いていた。

 それはただの理論ではなく、実際に適用された『現実』なのだと、警策はすでにその目で見たのだ。

 

「この能力を用いて『絶対能力(レベル6)』を生み出そうとしていたのが、かの研究者――木原幻生です」

 

 時ヶ谷は一度、言葉を切る。

 口調は淡々としているのに、まなざしにはどこか影のような色が差していた。

 

「……わたくしも、かつてその被験者の一人でした」

 

 その言葉は、過去の痛みを一瞬だけ引き戻すような、わずかな沈黙とともに投げ出された。

 警策は言葉を挟まず、静かに彼女の続きを待つ。

 

「そのとき、一時的に能力が強化され、わたくしは触れた対象の状態を――まるでビデオテープの逆再生のように――巻き戻すことができたのです」

 

 冷えた空気が肌をなぞるように感じられた。

 それが意味するのは、ただ時間の操作にとどまらない。生死、記憶、存在そのものへの干渉すら可能ではないか――そんな錯覚を覚える。

 

 時ヶ谷は視線を伏せ、声を少しだけ低くする。

 

「そしてもう一つ。『歪曲揺光(フラクチュエイト)』を受けた者の精神には、一種の『回路』のようなものが形成されることがあります」

 

 淡い言葉の奥に、彼女自身も把握しきれぬ何かがあるように感じられた。

 

「その影響で、日花璃さんの精神が不安定になったとき、過去の記憶や感情が、他の被験者に流れ込む現象が確認されました」

 

 静けさが一拍、場を支配する。

 

「……わたくしたちは、それを――『ソウルネットワーク』と呼んでおりました」

 

 ネットワーク――その単語に、警策は思わず息をのむ。

 それは彼女に、ある既知の存在を強く想起させた。

 

 『妹達(シスターズ)』。

 第三位の体細胞から造られた、無数のクローン能力者たち。

 その間には、『ミサカネットワーク』と呼ばれる特殊な脳波共有システムが存在し、思考や経験、時には感情までもが瞬時に同期される。

 

 そして思い出す。

 『妹達』の0号(プロトタイプ)として生み出された存在――ドリー。

 彼女こそが、あのネットワーク構築の実験台となった、最初の犠牲者だった。

 

 脳波と脳波を繋ぐネットワーク。

 魂と魂を繋ぐネットワーク。

 原理も起点も異なるはずのふたつが、しかし、どこかで奇妙に重なって見えた。

 

 そんな警策の思考を知るか否か、時ヶ谷は淡々と語りを続ける。

 

「――その能力に目が眩んだ木原幻生が、日花璃さんの体内に大量の『体晶』を投与した結果、彼女は暴走しました。その影響で、この場にいた多くの被験者が――命を落としたのです」

 

 時ヶ谷は、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。

 そして、再びその瞳をまっすぐに向ける。

 

「……そのときの、唯一の生き残りが、わたくしです」

「………」

 

 語られたのは、あまりにも重すぎる真実だった。

 友人たちを喪い、たった一人で生き残るという残酷な現実――。

 

 彼女がこれまで、どんな思いで生きてきたのか。今なら、少しは分かる気がする。

 警策もまた、かつて『才人工房(クローンドリー)』で大切なものを奪われた。

 怒りに身を委ね、復讐者として暗部を渡り歩いた過去がある。

 

 警策看取と時ヶ谷凛音。

 共に『才人工房(クローンドリー)』の被験者にして、共に喪失を背負い、共に暗部に身を投じた者たち。

 似たような道を歩んできた二人――だが、ただ一つだけ、決定的な違いがあった。

 

 それは、時ヶ谷には、まだ『希望』があったということ。

 生きる意味を見失っていた警策とは違って。

 

 両者の違いは、たったそれだけ。

 ――けれど、その『それだけ』が、すべてだった。

 

「……話は戻りますけれど、亡くなられたご友人方のお墓参りに伺いました折のことです」

 

 気持ちを切り替えるように、時ヶ谷は静かに話を続けた。

 

「そのとき、紗綾さんのお墓の前に、ひと束の花が手向けられているのに気づきましたの」

 

 彼女の声には、かすかな戸惑いと、何かを確かめようとする色が滲んでいる。

 

「もしかしたら、供えたのは……彼女のお母様ではないかと――そう思い至って、蒼石さんに墓地周辺の監視カメラの映像を調べていただいたのです」

 

 そこまで言ったところで、時ヶ谷はわずかに眉をひそめる。

 

「昨夜、蒼石さんに送っていただいた映像を確認してみたら、そこに映っていたのが――」

 

 言葉が喉に詰まったように、時ヶ谷は言い淀む。

 一拍の沈黙のあと、その名を口にした。

 

 

 

「――柊木先生でした」

 

 

 

「は?」

 

 思わず、警策の口から間の抜けた声が漏れた。

 唐突すぎる名前に、思考がついてこない。理解が拒絶反応を起こす。

 だが、次の瞬間には記憶が呼び起こされる。

 

「……ちょっと待って。私、昨日、友達と遊園地に行ったとき、柊木先生に会ったのよ」

「……遊園地に? 一人で?」

「いや……娘さんと一緒に来てるって言ってた」

 

 その一言に、時ヶ谷の瞳がわずかに揺れた。

 

「柊木先生に娘さんがいるなんて、聞いたことありませんけれど?」

「ああ、私も初耳だった。少し意外だったけど、特に疑いもしなかった。娘さんがゲーセンのイベントに夢中で、って……そんな話をしてた」

 

 思い返す言葉の端々に、妙な引っかかりが生まれる。

 昨日は気にも留めなかったやりとりが、今になって不気味なほど静かに意味を変えていく。

 

 ……そういえば、と警策は思い返す。

 あのとき、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただ、柊木がそう言っただけだった。

 

「……もし仮に、柊木先生が、あの亡くなった子――紗綾ちゃんの母親だとしたら」

 

 言葉にしながら、警策の胸に冷たいものが広がる。

 繋がらなかった点と点が、重苦しい音を立ててひとつの線になる。

 

「――あのとき、彼女が言ってた『娘』って誰? いや、それ以前に……」

 

 自分の声がわずかに震えているのを自覚しながら、警策は最後の疑問を口にする。

 

「……もし紗綾ちゃんがもう亡くなってるのなら、柊木先生は……昨日、私に嘘をついたってことになる」

 

 空気が凍るような沈黙が流れる。

 言葉にした瞬間、それはもう『仮説』ではなく『可能性』に変わっていた。

 

 ――なぜ、彼女はそんな嘘をつく必要があったのか。

 『娘』という存在は本当にいたのか。それとも、最初から存在などしていなかったのか。

 彼女はいったい何を隠しているのか。あるいは、何か別の真実を覆い隠すための方便だったのか。

 

 そもそも――柊木澄玲は、なぜあの日、あの場所にいたのか。

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