とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase17「陰謀 -コンスピラシー-」

 弓箭猟虎と佐天涙子は、病室の前に立っていた。

 淡い光が差し込む白い廊下で、二人は無言のまま視線を交わし、扉のすぐそばの壁に目を向ける。そこには――『リコ』という名前が、簡素に貼られていた。

 

 佐天の手には、近くの売店で買った果物の包み。

 

「……目を、覚ましたといいですね」

 

 その声は小さく、まるで病室の中の誰かを起こしてしまわないようにという配慮が込められていた。ふう、と小さく深呼吸をする。

 

 弓箭が、そっと問いかける。

 

「緊張してますか?」

「少しだけ、かな……」

 

(なんだか……本名を知ってしまうと、こうして『仮の名前』を見るのは、ちょっと変な気分だね)

 

 リコ――それは、佐天がつけた名前である。

 記憶を失った彼女は、自分の名前すら思い出せなかった。だから佐天が、自分と弓箭の下の名前から真ん中を取って、その場で名付けたのだ。

 

 弓箭が、ゆっくりと扉に手をかける。

 

「行きましょう。彼女が……きっと待ってますわ。」

 

 中に入ると、部屋の奥に置かれたベッドで、見慣れた顔が静かに寝息を立てていた。

 少女は、変わらぬ表情で眠っている。その呼吸は穏やかで、胸が小さく上下しているのがシーツ越しにも見て取れた。

 けれど、そのまぶたが開かれる気配はまだない。

 

 佐天が、そっとベッドのそばまで歩み寄る。

 

「……まだ、眠ってますね」

 

 声はごく小さく、リコの安らかな眠りを乱さないようにと抑えられていた。

 

 弓箭は佐天の隣に立ち、静かに頷く。

 

「ええ。でも……今日中に、解毒剤の試作品が完成するという話でしたから、焦らず、待ちましょう」

 

 その声には、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。

 

 二人はしばらく、無言のままリコを見つめた。

 ただ眠っているだけの少女。その静けさの裏に、どれだけの過去が隠されているのか――まだ誰にもわからない。

 

 病床のサイドテーブルには、昨日と変わらずピンク色のゲコ太のぬいぐるみと、金色に輝くゲコ太のキーホルダーが置かれていた。

 それぞれ、佐天と弓箭がリコのために取ってあげたものだ。

 

 佐天はそっと果物の包みをサイドテーブルの隅に置く。

 ビニールのこすれる小さな音が、静まり返った病室に微かに響いた。

 

「……こうして見ると、なんだか懐かしいですね」

 

 佐天が優しく微笑みながら言うと、昨日――リコがぬいぐるみを受け取り、はにかむように笑いながらぎゅっと抱きしめた姿が、ふと脳裏に浮かんだ。

 その光景はあまりにも自然で、まるでずっと前から三人で過ごしてきたかのように思えるほどだった。

 

 弓箭も隣でそっと視線を落とし、穏やかな笑みを浮かべる。

 

「クレーンゲームで一目で気に入られましたわね。あの子、目を輝かせて……一発で取れた佐天さん、やっぱりすごいですわ」

「でも、弓箭さんのキーホルダーの方が高級感あって、ちょっとズルいかも。射的ゲームでバシバシ当てて、周りをぎゃふんと言わせてましたよね。あのときの弓箭さん、妙に張り切ってて、なんだか新鮮でした」

 

 その言葉に、弓箭は思わず顔をそむけ、唇にそっと指を添えた。

 

「は、恥ずかしいですわ……あのときは……その、リコさんが欲しがっていたものだったから、つい……」

 

 頬がかすかに染まり、瞳が揺れる。

 ――実は、佐天に少しでもいいところを見せたかったというのもある。だが、そんなことは恥ずかしくて、口が裂けても言えない。

 その小さな照れ笑いに、佐天はくすっと肩を揺らした。

 

「うん、分かります。私も、あの子に頼られると……頑張っちゃうんですよね。なんでだろ、あんなふうに見つめられると、こっちまでちゃんとしなきゃって思っちゃう」

 

 病室には、電子機器の微かな駆動音と、リコの穏やかな寝息だけが響いていた。

 

 二人の柔らかな声が、この静けさの中にじんわりと溶けていく。

 その言葉が、眠るリコの耳に届いているかは分からない。

 

 けれど――たとえ届いていなくても、願わずにはいられなかった。

 どうか、あの子の心の奥に、このあたたかな気持ちが届いていますように。

 そう、二人は祈るような思いで、その場に立ち尽くしていた。

 

 やがて、佐天はふと視線を落とし、何かを迷うように口を閉ざした。

 その横顔は、どこか決意を秘めた色を帯びている。

 

 弓箭が気づかぬふりをして待っていると、やがて佐天は小さく息をついた。

 

「……弓箭さんに、一つ、伝えなきゃいけないことがあります」

 

 声は静かだったが、その語調には確かな意思が宿っていた。

 弓箭はゆっくりと佐天の方を向く。

 

「なんでしょう?」

 

 佐天は一瞬、ベッドで静かに眠るリコの方を見やった。

 そのまま視線を戻し、わずかに言い淀む。けれど、逃げずに口を開いた。

 

「あたし……リコの本当の名前が、分かったんです」

 

 弓箭の瞳がわずかに揺れる。

 

「え?」

 

 部屋の中には、カーテン越しに射し込む昼の光が、白いシーツに柔らかく影を落としていた。

 『リコ』という仮の名で過ごした日々に、今、ほんの小さな終わりの気配が忍び寄っている。

 

「……いつから、知っていたのですか?」

 

 弓箭の問いは穏やかだったが、その声にはかすかな緊張が滲んでいた。

 

「昨日。弓箭さんが病室を出て行ったあと……初春と、二人きりで話していたときに」

 

 佐天の言葉はゆっくりと、しかし迷いなく続いた。

 

「そのとき、あいつが見つけた記録に――この子のデータが残ってたんです」

 

 弓箭は深く息を吸い、真っすぐに佐天を見つめて問う。

 

「お名前は……なんと?」

 

 佐天は一拍置いたあと、まるでその名を胸の奥に刻むように、静かに言った。

 

「――雨束日花璃、です」

 

 その瞬間、室内にしんとした静寂が降りた。

 弓箭は小さくその名前を口の中で繰り返す。

 

「あまつか……ひかり、さん……」

 

 その響きはどこかあたたかく、けれど切なさを含んでいた。

 この少女が『リコ』として過ごした時間が、名前という事実によって、過去へと還っていく気がした。

 だがそれでも――その名が、彼女自身の歩むべき道の始まりであってほしいと、弓箭は心から願っていた。

 

「……とても、綺麗なお名前ですわね」

 

 弓箭は小さく、そしてどこか慈しむように微笑んだ。

 

「はい、あたしもそう思います」

 

 佐天もまた、少女の寝顔を見ながら、同じように微笑んだ。

 

 その時だった。

 

 かすかな「すっ」という音が、静寂の中に溶け込む。

 ぴくっと、少女の細い指先が、ほんのわずかに動いたのだ。

 まぶたがぴくりと瞬き、寝息もかすかに変わった。

 

 佐天の瞳がぱっと大きく開かれ、息を飲む。

 

「あ、リコ!?」

 

 弓箭は瞬時に動きを引き締め、落ち着いた声で告げる。

 

「わたくしが先生を呼んで参りますので、佐天さんはリ……いいえ、日花璃さんのそばにいてください」

 

 佐天は深く頷き、静かにリコの手を包み込むように握り締めた。

 その間に、弓箭は軽やかに一歩を踏み出し、廊下へと駆け出す。

 

 二人きりになった静かな病室に、窓から差し込む光が、やわらかく揺れていた。

 佐天は、まるでその光が彼女を目覚めへと導いてくれるかのように、そっとリコ――日花璃の手を握り続けた。

 

 

     ◇

 

 

 病院の食堂の一角。昼下がりの柔らかな陽光が、テーブルの上に静かに差し込んでいる。

 食蜂操祈とドリーは、向かい合って椅子に腰かけ、それぞれのトレーを前にしていた。

 

 ドリーの皿には、申し訳程度にソースがかけられた小さなハンバーグと、付け合わせの茹で野菜。にんじんのグラッセと、ほんのりとした緑のブロッコリーが、控えめに彩りを添えている。

 

 普段なら物足りなく感じるような質素な食事だったが、今のドリーにとっては不思議と心が温まる味だった。

 ふわりと立ちのぼる香りが、どこか懐かしい。胸の奥に、遠い記憶の影が揺らいだ。

 

「ん〜……」

 

 ドリーはハンバーグを頬張ると、ほっぺたを少しふくらませたまま、嬉しそうに目を細める。

 

「おいしー……」

 

 その様子を、向かいの席から食蜂が優しく見つめていた。

 彼女のトレーには、白く滑らかなポテトサラダの小鉢がひとつだけ。控えめな彩りの中に、刻まれたきゅうりとにんじんがわずかに混じっている。

 マヨネーズの風味もほんのり感じるが、全体的には軽やかな味付け。病院仕様の「体に優しい一品」といった趣だった。

 

「ねえドリー、健康力に悪いから、ゆっくり食べてねぇ?」

 

 食蜂はポテサラを一口すくいながら、軽く微笑んだ。

 

「わはった」

 

 口いっぱいにハンバーグを詰めたまま、ドリーが頷く。

 

「あと、食べながらしゃべるのはマナーに悪いんだゾ」

 

 やや呆れた口調で言いつつも、声にはどこか楽しげな色が滲んでいる。

 

 ドリーは一旦もぐもぐと咀嚼し、きちんと飲み込んでから、改めて口を開いた。

 

「みさきちゃんは、それだけしかたべないの?」

 

 食蜂は肩をすくめ、小鉢のポテサラを見下ろすと、冗談めかして答える。

 

「ん〜、健康管理ってけっこう大事なのよぉ? なるべく油とか塩分とか控えて、胃に優しく、腸にやさしく、心に優しく……ってね。とくに最近はビタミンとミネラル重視、糖質控えめ、おまけに脂質カットの徹底管理」

 

 そう言って、彼女はもう一口、ポテトサラダを口に運ぶ。

 

「ふぅん……なんかむずかしいけど、すごいね」

 

 ドリーは感心したように目を丸くしていた。

 けれど、次の瞬間にはまたフォークを手に、ハンバーグに夢中になる。

 

 食蜂はそんなドリーを、どこか微笑ましげに見つめながら、そっとサラダに手を伸ばした。

 

 ふと、彼女は気づく。

 ハンバーグを夢中で頬張るドリーだったが、横のニンジンとブロッコリーにはまったくフォークが伸びていなかった。

 食蜂はサラダ用フォークを小鉢に戻すと、眉を一つ上げた。

 

「ドリー。お肉だけじゃなくて、野菜もちゃんと食べなくちゃダメよ」

 

 そう声をかけると、ドリーは口を尖らせる。

 

「ええ~? でもにがてだもん……」

 

 その反応に、食蜂は「やれやれ」と肩をすくめ、くすりと笑った。

 

「仕方ないわねぇ。じゃあこうしましょ」

 

 彼女は少し身を乗り出し、やや声のトーンを落として囁くように言った。

 

「にんじんとブロッコリー、ぜんぶ食べきったらぁ……ハンバーグを100倍おいしくいただける『裏レシピ』を教えてあげるわ☆」

 

 その言葉に、ドリーの目がぱっと輝いた。

 

「ほんと!? たべるたべるっ!」

 

 やる気スイッチが入ったドリーは、勢いよくフォークを手に取ると、先ほどまで苦手そうに見ていたにんじんをぱくり。続けてブロッコリーも勢いよく口へと運んだ。

 噛みしめながらちょっと眉をしかめていたが、それでもしっかり飲み込んで、付け合わせの野菜がすっかりなくなった皿を得意げに差し出す。

 

「たべたー!」

 

 その様子に、食蜂はやわらかく微笑んだ。

 

「えらいえらい。ちゃんと完食ねぇ。……元気そうでなによりだわ」

 

 そう言いながら、彼女は自分のトレーからポテトサラダの小鉢を取り出す。

 スプーンでひとすくいすくうと、それをドリーの残っていたハンバーグの上に、ちょこんと乗せた。

 

「それがね、この『罪深い味』の正体なんダゾ☆」

「ポテサラ……ハンバーグ?」

「想像以上にヤバいわよこれ。カロリーとか気にしてたら負けだけどぉ、こういうのって、妙にクセになるのよねぇ…」

 

 ドリーは一瞬不思議そうに眉を寄せたが、興味の方が勝ったらしく、フォークでひと口すくって、そのままぱくり。

 

 ――もぐもぐ、もぐ……。

 とろりとしたポテトサラダのまろやかさが、やさしい味のハンバーグと溶け合う。ほんのりとした甘みと、マヨネーズのコクが加わり、ひと口ごとにじわりと満足感が広がっていく。

 

 ドリーの顔が、ぱぁっと明るくなった。

 

「うっまい!! これ、みーちゃんにもたべさせたい!」

 

 その声に、食蜂は満足げに目を細め、小さく頷いた。

 

「ふふ、そうねぇ。きっと、びっくりするくらい笑顔になっちゃうかしらぁ?」

 

 いつの間にか、二人のトレーがすっかり空になっていた。

 食後の余韻がゆるやかに漂うなか、ドリーがぽつりとつぶやいた。

 

「にしても……みーちゃん、おそいわね」

 

 警策看取は、食事の前に誰かからの電話を受け、そのまま足早に病院を離れていった。理由も言わずに、ただ「先に行ってて」と言い残して。

 

 食蜂はその時の警策の顔を、ふと頭の中で反芻した。

 口元はいつも穏やかに見えたけれど、目だけが違っていた。まるで、その呼び出しをあらかじめ予測していたかのような――そんな、奇妙な確信を帯びた表情だった。

 

(……あの時の看取さんの目、どこか『予定通り』って感じだったわねぇ。まるで、何が起きるか知ってたみたいに)

 

 テーブルの上では、ドリーが使い終えたフォークをくるくると指で回している。

 そんな無邪気な仕草を横目に、食蜂は心の中で小さく息を吐いた。

 

(何かが、動いてる……そんな気がするわぁ)

 

 それはそうと、食蜂はふと思い立ったように、窓際のテーブルから視線を少しだけずらした。

 病院の食堂内、通路を挟んだ向かい側のテーブル。その席に腰かけているのは、白衣を羽織った中年の男性だった。無精ひげが目立ち、髪もやや伸び気味で、どこか疲れたような風貌をしている。

 一見して患者には見えない。たぶん、この病院に勤める医師の一人だろう。だが――

 

(……さっきから、ちらちら見てくるのよねぇ)

 

 明らかに『こちらを凝視している』わけではない。だが、食蜂が目線を放したタイミングを見計らうかのように、ふとこちらに目をやっているような、そんな気配を何度か感じた。

 偶然か、気のせいか。あるいは、自分たちが目立っているだけかもしれない。そう思って、特に気にしないふりをすることもできたが。

 

(……ああいう『さりげなさ』を装った視線、結構見覚えあるのよねぇ。観察してる時のそれって、意外と伝わってくるものよ)

 

 ドリーはフォークを回しながら、のんびりとした様子で隣に座っている。特に気づいている様子はない。

 そんな無邪気な少女の横顔をちらりと見てから、食蜂は小さく息を吐き、男のほうへ視線を戻した。

 

 彼はもう、こちらを見ていなかった。黙々とスープをすすっている。

 

(さて、誰でしょう? ……ただの医者にしちゃ、ちょっと挙動が怪しいわねぇ)

 

 無論、彼女の能力でその頭を覗けば、男の正体など一瞬で分かるだろう。

 けれど、ただ見られたくらいでいちいち他人の思考を覗いていたら、キリがない。

 それに、視線ひとつで正体を探られるなんて知ったら――相手のほうが面白くなく思うかもしれない。

 

 そんなことを考えていたときだった。

 

 ブルブルッ。

 微かに震える音が、食蜂のスマホから響いた。

 

 ――否、それだけではない。

 静まり返った食堂に、もう一つ、同じ振動音が重なって聞こえた。

 

 そっと視線を向けると、さっきの男もスマホを手に取っていた。

 やはり、彼の端末も同じように震えている。

 

(着信、しかもほぼ同時に? ……怪しい偶然力ねぇ)

 

 食蜂操祈は疑念を抱きつつも、ゆっくりとスマホの画面を見下ろした。

 表示されていたのは、よく知っている人物の名前だった。

 

 警策看取。

 即座に通話ボタンを押す。ちょうどその瞬間、白衣の男も同時に画面を押し、電話をつないだ。

 

「もしもし、看取さ――」

 

 食蜂の言葉が途切れた。電話の向こうから聞こえたのは、いつもの冷静さを欠いた、慌てた声だった。

 

『操祈ちゃん、今すぐ702号室に行って!』

 

 その声は普段の彼女らしくない、明らかに焦燥と緊張を含んでいた。

 

「ちょっ……どうしたの?」

『いいから早く! 「例の少女」が、このままだと危険なコトになっちゃうのよ!』

 

 食蜂は一瞬言葉に詰まったが、すぐに態勢を立て直し、声を強める。

 

「分かった、すぐ向かうわ」

 

 通話を切り、そっと男へと視線を戻す。

 その顔には、動揺の色が浮かんでいた。

 

 男はトレーを持ったまま、躊躇なく立ち上がり、素早く片付けを済ませると、食堂を駆け出していった。

 何か、ただならぬことが起きているのは間違いなかった。

 

「みーちゃん、なんていったの?」

 

 目をぱちくりとさせながら、ドリーが首をかしげる。

 その無垢な問いかけに、食蜂は一瞬だけ返答に詰まった。

 けれど、すぐにいつものようにやわらかな微笑を作り、なるべく自然に声を発する。

 

「……ごめんね、ドリー。ちょっとお手洗いに行ってくるから、しばらくここで待っててもらえるかしらぁ?」

 

 声色は軽やかに、仕草も丁寧に。だが、わずかに速くなった呼吸と、テーブルの下で握りしめた指先だけが、彼女の内心を物語っていた。

 

 食蜂はそっと立ち上がると、トレーの片づけもそこそこに、できるだけ足音を立てないように走り出した。

 

 

     ◇

 

 

 その頃、702号室では――。

 

 佐天涙子は、少女の小さな手をそっと両手で包み込むように握りしめながら、ベッドの脇に静かに座っていた。

 少女の指は冷たくて細く、今にも壊れてしまいそうに儚い。けれど、その手には、ほんのわずかに力がこもっているようにも感じられた。

 

 ふと、カチャリ、と小さな金属音が室内に響いた。

 ドアノブが回る音に、佐天は反射的に顔を上げる。

 

 扉が静かに開かれ、そこから一人の女性が入ってきた。

 白衣の裾がゆっくりと揺れ、足音はほとんど聞こえない。三十代前半ほどの年齢に見えるその女性は、長い髪を後ろで無造作に束ね、細い銀縁の眼鏡をかけていた。理知的な雰囲気をまとってはいたが、目元にははっきりとした隈が浮かび、ただならぬ疲労感がにじんでいる。

 

 その姿に、佐天の記憶が揺れた。

 ――そう、つい昨日、あのカエル顔の医者に紹介された人物。『体晶』による毒素除去の専門家であり、彼の要請でこの病院に呼ばれた研究者だ。

 

「……えっと、柊木先生……でしたね?」

 

 佐天が記憶をたぐり寄せるように声をかけると、女性――柊木は静かに頷いた。

 

「ええ。覚えてくれていて光栄です」

 

 そう言いながら、柊木は後ろ手で扉をぴたりと閉め、視線をゆっくりと少女に移す。

 その瞳は冷静だったが、どこかで焦燥の色を含んでいるようにも見えた。

 

「……目を覚ました、と聞いています」

 

 淡々とした口調の中に、ごくわずかな興味と警戒が滲む。

 佐天は頷いた。

 

「ええ。でも、本当に一瞬だけ。目を開けたと思ったら、すぐ寝返りを打って……それからまた、静かになって」

 

 柊木はベッドへと歩み寄ると、無言で少女の顔を見つめた。

 その表情には、研究者としての専門的な関心と――どこか、私情のようなものが同時に混ざっていたように見えた。

 しばし沈黙が流れたあと、柊木は小さく息をついて、まっすぐ佐天を見据えた。

 

 

 

「――解毒剤の試作品、完成しました」

 

 

 

 佐天の目が大きく見開かれる。

 

「本当に!? それって、彼女を助けられるってことですか……?」

 

 柊木はゆっくりと頷いた。だが、その顔には浮かれた様子は一切なかった。

 

「ええ……けれど、あくまで『試作段階』です。データ上は効果が期待できますが、臨床に使われた例はまだ一例もありません。副作用の可能性も否定できませんし、万一効かなければ、体力を無駄に消耗させるだけになるかもしれません」

 

 佐天は言葉を失い、ベッドに横たわる少女を見つめた。

 柊木は、静かに視線を落としながら言葉を続けた。

 

「でも――時間がありません。今、このタイミングを逃せば、解毒のチャンスすらなくなるかもしれません」

 

 そして一呼吸置いてから、柊木はそっと頭を下げた。

 

「ですから……この処置は、私の責任でやらせてください。ご家族でもない他人の目の前で、この『賭け』に出るのは、患者にとっても負担になります。できれば、二人きりで進めさせてほしいんです」

 

 声は冷静で、感情の波を抑えていたが、その裏に張り詰めた決意のようなものが感じられた。

 佐天はしばしの沈黙ののち、そっと椅子を引いて立ち上がった。

 

「……わかりました。お願いします、先生。……あの子を、助けてください」

 

 ベッドで眠るリコを一瞥し、名残惜しげにその小さな手をそっと布団の上に戻すと、柊木に一礼して、病室のドアへと歩き出す。

 

 ――すれ違いざま。

 

 柊木の白衣の裾が、佐天の腕にほんのかすかに触れた。

 その一瞬、かすかに香る薬品とインクの混ざったような香り。

 そして、通り過ぎる柊木の横顔が、視界の端でふと掠める。

 

(……あれ?)

 

 佐天の心に、どこかで見たような既視感が走った。

 すぐに思考が、昨日の遊園地での出来事を引き寄せる。

 あのとき――リコがさらわれ、立ち尽くしていたあの瞬間。

 すれ違いざまに、誰かがぽつりと告げてきたあの声と、あの独特の雰囲気。

 

(まさか……)

 

 佐天は、病室を出かけた足をふと止め、ほんのわずかに首をひねって背後を振り返る。

 

 視線の先で――柊木が、白衣の胸ポケットから何かを取り出していた。

 それは、小さな注射器のような銀色の器具。金属が光を反射して、異様に冷たく見えた。

 

 安堵していたはずの心が、急に冷気を浴びせられたようにこわばる。

 胸の奥で、直感が強く警鐘を鳴らしていた。

 

「……あのう、先生」

 

 声に出した瞬間、自分の唇がわずかに震えているのがわかった。

 

 柊木は注射器を手にしたまま、動きを止める。

 そのまま、ぬるりと振り返るように、ゆっくりと首だけを佐天の方へ向けた。

 

「私たち……どこかで会いませんでしたか?――遊園地とかで」

 

 一瞬、白衣の奥の顔に何かの影が落ちたように見えた。

 柊木は、すぐには応えない。

 

 いや、何かを探るように佐天の目をじっと見つめていた。

 その沈黙は、冷たい泥のように重く、まとわりつく。

 

「…………」

 

 やがて――その口元が、音もなく笑みに歪んだ。

 それは愛想でも親しみでもない。感情のひび割れから滲み出たような、空虚な笑みだった。

 

「さぁ……歳をとると、物覚えが悪くなってしまってねぇ……」

 

 その言い回しには、芝居がかった気味の悪さが滲んでいた。

 

「でも君の顔……そうだね――ほんの少し、見覚えがあるようですね。目のあたりとか、特に。……ねぇ、もう少しだけ、近くで見せてくれませんか?」

 

 その視線は、まるで佐天の眼窩の奥を覗き込もうとするようだった。

 冷や汗が、首筋をつたう。

 

「あ、いや……たぶん、人違いじゃないかな」

 

 逃げるように言葉をはさむ佐天に、柊木はにっこりと笑った。

 だがその笑みに、目元の筋肉はまったく動いていなかった。

 

「おや? どうしてそんなに慌てて否定するんですか?」

 

 白衣の裾が、わずかに揺れる。

 彼女は静かに、一歩、また一歩と佐天との距離を詰めてくる。

 

 その動きには一切の急ぎも荒さもなかった。けれど、それが却って恐ろしい。

 静かな水面の下に、何か得体の知れないものが潜んでいる。そんな感覚。

 

(――この人は……普通じゃない)

 

 佐天はそっと後ずさりし、背後のドアノブに手を伸ばす。

 

 その瞬間だった。

 

 がしっ。

 

「っ……!」

 

 冷たい手が、まるで蛇のようにその手首を絡め取った。

 振り払おうとしたが、次の瞬間――

 

 チクリ。

 走ったのは、かすかな痛みと、針の感触。

 見ると、腕に細く鋭い注射針が刺さっていた。

 

「や……めっ……」

 

 抵抗の言葉を押し出す間もなく、佐天の身体がふらりと傾く。

 足がもつれ、床へと崩れ落ちる。

 身体が沈む。重力が三倍にも感じる。

 視界がぐにゃりと歪み、照明の光が液体のように滲んでいく。

 

「……あなたは……いったい……」

 

 佐天のかすれた声に、柊木は答える。

 低く、呟くように――

 

「誰でもない。ただの――しがない研究者さ」

 

 その顔が近づく。

 耳元で、熱と冷たさを同時に帯びた声が囁かれた。

 

「君は、少し……知りすぎた」

 

 ぞわり、と背筋を悪寒が這いまわる。

 その様子を見届けると、柊木はゆっくりと病床の少女へと向き直った。

 

 背筋はまっすぐで静かだったが、そこには人間の温度が欠けていた。

 あまりにも静かすぎる『静けさ』――それは、生物的なものではなかった。

 

 その一瞬の隙を突いて、佐天は意識がかろうじて残る中で、最後の力を振り絞る。

 弓箭にもらった銀色のペンダントを――引きちぎった。

 

 そのまま、手探りでベッドの下へと滑り込ませる。

 それが床に触れる音すら、もはや彼女の耳には届かなかった。

 

(……お願い……誰か……)

 

 その切なる願いと共に、佐天の視界は、深い闇の底へと沈んでいった。

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