とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase20「接続 -コネクション-」

 曇天の下、吹き抜ける風だけが空に響く。

 高度500メートル。どこまでも灰色に沈む空を背に、二つの影が浮かんでいる。

 

 一方は、紫がかった長い髪を二つに結わえた少女。

 背に広げたのは、コウモリのような銀翼。腰のあたりからは、硬質な矢印型の尾。

 

 もう一方は、絹糸のように艶やかな髪を風に靡かせた、小柄な『少女』。

 背に生えた結晶のような羽根は、淡く光を反射しながら、静かに煌めいていた。

 

 警策は、目の前の『少女』をじっと見据える。

 無垢な外見。だがその雰囲気には、言いようのない異質さがあった。

 

 風に揺れた前髪の隙間から覗いた金色の瞳。

 そこに、理性の光はなかった。

 代わりに、微細な光子がちらちらと浮遊し、底の見えない虚無を映していた。

 

 次の瞬間――

 

「……ッ!」

 

 眩い閃光が、前触れもなく放たれた。

 殺気も、予備動作すらもない。まるで雷鳴のような速度で、警策の眼前へと奔る。

 

 瞬時に銀翼を羽ばたかせ、警策は反射的に身を捻った。

 閃光は、すぐ背後を掠めると、雲を突き破り――

 

 ドォン――!!

 大気を震わせるような爆発音が、空に轟いた。

 閃光は空中で連鎖的に炸裂し、風圧と光の波を撒き散らす。

 

(……改めて空中に連れ出して正解だったわね。あんなのが地上で暴れたら……)

 

 『少女』は追撃に動こうとはしなかった。

 ただ淡々と、宙を漂い続けている。無表情のまま。

 

 けれど、その瞳の奥では、光子の濁流が凝縮し、次なる閃光の兆しを灯していた。

 このまま座して撃たれるわけにはいかない。 

 

 ギィンッ!

 空気が裂ける――鋭い金属音が一閃。

 

 警策は、躊躇なく腕を振るい、空中にナノ粒子を散布する。

 即座に無数の金属矢が形を取り、『少女』めがけて一斉に解き放たれた。

 怒涛のような矢の奔流が、空を穿つ。

 

 『少女』は、まったく動かなかった。

 避ける素振りすら見せないまま、その小さな体は、鋭い金属矢の群れの中心へと飲まれていく。

 

 一瞬、視界が白く染まった。

 炸裂音とともに金属矢が直撃する。

 衝撃が生んだ乱気流が警策の頬をかすめた。

 

 ――しかし。

 次の瞬間、煙の向こうから、無傷のまま浮かぶ『少女』の姿が現れる。

 

(……ヤッパリ、効かないか)

 

 彼女の肌には、かすり傷ひとつない。

 むしろ、金属矢の方が『拒絶された』ように、彼女の半径数メートルに入った途端、歪んで、崩れて、銀の雫となって空に散っていた。

 まるで、空間そのものが異質な法則に支配されているかのようだった。

 

 能力の性質すら歪めるとされる――『歪曲揺光(フラクチュエイト)』。

 噂通りの性質なら、能力を使ってこの少女を傷つけることは、おそらく不可能。

 

(なら……どう崩す?)

 

 そんなことを考えていた、そのときだった。

 

 『少女』の背後で、光子がざわめく。

 その身を包む結晶の羽根が、かすかに色調を変え、光の粒子が一点に収束していく。

 次の一撃が来る。直感が、全身の神経を逆撫でしていた。

 

 その直前だった。

 

 パチン、と軽く指を鳴らす音が響き、耳を抉るような高周波が虚空を切り裂いた。

 空気が震え、波紋のように広がる不可視の振動が、『少女』の周囲に干渉する。

 『少女』の小さな身体がわずかに揺れ、警策を狙っていたはずのいくつもの閃光が狙いを外し、何もない上空へ向かって解き放たれた。

 

(……音波?)

 

 警策が振り向くより早く、もう一つの影が風を裂いて飛来した。

 

「――まったく……何が『コイツは私がなんとかする』ですの?」 

 

 凛とした声音が、空の静寂を切り裂いた。

 警策の傍に並んだ時ヶ谷は、やや呆れたようにこちらを見やる。

 

「何の策もなしに突っ込むなんて、警策さんらしくありませんわね?」

 

 警策は肩越しにちらりと目をやり、ふっと息をついた。

 それから、前を見据えたまま、口の端をわずかに吊り上げる。

 

「ま、付いてきてくれるとは思ってたけどね」

「頼られるのは嫌いではありませんけれど……あまり期待されすぎても、肩が凝りますわ」

 

 時ヶ谷はそう言って髪を軽く払うと、視線を前へ戻す。

 『少女』は再び羽根を広げ、無傷の身体から、静かに光を収束させていた。

 

「……攻撃は全部弾かれる。能力そのものが、通らない」

「存じておりますわ。忠告ですが、あまり彼女にお近づきにならない方がよろしいかと」

 

 時ヶ谷の声が、冷ややかに響く。

 

「あの光を浴びれば、能力が弱体化してしまいますの」

 

 警策は小さく息を吐き、視線を細める。

 

「……さっきから、どうにも力が思うように使えないと思ったのよ。彼女が強いってだけじゃない。……コッチが『弱くされてる』って感覚、確かにあったわ」

 

 能力の性質を歪める。

 それは、能力者にとって最も忌むべき力だった。

 すなわち、こちらの攻撃が一切通じず、向こうからの攻撃は能力では防げないということを意味していた。

 

能力者(わたしたち)にとっては、まさに天敵ってワケね」

 

 警策が低く呟く。

 

「別に、彼女を倒す必要はありません。わたくしたちは――ただ、『時間稼ぎ』さえすればよろしいのですわ」

 

 時ヶ谷の声音はあくまで穏やかで、戦場の緊迫感すら薄れてしまいそうになる。

 

「……何か、考えがあるの?」

 

 警策が目を細めて問うと、時ヶ谷はちらと横目で見やり、口元だけで小さく微笑んだ。

 そして、誰にも聞かれぬよう、警策の耳元で短く囁く。

 その内容を聞いた瞬間、警策の目がわずかに見開かれた。

 

「……なるほど。となると――あの子たちを信じるしかないわね」

 

 

 

 

 警策と時ヶ谷が病院の屋上から飛び去ったあと――

 

 佐天の傷は時ヶ谷の能力で塞がれていたが、念のためカエル顔の医者に預けられている。

 柊木は食蜂の能力で別室にて身柄を拘束中。本人は頑なに治療を拒否しているものの、最低限の応急処置は施した。

 

 そんな中、食蜂操祈とドリー、そして弓箭猟虎の三人が702号病室を訪れていた。

 本来は『少女』のために用意された病室は、今はがらんと空き部屋になっている。

 

 ただ、サイドテーブルの上にはピンク色のゲコ太のぬいぐるみと、金色のゲコ太キーホルダーがちょこんと置かれていた。

 その見覚えのある品にかすかに心を揺さぶられたのか、ドリーはしばらくサイドテーブルの前で上半身を前に傾け、じっと見つめていた。

 

「………」

 

 食蜂操祈と弓箭猟虎は、ただ黙って病室の空気に身を浸していた。

 何かを言うには、あまりに言葉が重たくなりそうで、どちらからともなく沈黙を選んでいた。

 

 やがて、その沈黙に最初にほころびを入れたのは、食蜂だった。

 声は静かで、しかし明確に相手を見据えていた。

 

「あなた、確か『内部進化(アイデアル)』にいた子よねぇ?」

 

 その言葉に、弓箭の肩がわずかに揺れた。

 

「……はい」

 

 しばし目を伏せたまま返した声は、ほとんど囁きのようだった。

 佐天の姿が頭から離れないのだろう。自分のせいではないと分かっていても、心のどこかで罪悪感がしこりのように残っている。

 

 その重みを抱えたまま、彼女はようやく顔を上げた。

 けれどその瞳には、まだ迷いが色濃く滲んでいた。

 

「みーちゃん、だいじょうぶなのかな……」

 

 ドリーがぽつりと呟き、窓の外に広がる灰色の空をじっと見つめていた。

 警策と時ヶ谷のおかげで、『少女』は空中で食い止められ、被害は最小限に抑えられている。

 

「……もどかしいけど、今は看取さん達を信じるしかないわねぇ」

 

 食蜂の口調はいつも通り柔らかだったが、内心の焦燥は隠せなかった。

 精神系最強の能力――『心理掌握(メンタルアウト)』。けれど、今この場で空を飛び、閃光を放つ『少女』に接近して戦うにはあまりに無力だった。

 ドリーもまた、多少の戦闘技術はあるものの、飛行能力は持ち合わせていない。

 

 だからこそ、食蜂はせめてもの手段として、拘束した柊木という女の記憶を探ってみた。

 だが、その結果も芳しくなかった。

 

 あの女は、最初から『少女』をただの道具として見ておらず、その力を暴走させて、自らもろともこの街を葬り去ろうとしていた。

 ゆえに『彼女を止める手段』など、最初から想定していなかったのだ。

 

「……わたしたちにできることは……ないのかな……?」

 

 ドリーの声がか細く、どこか寂しげにこぼれる。

 

 直後だった。

 

「――あるさ」

 

 病室のドアの方から、低く響く声がした。

 全員が一斉にそちらへ視線を向ける。

 

 そこに立っていたのは、無精ひげをたくわえた白衣姿の中年男性。

 寝癖の残る髪に、着古した研究者用コート。

 

「貴方は……」

 

 思わず声が漏れた。

 食蜂操祈の視線がその中年男性を鋭く射抜く。

 

 その顔には覚えがあった。

 つい先ほど、ドリーとともに病院の食堂で食事をしていた時、自分たちをちらちらと見ていた――あの怪しげな男だ。

 

 彼女の警戒を込めたまなざしを前にしても、男は臆する様子をまるで見せなかった。ただ淡々と、自分の立場を語り出す。

 

才人工房(クローンドリー)第零研究室、通称『主観制御(サブジェクト)』に所属していた研究者で、榊誠司(さかきせいじ)という」

 

 才人工房(クローンドリー)

 その所属を聞いた瞬間、室内の空気がひやりと凍ったように感じられた。

 食蜂はもちろん、ドリーも、そして弓箭猟虎も、その単語に反応した。

 

「『主観制御(サブジェクト)』って、才人工房(クローンドリー)の前身だと……看取さんから聞いてるけどぉ?」

 

 食蜂がそう切り出す声には、わずかに棘が含まれていた。まるで、答えの内容を試すかのように。

 榊と名乗った男は、それに対し、曖昧ではない明確な頷きを返す。

 

「その通りだ。本来、『主観制御(サブジェクト)』は、あの少女が持つ特異な能力――『歪曲揺光(フラクチュエイト)』を利用し、人工的に高位能力者を生み出すことを目的としていた実験施設だった。だが、彼女の暴走によって、多くの被験者と研究成果が失われ、研究所そのものが事実上解体された。しかし……」

 

 榊は、言葉を一度切った。

 その間に含まれる無音の圧は、むしろ有声よりも重かった。

 

「……計画そのものは、決して止まってはいなかった」

 

 榊の声に、微かな苦味が混じる。

 

「『天才や偉人の量産』という狂気に満ちた理想――その核となる技術と理論は、別の形で引き継がれた。新たな拠点と資金、そして統括理事会の恩恵のもとで、第二学区において再始動した。それが、君たちの知る……『才人工房(クローンドリー)』だ」

「………」

 

 場はしばらく沈黙に支配されていた。

 誰もが、榊の語った内容の重さと、その裏にある真意を測りかねていた。

 食蜂操祈は、じっと黙って榊を見つめていた。

 

 この男は本当に、味方なのか?

 それとも、別の思惑を抱えて、今この場に現れたのか。

 

「……あの子はもうすぐ限界だ。このままだと、自分を中心に街ひとつ吹き飛ばす規模のエネルギーをぶちまけるだろう」

 

 榊は、そんな視線にも眉一つ動かさず、ただ静かに言った。

 

「もう時間がない。俺が怪しいと思うなら、記憶を覗いてもらって構わない」

 

 その声には、虚勢も、芝居がかった誇張もなかった。

 まるで、ただ自然な選択肢のひとつとして告げるような口調。

 

 食蜂のまなざしが、ほんの僅かに揺れる。

 『心理掌握(メンタルアウト)』の使い手である自分に、記憶の覗き込みを許す――それは、つまり嘘偽りがないことの証明に他ならない。

 精神操作系の能力者を前に、そうまで言える者は、そう多くない。

 

「ふぅん……」

 

 やがて食蜂が、わずかに唇を歪めた。笑みとも、ため息ともつかない、曖昧な音が洩れる。

 

「貴方のこと、一応信じてあげるわぁ。でも、今はそれどころじゃないの。……さっき、『私たちにもできることがある』って言ってたわよねぇ?」

「ああ。一つ、試したいことがある」

 

 榊の目が、三人の顔を順に見渡す。

「『歪曲揺光(フラクチュエイト)』によって能力を強化された者は、あの子との間に記憶の回路が繋がる。彼女が強い恐怖や悲しみに襲われると、その記憶が回路を通じて対象へと逆流することがある。……俺たちは、それを『ソウルネットワーク』と呼んでいた」

 

 その言葉に、弓箭が目を見開いた。

 

「じゃあ……わたくしがあの時、佐天さんが撃たれるイメージを見たのも……?」

「それは彼女の記憶だ。君との間にできたリンクが、感情の乱れを感知して記憶を流し込んだのだろう」

 

 榊は一拍、言葉を止め、重みのある声で続けた。

 

「……だが逆に言えば、その『繋がり』を通して、こちらから彼女に干渉することも可能なはずだ。――『ソウルネットワーク』を、逆利用して彼女を止めることができるかもしれない」

 

 場の空気が、張り詰めたように静まった。

 榊の言葉に、食蜂は腕を組んだまま、じっと彼の顔を見つめている。視線には疑念と、ほんのわずかな好奇心が入り混じっていた。

 

「……逆利用って、具体的にはどのように……?」 

 

 静寂を破ったのは、弓箭だった。まだ完全に飲み込めていない表情で、彼女は榊を見つめる。

 榊はそんな弓箭を見つめ返して、

 

「君だ」

「え?」

 

 短く返された答えに、弓箭の目が見開かれる。

 

 現在、ソウルネットワーク――記憶の回路で繋がっているのは三人。

 かつて『主観制御(サブジェクト)』の被験者だった時ヶ谷凛音。そして、昨日『歪曲揺光(フラクチュエイト)』によって能力を強化された佐天涙子と弓箭猟虎。

 時ヶ谷はすでに現場を離れて警策の増援に向かっており、佐天はまだ気を失って意識が戻っていない。今、使えるのは弓箭だけだった。

 

 榊は一歩踏み出すと、ゆっくりと食蜂操祈の方へと視線を移す。

 

「君の能力で、回路で繋がっているこの子を『媒介』として、彼女の精神を、あの子――雨束日花璃の精神世界へ送り込むことは可能か?」

 

 その提案の真意に気づいたのか、食蜂の目がわずかに細められた。

 

「……なるほどねぇ。発想としては悪くないけどぉ――」

 

 わずかに間を置き、彼女は口元に手を当ててから、軽い調子で続けた。

 

「いくら記憶を共有してるとはいえ、脳波の違う人間同士の精神を強引に接続したらどうなるか、分かってる? 例えるなら、電圧の違う電線を無理やり直結するようなもの。下手すれば、双方の精神がショートして、人格崩壊――最悪、廃人よぉ」

 

 軽い口調とは裏腹に、その声には真剣さがにじんでいる。彼女の能力は精神を扱うゆえに、その危険性も誰より理解していた。

 しかし榊は、わずかもためらわずに言葉を返す。

 

「それは承知している。だが、もし――二人の脳波を同調させる『コンバーター』が存在するなら……状況は変わる」

 

 その瞬間、食蜂の表情がぴくりと動いた。声を低く潜める。

 

「……まさか」

「そのまさかだ」

 

 榊は静かに頷いた。その視線がふっと脇へと逸れる。

 ――その先にいる、小さな少女。ドリー。

 

「この子は、元々『クローン間の脳波ネットワーク構築』のために造られた実験体だと聞いている。双子の姉を失った今も、その基盤能力は残っているはずだ。彼女の脳波は、元来『他者の精神波長を中継・増幅する』ために最適化されている。……つまり、精神信号の変換装置、すなわち『共鳴器』として利用できるかもしれない」

「ダメよ!」

 

 食蜂の叫びが、空気を切り裂いた。

 その顔には、怒りと恐怖、そして戸惑いが入り混じっていた。常盤台の女王――精神操作のエキスパートが、ここまで動揺を隠せずにいる。

 

「そんなことをしたら、ドリーに何が起こるか分からないわ! 精神を媒介にするってことは、双方の感情や記憶が直接、彼女の意識を通過するってことよ!? 共鳴が強すぎれば、ドリー自身の精神が侵食される。……最悪の場合、自己同一性を失って『誰でもない存在』になってしまう可能性だってあるのよ!」

 

 それは、彼女が誰より理解しているからこそ出てきた言葉だった。精神を操る側の、根源的な恐怖。

 しかし、その絶叫に、静かな声が重なった。

 

「……みさきちゃん。わたし、やるよ」

 

 見ると、ドリーがまっすぐな瞳で食蜂を見上げていた。

 

「きのう、ゲーセンであのことはじめてあったとき……あのこ、すっごくしあわせそうなかおをしてたの。うれしそうで、たのしそうで……。でも、いまのままじゃ――おともだちをしなせたら、あのこ、きっと……すっごく、かなしむとおもうの」

 

 その声は小さく、たどたどしかった。

 けれど、揺らぎはなかった。そこには、意志があった。

 

「……だから、たすけたい。わたしにできることがあるなら、やりたい。だって、こまってるときにてをのばすのが――『おともだち』でしょ?」

 

 最後のひと言は、屈託のない笑顔とともに放たれた。

 沈黙が落ちた。誰もが、言葉を失っていた。

 やがて、食蜂が小さく息を吐く。

 

「……ほんと、貴女って子は……どうしてこんなときだけ、ずるいくらい真っ直ぐなのよ……」

 

 ゆっくりと、ドリーの頭に手を置いた。その手は、かすかに震えている。

 だが、それでもやるしかない。

 

 警策と時ヶ谷だけでは、あの『少女』を止めきれない。

 このまま彼女が暴走を続ければ、この街も、そこに暮らす人々も、全て巻き込まれて消えてしまう。

 

 その未来を変えるたったひとつの希望が、いまここにある。

 一か八か。それでも、この手を取るしかない。

 

「……で、貴女はどうなの?」

 

 静まり返った病室に、食蜂操祈の声が鋭く響く。

 その問いは、真正面から弓箭猟虎に向けられていた。

 弓箭は、その視線をまっすぐに受け止めた。

 

「やります」

 

 間髪入れずに返された言葉には、一片の迷いもなかった。

 先ほどまでのどこか上の空だったような目は、もうそこにはない。

 その瞳には、確かな意志の光が宿っていた。

 

「あの時、死ぬ運命だったんです。それを誰かのために使えるなら、それはとても素敵なことじゃないですか」

「……そう。なら、もう止めはしないわぁ」

 

 言葉とともに、ゆっくりと場面が動き出す。

 弓箭猟虎は、病室のベッドへと身を横たえた。

 

 隣には、ドリーがそっと椅子に腰掛ける。

 食蜂はひとつ深く息を吸い、呼気とともに告げる。

 

「――では、始めるわよぉ?」

 

 彼女はハンドバッグの中から、一つのリモコンを取り出す。

 その指先が、震えをやめることはなかった。

 

(……これ、しくじったら、マジで看取さんにぶっ殺されるかもぉ?)

 

 

 

 ――その光景を、榊誠司は静かに、どこか感慨深げに見つめていた。

 警策看取。時ヶ谷凛音。弓箭猟虎。食蜂操祈。そして、ドリー。

 かつて才人工房(クローンドリー)という同じ闇の傘の下にあった少女たちが、今は手を取り合い、才人工房(クローンドリー)の原点とも呼べる『少女』を救おうとしている。

 それはまるで、歪んだ因果がひとつの形を成そうとしているかのようだった。

 

 

 

 

 第七学区。学舎の園の外縁に、花々に囲まれてひっそりと佇むパンケーキ専門店『笑顔のパンケーキ』。

 その名に恥じぬ柔らかな香りと、穏やかな空気をまとう店内で、二人の少女が向かい合っていた。

 

「ん~~~っ……なんて、なんて美味しゅうございますのっ……!」

 

 弓箭入鹿は、フォークを口に運ぶたびに幸せそうな声を漏らす。

 まるで体温まで溶けてしまいそうな笑顔で、ナイフを滑らせては、ふわふわの生地を頬張っていく。

 

「まったくです……この口溶け……まるで夢のようでございます」

 

 向かいに座る帆風潤子もまた、普段の凛とした表情をほころばせていた。

 

 三層に重ねられたパンケーキには、とろけるホイップとなめらかなカスタードが惜しみなく挟まれ、表面には淡く金色に輝くバターが流れていた。ナイフを入れれば、ふるふると震えるその断面から、ほのかに湯気が立ち昇る。

 口に含めば、焼きたての香ばしさと、中のしっとりとした食感が舌の上でとろけ合い、バターのコクとメープルの優しい甘みが広がった。

 

「……ふふ。パンケーキに埋もれて眠れたら、それはもう、極楽のようではございませんこと?」

 

 頬杖をついた入鹿が、うっとりと夢見がちに呟く。

 

「……まあ、なかなかに斬新なお考えですわね」

 

 帆風は目を細め、苦笑とも取れる微笑を浮かべる。その声音には不思議な暖かさが滲んでいた。

 カトラリーの音だけが心地よく響く店内で、二人はただ甘いひとときを味わっていた。

 

 会話の熱が少し落ち着くと、入鹿はフォークを置いて、小さくため息をついた。

 

「……それにしても、惜しかったですね。ゲコ太コラボセット……あと一歩でしたのに」

 

 実のところ、今日この店に来たのにはもう一つの――いや、むしろ本命とも言える目的があったのだ。

 ゲコ太コラボセット。一日三セット限定の上、焼き上がりにより販売時間が不定のため入手難度特級。ゲコラーの間では、『幻の一品』とまで噂されている。

 

「朝の六時から並びましたのに……。目の前で売り切れだなんて、悔しすぎますわ……っ!」

「まあ、仕方ありませんわね。今日のところは、ご縁がなかったということでしょう」

 

 帆風は微笑みを浮かべつつも、紅茶のカップを持ち上げたその手には、うっすらと力がこもっていた。

 

「でも、今こうして入鹿さんと楽しい時間を過ごせておりますから……今日はそれで十分です」

「……そうですね」

 

 入鹿は微笑み返しかけたが、ふと何かを思い出したように、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。

 

「……猟虎ちゃん、電話に出ませんね」

 

 その呟きに、帆風はそっと紅茶のカップを置いた。

 

「猟虎さんが……ですか?」

「ええ、『フキダシ』も既読になりませんし……通話もずっと発信中のままで……」

 

 入鹿の声には、心配というより、不安に近い響きが滲んでいた。

 

 二人には、知る由もなかった。

 昨日、遊園地での戦いのさなか、弓箭猟虎が自らのスマートフォンをスタングレネード代わりに使用し、そのまま本体を焼き切ってしまっていたことなど。

 今もそのスマホは沈黙したまま。買い替える暇もなく、連絡手段は失われたままだった。

 

 帆風は一口、紅茶を口に含むと、落ち着いた声で言った。

 

「きっと、何か事情があるのでしょう」

「……だといいのですが」

 

 入鹿が静かに答えた、その時だった。

 ふいに、その表情が凍り付く。

 

「ほ、帆風さん……」

「ん? どうかなさいましたか?」

 

 怪訝そうに首を傾げる帆風が、カップを持った手をそっと下ろす。

 

「う……うしろ……っ」

 

 その言葉と同時に――

 

 

 

『▂▅▇█▓▒░(°◥⊖°◤)░▒▓█▇▅▂

…………………………潤子ちゃん』

 

 

 

 背後から、どこか聞き覚えのある声が響いた。

 ゆっくりと振り返った帆風の目に映ったのは――

 

 腰まで伸びた、やや暗めの青い髪。

 前髪には黒いヘアピンがひとつ。

 肩が出た白いドレスをまとい、宙に浮いている少女。

 

 その表情は、まさに鬼の形相だった。

 まるで黒い瘴気をまとっているかのような威圧感。

 

 帆風は息を呑み、かすれた声で口を開く。

 

「せ、千夜さん……?」

 

 幽霊のような少女――悠里千夜は、怒気を孕んだ声で叫んだ。

 

『潤子ちゃんが私のいない間に、何他の女とイチャイチャしてんのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?』

 

 ――轟音。そう形容してもいいほどの声だった。

 

「ち、違いますっ!」

 

 帆風は目をぱちくりと瞬かせたまま固まり、紅茶の香りすら感じていないようだった。椅子を蹴る勢いで立ち上がると、全力で手を振って否定した。

 

「これはただのゲコ太コラボ目当てでして! 別にイチャイチャなどでは断じてっ!」

『潤子ちゃんが「断じて」って言う時は、だ~~~いたい断じてないぃぃぃぃぃぃ!!』

 

 一方の入鹿は、気まずそうに視線を悠里と帆風の間で泳がせていたが、やがておずおずと口を開いた。

 

「ええと……悠里千夜さん、でしたかしら?」

『……そうだけど?』

「もしよろしければ、まずは腰を下ろして……紅茶などいかがです?」

 

 まさかの丁寧なもてなしに、悠里は思わずツッコミを入れる。

 

『いや、この状態だとすり抜けるし、浮いてるから座る必要もないってば』

 

 そう言いつつも、彼女はふわふわと浮遊したまま帆風の隣に並んだ。

 ちなみに、他の客には彼女の姿は見えていない。

 

 幽体連理(アストラル・バディ)

 彼女は自らのAIM拡散力場を身体から切り離し、『AIM思念体』と呼ばれる自身の姿を模したアバターを生み出すことができる。

 アバターは高い自由度を持ち、宙を飛び、憑依対象がどれだけ離れても自動で追尾し続ける。一度操作したことがある人はチャンネルが繋がり、憑依せずとも見えるようになる。

 

 通常、彼女の姿は憑依している相手か、一度でも彼女の力に触れた者にしか視認できない。

 帆風が彼女の姿を視認できるのも、かつて一時的に憑依されていた経験があったからだ。

 入鹿もまた、過去に一度、彼女に取り憑かれたことがあった。

 ゆえに、今この場で彼女の姿が見えているのは、帆風と入鹿の二人だけである。

 

「……それにしても、お元気そうで何よりです、千夜さん」

 

 帆風の穏やかな口調に、千夜はむすっとした表情で頬を膨らませる。

 

『ぜ~~~んっぜん元気じゃないけど!? 潤子ちゃんが他の女とデートなんて、もうショックでそのまま怨霊に成り果てるかと思った!』

 

 ……いや、一瞬本当に怨霊かと思いましたよ。と、入鹿は内心でそっと突っ込んだ。

 帆風はさりげなく紅茶のカップをソーサーに戻しながら、柔らかな声で言った。

 

「千夜さん、誤解です。これはただの、友人同士のささやかな時間です。そもそもわたくしは、入鹿さんに対して恋愛的な感情は――」

『……ふーん』

 

 帆風の言葉を途中で遮るように悠里はぷいっとそっぽを向く。頬をふくらませたまま、吐き捨てるように呟いた。

 

『でも、入鹿ちゃんがそう思ってるとは限らないよね?』

 

 その一言に、入鹿の肩がぴくりと跳ねた。

 

「そ、それは……」

 

 思わず視線を逸らし、口ごもる。

 すると、悠里はふわりと宙に跳ね、入鹿の目の前にぴたりと浮かぶ。

 ふわふわと軽やかに漂いながら、真っすぐに彼女の目を覗き込む。

 

『どうなの、入鹿ちゃん? 本~~~当に、なんとも思ってないの?』

 

 どこか無邪気で、けれど鋭いその問いに、入鹿はまるで心を見透かされたかのように言葉を失った。

 居心地の悪さから逃げるように、彼女はそっと視線をガラス窓の外へと向ける。

 

 その瞬間だった。

 

 ドォン――!!

 灰色に曇った空に、くぐもった轟音とともに、いくつもの閃光が弾けるようにして炸裂した。

 

 朝の静けさを破る異様な光景に、帆風と悠里も驚いて顔を上げる。

 一瞬の静寂のあと、再び轟音が響き、ガラス窓が微かに震えた。

 

 帆風は眉をひそめながら、慎重に言葉を選ぶ。

 

「あれは……花火、でしょうか?」

「朝なのに花火……?」

 

 入鹿はゆっくりと立ち上がり、空を見つめたままぽつりとつぶやく。

 

『…………』

 

 悠里は無言のまま目を細め、ただ静かにその光景を凝視していた。

 

(……なんだろう、この感じ。「理想の能力(あの時)」と、す~~~ごく似たような……)

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