曇天の下、吹き抜ける風だけが空に響く。
高度500メートル。どこまでも灰色に沈む空を背に、二つの影が浮かんでいる。
一方は、紫がかった長い髪を二つに結わえた少女。
背に広げたのは、コウモリのような銀翼。腰のあたりからは、硬質な矢印型の尾。
もう一方は、絹糸のように艶やかな髪を風に靡かせた、小柄な『少女』。
背に生えた結晶のような羽根は、淡く光を反射しながら、静かに煌めいていた。
警策は、目の前の『少女』をじっと見据える。
無垢な外見。だがその雰囲気には、言いようのない異質さがあった。
風に揺れた前髪の隙間から覗いた金色の瞳。
そこに、理性の光はなかった。
代わりに、微細な光子がちらちらと浮遊し、底の見えない虚無を映していた。
次の瞬間――
「……ッ!」
眩い閃光が、前触れもなく放たれた。
殺気も、予備動作すらもない。まるで雷鳴のような速度で、警策の眼前へと奔る。
瞬時に銀翼を羽ばたかせ、警策は反射的に身を捻った。
閃光は、すぐ背後を掠めると、雲を突き破り――
ドォン――!!
大気を震わせるような爆発音が、空に轟いた。
閃光は空中で連鎖的に炸裂し、風圧と光の波を撒き散らす。
(……改めて空中に連れ出して正解だったわね。あんなのが地上で暴れたら……)
『少女』は追撃に動こうとはしなかった。
ただ淡々と、宙を漂い続けている。無表情のまま。
けれど、その瞳の奥では、光子の濁流が凝縮し、次なる閃光の兆しを灯していた。
このまま座して撃たれるわけにはいかない。
ギィンッ!
空気が裂ける――鋭い金属音が一閃。
警策は、躊躇なく腕を振るい、空中にナノ粒子を散布する。
即座に無数の金属矢が形を取り、『少女』めがけて一斉に解き放たれた。
怒涛のような矢の奔流が、空を穿つ。
『少女』は、まったく動かなかった。
避ける素振りすら見せないまま、その小さな体は、鋭い金属矢の群れの中心へと飲まれていく。
一瞬、視界が白く染まった。
炸裂音とともに金属矢が直撃する。
衝撃が生んだ乱気流が警策の頬をかすめた。
――しかし。
次の瞬間、煙の向こうから、無傷のまま浮かぶ『少女』の姿が現れる。
(……ヤッパリ、効かないか)
彼女の肌には、かすり傷ひとつない。
むしろ、金属矢の方が『拒絶された』ように、彼女の半径数メートルに入った途端、歪んで、崩れて、銀の雫となって空に散っていた。
まるで、空間そのものが異質な法則に支配されているかのようだった。
能力の性質すら歪めるとされる――『
噂通りの性質なら、能力を使ってこの少女を傷つけることは、おそらく不可能。
(なら……どう崩す?)
そんなことを考えていた、そのときだった。
『少女』の背後で、光子がざわめく。
その身を包む結晶の羽根が、かすかに色調を変え、光の粒子が一点に収束していく。
次の一撃が来る。直感が、全身の神経を逆撫でしていた。
その直前だった。
パチン、と軽く指を鳴らす音が響き、耳を抉るような高周波が虚空を切り裂いた。
空気が震え、波紋のように広がる不可視の振動が、『少女』の周囲に干渉する。
『少女』の小さな身体がわずかに揺れ、警策を狙っていたはずのいくつもの閃光が狙いを外し、何もない上空へ向かって解き放たれた。
(……音波?)
警策が振り向くより早く、もう一つの影が風を裂いて飛来した。
「――まったく……何が『コイツは私がなんとかする』ですの?」
凛とした声音が、空の静寂を切り裂いた。
警策の傍に並んだ時ヶ谷は、やや呆れたようにこちらを見やる。
「何の策もなしに突っ込むなんて、警策さんらしくありませんわね?」
警策は肩越しにちらりと目をやり、ふっと息をついた。
それから、前を見据えたまま、口の端をわずかに吊り上げる。
「ま、付いてきてくれるとは思ってたけどね」
「頼られるのは嫌いではありませんけれど……あまり期待されすぎても、肩が凝りますわ」
時ヶ谷はそう言って髪を軽く払うと、視線を前へ戻す。
『少女』は再び羽根を広げ、無傷の身体から、静かに光を収束させていた。
「……攻撃は全部弾かれる。能力そのものが、通らない」
「存じておりますわ。忠告ですが、あまり彼女にお近づきにならない方がよろしいかと」
時ヶ谷の声が、冷ややかに響く。
「あの光を浴びれば、能力が弱体化してしまいますの」
警策は小さく息を吐き、視線を細める。
「……さっきから、どうにも力が思うように使えないと思ったのよ。彼女が強いってだけじゃない。……コッチが『弱くされてる』って感覚、確かにあったわ」
能力の性質を歪める。
それは、能力者にとって最も忌むべき力だった。
すなわち、こちらの攻撃が一切通じず、向こうからの攻撃は能力では防げないということを意味していた。
「
警策が低く呟く。
「別に、彼女を倒す必要はありません。わたくしたちは――ただ、『時間稼ぎ』さえすればよろしいのですわ」
時ヶ谷の声音はあくまで穏やかで、戦場の緊迫感すら薄れてしまいそうになる。
「……何か、考えがあるの?」
警策が目を細めて問うと、時ヶ谷はちらと横目で見やり、口元だけで小さく微笑んだ。
そして、誰にも聞かれぬよう、警策の耳元で短く囁く。
その内容を聞いた瞬間、警策の目がわずかに見開かれた。
「……なるほど。となると――あの子たちを信じるしかないわね」
警策と時ヶ谷が病院の屋上から飛び去ったあと――
佐天の傷は時ヶ谷の能力で塞がれていたが、念のためカエル顔の医者に預けられている。
柊木は食蜂の能力で別室にて身柄を拘束中。本人は頑なに治療を拒否しているものの、最低限の応急処置は施した。
そんな中、食蜂操祈とドリー、そして弓箭猟虎の三人が702号病室を訪れていた。
本来は『少女』のために用意された病室は、今はがらんと空き部屋になっている。
ただ、サイドテーブルの上にはピンク色のゲコ太のぬいぐるみと、金色のゲコ太キーホルダーがちょこんと置かれていた。
その見覚えのある品にかすかに心を揺さぶられたのか、ドリーはしばらくサイドテーブルの前で上半身を前に傾け、じっと見つめていた。
「………」
食蜂操祈と弓箭猟虎は、ただ黙って病室の空気に身を浸していた。
何かを言うには、あまりに言葉が重たくなりそうで、どちらからともなく沈黙を選んでいた。
やがて、その沈黙に最初にほころびを入れたのは、食蜂だった。
声は静かで、しかし明確に相手を見据えていた。
「あなた、確か『
その言葉に、弓箭の肩がわずかに揺れた。
「……はい」
しばし目を伏せたまま返した声は、ほとんど囁きのようだった。
佐天の姿が頭から離れないのだろう。自分のせいではないと分かっていても、心のどこかで罪悪感がしこりのように残っている。
その重みを抱えたまま、彼女はようやく顔を上げた。
けれどその瞳には、まだ迷いが色濃く滲んでいた。
「みーちゃん、だいじょうぶなのかな……」
ドリーがぽつりと呟き、窓の外に広がる灰色の空をじっと見つめていた。
警策と時ヶ谷のおかげで、『少女』は空中で食い止められ、被害は最小限に抑えられている。
「……もどかしいけど、今は看取さん達を信じるしかないわねぇ」
食蜂の口調はいつも通り柔らかだったが、内心の焦燥は隠せなかった。
精神系最強の能力――『
ドリーもまた、多少の戦闘技術はあるものの、飛行能力は持ち合わせていない。
だからこそ、食蜂はせめてもの手段として、拘束した柊木という女の記憶を探ってみた。
だが、その結果も芳しくなかった。
あの女は、最初から『少女』をただの道具として見ておらず、その力を暴走させて、自らもろともこの街を葬り去ろうとしていた。
ゆえに『彼女を止める手段』など、最初から想定していなかったのだ。
「……わたしたちにできることは……ないのかな……?」
ドリーの声がか細く、どこか寂しげにこぼれる。
直後だった。
「――あるさ」
病室のドアの方から、低く響く声がした。
全員が一斉にそちらへ視線を向ける。
そこに立っていたのは、無精ひげをたくわえた白衣姿の中年男性。
寝癖の残る髪に、着古した研究者用コート。
「貴方は……」
思わず声が漏れた。
食蜂操祈の視線がその中年男性を鋭く射抜く。
その顔には覚えがあった。
つい先ほど、ドリーとともに病院の食堂で食事をしていた時、自分たちをちらちらと見ていた――あの怪しげな男だ。
彼女の警戒を込めたまなざしを前にしても、男は臆する様子をまるで見せなかった。ただ淡々と、自分の立場を語り出す。
「
その所属を聞いた瞬間、室内の空気がひやりと凍ったように感じられた。
食蜂はもちろん、ドリーも、そして弓箭猟虎も、その単語に反応した。
「『
食蜂がそう切り出す声には、わずかに棘が含まれていた。まるで、答えの内容を試すかのように。
榊と名乗った男は、それに対し、曖昧ではない明確な頷きを返す。
「その通りだ。本来、『
榊は、言葉を一度切った。
その間に含まれる無音の圧は、むしろ有声よりも重かった。
「……計画そのものは、決して止まってはいなかった」
榊の声に、微かな苦味が混じる。
「『天才や偉人の量産』という狂気に満ちた理想――その核となる技術と理論は、別の形で引き継がれた。新たな拠点と資金、そして統括理事会の恩恵のもとで、第二学区において再始動した。それが、君たちの知る……『
「………」
場はしばらく沈黙に支配されていた。
誰もが、榊の語った内容の重さと、その裏にある真意を測りかねていた。
食蜂操祈は、じっと黙って榊を見つめていた。
この男は本当に、味方なのか?
それとも、別の思惑を抱えて、今この場に現れたのか。
「……あの子はもうすぐ限界だ。このままだと、自分を中心に街ひとつ吹き飛ばす規模のエネルギーをぶちまけるだろう」
榊は、そんな視線にも眉一つ動かさず、ただ静かに言った。
「もう時間がない。俺が怪しいと思うなら、記憶を覗いてもらって構わない」
その声には、虚勢も、芝居がかった誇張もなかった。
まるで、ただ自然な選択肢のひとつとして告げるような口調。
食蜂のまなざしが、ほんの僅かに揺れる。
『
精神操作系の能力者を前に、そうまで言える者は、そう多くない。
「ふぅん……」
やがて食蜂が、わずかに唇を歪めた。笑みとも、ため息ともつかない、曖昧な音が洩れる。
「貴方のこと、一応信じてあげるわぁ。でも、今はそれどころじゃないの。……さっき、『私たちにもできることがある』って言ってたわよねぇ?」
「ああ。一つ、試したいことがある」
榊の目が、三人の顔を順に見渡す。
「『
その言葉に、弓箭が目を見開いた。
「じゃあ……わたくしがあの時、佐天さんが撃たれるイメージを見たのも……?」
「それは彼女の記憶だ。君との間にできたリンクが、感情の乱れを感知して記憶を流し込んだのだろう」
榊は一拍、言葉を止め、重みのある声で続けた。
「……だが逆に言えば、その『繋がり』を通して、こちらから彼女に干渉することも可能なはずだ。――『ソウルネットワーク』を、逆利用して彼女を止めることができるかもしれない」
場の空気が、張り詰めたように静まった。
榊の言葉に、食蜂は腕を組んだまま、じっと彼の顔を見つめている。視線には疑念と、ほんのわずかな好奇心が入り混じっていた。
「……逆利用って、具体的にはどのように……?」
静寂を破ったのは、弓箭だった。まだ完全に飲み込めていない表情で、彼女は榊を見つめる。
榊はそんな弓箭を見つめ返して、
「君だ」
「え?」
短く返された答えに、弓箭の目が見開かれる。
現在、ソウルネットワーク――記憶の回路で繋がっているのは三人。
かつて『
時ヶ谷はすでに現場を離れて警策の増援に向かっており、佐天はまだ気を失って意識が戻っていない。今、使えるのは弓箭だけだった。
榊は一歩踏み出すと、ゆっくりと食蜂操祈の方へと視線を移す。
「君の能力で、回路で繋がっているこの子を『媒介』として、彼女の精神を、あの子――雨束日花璃の精神世界へ送り込むことは可能か?」
その提案の真意に気づいたのか、食蜂の目がわずかに細められた。
「……なるほどねぇ。発想としては悪くないけどぉ――」
わずかに間を置き、彼女は口元に手を当ててから、軽い調子で続けた。
「いくら記憶を共有してるとはいえ、脳波の違う人間同士の精神を強引に接続したらどうなるか、分かってる? 例えるなら、電圧の違う電線を無理やり直結するようなもの。下手すれば、双方の精神がショートして、人格崩壊――最悪、廃人よぉ」
軽い口調とは裏腹に、その声には真剣さがにじんでいる。彼女の能力は精神を扱うゆえに、その危険性も誰より理解していた。
しかし榊は、わずかもためらわずに言葉を返す。
「それは承知している。だが、もし――二人の脳波を同調させる『コンバーター』が存在するなら……状況は変わる」
その瞬間、食蜂の表情がぴくりと動いた。声を低く潜める。
「……まさか」
「そのまさかだ」
榊は静かに頷いた。その視線がふっと脇へと逸れる。
――その先にいる、小さな少女。ドリー。
「この子は、元々『クローン間の脳波ネットワーク構築』のために造られた実験体だと聞いている。双子の姉を失った今も、その基盤能力は残っているはずだ。彼女の脳波は、元来『他者の精神波長を中継・増幅する』ために最適化されている。……つまり、精神信号の変換装置、すなわち『共鳴器』として利用できるかもしれない」
「ダメよ!」
食蜂の叫びが、空気を切り裂いた。
その顔には、怒りと恐怖、そして戸惑いが入り混じっていた。常盤台の女王――精神操作のエキスパートが、ここまで動揺を隠せずにいる。
「そんなことをしたら、ドリーに何が起こるか分からないわ! 精神を媒介にするってことは、双方の感情や記憶が直接、彼女の意識を通過するってことよ!? 共鳴が強すぎれば、ドリー自身の精神が侵食される。……最悪の場合、自己同一性を失って『誰でもない存在』になってしまう可能性だってあるのよ!」
それは、彼女が誰より理解しているからこそ出てきた言葉だった。精神を操る側の、根源的な恐怖。
しかし、その絶叫に、静かな声が重なった。
「……みさきちゃん。わたし、やるよ」
見ると、ドリーがまっすぐな瞳で食蜂を見上げていた。
「きのう、ゲーセンであのことはじめてあったとき……あのこ、すっごくしあわせそうなかおをしてたの。うれしそうで、たのしそうで……。でも、いまのままじゃ――おともだちをしなせたら、あのこ、きっと……すっごく、かなしむとおもうの」
その声は小さく、たどたどしかった。
けれど、揺らぎはなかった。そこには、意志があった。
「……だから、たすけたい。わたしにできることがあるなら、やりたい。だって、こまってるときにてをのばすのが――『おともだち』でしょ?」
最後のひと言は、屈託のない笑顔とともに放たれた。
沈黙が落ちた。誰もが、言葉を失っていた。
やがて、食蜂が小さく息を吐く。
「……ほんと、貴女って子は……どうしてこんなときだけ、ずるいくらい真っ直ぐなのよ……」
ゆっくりと、ドリーの頭に手を置いた。その手は、かすかに震えている。
だが、それでもやるしかない。
警策と時ヶ谷だけでは、あの『少女』を止めきれない。
このまま彼女が暴走を続ければ、この街も、そこに暮らす人々も、全て巻き込まれて消えてしまう。
その未来を変えるたったひとつの希望が、いまここにある。
一か八か。それでも、この手を取るしかない。
「……で、貴女はどうなの?」
静まり返った病室に、食蜂操祈の声が鋭く響く。
その問いは、真正面から弓箭猟虎に向けられていた。
弓箭は、その視線をまっすぐに受け止めた。
「やります」
間髪入れずに返された言葉には、一片の迷いもなかった。
先ほどまでのどこか上の空だったような目は、もうそこにはない。
その瞳には、確かな意志の光が宿っていた。
「あの時、死ぬ運命だったんです。それを誰かのために使えるなら、それはとても素敵なことじゃないですか」
「……そう。なら、もう止めはしないわぁ」
言葉とともに、ゆっくりと場面が動き出す。
弓箭猟虎は、病室のベッドへと身を横たえた。
隣には、ドリーがそっと椅子に腰掛ける。
食蜂はひとつ深く息を吸い、呼気とともに告げる。
「――では、始めるわよぉ?」
彼女はハンドバッグの中から、一つのリモコンを取り出す。
その指先が、震えをやめることはなかった。
(……これ、しくじったら、マジで看取さんにぶっ殺されるかもぉ?)
――その光景を、榊誠司は静かに、どこか感慨深げに見つめていた。
警策看取。時ヶ谷凛音。弓箭猟虎。食蜂操祈。そして、ドリー。
かつて
それはまるで、歪んだ因果がひとつの形を成そうとしているかのようだった。
第七学区。学舎の園の外縁に、花々に囲まれてひっそりと佇むパンケーキ専門店『笑顔のパンケーキ』。
その名に恥じぬ柔らかな香りと、穏やかな空気をまとう店内で、二人の少女が向かい合っていた。
「ん~~~っ……なんて、なんて美味しゅうございますのっ……!」
弓箭入鹿は、フォークを口に運ぶたびに幸せそうな声を漏らす。
まるで体温まで溶けてしまいそうな笑顔で、ナイフを滑らせては、ふわふわの生地を頬張っていく。
「まったくです……この口溶け……まるで夢のようでございます」
向かいに座る帆風潤子もまた、普段の凛とした表情をほころばせていた。
三層に重ねられたパンケーキには、とろけるホイップとなめらかなカスタードが惜しみなく挟まれ、表面には淡く金色に輝くバターが流れていた。ナイフを入れれば、ふるふると震えるその断面から、ほのかに湯気が立ち昇る。
口に含めば、焼きたての香ばしさと、中のしっとりとした食感が舌の上でとろけ合い、バターのコクとメープルの優しい甘みが広がった。
「……ふふ。パンケーキに埋もれて眠れたら、それはもう、極楽のようではございませんこと?」
頬杖をついた入鹿が、うっとりと夢見がちに呟く。
「……まあ、なかなかに斬新なお考えですわね」
帆風は目を細め、苦笑とも取れる微笑を浮かべる。その声音には不思議な暖かさが滲んでいた。
カトラリーの音だけが心地よく響く店内で、二人はただ甘いひとときを味わっていた。
会話の熱が少し落ち着くと、入鹿はフォークを置いて、小さくため息をついた。
「……それにしても、惜しかったですね。ゲコ太コラボセット……あと一歩でしたのに」
実のところ、今日この店に来たのにはもう一つの――いや、むしろ本命とも言える目的があったのだ。
ゲコ太コラボセット。一日三セット限定の上、焼き上がりにより販売時間が不定のため入手難度特級。ゲコラーの間では、『幻の一品』とまで噂されている。
「朝の六時から並びましたのに……。目の前で売り切れだなんて、悔しすぎますわ……っ!」
「まあ、仕方ありませんわね。今日のところは、ご縁がなかったということでしょう」
帆風は微笑みを浮かべつつも、紅茶のカップを持ち上げたその手には、うっすらと力がこもっていた。
「でも、今こうして入鹿さんと楽しい時間を過ごせておりますから……今日はそれで十分です」
「……そうですね」
入鹿は微笑み返しかけたが、ふと何かを思い出したように、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「……猟虎ちゃん、電話に出ませんね」
その呟きに、帆風はそっと紅茶のカップを置いた。
「猟虎さんが……ですか?」
「ええ、『フキダシ』も既読になりませんし……通話もずっと発信中のままで……」
入鹿の声には、心配というより、不安に近い響きが滲んでいた。
二人には、知る由もなかった。
昨日、遊園地での戦いのさなか、弓箭猟虎が自らのスマートフォンをスタングレネード代わりに使用し、そのまま本体を焼き切ってしまっていたことなど。
今もそのスマホは沈黙したまま。買い替える暇もなく、連絡手段は失われたままだった。
帆風は一口、紅茶を口に含むと、落ち着いた声で言った。
「きっと、何か事情があるのでしょう」
「……だといいのですが」
入鹿が静かに答えた、その時だった。
ふいに、その表情が凍り付く。
「ほ、帆風さん……」
「ん? どうかなさいましたか?」
怪訝そうに首を傾げる帆風が、カップを持った手をそっと下ろす。
「う……うしろ……っ」
その言葉と同時に――
『▂▅▇█▓▒░(°◥⊖°◤)░▒▓█▇▅▂
…………………………潤子ちゃん』
背後から、どこか聞き覚えのある声が響いた。
ゆっくりと振り返った帆風の目に映ったのは――
腰まで伸びた、やや暗めの青い髪。
前髪には黒いヘアピンがひとつ。
肩が出た白いドレスをまとい、宙に浮いている少女。
その表情は、まさに鬼の形相だった。
まるで黒い瘴気をまとっているかのような威圧感。
帆風は息を呑み、かすれた声で口を開く。
「せ、千夜さん……?」
幽霊のような少女――悠里千夜は、怒気を孕んだ声で叫んだ。
『潤子ちゃんが私のいない間に、何他の女とイチャイチャしてんのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?』
――轟音。そう形容してもいいほどの声だった。
「ち、違いますっ!」
帆風は目をぱちくりと瞬かせたまま固まり、紅茶の香りすら感じていないようだった。椅子を蹴る勢いで立ち上がると、全力で手を振って否定した。
「これはただのゲコ太コラボ目当てでして! 別にイチャイチャなどでは断じてっ!」
『潤子ちゃんが「断じて」って言う時は、だ~~~いたい断じてないぃぃぃぃぃぃ!!』
一方の入鹿は、気まずそうに視線を悠里と帆風の間で泳がせていたが、やがておずおずと口を開いた。
「ええと……悠里千夜さん、でしたかしら?」
『……そうだけど?』
「もしよろしければ、まずは腰を下ろして……紅茶などいかがです?」
まさかの丁寧なもてなしに、悠里は思わずツッコミを入れる。
『いや、この状態だとすり抜けるし、浮いてるから座る必要もないってば』
そう言いつつも、彼女はふわふわと浮遊したまま帆風の隣に並んだ。
ちなみに、他の客には彼女の姿は見えていない。
彼女は自らのAIM拡散力場を身体から切り離し、『AIM思念体』と呼ばれる自身の姿を模したアバターを生み出すことができる。
アバターは高い自由度を持ち、宙を飛び、憑依対象がどれだけ離れても自動で追尾し続ける。一度操作したことがある人はチャンネルが繋がり、憑依せずとも見えるようになる。
通常、彼女の姿は憑依している相手か、一度でも彼女の力に触れた者にしか視認できない。
帆風が彼女の姿を視認できるのも、かつて一時的に憑依されていた経験があったからだ。
入鹿もまた、過去に一度、彼女に取り憑かれたことがあった。
ゆえに、今この場で彼女の姿が見えているのは、帆風と入鹿の二人だけである。
「……それにしても、お元気そうで何よりです、千夜さん」
帆風の穏やかな口調に、千夜はむすっとした表情で頬を膨らませる。
『ぜ~~~んっぜん元気じゃないけど!? 潤子ちゃんが他の女とデートなんて、もうショックでそのまま怨霊に成り果てるかと思った!』
……いや、一瞬本当に怨霊かと思いましたよ。と、入鹿は内心でそっと突っ込んだ。
帆風はさりげなく紅茶のカップをソーサーに戻しながら、柔らかな声で言った。
「千夜さん、誤解です。これはただの、友人同士のささやかな時間です。そもそもわたくしは、入鹿さんに対して恋愛的な感情は――」
『……ふーん』
帆風の言葉を途中で遮るように悠里はぷいっとそっぽを向く。頬をふくらませたまま、吐き捨てるように呟いた。
『でも、入鹿ちゃんがそう思ってるとは限らないよね?』
その一言に、入鹿の肩がぴくりと跳ねた。
「そ、それは……」
思わず視線を逸らし、口ごもる。
すると、悠里はふわりと宙に跳ね、入鹿の目の前にぴたりと浮かぶ。
ふわふわと軽やかに漂いながら、真っすぐに彼女の目を覗き込む。
『どうなの、入鹿ちゃん? 本~~~当に、なんとも思ってないの?』
どこか無邪気で、けれど鋭いその問いに、入鹿はまるで心を見透かされたかのように言葉を失った。
居心地の悪さから逃げるように、彼女はそっと視線をガラス窓の外へと向ける。
その瞬間だった。
ドォン――!!
灰色に曇った空に、くぐもった轟音とともに、いくつもの閃光が弾けるようにして炸裂した。
朝の静けさを破る異様な光景に、帆風と悠里も驚いて顔を上げる。
一瞬の静寂のあと、再び轟音が響き、ガラス窓が微かに震えた。
帆風は眉をひそめながら、慎重に言葉を選ぶ。
「あれは……花火、でしょうか?」
「朝なのに花火……?」
入鹿はゆっくりと立ち上がり、空を見つめたままぽつりとつぶやく。
『…………』
悠里は無言のまま目を細め、ただ静かにその光景を凝視していた。
(……なんだろう、この感じ。「