「――日花璃ちゃん!」
それは、とある静かな午後のことだった。
人工林の奥にひっそりと佇む小学校、その屋上で、雨束日花璃はぽつんと一人、空を見上げていた。
そんな彼女の背後から、元気いっぱいの声が飛んできた。
振り返ると、屋上の扉の前には二人の少女が立っていた。
一人は、黒髪を三つ編みにした活発そうな少女。
つぶらな瞳がきらきらと輝き、胸元で揺れる三つ編みが動きに合わせて跳ねている。弾むような声と、遠慮のない足取り。飾り気のない無邪気な笑顔は、周囲の空気すら明るく塗り替えるようだった。
もう一人は、その隣に静かに佇む少女。
同じ黒髪でも、長く艶やかな髪は風をすべらせるようにたなびき、整った顔立ちにはどこか触れてはならない気品を宿していた。
深紅の瞳が静かに揺れ、わずかに目を細めた彼女の姿は、まるで絵画の中から抜け出してきたかのようだった。
二人とも、日花璃と同じ十歳前後に見えるが、その雰囲気は対照的だ。
名前を呼んだのは、もちろん前者――水島紗綾。
数秒の遅れをもって、ぼんやりしていた意識が現実へと戻り、日花璃は小さく口を動かした。
「……さや、りんね」
「ったくもう、またここで一人でぼーっとして。先生に見つかったら、また怒られるよ?」
紗綾は呆れたように笑いながら駆け寄り、フェンスにもたれた日花璃の隣にぴょんと腰を下ろす。
その後ろから、時ヶ谷凛音が静かに歩み寄ってくる。まるで騒がしさと静けさが、自然と寄り添うように。
やがて二人とも、日花璃の隣に並び立つ。
紗綾が顔を覗きこみながら問いかけた。
「で、また何か考え事でもしてたの?」
「……鳥さんを、見てた」
「鳥?」
思わぬ答えに、紗綾はぱちくりと目を瞬かせる。
「空を飛び回ってる鳥さんが、とっても自由そうに見えたから……。いいなぁって、羨ましくなっちゃった」
「わかる〜! あたしも能力がもっと強くなったら、空をビュンビュン飛び回りたいんだよね〜!」
紗綾の声には、子供らしい憧れがそのまま乗っていた。
その隣で、今まで静かにしていた時ヶ谷凛音が、ふと口を開く。
「……鳥が自由だなんて、それは人間の勝手な幻想ですわ」
「えっ? なんで?」
紗綾がぽかんと聞き返すと、時ヶ谷は小さくため息をつき、赤い瞳を空に向ける。
「鳥は、好き好んで飛んでいるわけではありません。あれは生きるための行為ですの。餌を探すために、巣を作るために、水を求めて、あるいは天敵から逃げるために……彼らは飛ばなければならないのです。飛ぶことは、自由ではなく『義務』に近いです。自然という厳しいルールに縛られた中での、命をつなぐ手段にすぎませんわ」
時ヶ谷の声には、淡々とした響きがあった。
「空がいくら広くても、彼らの居場所は限られています。ずっと飛び続けることはできませんし、羽を休める枝も、餌を得られる場所もなければ、生きていけません。空そのものには、誰かの居場所など存在しませんのよ。美しく見えても、その実態は、ただ過酷なだけ――それが『飛ぶ』という行為の現実ですわ」
一通り話し終えると、時ヶ谷はちらりと隣の二人を見やる。
二人とも、ぽかんとしたまま目を丸くしていた。
「……ちょっと、お二人とも聞いてます?」
「ごめん……ちょっとむずかしいかも」
日花璃が、申し訳なさそうに小さく首をかしげる。
「凛音ちゃんって、ほんと大人っぽいっていうかさ。まだあたしたちと同い年のくせに、言うことだけめっちゃ理屈っぽいよね」
紗綾が腕を組みながら、やれやれといった表情を見せる。
「紗綾さん。人がせっかく丁寧に説明しているのに、その言い草は少々失礼ではありませんこと?」
時ヶ谷がわずかに眉をひそめて抗議するも、紗綾はどこ吹く風とばかりに笑っていた。
「でも、やっぱり風に乗って羽ばたく姿は、綺麗でしょ?」
その無邪気な言葉に、時ヶ谷は少し目を見開いた。
紗綾は、まっすぐに空を見上げたまま、ぽつりと言葉を続ける。
「現実がどんなでも、綺麗だって思う気持ちは、きっと、まちがいじゃないよ――たとえ、それが幻想だったとしても」
「…………」
その言葉に、時ヶ谷はしばし黙り込んでいた。
(本当に、まっすぐで前向きな人ですわね)
良くも悪くも、自分とは対照的で、正反対。
初めて会ったときもそうだった。
誰とも距離を置いていた時ヶ谷に、彼女は屈託なく話しかけてきて……最初は鬱陶しいと思っていたのに。気づけば、いつの間にか。
――その時だった。
バンッ、という乾いた音とともに、屋上の扉が勢いよく開かれた。
三人が一斉にそちらへ顔を向けると、そこに立っていたのは――一人の青年だった。
白衣を羽織り、無精ひげに寝ぐせのついた髪。どう見ても教師には見えないその風貌に、紗綾が思わず声を上げる。
「……あっ、榊先生!?」
青年――榊誠司は、手にしたタブレットを軽く持ち上げながら、少しだけ呆れたように言った。
「やれやれ……やっぱりここにいたのか。もうすぐ『授業』の時間だぞ。このことは、他の先生には黙っておくから、さっさと戻れ」
相も変わらず、妙に面倒見の良い先生である。
榊に促され、三人は屋上を後にする。
フェンスにもたれていた日花璃が立ち上がり、名残惜しげに空を見上げた。
時ヶ谷は最後まで背筋を伸ばしたまま、静かに歩き出す。
その瞳には、さきほどの会話の余韻がまだ淡く宿っていたが、口にすることはなかった。
紗綾はというと、何か面白いことでも思いついたのか、にやにやしながら先頭を歩いていた。
そして、三人の背後――誰も振り返らなかった屋上の空に、一羽の鳥がふわりと舞い降り、やがて風に乗って飛び立っていった。
◇
多目的ホール。
広々としたその空間には、およそ100人ほどの少女たちが集まっていた。
皆この『小学校』――正確には、それを偽装した特別研究施設に所属する被験者である。年齢は十歳前後。外の世界から隔絶されたこの場所で、日々『授業』と称される実験を受けていた。
教壇の前には、一人の老人が現れた。
白衣を羽織り、いかにも学者然としたその姿は、見る者にどこか不気味な印象を与える。
木原幻生。
この『小学校』を立ち上げた人物にして、名目上の『校長先生』でもある。
普段は姿を見せることは稀だが、その存在が持つ影響力は絶大だった。
教壇に立った幻生は、少女たちを一瞥し、口を開いた。
「さて――全員、揃っているようだな」
声音は淡々としていたが、どこか不気味な抑揚があり、聞く者に妙な圧迫感を与える。
「今から行うのは『
その言葉に、ざわりと空気が揺れる。
普段の『授業』とは異なる、どこか張り詰めた緊張感が場を支配した。
『
その成績によっては、研究対象としての評価が上下し、時に『処遇』も変わる。
「試験は個別に行う。呼ばれた者から順に、待機エリアへ移動せよ。準備が整い次第、シミュレーション空間を展開する。環境や条件は毎回異なるが、それも含めて『実力』だ。……わかるな?」
幻生は笑いもせず、ただ事務的に言葉を続けた。
「……さや、りんね……」
列に加わった日花璃が、すぐ隣の二人へ小さく囁く。
「やっぱり、少し緊張する……」
「だいじょうぶだって! あたしら、いつも通りにやればいいだけだよ!」
紗綾はにかっと笑ってサムズアップを見せる。けれど、その笑顔の奥にあるかすかな硬さを、時ヶ谷は見逃さなかった。
「……浮ついたことを言ってると、また評価が下がりますわよ」
「ええー、凛音ちゃんはほんと真面目だねぇ」
「当たり前ですわ。ここでは結果こそが全てなのですから」
時ヶ谷はちらと周囲を見回す。
どの顔にも緊張の色が濃く浮かび、誰一人としてそれを隠しきれてはいなかった。
次第に列が動き始め、やがて三人の番が近づいてくる。
ホールの奥には、真っ白な実験用フィールドが展開されていた。その空間は自在に構造を変化させ、被験者の能力に応じて最適化される仕様となっている。
「――次、水島紗綾くん」
「はいっ!」
タブレットを持った榊誠司に名前を呼ばれると、紗綾は小走りでフィールドへ駆け込む。
展開されたステージには、複数の的が配置されていた。球体、風車、そして重量別のターゲット。各種の反応を通して、能力の出力・精密度・安定性が測定されるのだ。
「では、第一課題。風速実験、開始」
榊の合図と同時に、紗綾は深く息を吸い込み――勢いよく両腕を突き出した。
……が。
フィールドの的は一切動かず、空気がすん、と静まり返ったままだった。
「……あっれー?」
紗綾が可愛らしく小首を傾げる。
「もう一回っ!」
今度は両腕にぐっと力を込めて、再び同じ動作を繰り返す――が、それでもやはり反応は乏しい。
強いて言えば、風車がかすかにひと揺れした程度だった。
『
無機質な人工音声だけが、静まり返ったフィールドに響いていた。
「…………」
紗綾はその場に立ち尽くしたまま、唇をぎゅっと噛みしめる。
ぱっと明るく振舞っていた彼女の表情から、一瞬だけ笑みが消える。
「……昨日は、もうちょっと風、出たのに」
絞り出すような声でそう呟いた彼女は、俯いたまま、くしゃりと拳を握った。
榊はタブレット端末に数値を記録しながら、ぽつりとつぶやいた。
「こうなったら……雨束日花璃くん!」
「は、はいっ」
名前を呼ばれた日花璃は、フィールドへ入り、紗綾の隣に立つ。
「能力の使用には、もう慣れてきたかな?」
榊の問いかけに、日花璃はおそるおそる答えた。
「うん……たぶん」
「では、頼むよ」
小さく頷いた日花璃に、紗綾が少し不思議そうな表情を向ける。
「ちょ、なにを?」
返事はなく、日花璃はそっと目を閉じる。
そして、ぱっと目を開く――その瞳は、金色に光っていた。
「なっ!?」
その異様な光景に、紗綾はふっと息を呑む。
「水島くん、もう一回、能力を使ってみな」
「えっ?」
榊の言葉に戸惑いながらも、紗綾は素直に従う。
両腕を前に突き出し、先ほどよりも強く意識を込めて――
ひゅぅんっ!
凄まじい風の奔流が迸り、フィールド内の的を一気に吹き飛ばした。重さのあるターゲットさえも浮き上がり、ガコンと壁に激突して止まる。
あまりの出来事に、榊が目を細めて、
「……測定結果、風速・操作精度ともに
「…………」
一瞬の沈黙。
自分の身に起きたことが信じられないかのように、紗綾は目を見開いたまま、吹き飛んだ的を呆然と見つめていた。
「え、うそ……今の、あたしが……?」
かすれた声がこぼれる。
「……さっきは、全然ダメだったのに。なんで……?」
無意識のうちに、隣に立つ日花璃の横顔を見上げる。
「これ……日花璃ちゃんが……?」
そのとき――
金色に輝いていた日花璃の瞳は、ゆっくりとその光を失い、ふっと目を伏せた。
「……ごめんね、ずっと黙ってて」
日花璃の顔は、どこか遠くを見るような――あるいは、自分の身体ですら他人事のように感じているような、そんな表情だった。
「す、すごいっ!」
紗綾は思わず声を震わせながら、ぎゅっと日花璃に抱きついた。
「さ、さや……?」
驚きと戸惑いが入り混じった声に、紗綾は顔を上げ、じっと日花璃の表情を見つめる。
「日花璃ちゃん……こんな力、ずっと隠してたなんて……」
その瞳には、尊敬と羨望、そして少しだけ申し訳なさが混ざっていた。
「よーし、思いっきりやるぞ!!」
新しく手に入れたおもちゃを試す子供のように、紗綾は目を輝かせながらフィールドの中央に立った。
両腕を大きく広げ、ぐっと力を込める。
「えーいっ!」
次の瞬間、バシュッと風が弾ける音がして、軽量のターゲットが宙を舞った。
「わあっ……ほんとに、あたしにも力が!」
嬉しそうにくるくるとその場で一回転しながら、もう一度両腕を振る。
シュバッ! 風車が勢いよく回転し、後方の球体までもがぐらつく。
「すごいすごい! 今度はあっちも!」
勢いに任せて次々に風を放つ紗綾の姿は、まさに初めて自転車に乗れた子どものようだった。
その無邪気な笑顔に、榊はわずかに口元をほころばせ、タブレット端末に静かに数値を記録していく。
「……どうやら順調のようだな、榊君」
その時、背後からしわがれた声が響いた。
ゆっくりと振り向くと、白衣を羽織った痩躯の老人が、足音ひとつ立たずにそこに立っていた。
「……木原先生」
榊は一礼しながらも、その表情には微妙な緊張がにじんでいた。
かつて大学で教鞭を執っていたこの男から、榊は多くのことを学んだ。科学とは何か、論理とは何か、そして人知の限界に挑む姿勢までも――。
「……ご覧の通り、被験体47号に、明らかな能力変動が確認されました」
「うむ、いい傾向だ。……あとは、安定性と持続性が鍵になるな」
心なしか、わずかに見開いた老人の目には、どこか『喜び』にも似た光が宿っていた。
「…………」
この男が、何を目指してこの研究施設を立ち上げたのか。
教え子である榊には、それが誰よりもよくわかっていた。
誰しも到達し得なかった『
それこそが、木原幻生の掲げた最終目標――
『
あの能力は、
もしそれを、正しく制御し活用することができれば――。
そんな思考に耽っていた、そのときだった。
「――ああああああああああああ!」
「さや、どうしたの!?」
甲高い呻き声に、榊の意識が現実に引き戻される。
視線を向けると、紗綾が頭を押さえてその場に崩れ落ちていた。
そのすぐ傍で、日花璃が青ざめた顔で呼びかけている。
「水島くん!?」
榊は慌てて駆け寄った。
「おい、大丈夫か!?」
「ずつう、が……っ」
痛みに顔を歪めながらも、紗綾は必死に言葉を絞り出す。
その額からは、うっすらと汗が滲み出ていた。
「ふーん……やはり、反動が伴うのか」
幻生は表情ひとつ変えず、のんびりとした調子で榊たちへ歩み寄ってくる。
まるで目の前で起きている痛みや混乱に、何の興味もないかのような態度だった。
ちょうどそのとき――実験フィールドの扉が、勢いよく開け放たれる。
そこに現れたのは、時ヶ谷凛音である。
おそらく、先ほどの悲鳴を聞きつけて駆けつけたのだろう。
「紗綾さん!?」
床に倒れている少女の姿を確認すると、時ヶ谷は一瞬だけ驚いた――が、すぐに冷静さを取り戻し、迷いなく彼女のもとへ駆け寄った。
しゃがみ込み、そっと紗綾の額に手を当てる。
その瞬間。
身体の奥を貫くような衝撃が走る。
視界がブレ、音が遠のき、時間すら軋むように歪んでいく。
あらゆる感覚が早送りの映像のように加速する。
「ふ、はぁぁぁ……!」
一拍遅れて、大きく息を吐き出す。
先ほどまで焼けつくように痛んでいた頭が、すうっと静まっていく。
全身がふわりと軽くなり、まるで悪夢から目覚めたかのような心地だった。
「いま……なに、が……?」
呆然とつぶやきながら、紗綾は自分の額にそっと手を当てた。まだ指先に微かに残る熱に、さっきまでの出来事が夢だったように思える。
「ほう、これが噂の『
その一部始終を見ていた木原幻生が、唸るような低い声を漏らした。目を細め、まるで標本を観察するかのような目つきで時ヶ谷を射抜く。
「君、名前は?」
「……時ヶ谷凛音です」
時ヶ谷はまるで怯むそぶりも見せず、淡々と、しかしきっぱりと名乗った。むしろ彼女の眼差しには、一歩も引かないという意志の強さすら漂っていた。
「時ヶ谷君……実に興味深い」
幻生は口元をわずかに歪めて、愉悦とも皮肉ともつかぬ笑みを浮かべる。
「榊君、次は彼女を対象にして『
「先生……しかし、今ご覧になったでしょう。あの反動が、もしまた――」
榊が一歩踏み出すようにして言いかけたその瞬間、幻生は片手をひらひらと振って遮った。
「関係ないよ、榊君。危険があるからこそ、実験には価値がある」
幻生の声はどこまでも冷徹で、どこまでも合理的だった。
「予想可能な結果しか出ない実験など、時間の無駄だ。――彼女の『限界』がどこにあるのか、それを確かめるのが我々の仕事だろう?」
榊は押し黙った。内心で何かを噛みしめるように、眉をわずかに寄せながらも、それ以上の反論はできなかった。
「……雨束くん」
「で、でも……」
日花璃は躊躇いがちに視線を上げ、時ヶ谷の方を窺う。
だが、彼女は静かに頷いた。
「構いません、日花璃さん」
その声音に、怯えや迷いは微塵もなかった。
「いざとなったら、自分でなんとかしますわ」
どこか涼やかに、しかし凛とした口調で彼女は言い放つ。
「……わかった」
日花璃はそっと時ヶ谷に向き直り、目を瞑り、深く息を吸い――
ぱちん。
まぶたが開かれた瞬間、その瞳は再び金色の光を帯びていた。
空気が静かに揺れる。まるでそこだけ、世界の流れが歪み始めたかのように。
「さて」
幻生は懐から一つのリンゴを取り出した。
皮の赤が艶やかで、よく熟れているのが分かる。彼はそれに一口、ゆっくりと歯を立てて、しゃく、と音を立ててかじる。
そして、かじりかけのリンゴを時ヶ谷に差し出した。
「これに、触れてみてくれたまえ。今の君の力で、どうなるか見てみたい」
時ヶ谷は一瞬だけ、幻生の目を見つめた。
その眼差しには、探るような色も、拒絶の気配もなかった。ただ静かに、淡々とした理解――まるでこの要求が何を意味するかを、最初から知っていたかのように。
やがて、彼女はそっと指先をリンゴに触れた。
その瞬間――
まるで映像が逆再生されるかのように、かじられた果実がゆっくりと元の形へと戻っていく。
ひと噛みごとの凹みが滑らかに消え、歯形の跡が消失し、艶やかな皮が完全な球体へと修復されていく。
傷一つなかった頃の、完璧な果実へ。
「……ほほ、これは想像以上だな」
幻生はわずかに目を細め、まるで深海の底から浮かび上がる泡のような、冷ややかな笑みを浮かべた。
「時間的逆転の干渉範囲がここまで精密とは……粒子レベルで履歴を『巻き戻している』ようにも見えるな」
榊は思わず息を呑み、タブレットを持つ手に力が入る。
「……物質の因果そのものを、限定的に遡行している……そんな真似が可能だなんて」
その呟きに、日花璃と紗綾がわずかに肩を震わせる。すぐ隣にいた少女が、指先一つで『時間』を操ってみせたのだ――無理もなかった。
だが、当の時ヶ谷凛音はまるで何の感慨もないかのように、元に戻ったリンゴをただ見つめていた。
「……思ったより、簡単でしたわ」
その淡々とした声に、榊がぎこちなく反応する。
「いや……『簡単だった』で済む話じゃない。時ヶ谷くん、演算による脳負荷は? 頭痛や眩暈は――」
「今のところは何も。少し疲労感はありますけれど、気分は安定しています」
「ふむ……『可能性』が広がるな」
幻生は手のひらに収まる赤い果実を、まるで何かの標本でも見るかのように見下ろしながら、低く呟いた。
その口元には、静かながら明らかな満足の色が滲んでいる。
「先生、まさか……」
榊が硬い声を絞り出すように言った。目は幻生を見据えながらも、わずかに揺れていた。
彼にはわかっていた。この男が次に言おうとしていることの重みと、それが意味する『境界線』のことを。
「『物』でこれだけの精度が出せるなら――」
幻生はごく自然に言葉を継ぎ、リンゴを軽く宙に投げて受け止める。
「次は『人間』で試したくなる。……そうは思わんかね?」