とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase24「別離 -ロストソウル-」

 ――炎に包まれた、あの夜の記憶は、いまだにおぼろげだ。

 霞む視界の向こうに、かすかに映っていたのは――寝間着姿の、幼い少女。

 風になびく長い黒髪、真紅の瞳。彼女は、必死に『わたし』へと声を届けていた。

 

『――目を覚ましてくださいまし、日花璃さん!』

 

 ひかり――あ。思い出した。

 『わたし』の名前、リコじゃなかった。……そうだ、『日花璃』だった。

 

 目の前にいるのは、時ヶ谷凛音。

 家族も、友達もいなかった孤独な日々。そんな『わたし』にとっては、数少ない――大切な、友達。

 

 ……あれ?

 『わたし』……なんで空に浮いているの?

 

 それに、どうして――りんねと戦っているの?

 それを考える間もなかった。

 

 ――ズドン!

 鈍く重たい衝撃音とともに、りんねが空中から燃え上がる学生寮の屋上へと叩きつけられる。

 

 自分が何をしたのか、正直、自分でもわからない。

 ただ気がつけば――わたしは、いつの間にか屋上に降り立ち、倒れ込むりんねを見下ろしていた。

 

 勝負は、わたしの理解が追いつく前に、ついてしまっていた。

 りんねは、ぼろぼろの体を引きずりながら、なんとか上体を起こし、こちらを見る。

 

『……やっぱり、わたくしの声は届かないのですね』

 

 違う――ちゃんと、届いてる!

 『わたし』は返事をしようと口を開こうとする。けれど、身体がまるで他人のもののように動いてくれない。

 

 そのとき。

 『わたし』の周囲に、ふわりと光球がいくつも浮かび上がった。

 

 ダメ! このままじゃ、りんねが――!

 必死に――心の中で、何度も叫んだ。

 

 お願い、止まって。こんなこと、『わたし』は望んでない。

 けれど、そんな『わたし』の願いもむなしく、周囲に浮かぶ光球はただ膨れ上がっていく。

 眩しく、脈動し、今にも爆ぜそうに震えていた。

 

 ――その直前だった。

 

『凛音ちゃん!』

 

 誰かが、『わたし』とりんねの間に、飛び込んできた。

 

 まるで、盾になるように。

 その姿を見て、わたしの意識は一瞬、真っ白になった。

 

 黒髪をきつく編み込んだ、三つ編みの少女。

 この街で、誰よりも優しく、強くあろうとした子。

 わたしの、大切な――

 

(さや……!?)

 

 次の瞬間、金色の閃光が炸裂した。

 爆発音が遅れて耳を打ち、世界が真っ白に染まる。

 

 視界が戻ったとき、『わたし』はその場に立ち尽くしていた。

 崩れかけた屋上の片隅。熱を帯びた空気が渦巻く中で、屋上に倒れ込む一人の少女の姿があった。

 

 それが誰なのか、確認するまでもなかった。

 焦げた寝巻。瓦礫に乱れた黒い三つ編み。

 その体は、何本もの光の矢に貫かれ、動かない。

 

「……ぁ……」

 

 声にならない声が喉を突く。けれど、何も出ない。

 彼女の後ろには、ぽかんと上体だけを起こしたりんねがいた。

 事態をまだ受け止めきれていないような、茫然とした表情。

 

『そんな……紗綾さん!』

 

 かすれた声が、わずかに喉から漏れる。

 りんねは、震える膝を支えに、よろよろと立ち上がる。

 ふらつく足取りで、さやのもとへ駆け寄る。

 その瞳が、さやの姿を完全に捉えた瞬間――

 

『ああ……あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!』

 

 りんねとしての矜持も、理性も、すべて吹き飛んだ。

 あの、いつも冷静で淑やかだった彼女が。

 今はただ、幼い少女のように、涙を流しながら喉が裂けるほど叫んでいた。

 

 遅ればせながら、『わたし』もようやく事態を理解した。

 さやが、りんねを庇って――死んだのだ。

 その瞬間、『わたし』の中で、何かが音を立てて崩れた。

 

 支えだったはずの何かが、音もなく、脆く砕けていく感覚。

 目の前の現実が、色をなくしていく。

 

 次の瞬間、何が起きたのかは――もう、よく覚えていない。

 ただ、『わたし』の感情に呼応するように、周囲の光球が一斉に激しく脈動し、そして――爆ぜた。

 

 眩い閃光。

 耳をつんざくような破裂音。

 

 おぼろげな視界の中、ひときわ鮮明だったのは、無精ひげの先生が、崩れ落ちたりんねを抱きしめていた姿だった。

 まるで、彼女の心がこれ以上壊れてしまわぬよう、包み込むように。

 

 ――それから、炎と共に崩れていく学生寮。

 

 

     ◇

 

 

 果てしなく広がる、暗く無機質な空間。

 まるで、すべてが色を失った世界。そこに――『少女』は、力なく倒れていた。

 

 重力さえ感じさせない、静寂。

 音も、時間も、温度すらも遠ざかっていて。

 

 まるで現実から切り離されたような――孤独と絶望の狭間。

 『少女』は、ただ黙って、眠っていた。

 

 やがて、意識の奥底から微かな波が広がる。

 彼女は、ゆっくりと目を開ける。

 

(……ここは……?)

 

 視界に映るのは、限りなく漆黒の空間。ただそれだけ。

 何もないはずなのに、どこか懐かしく――冷たい。

 

 そのとき。

 

 『――……思い出した?』

 

 幼い少女のような声が、空気の震えすら伝わらぬまま、響いた。

 

 『少女』はハッとしたように、跪いたままの姿勢から上体を起こす。

 振り返ると――そこに立っていたのは、ひとりの少女。

 

 白いワンピースをまとい、絹糸のように滑らかな髪を揺らし、透き通るような白い肌に、物憂げな金色の瞳。

 

 ――見覚えがある。いや、見覚えどころではない。

 それは、間違いなく――自分自身の姿だった。

 

「――っ……!」

 

 『少女』が言葉を飲み込んだそのとき、

 『彼女』――自分の影のような存在は、表情ひとつ動かさずに続けた。

 

『――あなた(わたし)が、さやを……みんなを殺したことを』

 

 その言葉は、刃だった。

 柔らかな声のはずなのに、鋭く、冷たく、胸の奥に突き刺さる。

 

「……ちが……う、ちがう……わたしは、そんなつもりじゃ――」

 

 『少女』はかぶりを振る。けれど、その動きには力が感じられない。

 白いワンピース姿の『彼女』は無表情のまま、じっとこちらを見つめていた。

 

 その瞳は、どこまでも透き通っていて――冷たい。

 まるで、自分の奥底にある罪悪感そのものが、形を持って立っているかのようだった。

 

『あなたはわかってたはずよ。能力が抑えきれなくなってることくらい』

「……」

『それでも、見ないふりをした。逃げてた。怖がったんでしょう? 自分のせいで、大切な人が傷つくかもしれない未来が』

「やめて……」

『――でも、逃げたって結果は変わらない。だってもう、取り返しがつかないんだから』

「やめて……やめてったら……!」

 

 『少女』は耳を塞ぐ。けれど、その声はどこあらともなく響いてくる。心の奥に、直接叩き込まれるように。

 

『全部、あなたが壊したんだよ』

 

 『少女』は黒い床に跪いたまま、両手で顔を覆う。 

 肩は小刻みに震え、指の隙間から零れた涙が、音もなく虚無の床へ落ちていく。

 

 その様子を、白いワンピースの『彼女』は無表情のまま見下ろしていた。

 冷たい目で。けれど、どこか哀れむようにも――どこか、自分自身を蔑むようにも。

 

 

 

『……いっそ――全部、ぶっ壊れてしまえばいいのに』

 

 

 

「っ…⁉」

 

 耳元で囁かれたような声に、『少女』の体がビクリと震える。

 胸の奥、ずっと閉じ込めていた言葉が、勝手に口から漏れたかのように思えた。

 

『あと何日、あと何夜……この醜い現実に、耐えればいいの……?』

 

 声は静かだった。けれど、冷たく刺すような痛みを伴って胸をえぐる。

 

「……やめて……」

 

 『少女』は首を振った。けれど、拒絶の動きすら弱々しい。

 

『今日も、明日も、もういらない。だって、さやも――みんなも――もう、いないのに。どこにもいないのに……!』

「やめてっ……!」

 

 『少女』の声が震える。

 自分を責める言葉は、まるで血のように、途切れなく流れ出す。

 

「傷つくのは……わたしだけでいい……だからもう、これ以上――!」

 

 『彼女』は、無表情のまま『少女』の耳元で囁くように言った。

 

『……苦しい』

 

 その声に、『少女』の瞳が揺れる。

 それは他人のものではなかった。

 誰よりも近くて、誰よりも遠くに置き去りにしてきた――自分自身の本音。

 

「……たすけて……」

 

 かすれるような声が、震える唇から漏れる。

 その響きに、『彼女』の表情にかすかな陰りが生まれた。

 

 冷たいはずの瞳が、ふっと揺れ、悲しみに濡れる。

 そして、口が自然に動く。

 

『るいこ……』

 

 その名が告げられた瞬間、何かが砕けた。

 『少女』の胸の奥で、せき止めていたものが一気に決壊する。

 

「…………らっこ……‼」

 

 涙が、頬を伝って溢れた。

 自分の中にずっとあった温度が、その名を通して今、ようやくあふれ出したのだ。

 そして――『少女』は反射的に、真横を見た。

 

 そこに立っていたのは、一人の少女。

 いつからいたのかも分からない。

 けれど、その姿ははっきりと見えた。

 

 ツーサイドアップの黒髪。乳白色の肌。琥珀色の瞳が、今はどこか戸惑いの色を宿しながら、じっと二人を見つめていた。

 その視線に、『少女』の喉から、言葉にならない想いが突き上がる。

 そして、叫ぶように声が漏れる。

 

 

 

「『お願い……わたしを、殺して――!!』」

 

 

     ◇ 

 

 

 果てのない闇に包まれた、無機質で冷たい空間。

 足元にすら実感はなく、重力さえ不確かに思えるその場所に。

 

 弓箭猟虎は、ひとりきりで佇んでいた。

 榊の助言に従い、弓箭は食蜂操祈とドリーの協力を得て――ついに『少女』の内面へと潜ったのだ。

 

 彼女は今、『少女』の心の奥底、深層意識のさらに深い領域へと足を踏み入れている。

 そして弓箭は、確かに見た。

 

 人工林の奥にひっそりと建つ小学校。

 過酷な実験が日常の一部となっていたあの場所で、それでも懸命に笑い合おうとしていた少女たちの姿を。

 

 これはただの幻ではない。

 ソウルネットワークによって接続された意識同士が引き起こす、記憶の追体験。

 弓箭は今、『少女』の過去を、彼女自身の目で見て、心で感じていた――。

 

「――殺すなんて、そんなことはしませんよ」

 

 静かに、でもはっきりと。

 目の前で両膝を抱え、今にも崩れそうな少女に向けて、弓箭は優しく語りかける。

 

「……たくさんの人が、それぞれの想いを抱えて、動いてくれました。――日花璃さんを、助けるために」

 

 けれど、その言葉は『少女』の心に届く前に、鋭く跳ね返された。

 

「……助けるなんて……無駄だよ」

 

 『少女』はうつむき、苦笑すら浮かべながら呟いた。

 

「わたしにそんな価値、ないもん。思い出したんだ、自分が何者で、何をしてきたのか……」

 

 その声は震えていた。けれど、隠しきれない自嘲と絶望がにじんでいる。

 

「……わたしが……さやを……」

 

 唇が震える。喉の奥から絞り出すように続けた。

 

「さやを殺した。みんなを殺した。あの火事も、あの破壊も、全部――わたしがやったの……」

 

 弓箭はすぐに首を振り、言葉を返す。

 

「それは、日花璃さんの意志ではありま――」

「そんなこと、何の慰めにもなるというの!!」

 

 叫ぶような『少女』の声が、弓箭の言葉を遮った。

 

「操られたとか、暴走していたとか、そんなの関係ないよ! 結果は変わらない! わたしの手で……わたしのせいで……!」

 

 『少女』は両手で頭を抱えた。肩が震え、嗚咽がこみ上げる。

 

「……大切な友達だったのに……失いたくなかったのに……わたしが……わたしが……ッ!」

 

 まるで自分自身を罰するように、繰り返し呟く声。

 そのたびに、空間が軋むような重苦しさを帯びていく。

 自責の念に囚われた心は、世界そのものすら閉ざしてしまいそうなほどだった。

 

「…………」

 

 弓箭は、言葉を失っていた。

 目の前で泣き崩れる『少女』。

 その肩は小刻みに震え、絞り出すような声で呟いた。

 

「昔も今も……わたしといると、みんな不幸になるんだ……らっこも……るいこも……わたしのせいで、傷ついた……」

 

 涙で濡れた頬を拭うこともせず、『少女』は唇を噛んで続ける。

 

 

 

「……結局、わたしは『独りぼっち』になる運命なんだ!」

 

 

 

 その言葉に、弓箭の心臓が一瞬、凍り付いた。

 『独りぼっち』。

 それは、かつての自分が何よりも恐れ、幾度となく口にしてきた言葉ではなかったか。

 

(……こんな時、どう声をかければいいのでしょうか)

 

 喉の奥がきゅっと締めつけられる。言葉が出ない。

 頭の中では、言いたいことがいくつも浮かんでは消えていった。

 

(他人との対話から逃げてきたツケが……今になって回ってきたということですのね)

 

 もしも、ここで何かを言って、彼女をさらに傷つけてしまったら――。

 そんな恐れが、心の奥底から這い寄ってくる。

 

(でも、ここで逃げてしまったら――いつまで経っても変わらない…!)

 

 弓箭は、ギュッと自分の手を握りしめた。

 

(佐天さんが、かつてわたくしにそうしてくれたように……今度は、わたくしも…!)

 

 意を決したように、弓箭はゆっくりと一歩、『少女』に近づいた。

 目の前の少女は、まるで罪にすべてを押しつぶされてしまったかのように、顔を伏せ、肩を震わせていた。

 

「――わたくしも……日花璃さんと同じだったんです」

 

 その声は静かで、けれど確かな決意を帯びていた。

 

「幼い頃から、妹の入鹿ちゃん以外に話し相手なんていなくて。その妹とも、ある時からすれ違ってしまって……ずっと、誰にも心を開けないまま、孤独な日々を送っていました」

 

 弓箭の目には、遠い過去の風景が浮かんでいた。誰にも頼れず、誰の手も借りずに、ただ自分の殻の中に閉じこもっていた日々。

 

「でも、それはただの『思い込み』でした。本当は……人と関わって、拒まれるのが怖かっただけなんです。わたくしに優しくしてくれる人なんているはずがないと、心に鍵をかけていたんです。誰かに置いていかれるのはもう、イヤだから……」

 

 言葉を一つ一つ噛みしめながら、弓箭は『少女』の目の前でそっと膝をついた。

 それでも、彼女は顔を上げようとしない。俯いたまま、ぎゅっと膝を抱えている。

 

「でも……日花璃さんは、わたくしとは違う点が一つあります」

「……ちがう、点?」

「あなたは、自分を閉ざしませんでした。ちゃんと人を信じて、友情を築いてこられました。紗綾さんとも、時ヶ谷さんとも――その絆を、本気で大切にされていました」

 

 『少女』の瞳がわずかに揺れた。その震えは、心の奥をそっと撫でるような弓箭の声に、ほんの少しだけ触れられた証。

 

「……でも、殺したんだもん」

 

 ぽつりと、『少女』は呟いた。

 その声は震え、ひどくか細い。

 

「さやを……友達を、自分の手で……。こんなこと、るいこに知られたら……きっと、幻滅される」

 

 その声は、かすれきっていた。罪の重みに押し潰されそうになりながら、それでも誰かに認められたくなかった。

 

 

 

「――わたくしも、人を殺しました」

 

 

 

「!?」

 

 『少女』の目が、驚愕に見開かれる。

 弓箭は真っすぐ彼女の顔を見つめていた。そこに偽りも、曖昧な慰めもなかった。

 

「日花璃さんとは違って、誰かに脅かされたわけでも、何かに取り憑かれたわけでもありません。――わたくし自身の意思で、人の命を、踏みにじってきました」

 

 その声音には、自嘲と、わずかな震えが滲んでいた。

 

「以前、遊園地で日花璃さんを助けたとき……あなたは、わたくしのことを『ヒーロー』と呼んでくださいましたね」

「…………」

「あれは本当に、嬉しかったです。けれど、あのときわたくしは『そんな存在じゃない』って……心の中で何度も否定していました。――だって、本当はただ、自分の欲のために人を殺してきた、醜い人間なんですから」

 

 弓箭は静かに、けれど力強く言葉を継ぐ。

 

「わたくしが戦っていたのは、正義のためでも、誰かのためでもありませんでした。ただ、自分の無力さや空虚さをごまかすために――その時だけは誰かに必要とされていると思うことができたから」

 

 そこまで言って、弓箭はほんの少しだけ視線を落とす。

 

「ですがそれは……所詮、自分よがりでした。他人の痛みに目を背けて、自分の存在理由を押しつけていただけだと、後になって気づきました」

 

 その告白に、『少女』は目を見開いたまま動けずにいた。彼女の中で揺れる何かがある。

 そして、しばらくの沈黙の後――

 

「……全然そんな風には見えないよ」

 

 小さな声だった。けれど、確かな重みがあった。

 弓箭はかすかに目を見張り、それから、少しだけ口元に小さな笑みを浮かべる。

 

「そう言ってもらえるなら……たぶん、わたくしも、ほんの少しは変われたのでしょうね。でも、それも全部『わたくし』でした。醜い過去も、逃げた日々も、全部ひっくるめて、今のわたくしを形作っています」

 

 ふと、弓箭は冗談めかした声色で問いかけた。

 

「……幻滅、しました?」

 

 『少女』は、涙を浮かべながらも首を横に振った。

 弓箭は目を伏せながら、少しだけ息を吐く。

 

「……佐天さんは、そんなわたくしを否定せずに、友達って言ってくれました。あの言葉に、初めて――自分を認めてもいいのかもしれないって、思えたんです」

 

 そして、もう一度、『少女』の瞳をまっすぐに見つめる。

 

「ですから……日花璃さんのことも、きっと見捨てたりなんてしません――たとえあなたが、どれだけ自分を責めようとしても」

「……そんなの……」

「信じられないなら、それでもいいです。苦しいなら、わたくしにぶつけてくださっても構いません。罵っても、怒鳴っても、殴っても。そういうの、少しは慣れていますから」

 

 そう言って、ふっと寂しげに笑う。

 

「……でも、それでも傍にいたいと思うんです。痛みを分け合うのが、友達なんだって、佐天さんがそう教えてくれましたから」

 

 弓箭は静かに、『少女』の前へと右手を差し出す。

 

「――もう、行きましょう。ここはあまりに暗くて、寒すぎます。……ですから、明るい場所へ戻りましょう。佐天さんも、皆さんも……日花璃さんのことを、待っているんです」

 

 しばしの沈黙。

 本当に、自分はあの場所に戻っていいのか。

 過ちを犯した人間が、果たして、もう一度誰かの隣に立ってもいいのか。

 赦される資格なんて、自分にはないのではないか――そんな想いが、心の奥で暴れている。

 

 不安。後悔。恐れ。

 バクン、バクンと、鼓動がうるさいくらいに鳴り響く。

 『少女』は俯いたまま、震える指先を差し出す。けれど――どうしても、その先へ踏み出せない。

 

(……やっぱり、わたしなんかが、その手を取ってはいけない……)

 

 そう思って、差しかけた手をそっと引っ込めた――その瞬間だった。

 

 ぎゅっ――。

 何の前触れもなく、弓箭が『少女』の身体を優しく、けれど決して逃がさないように抱きしめた。

 驚きで息をのんだ『少女』の耳元に、あたたかく、まっすぐな声が届く。まるで、その胸の奥をすべて見透かしていたかのように。

 

「……資格って、誰かに認めてもらえることではありませんか。わたくしが、手を引きますから。あなたが泣いているなら、隣に立ちます。あなたが怖いなら、一緒に震えます。だから――どうか、わたくしのことも置いていかないでくださいね?」

 

 その言葉に、『少女』の胸の奥で、凍りついていた何かが、少しずつ溶けていく。

 頬を伝った涙が、ぽたりと弓箭の肩に落ちた。

 心の奥に張り付いていた冷たい殻が、かすかに軋み、崩れ始める。

 

「……わたし……わたしは……」

 

 嗚咽まじりに漏れた声はかすれていたが、確かに『本当の気持ち』だった。

 

「りんねの、るいこの――みんなのところへ、帰りたいっ……!」

 

 震える指先が、ぎゅっと弓箭のブラウスの裾を掴む。

 その手の小ささが、かえって痛いほどに切実だった。

 弓箭はそっと身を離し、もう一度、今度は正面から右手を差し出す。

 

「――さあ、帰りましょう。ここはもう、日花璃さんのいるべき場所じゃありません」

 

 『少女』は俯きがちに、小さく頷いた。

 そして、おそるおそる、その手を取る。

 細く小さな指先が、確かに弓箭の手を握る。その温もりが――たしかに『今ここにいる』という証だった。

 

 闇に包まれていた空間の奥。

 ほんのわずかな光が、遠くに差し込んでいる。

 

 二人はゆっくりと、その光へ向かって歩き始めた。

 その一歩一歩が、『独りぼっち』ではないことを証明するかのように――。

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