とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase21「追憶 -ロストメモリーズ-」

「――日花璃ちゃん!」 

 

 それは、とある静かな午後のことだった。

 人工林の奥にひっそりと佇む小学校、その屋上で、雨束日花璃はぽつんと一人、空を見上げていた。

 

 そんな彼女の背後から、元気いっぱいの声が飛んできた。

 振り返ると、屋上の扉の前には二人の少女が立っていた。

 

 一人は、黒髪を三つ編みにした活発そうな少女。

 つぶらな瞳がきらきらと輝き、胸元で揺れる三つ編みが動きに合わせて跳ねている。弾むような声と、遠慮のない足取り。飾り気のない無邪気な笑顔は、周囲の空気すら明るく塗り替えるようだった。

 

 もう一人は、その隣に静かに佇む少女。

 同じ黒髪でも、長く艶やかな髪は風をすべらせるようにたなびき、整った顔立ちにはどこか触れてはならない気品を宿していた。

 深紅の瞳が静かに揺れ、わずかに目を細めた彼女の姿は、まるで絵画の中から抜け出してきたかのようだった。

 

 二人とも、日花璃と同じ十歳前後に見えるが、その雰囲気は対照的だ。

 名前を呼んだのは、もちろん前者――水島紗綾。

 

 数秒の遅れをもって、ぼんやりしていた意識が現実へと戻り、日花璃は小さく口を動かした。

 

「……さや、りんね」

「ったくもう、またここで一人でぼーっとして。先生に見つかったら、また怒られるよ?」

 

 紗綾は呆れたように笑いながら駆け寄り、フェンスにもたれた日花璃の隣にぴょんと腰を下ろす。

 その後ろから、時ヶ谷凛音が静かに歩み寄ってくる。まるで騒がしさと静けさが、自然と寄り添うように。

 

 やがて二人とも、日花璃の隣に並び立つ。

 紗綾が顔を覗きこみながら問いかけた。

 

「で、また何か考え事でもしてたの?」

「……鳥さんを、見てた」

「鳥?」

 

 思わぬ答えに、紗綾はぱちくりと目を瞬かせる。

 

「空を飛び回ってる鳥さんが、とっても自由そうに見えたから……。いいなぁって、羨ましくなっちゃった」

「わかる〜! あたしも能力がもっと強くなったら、空をビュンビュン飛び回りたいんだよね〜!」

 

 紗綾の声には、子供らしい憧れがそのまま乗っていた。

 その隣で、今まで静かにしていた時ヶ谷凛音が、ふと口を開く。

 

「……鳥が自由だなんて、それは人間の勝手な幻想ですわ」

「えっ? なんで?」

 

 紗綾がぽかんと聞き返すと、時ヶ谷は小さくため息をつき、赤い瞳を空に向ける。

 

「鳥は、好き好んで飛んでいるわけではありません。あれは生きるための行為ですの。餌を探すために、巣を作るために、水を求めて、あるいは天敵から逃げるために……彼らは飛ばなければならないのです。飛ぶことは、自由ではなく『義務』に近いです。自然という厳しいルールに縛られた中での、命をつなぐ手段にすぎませんわ」

 

 時ヶ谷の声には、淡々とした響きがあった。

 

「空がいくら広くても、彼らの居場所は限られています。ずっと飛び続けることはできませんし、羽を休める枝も、餌を得られる場所もなければ、生きていけません。空そのものには、誰かの居場所など存在しませんのよ。美しく見えても、その実態は、ただ過酷なだけ――それが『飛ぶ』という行為の現実ですわ」

 

 一通り話し終えると、時ヶ谷はちらりと隣の二人を見やる。

 二人とも、ぽかんとしたまま目を丸くしていた。

 

「……ちょっと、お二人とも聞いてます?」

「ごめん……ちょっとむずかしいかも」

 

 日花璃が、申し訳なさそうに小さく首をかしげる。

 

「凛音ちゃんって、ほんと大人っぽいっていうかさ。まだあたしたちと同い年のくせに、言うことだけめっちゃ理屈っぽいよね」

 

 紗綾が腕を組みながら、やれやれといった表情を見せる。

 

「紗綾さん。人がせっかく丁寧に説明しているのに、その言い草は少々失礼ではありませんこと?」

 

 時ヶ谷がわずかに眉をひそめて抗議するも、紗綾はどこ吹く風とばかりに笑っていた。

 

「でも、やっぱり風に乗って羽ばたく姿は、綺麗でしょ?」

 

 その無邪気な言葉に、時ヶ谷は少し目を見開いた。

 紗綾は、まっすぐに空を見上げたまま、ぽつりと言葉を続ける。

 

「現実がどんなでも、綺麗だって思う気持ちは、きっと、まちがいじゃないよ――たとえ、それが幻想だったとしても」

「…………」

 

 その言葉に、時ヶ谷はしばし黙り込んでいた。

 

(本当に、まっすぐで前向きな人ですわね)

 

 良くも悪くも、自分とは対照的で、正反対。

 初めて会ったときもそうだった。

 誰とも距離を置いていた時ヶ谷に、彼女は屈託なく話しかけてきて……最初は鬱陶しいと思っていたのに。気づけば、いつの間にか。

 

 ――その時だった。

 バンッ、という乾いた音とともに、屋上の扉が勢いよく開かれた。

 

 三人が一斉にそちらへ顔を向けると、そこに立っていたのは――一人の青年だった。

 白衣を羽織り、無精ひげに寝ぐせのついた髪。どう見ても教師には見えないその風貌に、紗綾が思わず声を上げる。

 

「……あっ、榊先生!?」

 

 青年――榊誠司は、手にしたタブレットを軽く持ち上げながら、少しだけ呆れたように言った。

 

「やれやれ……やっぱりここにいたのか。もうすぐ『授業』の時間だぞ。このことは、他の先生には黙っておくから、さっさと戻れ」

 

 相も変わらず、妙に面倒見の良い先生である。

 榊に促され、三人は屋上を後にする。

 

 フェンスにもたれていた日花璃が立ち上がり、名残惜しげに空を見上げた。

 

 時ヶ谷は最後まで背筋を伸ばしたまま、静かに歩き出す。

 その瞳には、さきほどの会話の余韻がまだ淡く宿っていたが、口にすることはなかった。

 

 紗綾はというと、何か面白いことでも思いついたのか、にやにやしながら先頭を歩いていた。

 そして、三人の背後――誰も振り返らなかった屋上の空に、一羽の鳥がふわりと舞い降り、やがて風に乗って飛び立っていった。

 

 

     ◇

 

 

 多目的ホール。

 広々としたその空間には、およそ100人ほどの少女たちが集まっていた。

 皆この『小学校』――正確には、それを偽装した特別研究施設に所属する被験者である。年齢は十歳前後。外の世界から隔絶されたこの場所で、日々『授業』と称される実験を受けていた。

 

 教壇の前には、一人の老人が現れた。

 白衣を羽織り、いかにも学者然としたその姿は、見る者にどこか不気味な印象を与える。

 

 木原幻生。

 この『小学校』を立ち上げた人物にして、名目上の『校長先生』でもある。

 

 普段は姿を見せることは稀だが、その存在が持つ影響力は絶大だった。

 教壇に立った幻生は、少女たちを一瞥し、口を開いた。

 

「さて――全員、揃っているようだな」

 

 声音は淡々としていたが、どこか不気味な抑揚があり、聞く者に妙な圧迫感を与える。

 

「今から行うのは『身体検査(システムスキャン)』だ。君たちが『どれだけ成長しているか』を、明確に評価する。失望させるなよ。誰よりも、君たち自身をな」

 

 その言葉に、ざわりと空気が揺れる。

 普段の『授業』とは異なる、どこか張り詰めた緊張感が場を支配した。

 

 『身体検査(システムスキャン)』――それは、この施設において定期的に行われる、能力の成長度や応用性を測るための試験である。

 その成績によっては、研究対象としての評価が上下し、時に『処遇』も変わる。

 

「試験は個別に行う。呼ばれた者から順に、待機エリアへ移動せよ。準備が整い次第、シミュレーション空間を展開する。環境や条件は毎回異なるが、それも含めて『実力』だ。……わかるな?」 

 

 幻生は笑いもせず、ただ事務的に言葉を続けた。

 

「……さや、りんね……」

 

 列に加わった日花璃が、すぐ隣の二人へ小さく囁く。

 

「やっぱり、少し緊張する……」

「だいじょうぶだって! あたしら、いつも通りにやればいいだけだよ!」

 

 紗綾はにかっと笑ってサムズアップを見せる。けれど、その笑顔の奥にあるかすかな硬さを、時ヶ谷は見逃さなかった。

 

「……浮ついたことを言ってると、また評価が下がりますわよ」

「ええー、凛音ちゃんはほんと真面目だねぇ」

「当たり前ですわ。ここでは結果こそが全てなのですから」

 

 時ヶ谷はちらと周囲を見回す。

 どの顔にも緊張の色が濃く浮かび、誰一人としてそれを隠しきれてはいなかった。

 

 次第に列が動き始め、やがて三人の番が近づいてくる。

 ホールの奥には、真っ白な実験用フィールドが展開されていた。その空間は自在に構造を変化させ、被験者の能力に応じて最適化される仕様となっている。

 

「――次、水島紗綾くん」

「はいっ!」

 

 タブレットを持った榊誠司に名前を呼ばれると、紗綾は小走りでフィールドへ駆け込む。

 展開されたステージには、複数の的が配置されていた。球体、風車、そして重量別のターゲット。各種の反応を通して、能力の出力・精密度・安定性が測定されるのだ。

 

「では、第一課題。風速実験、開始」

 

 榊の合図と同時に、紗綾は深く息を吸い込み――勢いよく両腕を突き出した。

 ……が。

 フィールドの的は一切動かず、空気がすん、と静まり返ったままだった。

 

「……あっれー?」

 

 紗綾が可愛らしく小首を傾げる。

 

「もう一回っ!」

 

 今度は両腕にぐっと力を込めて、再び同じ動作を繰り返す――が、それでもやはり反応は乏しい。

 強いて言えば、風車がかすかにひと揺れした程度だった。

 

空力操作(エアロハンド) 無能力者(レベル0)無能力者』

 

 無機質な人工音声だけが、静まり返ったフィールドに響いていた。

 

「…………」

 

 紗綾はその場に立ち尽くしたまま、唇をぎゅっと噛みしめる。

 ぱっと明るく振舞っていた彼女の表情から、一瞬だけ笑みが消える。

 

「……昨日は、もうちょっと風、出たのに」

 

 絞り出すような声でそう呟いた彼女は、俯いたまま、くしゃりと拳を握った。

 榊はタブレット端末に数値を記録しながら、ぽつりとつぶやいた。

 

「こうなったら……雨束日花璃くん!」

「は、はいっ」

 

 名前を呼ばれた日花璃は、フィールドへ入り、紗綾の隣に立つ。

 

「能力の使用には、もう慣れてきたかな?」

 

 榊の問いかけに、日花璃はおそるおそる答えた。

 

「うん……たぶん」

「では、頼むよ」

 

 小さく頷いた日花璃に、紗綾が少し不思議そうな表情を向ける。

 

「ちょ、なにを?」

 

 返事はなく、日花璃はそっと目を閉じる。

 そして、ぱっと目を開く――その瞳は、金色に光っていた。

 

「なっ!?」

 

 その異様な光景に、紗綾はふっと息を呑む。

 

「水島くん、もう一回、能力を使ってみな」

「えっ?」

 

 榊の言葉に戸惑いながらも、紗綾は素直に従う。

 両腕を前に突き出し、先ほどよりも強く意識を込めて――

 

 ひゅぅんっ!

 凄まじい風の奔流が迸り、フィールド内の的を一気に吹き飛ばした。重さのあるターゲットさえも浮き上がり、ガコンと壁に激突して止まる。

 あまりの出来事に、榊が目を細めて、

 

「……測定結果、風速・操作精度ともに強能力者(レベル3)相当。大したもんだな」

「…………」

 

 一瞬の沈黙。

 自分の身に起きたことが信じられないかのように、紗綾は目を見開いたまま、吹き飛んだ的を呆然と見つめていた。

 

「え、うそ……今の、あたしが……?」

 

 かすれた声がこぼれる。

 

「……さっきは、全然ダメだったのに。なんで……?」

 

 無意識のうちに、隣に立つ日花璃の横顔を見上げる。

 

「これ……日花璃ちゃんが……?」

 

 そのとき――

 金色に輝いていた日花璃の瞳は、ゆっくりとその光を失い、ふっと目を伏せた。

 

「……ごめんね、ずっと黙ってて」

 

 日花璃の顔は、どこか遠くを見るような――あるいは、自分の身体ですら他人事のように感じているような、そんな表情だった。

 

「す、すごいっ!」

 

 紗綾は思わず声を震わせながら、ぎゅっと日花璃に抱きついた。

 

「さ、さや……?」

 

 驚きと戸惑いが入り混じった声に、紗綾は顔を上げ、じっと日花璃の表情を見つめる。

 

「日花璃ちゃん……こんな力、ずっと隠してたなんて……」

 

 その瞳には、尊敬と羨望、そして少しだけ申し訳なさが混ざっていた。

 

「よーし、思いっきりやるぞ!!」

 

 新しく手に入れたおもちゃを試す子供のように、紗綾は目を輝かせながらフィールドの中央に立った。

 両腕を大きく広げ、ぐっと力を込める。

 

「えーいっ!」

 

 次の瞬間、バシュッと風が弾ける音がして、軽量のターゲットが宙を舞った。

 

「わあっ……ほんとに、あたしにも力が!」

 

 嬉しそうにくるくるとその場で一回転しながら、もう一度両腕を振る。

 シュバッ! 風車が勢いよく回転し、後方の球体までもがぐらつく。

 

「すごいすごい! 今度はあっちも!」

 

 勢いに任せて次々に風を放つ紗綾の姿は、まさに初めて自転車に乗れた子どものようだった。

 その無邪気な笑顔に、榊はわずかに口元をほころばせ、タブレット端末に静かに数値を記録していく。

 

 

 

「……どうやら順調のようだな、榊君」 

 

 

 

 その時、背後からしわがれた声が響いた。

 ゆっくりと振り向くと、白衣を羽織った痩躯の老人が、足音ひとつ立たずにそこに立っていた。

 

「……木原先生」

 

 榊は一礼しながらも、その表情には微妙な緊張がにじんでいた。

 かつて大学で教鞭を執っていたこの男から、榊は多くのことを学んだ。科学とは何か、論理とは何か、そして人知の限界に挑む姿勢までも――。

 

「……ご覧の通り、被験体47号に、明らかな能力変動が確認されました」

「うむ、いい傾向だ。……あとは、安定性と持続性が鍵になるな」

 

 心なしか、わずかに見開いた老人の目には、どこか『喜び』にも似た光が宿っていた。 

 

「…………」

 

 この男が、何を目指してこの研究施設を立ち上げたのか。

 教え子である榊には、それが誰よりもよくわかっていた。

 

 誰しも到達し得なかった『絶対能力(レベル6)』の誕生。

 それこそが、木原幻生の掲げた最終目標――神ならぬ身にて天上の意思に辿り着く者(SYSTEM)

 

 『歪曲揺光(フラクチュエイト)』。

 あの能力は、無能力者(レベル0)にすらあれだけの成長をもたらした。

 

 もしそれを、正しく制御し活用することができれば――。

 そんな思考に耽っていた、そのときだった。

 

「――ああああああああああああ!」

「さや、どうしたの!?」

 

 甲高い呻き声に、榊の意識が現実に引き戻される。

 視線を向けると、紗綾が頭を押さえてその場に崩れ落ちていた。

 そのすぐ傍で、日花璃が青ざめた顔で呼びかけている。

 

「水島くん!?」

 

 榊は慌てて駆け寄った。

 

「おい、大丈夫か!?」

「ずつう、が……っ」

 

 痛みに顔を歪めながらも、紗綾は必死に言葉を絞り出す。

 その額からは、うっすらと汗が滲み出ていた。

 

「ふーん……やはり、反動が伴うのか」

 

 幻生は表情ひとつ変えず、のんびりとした調子で榊たちへ歩み寄ってくる。

 まるで目の前で起きている痛みや混乱に、何の興味もないかのような態度だった。

 

 ちょうどそのとき――実験フィールドの扉が、勢いよく開け放たれる。

 そこに現れたのは、時ヶ谷凛音である。

 おそらく、先ほどの悲鳴を聞きつけて駆けつけたのだろう。

 

「紗綾さん!?」

 

 床に倒れている少女の姿を確認すると、時ヶ谷は一瞬だけ驚いた――が、すぐに冷静さを取り戻し、迷いなく彼女のもとへ駆け寄った。

 しゃがみ込み、そっと紗綾の額に手を当てる。

 

 その瞬間。

 身体の奥を貫くような衝撃が走る。

 

 視界がブレ、音が遠のき、時間すら軋むように歪んでいく。

 あらゆる感覚が早送りの映像のように加速する。

 

「ふ、はぁぁぁ……!」

 

 一拍遅れて、大きく息を吐き出す。

 先ほどまで焼けつくように痛んでいた頭が、すうっと静まっていく。

 全身がふわりと軽くなり、まるで悪夢から目覚めたかのような心地だった。

 

「いま……なに、が……?」

 

 呆然とつぶやきながら、紗綾は自分の額にそっと手を当てた。まだ指先に微かに残る熱に、さっきまでの出来事が夢だったように思える。

 

「ほう、これが噂の『時間制御(クロノシフト)』か」

 

 その一部始終を見ていた木原幻生が、唸るような低い声を漏らした。目を細め、まるで標本を観察するかのような目つきで時ヶ谷を射抜く。

 

「君、名前は?」

「……時ヶ谷凛音です」

 

 時ヶ谷はまるで怯むそぶりも見せず、淡々と、しかしきっぱりと名乗った。むしろ彼女の眼差しには、一歩も引かないという意志の強さすら漂っていた。

 

「時ヶ谷君……実に興味深い」

 

 幻生は口元をわずかに歪めて、愉悦とも皮肉ともつかぬ笑みを浮かべる。

 

「榊君、次は彼女を対象にして『歪曲揺光(フラクチュエイト)』の実験を行ってくれたまえ」

 

「先生……しかし、今ご覧になったでしょう。あの反動が、もしまた――」

 

 榊が一歩踏み出すようにして言いかけたその瞬間、幻生は片手をひらひらと振って遮った。

 

「関係ないよ、榊君。危険があるからこそ、実験には価値がある」

 

 幻生の声はどこまでも冷徹で、どこまでも合理的だった。

 

「予想可能な結果しか出ない実験など、時間の無駄だ。――彼女の『限界』がどこにあるのか、それを確かめるのが我々の仕事だろう?」

 

 榊は押し黙った。内心で何かを噛みしめるように、眉をわずかに寄せながらも、それ以上の反論はできなかった。

 

「……雨束くん」

「で、でも……」

 

 日花璃は躊躇いがちに視線を上げ、時ヶ谷の方を窺う。

 だが、彼女は静かに頷いた。

 

「構いません、日花璃さん」

 

 その声音に、怯えや迷いは微塵もなかった。

 

「いざとなったら、自分でなんとかしますわ」

 

 どこか涼やかに、しかし凛とした口調で彼女は言い放つ。

 

「……わかった」

 

 日花璃はそっと時ヶ谷に向き直り、目を瞑り、深く息を吸い――

 

 ぱちん。

 まぶたが開かれた瞬間、その瞳は再び金色の光を帯びていた。

 空気が静かに揺れる。まるでそこだけ、世界の流れが歪み始めたかのように。

 

「さて」

 

 幻生は懐から一つのリンゴを取り出した。

 皮の赤が艶やかで、よく熟れているのが分かる。彼はそれに一口、ゆっくりと歯を立てて、しゃく、と音を立ててかじる。

 そして、かじりかけのリンゴを時ヶ谷に差し出した。

 

「これに、触れてみてくれたまえ。今の君の力で、どうなるか見てみたい」

 

 時ヶ谷は一瞬だけ、幻生の目を見つめた。

 その眼差しには、探るような色も、拒絶の気配もなかった。ただ静かに、淡々とした理解――まるでこの要求が何を意味するかを、最初から知っていたかのように。

 やがて、彼女はそっと指先をリンゴに触れた。

 

 その瞬間――

 まるで映像が逆再生されるかのように、かじられた果実がゆっくりと元の形へと戻っていく。

 

 ひと噛みごとの凹みが滑らかに消え、歯形の跡が消失し、艶やかな皮が完全な球体へと修復されていく。

 傷一つなかった頃の、完璧な果実へ。

 

「……ほほ、これは想像以上だな」

 

 幻生はわずかに目を細め、まるで深海の底から浮かび上がる泡のような、冷ややかな笑みを浮かべた。

 

「時間的逆転の干渉範囲がここまで精密とは……粒子レベルで履歴を『巻き戻している』ようにも見えるな」

 

 榊は思わず息を呑み、タブレットを持つ手に力が入る。

 

「……物質の因果そのものを、限定的に遡行している……そんな真似が可能だなんて」

 

 その呟きに、日花璃と紗綾がわずかに肩を震わせる。すぐ隣にいた少女が、指先一つで『時間』を操ってみせたのだ――無理もなかった。

 だが、当の時ヶ谷凛音はまるで何の感慨もないかのように、元に戻ったリンゴをただ見つめていた。

 

「……思ったより、簡単でしたわ」

 

 その淡々とした声に、榊がぎこちなく反応する。

 

「いや……『簡単だった』で済む話じゃない。時ヶ谷くん、演算による脳負荷は? 頭痛や眩暈は――」

「今のところは何も。少し疲労感はありますけれど、気分は安定しています」

「ふむ……『可能性』が広がるな」

 

 幻生は手のひらに収まる赤い果実を、まるで何かの標本でも見るかのように見下ろしながら、低く呟いた。

 その口元には、静かながら明らかな満足の色が滲んでいる。

 

「先生、まさか……」

 

 榊が硬い声を絞り出すように言った。目は幻生を見据えながらも、わずかに揺れていた。

 彼にはわかっていた。この男が次に言おうとしていることの重みと、それが意味する『境界線』のことを。

 

「『物』でこれだけの精度が出せるなら――」

 

 幻生はごく自然に言葉を継ぎ、リンゴを軽く宙に投げて受け止める。

 

「次は『人間』で試したくなる。……そうは思わんかね?」

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