旧校舎の空き教室で、警策看取はスマートフォンを静かに伏せた。
「……終わりましたの?」
ほぼ同時に通話を終えた時ヶ谷凛音が、静かに問いかける。
「ああ、一応病院に居合わせた友達に連絡を入れといた。ソッチは?」
「ええ、こちらも――病院に潜入されている『協力者』の方に、事情をお伝えしましたわ」
「そうか。となると……コッチも急いだ方が良さそうだね」
警策の声は冷えきっていた。
感情を抑えたトーンの奥に、どこか焦燥と緊迫の色が滲む。
時ヶ谷が一つ頷いた、その刹那――
二人の足が同時に床を蹴る。
タッ、タッ、タッ――乾いた足音が廊下に刻まれ、古びた木材が低く軋む。
屋上の扉を一気に押し開けた瞬間、朝の冷気が頬を切り、眩い光が差し込んだ。
パチン、と警策が軽く指を鳴らす。
銀の液体が背中から噴き上がり、流れるように両肩へと伸び、鋭く輝く銀翼を形作る。
その横で、時ヶ谷の足元に風が渦を巻く。
空気が震え、制服の裾が風に翻り、朝陽を受けた黒髪が舞い上がった。
「参りましょう、警策さん」
「ああ」
次の瞬間、二人の少女が――重力の軛を振り切った。
銀翼が閃き、風が爆ぜる。
蒼穹を裂き、彼女らは朝の空へと飛び立った。
目的地は言うまでもなく――第七学区の病院。
もはや一刻の猶予もない。二人は無言のまま、澄んだ朝の空気を切り裂いて飛翔する。ビル群の遥か下に列を成し、眼下の街がミニチュアのように広がっていた。
「――あの子の居場所を突き止めたきっかけは、たまたま目にした都市伝説サイトの投稿だった」
高度300メートル。冷たい風が頬を打つ中、警策は静かに口を開いた。声音は低く、しかし言葉には鋭い重みが宿っていた。
隣を並んで飛ぶ時ヶ谷は、視線を前に向けたまま、無言でその言葉を受け取る。
「あの書き込みは最初から怪しいと思ってた。異様に詳しすぎて、普通じゃ知り得ない情報が山ほどあった……明らかに、関係者以外には知りえない内容だったわ」
声が少し強くなる。口調は冷静ながらも、どこか鋭い警戒心が滲んでいる。
「なにより――投稿者のハンドルネームが気になってた」
「ハンドルネーム?」
朝の光が時ヶ谷の横顔を照らす。その瞳が、一瞬だけ警策の方へと向いた。
「『
警策の語気が、わずかに強くなる。
その一言で、時ヶ谷の表情がほんのわずかに揺れた。頬にかかる髪が風に流れ、彼女は一拍置いてから静かに問い返す。
「その投稿者の正体に、何か心当たりは?」
数秒の沈黙。
警策は空の向こうを睨むように見つめたまま、風を切る音の中で思考を巡らせる。
やがて、低く、絞るように――だが確信を滲ませながら囁いた。
「……可能性として――」
その名を口にした瞬間、時ヶ谷の瞳がわずかに見開かれる。けれどすぐに思考へと切り替え、言葉を選びながらゆっくりと頷いた。
「……やや突飛な発想に思えますけれど、それなら全てが繋がりますわね」
白く無機質な廊下に、足音が二つ、乾いた音を響かせる。
「すみません、こちらです」
弓箭猟虎が小走りで先導し、その背後にはカエル顔の医者がついてくる。
やがて病室の扉の前にたどり着いた弓箭は、軽く息を整え、ノブに手をかけた。
「――佐天さん、医者をお連れし……」
その言葉は、途中で途切れた。
扉を開け放った病室には、静寂だけが支配していた。
ベッドの上にあったはずの姿も、そのすぐ隣に座っていたはずの姿も、どこにもない。
「……いません……さっきまで、ここに確かに……!」
弓箭が駆け寄るが、どこにも少女たちの姿は見当たらなかった。
布団の皺、使われたままのコップ、わずかに揺れる点滴のチューブ――ほんの数分前まで人の気配があったはずの場所なのに、今はただ空虚だけが残されている。
カエル顔の医者はわずかに眉をひそめ、病室内を見回しながらつぶやいた。
「あの状態で、一人で動けるとは考えにくいんだが……君の友人が医者の許可なしに外へ連れ出すような子にも見えないけどね?」
病室の窓は閉じたまま、鍵も内側からかかっていた。
だが、それでも、二人の少女は――まるで霧のように、跡形もなく消えていた。
弓箭はベッドの前に立ち尽くしながら、周囲に目を巡らせる。
(……何かがおかしいですね)
漠然とした違和感が胸をしめつける。
ベッドの枕元、サイドテーブル、カーテンの後ろ――隅々まで注意深く確認していく。
ふと、彼女の視線が床に落ちた。
ベッドの下、白い床の上で、何かがわずかに光を反射しているのを見つけたのだ。
弓箭は静かに膝をつき、慎重に手を伸ばす。
それは、うっすらと埃を被った、小さな銀のペンダントだった。
手のひらに乗せたそれは、ハート形の輪郭に精緻な花模様が彫られており、中心には深い蒼のサファイアがはめ込まれていた。
「……これ……」
呟いた声に、カエル顔の医者が軽く眉を上げた。
弓箭は、指の中でペンダントの感触を確かめるように握る。
忘れようにも忘れられない。これは――自分が佐天に贈ったものだ。
それを今朝から、佐天はずっと身につけていたはずだった。
掌の上のペンダントが、まるで彼女の体温をまだ宿しているかのように、微かに温かかった。
(……どうして……)
胸の奥に冷たい感覚が広がっていく。
佐天がこれを落としたのか、それとも――誰かに気づかせるために置いていったのか。
彼女は突然消えたわけではない。何かが、あったのだ。
指の中のペンダントを強く握りしめながら、弓箭猟虎は立ち上がった。
「おい、落ち着いて――」
背後でカエル顔の医者が言葉をかけたが、彼女は振り返らない。
病室から飛び出し、ペンダントの鎖が手の中でわずかに揺れた。
白く無機質な廊下を駆け抜ける。
(佐天さん、日花璃さん……どうか、ご無事で……!)
肩で荒い呼吸をしながら角を曲がったそのとき――
ふいに視界の端を、何かがすり抜けた。
蜂蜜色の髪をふわりと揺らした少女が、ふと足を止める。
だが、弓箭はそれに気づくことなく、ただひたすらに走り去っていった。
(……今の子、どこかで……)
頭の片隅に引っかかる感覚はあったが、今はそれを気にしている暇はない。
すぐにでも――702号室へ向かわなければならないのだ。
とはいえ……
「……ちょ、ちょっとは、休憩力……を挟んだ方……が、いい……かも〜……」
極度の運動音痴――食蜂操祈は壁に手をつきながら、はーはーと荒い息を吐いていた。
警策の指示で急いで走ってきたものの、すぐに体力が尽きてしまった。
しかも、なぜかエレベーターは急にメンテナンス中の表示が出て、使えなくなってしまった。
仕方なく階段を使う羽目に――。
(まさか……これ、誰かの妨害力じゃないよね?)
とりあえず善は急げと、息を切らしながらもなんとか目的の病室にたどり着いた。
だが、そこにいたはずの誰もが、どこにもいなかった。
「……一歩、遅れたかしらぁ……」
食蜂はしばらく壁に背中を預け、わずかに体力を回復させた。
そして、ハンドバッグからリモコンを一つ取り出し、そっとボタンを押す。
ピッ。
ベッドの上、サイドテーブルのぬいぐるみやキーホルダー、果物の包み――病室に取り残されたさまざまな物から、残留思念を読み取っていく。
それらの断片が、彼女にここで起きた真実を告げていた。
(白衣の研究者らしき女性に連れ去られたのは二人――一人は確か……御坂さんのお友達の佐天さん。もう一人は……『例の少女』に違いないわねぇ……)
警策の予感は、最悪の形で的中したようだった。
とはいえ、ここで立ち止まっている暇はない。
残留思念が教えてくれたのは、ただこの場で何が起きたのかだけではなかった――彼女たちが向かった先までも、確かにそこに刻まれていた。
(……また走らなきゃいけないのかしらぁ)
心の中でぼやきつつも、渋々ながら病室を飛び出し、再び廊下を駆け出す。
――彼女は気づいていない。
その背を見送るように、無精ひげを生やした白衣姿の男が、気配を殺して静かに後を追っていた。
「――うぅ……」
ぼんやりとした意識の底から浮かび上がるようにして、佐天涙子はゆっくりと目を開けた。
視界がかすんでいたのも束の間、しだいに光が輪郭を取り戻していく。まぶたの隙間から射し込むのは、蛍光灯の冷たい白ではなく、柔らかで眩しい陽光だった。
……頭上には、雲一つない青空が広がっている。
秋の爽やかな風が頬を撫で、病院の無機質な匂いと入り混じる。
「ここって……病院の、屋上……?」
呟いた声はかすれていたが、空間に虚しく響いた。
体を起こそうとして、佐天はふと違和感を覚える。
手も足も、まるで自分の意思を無視するように動かない。下半身には締めつける感触があった。
「っ……なに、これ……? ガムテープ?」
縛られている。はっきりとした危機感が背筋を這い上がってくる。
そのとき――
「……起きたかい?」
低く、しかしはっきりとした女の声が空気を震わせた。どこかで聞いた覚えのある声だ。
佐天は息を飲み、声のする方へ視線を向ける。
そこには、一人の女性がいた。
長い髪を一つに束ね、白衣を羽織ったその姿は、まるで医師のようにも見えたが、その目には医療者のような優しさは一片も宿っていなかった。
冷たく、何かを観察するような視線が、まっすぐ佐天に向けられていた。
そして、その女の足元には――
「……リコ!?」
病院着を着た、小さな少女がぐったりと倒れていた。
目を閉じて動かない彼女の姿に、佐天の血の気が引いていく。
必死に身をよじろうとするが、腕も脚も、まるで鉄鎖にでも囚われたかのように動かなかった。
ガムテープはしっかりと、そして無慈悲に彼女を拘束していた。
「安心しなさい。彼女はまだ死んでない――今死なれちゃうと困るからね」
柊木の声音には、感情の欠片もなかった。機械のように冷たく、必要な情報だけを吐き出す。
佐天は、縛られた手足をじたばたと動かしながら、唇を噛みしめる。
「あなた、何が目的なの!?」
「別に、大した目的じゃないよ。ただ……彼女が『思い出す』かどうか――それだけが、ちょっと気になってね」
その言葉に、佐天は言葉を失う。一瞬、ふざけているのかとさえ思った。
「……『思い出す』? 何を……?」
柊木は微かに笑った。それは笑顔というには程遠く、むしろ寒気すら覚える表情だった。
「まあ、それは彼女次第。私はただ……その『手助け』をしているだけ」
言い終えると、柊木はゆっくりと振り向いた。
青空の下、屋上から見渡せる街並みに視線を投げる。その表情には、懐かしさとも寂しさともつかない陰が差していた。まるで、遠い記憶を辿るように。
――気が遠くなるような年月。柊木は、ずっと『少女』の行方を追い続けていた。
霧ヶ丘に籍を置き、かつて才人工房の被験者だった警策や時ヶ谷が所属する特別クラスの担任を務めていたのも、少しでも有益な情報を引き出すためだった。
全ての元凶――木原幻生。その名が関わった研究施設を一つずつ洗い出し、ときには腹いせ半分で暗部組織『アイテム』を雇い、施設を破壊させた。だが、目的の『少女』はそこにはいなかった。
そして皮肉なことに、その『アイテム』は、つい先日の暗部抗争で壊滅した。
柊木は、『少女』を確保するための手段を、完全に失ったのだ。一介の研究者に過ぎない自分には、それ以上を求めることはできなかった。
――そんな時、ふと一つの手段が頭をよぎった。
『少女』の能力。その出身地である旧校舎。そして、同じく才人工房の被験者だった『幽霊少女』の逸話。
これらを混ぜ合わせ、脚色し、都市伝説サイトに投稿した。
目的はただ一つ。ネットにばらまかれた情報の中から、『少女』の行方を炙り出すため――。
そう。『幻の能力』の都市伝説を広めたのは、柊木自身だったのだ。
だが、またしても予想外のことが起きる。
警策が、柊木に先んじて『少女』の居場所を突き止めた。しかも――柊木が流した都市伝説を利用して、である。
それでも、柊木にとってはむしろ都合がよかった。
自らの手で解放する術を持たない以上、誰かに先に手を出してもらった方がよかった。
その後、『少女』は弓箭と佐天の元に身を寄せることになる。柊木は彼女たちを密かに追い、遊園地にまで尾行していた。
身柄を確保するチャンスをうかがっていたが――まさか、あの場で警策と鉢合わせするとは思っていなかった。
あの勘の鋭い少女に、ひとりの女教師が遊園地にいるだけで勘づかれるかもしれない。そう直感した柊木は、とっさに「娘と一緒に来ている」と取り繕うしかなかった。
やがて、『少女』は下っ端三人組に攫われる。
その時ばかりは、柊木もさすがに焦りを覚えた。このまま他人の手に渡ってしまえば、これまでの努力がすべて水の泡だ。
――そして、佐天涙子を見つけた。
遊園地内を探し回っていた彼女とすれ違いざま、柊木は『少女』の居場所をそれとなく伝えた。
理由は二つ。一つは、時間稼ぎ。そしてもう一つは――佐天なら、『少女』に能力を使わせることができるかもしれない、という希望。
『少女』が能力を使えば、必ず『体晶』の副作用で倒れる。
そうなれば、病院に運ばれるのは時間の問題だ。
……そして、その病院こそ、つい最近、柊木が『体晶』治療の協力者として招かれていた場所だった。
「――君には感謝してるよ。彼女の身柄を保護してくれて、能力を使わせてくれて……そして、私の元へ連れてきてくれたことをね」
柊木の口元に浮かぶのは、かすかな笑み。だが、そこに温もりは一切なかった。
佐天の背筋に、冷たいものが這い上がる。
ふと、倒れている『少女』に目を向ける。
顔色は青白く、汗にまみれた額――昨日、病院へ搬送されたときよりも明らかに容態が悪化していた。
そして、佐天は思い出す。
病室で意識を失う直前、柊木が『少女』に何かを注射していたことを――。
「リコ!? あなた、リコに何をしたの!? 解毒剤を作ってくれるって、あれ、全部嘘だったの!?」
「解毒剤? そんなもの、最初から作れるはずがないよ」
柊木は淡々と告げる。
「そもそも、彼女の症状はもう手遅れだった。今さら体内の『体晶』を除去しようにも、間に合わない」
「……じゃあ、あのとき、あなたが彼女に注射したのは……」
佐天の声が震える。
「つい最近、似たような症状で入院してきた患者がいてね。私はその治療に関わってた。――で、そいつの体内から抽出した『体晶』を凝縮して、再び彼女に打ち込んだのさ」
「っ……!?」
戦慄。
今の佐天の心情を言い表せる言葉は、それしかなかった。
『少女』は、『体晶』による毒素の影響で寿命が縮んでいる。あのカエル顔の医者は、そう診断していた。
そこにさらに、『体晶』を投与したら――。
「あなた……リコを殺す気なの!?」
「殺すだけなら、何も今日じゃなくてもよかった。昨夜、彼女が私の管理下に入った時点で、いくらでもチャンスはあったんだから」
柊木の声は静かで、むしろ理性的にさえ聞こえた。
「言ったでしょ?――『今』死なれちゃ困るって」
「なに……を……」
言葉の意味が、うまくつかめない。
柊木が一体、何をしようとしているのか――。
そこで思い出す。
『体晶』は本来――能力を暴走させるための代物だったことを。
「――うぅ……」
微かなうめき声が、沈黙を切り裂いた。
倒れたままの『少女』が、ゆっくりとまぶたを開ける。視線はぼんやりと宙を彷徨い、やがて縛られた佐天へと向けられる。
「……るい、こ……?」
か細く、幼い声。苦しげに手を伸ばしてくる仕草が、胸を締めつける。
「リコ……!」
佐天は必死に身をよじったが、拘束された身体では彼女に駆け寄ることも、その手を取ることもできない。ただ、痛ましい光景を前に、震える唇を嚙みしめることしかできなかった。
その光景を、柊木は静かに見下ろしていた。
「やっと、目を覚ましてくれたんだね」
どこか嬉しそうな声音。だが、その声には温かみのかけらもなかった。
柊木の視線は、まるで
「……己の『罪』を忘れるとは、幸せなことね。だが、忘れたからって、『罪』が消えるわけじゃない。そろそろ――思い出してもらおうか」
佐天が息を呑んだのと同時に、柊木は白衣のポケットから何かを取り出した。
それは――小型の、レディ用の拳銃だった。
反射的に佐天の心臓が跳ねる。
次の瞬間、柊木は『少女』――ではなく、佐天に銃口を向けた。
「なっ……」
理解が追いつかない。狙いをつけたまま、柊木は静かに引き金を――
パンッ!
屋上に乾いた銃声が鳴り響いた。
◇
弓箭猟虎は、屋上へと続く階段を駆け上がっていた。
佐天が残したペンダントから彼女の『におい』を読み取り、その痕跡を辿った結果――たどり着いたのは、病院の最上階、階段入口のすぐそばにぽつんと置かれていた清掃用カートだった。
おそらく犯人は、ふたりを攫ったあと、清掃業者を装ってこのカートに彼女たちを隠し、ここまで運んだのだろう。
エレベーターが止まったのも、きっとその犯人による妨害工作だったに違いない。
(まさか、屋上で迎えのヘリでも待ってるつもりじゃないでしょうね……)
そんな皮肉めいた思考がよぎった、そのときだった。
――パンッ。
乾いた、くぐもったような銃声が、階段の上――屋上から響いてきた。
弓箭は思わず立ち止まり、目を見開く。
――今のは、間違いなく銃声。しかも、すぐ上からだ。
「ぐぁっ」
直後、脳髄を突き刺すような鋭い頭痛が弓箭を襲った。
ただの体調不良ではない。この痛みには覚えがあった。
遊園地で、『少女』による能力強化が切れた直後にも、確かに似た痛みを感じていた。
だが、今回はそれだけでは済まなかった。
強烈な頭痛とともに、視界の奥に――誰かの記憶のような光景が突如、流れ込んできた。
長い髪、白衣、眼鏡。
女が銃を構え、佐天涙子に向けて引き金を引く――その瞬間。
(佐天さん……!?)
頭を押さえたまま、弓箭の背筋に氷のような冷たいものが走る。
だがその直後、彼女の思考はさらに深い混乱に陥った。
(なに……? いまの
頭痛に苛まれながらも、弓箭は足を止めなかった。
額に滲む冷や汗を拭う余裕もないまま、ふらつく身体で一歩、また一歩と階段を踏みしめる。
――屋上の扉は、もう目と鼻の先だ。
視界がにじむ。心臓の鼓動がうるさく耳を打つ。
それでも、佐天の身を案じる気持ちが、弓箭を無理やり前へと押し出していた。
震える手でノブを掴み、力任せに――扉を開け放つ。
そして彼女が目にしたのは――
◇
「――ぐぁっ……!」
高度およそ300メートル。空を飛行していた時ヶ谷凛音が、突如として頭を押さえ、空中で動きを止めた。
だが――忘れてはならない。
ここは空。風を操っての飛行中、制御を失えばどうなるかは明白だ。
「時ヶ谷!?」
彼女の体がふわりとバランスを崩し、失速とともに地上へと落下していく。
すぐさま、隣を飛んでいた警策看取が翼を傾け、急角度で彼女に向かって滑り込む。
そして、空中でその身体をしっかりと受け止めた――お姫様抱っこで。
「おい、時ヶ谷。無事か?」
「ええ、助かりましたわ……」
警策の腕の中、時ヶ谷はしばらく額に手を当てていたが、やがて何事もなかったかのように、いつもの表情を取り戻した。
「突然、頭痛に襲われましたけれど――『
風の流れを再び操り、時ヶ谷は警策の腕から静かに身を離すと、そのまま空中でホバリングを始める。
その頬がわずかに紅潮しているようにも見えたが――今は、それを指摘する空気ではなかった。
空中で互いに距離を取りながら、警策が口を開く。
「……今、頭痛がしたって言ってたよな?」
そう尋ねながら、警策はふと、時ヶ谷の言葉を思い出していた。
『「
『――その影響で、日花璃さんの精神が不安定になったとき、過去の記憶や感情が、他の被験者に流れ込む現象が確認されました』
空中で静止していた時ヶ谷凛音が、ふと視線を地上へと向ける。
その声は、まるで確信に満ちた予言のように、唐突だった。
「――あの子は今、病院の屋上にいますわ」
言葉の意味は明らかに異常だったが、それでも警策看取は顔色ひとつ変えなかった。
「……ヤッパリ、何かが起きてるのね」
冷静な声色の奥には、張りつめた警戒と、薄い焦燥。
どこか遠くを見るように目を細めながら、警策は高度を保ったまま時ヶ谷へ問いかけることなく、ただ確認するように呟いた。
時ヶ谷は小さく頷き、胸元に手を当てる。
彼女の声音は震えていなかったが、その指先にはかすかな力がこもっていた。
「……記憶が、流れ込んできたのです。あの子の――日花璃さんの」
それが意味することは、ひとつしかなかった。
『
つまり――
「最悪の事態、か……」
警策がぽつりと呟く。
すでに二人が想定していた、最悪の可能性。
それが、今この瞬間に顕在化している。
風が、急かすように彼女たちの間をすり抜けていった。
ふたりは短く目を合わせ、言葉を交わすこともなく頷くと、そのまま一気に加速し、青空を裂くように病院へ向かって飛び去った。