とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase25「輪廻 -リバース-」

 ぼんやりと、視界が滲んでいた。

 乾いたまぶたをゆっくりと開くと、そこには真っ白な天井が広がっている。どこか見覚えのない照明と、漂う消毒液の匂い――

 時ヶ谷凛音は、ようやくそこが病室であることを理解した。

 

(……助かった、のですわね)

 

 それが現実なのか夢なのかもわからず、ただ微かに残る火傷のような熱と、心の奥にこびりついた痛みだけが、自分が生きていることを告げていた。

 

「……目が覚めたか」

 

 ふと、聞き慣れた声が耳を打つ。

 そちらを見やると、白衣を羽織った無精ひげの青年が、自分の隣に座っていた。その目には安堵の色が宿っていた。

 

「榊せんせ……」

 

 反射的に身を起こそうとする。

 が、直後――

 

「――いたっ!」

 

 脇腹に走った痛みに思わず呻き声を漏らす。慌てて上体を支えたが、その動きすらも身体は拒絶していた。

 榊はすぐさま立ち上がり、ベッドのそばに寄ると静かに言った。

 

「まだ動かないほうがいい。骨は折れてなかったが、全身に打撲と内出血がある。無理をすれば、治りも遅くなるぞ」

 

 その口調はあくまで淡々としているのに、どこかにじむ優しさがあった。

 そう、時ヶ谷にはわかる。普段は口数の少ない男だが、生徒のことはちゃんと見ている。心配してくれている。

 

「……そう、ですか。わたくし、生きてたんですね」

 

 か細い声で、自分自身に言い聞かせるように呟くと、時ヶ谷は再びゆっくりと瞼を閉じた。

 意識の底から、不意にあの光景がよみがえる。

 まばゆい閃光、耳をつんざく悲鳴、そして――あの、最後の絶叫。

 

(わたくしだけが……生き残ってしまったのですね)

 

 思い出す。

 紗綾の死に衝撃を受けたのか、日花璃が放った無数の光球が暴走し、炎に包まれていた学生寮は音を立てて崩れ落ちた。

 

 その中に取り残されていた生徒や教師たちがどうなったのか、語るまでもない。

 自分と榊が生き残ったのは――崩壊の直前、建物の内部ではなく屋上にいたこと。そして、最後の瞬間、榊が小さな自分の身体を庇うように覆いかぶさり、自分が反射的に風の障壁を張ったからだ。

 

 それでもこの有様だ。

 目の前の榊も、顔の左側に大きな絆創膏を貼っている。

 その痛々しい姿が、現実の重さを嫌というほど物語っていた。

 

「……わたくしの、せいです」

 

 時ヶ谷は絞り出すように呟いた。

 震える指先を握りしめ、痛みの残る身体を押して起き上がろうとする。

 その顔は、歯を食いしばり、悔しさに濡れていた。

 

「時ヶ谷くん……」

 

 自分の無茶ぶりを制止しようとする榊に構わず、時ヶ谷は続ける。

 

「……何が『わたくしがなんとかします』ですの……っ!」

 

 堪えきれず、時ヶ谷は声を震わせて叫んだ。

 

「日花璃さんも……紗綾さんも……ご学友の皆さんも、先生方も……! わたくしは――何一つ、守れなかったじゃありませんの……っ!」

 

 その叫びは、自責と悔恨のすべてが詰まった魂の震えだった。

 声を張り上げた反動で、時ヶ谷の身体がわずかに傾き、彼女はベッドの端に手をついて深く項垂れる。

 

 しばし室内には沈黙が落ちた。

 病院の壁に囲まれたその空間で、彼女の呼吸だけが静かに震えていた。

 

 ――サバイバーズ・ギルト、という言葉がある。

 生き残った者が抱える、理不尽なまでの罪悪感。

 

 それは「自分だけが生き延びてしまった」ことに対する苦しみであり、「もっとできたはずだ」と思い詰める思考の檻だった。

 そして今、時ヶ谷はまさにその檻の中に閉じ込められている。

 

(……本当は、わたくし……)

 

 心の奥底で、もっと深い疑念が蠢いていた。

 ――あの瞬間、自分は日花璃さんのことを、紗綾のことを、皆のことを、本当に思っていたのだろうか?

 

 ただ、生き残りたかっただけではないのか?

 ただ恐怖に駆られて、無意識に能力を展開し、自分だけ助かるように動いてしまっただけなのでは……?

 

 ぐらりと視界が揺れる。

 そんな考えが頭をよぎるたび、喉の奥に冷たい鉛が詰まっていくようだった。

 

(わたくしは……あの子を救えなかったどころか、自分が助かることしか考えていなかったのですね……)

 

 時ヶ谷の拳が、白いシーツの上でぎゅっと強く握られる。

 その細い指先には、静かに血の気が失われていた。

 

 榊はすぐに言葉を返さなかった。

 ただ、崩れそうな彼女の横顔をじっと見つめていた。

 

 まるで、その痛みを――無言のまま、受け止めているかのように。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「……そんなに、自分のことを責めるな」

 

 低く、押し殺したような声だった。

 

「水島くんのことは……俺も、申し訳なく思ってる。――元を辿れば、俺がもっと早く、雨束くんの異常に気づいていれば、こんなことには……」

 

 そこで言葉が途切れた。

 後悔を噛みしめるように、榊はゆっくり視線を伏せる。

 

 その表情には、教師としての無力感と、彼自身が背負う『罪』の色が滲んでいた。

 しばしの沈黙ののち、時ヶ谷が、震える声で問いかける。

 

「……日花璃さんは、どうなさったのですか?」

 

 榊は、少しだけ視線を逸らして答える。

 

「……まだ意識は戻っていない。ただ、命に別状は――今のところ、ない」

 

 その声は、どこか歯切れが悪かった。

 時ヶ谷が眉を寄せると、榊は小さくため息をついて続ける。

 

「だが、彼女の体内には――『体晶』が、深く入り込んでいる」

 

 言いながら、自分でも信じ難いというように眉をしかめた。

 

「それは彼女の命そのものを、じわじわと蝕んでいる……。ただでさえ正体の分からない代物だ。下手に手を出せば、逆に悪化する危険すらある。かといって、放っておけば――」

「……遅かれ早かれ、彼女の寿命は尽きてしまうのですね」

 

 時ヶ谷の声は不思議なほど冷静だった。

 けれど、その静けさの裏には、底知れぬ絶望が渦巻いていた。

 やり場のない無力感から逃れるように、彼女は視線を窓の外に投げる。

 

(本当に……わたくしにできることは、何もありませんの?)

 

 沈む夕日が病室に射し込む。

 時ヶ谷はふと、サイドテーブルに置かれたお見舞いの籠に目をやった。

 その中に、真っ赤なリンゴが一つ――横たわっていた。

 

(……あっ)

 

 頭の奥で、微かに埃をかぶっていた記憶が目を覚ます。

 

 あれは、半年前。

 木原幻生の実験下で、雨束日花璃の能力『歪曲揺光(フラクチュエイト)』によって、一度かじったはずのリンゴが――まるで何事もなかったかのように元通りになったのだ。

 

 見間違いではない。

 あのときの自分の能力は、たしかに『時間そのもの』を巻き戻していた。

 時ヶ谷は、静かに自分の手のひらを見つめた。

 

(わたくしの力だけでは、絶対に不可能な現象……でも、あの子の力があったら……)

 

 時を遡る可能性。

 そう思った瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。

 

「……もし、あの子の力を正しく使うことができれば――」

 

 ぼそりと漏らした言葉に、向かいにいた榊が小さく眉をひそめた。

 

「?」

 

 だが、時ヶ谷はすでに思考の渦へと沈み込んでいた。

 リンゴ、実験、歪曲揺光、時間制御。

 繋がるはずのなかった点と点が、今、一本の線として浮かび上がる。

 

(もし、あの現象を再現できれば……『紗綾さんの死』すら――)

 

 すべてを、『なかったこと』にできるかもしれない。

 絶望に凍りついた心の奥底に、ひとすじの光が差し込む。

 消えかけた火種が、再び小さく燃え始める。

 

(わたくしが、この物語(せかい)を――書き換えてみせます)

 

 時ヶ谷は、そっと拳を握りしめた。

 その細い指先に、微かだが確かな決意が宿っていた。

 

 そして、ゆっくりと榊の方へと振り返る。

 もう、迷いはなかった。

 

「先生……わたくしには、考えがあります」

 

 その瞳に宿る光は、かつて見たことのないほど真っ直ぐだった。

 

 

     ◇

 

 

 人工林の奥、朽ち果てた旧校舎――正確には、かつて『主観制御(サブジェクト)』と呼ばれた、異能の研究施設の廃墟。

 その瓦礫の中心で、『少女』は、ただひとり静かに立ち尽くしていた。

 

 足元には崩れ落ちたコンクリ片と、鈍く錆びた鉄骨。

 彼女の周囲には、数え切れぬほどの光球が浮かんでいる。まるで怒りと絶望を抱えたまま、今にも弾け飛ばんとする脈動。

 

 空気が軋む。時が緊張の糸で張り詰める――その瞬間。

 ぱちん、と音を立てたかのように、すべてが止まった。

 

 光球たちは徐々に鼓動を収め、淡く光を残したまま、空気中に溶けるようにして――消えていった。 

 やがて、金色に染まっていた瞳が、本来の色を取り戻していく。

 

 さっきまで耳鳴りのように響いていた光のうねりが、まるで嘘だったかのように。

 それはまるで、凪のような静寂だった。 

 

「……攻撃を、止めた……?」

 

 異変に真っ先に気づいた警策看取が、ゆっくりと銀の大剣を下ろす。

 四方八方に展開していた銀の人形達も、ぴたりと動きを止めた。

 少し離れた瓦礫の上で、時ヶ谷凛音もまた静かに風の刃を消す。

 

「――作戦は、成功したようですね」

 

 小さく息をつきながら、彼女は囁くようにそう言った。

 

 夜の森に静けさが戻る。

 長き戦いの幕が、ようやく静かに降ろされた。

 

 やがて、ただ立ち尽くしていた『少女』の口元が、ゆるやかにほどける。

 

「……りん、ね」

 

 その声は、かすれ、途切れ、けれど確かに過去を呼び戻すものだった。

 時ヶ谷凛音の目に、ほんの一瞬だけ驚きの色が浮かぶ。

 

「……日花璃さん……」

 

 唇を震わせながら、彼女は言う。

 

「やっと……わたくしのこと、思い出してくださったのですね……」

 

 『少女』の目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。

 

「ごめんなさい……ほんとうに、ごめんなさい、りんね……」 

 

 肩を震わせながら、それでも彼女は言葉を紡いだ。

 

「わたしのせいで……さやが……なのに……ずっと忘れてて……きっと、わたしのこと……嫌いになったよね……」

 

 時ヶ谷は静かに首を横に振った。

 その瞳には、揺るぎないものが宿っている。

 

「――わたくしは、一度たりとも、日花璃さんのことを嫌いになどなっておりません」

 

 ゆっくりと、しかし確かな声でそう告げる。

 

「むしろ……謝らなければならないのは、わたくしのほうです」

 

 その言葉に、日花璃の目がかすかに揺れる。

 

「……あの時、わたくしがもっと強ければ……もっと冷静に、もっと正しく立ち回ることができていたなら――紗綾さんが命を落とすことも……あなたが、自分を責め続けることも、きっと避けられたはずなんです」

 

 彼女は一歩、『少女』へと歩み寄る。

 

「ですからどうか、自分だけを責めないでください。あの悲劇は、あなたひとりのせいではありません。わたくしにも……止められなかった責任が、確かにあるのです」

 

 それから、そっと手を差し出す。

 まるでかつて交わすことが叶わなかった想いを、今ようやく繋ごうとするかのように。

 

「……りんね」

 

 その声に応えるように、『少女』も震える手を伸ばす。

 涙をこぼしながら、ゆっくりと――

 

 次の瞬間だった。 

 ピタリと、その手が空中で止まる。

 

 まるで何かに突き刺されたように、彼女の身体が強張る。

 

「……日花璃さん?」

 

 不意の違和感に、時ヶ谷が目を見開く。

 『少女』は、ぐらりと膝を折り、胸元を両手で強く押さえた。

 

「……ぁ……ぐ、ぅ……っ」

 

 苦しげなうめき声が、喉の奥から漏れ出る。

 その背中で――再び、異形の光が蠢いた。

 

 光の翼。

 それが今、激しく明滅し、崩れ、また形を変えては不安定に脈動している。

 

「っ!? 時ヶ谷! ソイツから離れて‼」

 

 何かに気づいて警策が叫んだと直後だった。

 

 

 

 爆ぜるように、眩い光が世界を吞み込んだ。

 

 

 

 夜の静寂を裂くその閃光は、まるで現実そのものに裂け目を刻むかのようだった。

 『少女』の背中から放たれた光が、鋭い光柱となって闇の空へと突き抜ける。

 

 ドォンッ! という大気を叩き割るような重低音が地を揺らし、視界が揺れる。

 その直後、頭上で光が渦を巻くように回転しながら集束していく。

 

 空気が震え、音も色も、すべてがひとつの点に吸い寄せられていく感覚。

 やがてそれはひとつの形を成し――

 直径十数メートルにも及ぶ、巨大な光球が宙に出現した。

 

 それは、まるで太陽のようだった。

 燃え盛る光の奔流が球体の外殻を形作り、周囲の空気すら熱と圧力で歪めている。

 

 警策は、緊迫した眼差しのまま銀の大剣を握り直すと、ぽつりと呟いた。 

 その声音には、明らかな焦燥が滲んでいた。

 

「……まだ終わってなかったワケか!」 

 

 その隣で、時ヶ谷は絶句する。

 

「そんな……! ソウルネットワークを逆利用して、彼女の精神(こころ)は確かに鎮静化したはずです……!」

 

 目を見開き、動揺を隠しきれないまま続ける。

 

「まさか――すでに、『臨界点』を越えてしまっていたというのですか!?」

 

 警策は、『少女』の頭上でなおも脈動を続ける巨大な光球をじっと見据えた。

 

「……このままあんなデカいのが爆発したら――」

 

 言葉の先は、あえて飲み込んだ。

 だが、その先にある未来は、誰の目にも明らかだった。

 

 空に浮かぶそれは、ただの『光』ではない。

 極限まで膨張を続ける、不安定なエネルギーの塊。

 

 風船と同じ理屈だ。

 膨らみ続ければ、いずれ限界を超え、音を立てて――破裂する。

 

 だが、問題はその中身だ。

 内包されたエネルギーは、常識外れの規模に達している。

 あれが一瞬でも暴発すれば、この人工林一帯はおろか、周囲数キロ――いや、下手をすれば学園都市そのものが、地図から消し飛ぶ。

 

 警策の指先に、じわりと力がこもる。

 握られた銀の大剣が、きぃん、と低く鋭い金属音を響かせた。

 

「――ったく。この状況……()()()()()()()()、もはや驚きすら湧かないわね」

 

 口調は冗談めいていたが、その声音の奥には、ひしひしと張り詰めた緊張が滲んでいた。

 

(どうする? 今すぐあのコを取り押さえれば、あの光球も消える――なんて、そんな都合のいい話があるわけない。今の彼女は、意識的に能力を行使している状態じゃない。むしろ、膨大なエネルギーの奔流に心身を乗っ取られている……それは『操っている』のではなく、『能力そのものに操られている』ということ。本人の意志や理性は、もうほとんど機能していない。無理に干渉すれば、むしろ暴走を加速させる危険すらある。――タイミングを誤れば、その瞬間に『全て』が吹き飛ぶ!)

 

 この状況の打開策は、何一つ思い浮かばない。

 それでも、事態は刻一刻と悪化していく。光球は膨張を続け、周囲の空気すら振動しはじめていた。

 

「……ダメ……」

 

 か細く震える声は、風の音にかき消されそうだった。

 肩が震え、目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 

「……このままじゃ……また……あんなふうに……誰かが……」

 

 言葉の一つひとつが喉を裂くように苦しそうで、

 

「……誰かが、いなくなるの……わたしのせいで……」

 

 最後の言葉は、吐息のように掠れて消えた。

 それは、自分の中に渦巻く後悔と恐怖、そして『また失ってしまう』という深い予感が、無意識のうちに放たれた悲鳴だった。

 

 意識がじわじわと遠のいていく。

 視界が滲み、鼓動も身体の端まで届かない。

 

 けれど――それでも。

 『少女』は震える手で自分の胸元を抑え、必死に顔を上げた。

 

 視線の先にいるのは、警策看取と時ヶ谷凛音。

 ――もう、自分では止められない。

 

 だから、せめて。

 最後の力を振り絞って、『少女』の両目が、金色の光を帯びて輝く。

 まるで想いそのものを乗せるように、その光を真正面から、二人へと放つ。

 

 それは懇願だった。

 命を賭けた、必死の祈りだった。

 

「……おねがい……みんなを……まもって……!」

 

 その光を浴びた警策看取は、言葉にできない不思議な感覚に包まれていた。

 温かい。けれど、それだけではない。

 胸の奥――否、『魂』の深層に、直接、何かが触れたような……そんな感覚。

 

 体の奥底から、熱の奔流がふつふつと湧き上がる。

 まるで何かが目覚めるように。

 

 そのときだった。

 耳の奥に、ふと、幼い少女のような声が届いた。

 

『――みーちゃん』

「っ!?」

 

 思わず息を呑む。

 それは、忘れようにも忘れられない、懐かしい声だった。

 

 現実か幻か――今の警策には、もう判別がつかない。

 けれど、その声が、確かにこう囁いたのだ。

 

『あのこを……たすけてあげて』

「……ああ」

 

 答えなんて、最初から決まっていた。

 警策看取は、たったひとりの『少女』を救うために、ここに立っている。

 

 そもそも、なぜ自分はこの戦いに加わったのか。

 ただその力を利用され、命を弄ばれ、ごく狭い世界に閉じ込められていた少女――

 その姿が、かつて自分が守ろうとした『あの子』と重なったからだ。

 

 何もできなかった自分は、もう要らない。

 何も守れなかった自分に、戻りたくはない。

 

(この世界が……神様(アンタ)の思い通りに動いてるってんなら――)

 

 警策は握っていた剣を、真っすぐ前に突き出す。

 まるで、あらゆる思惑を断ち切るように、

 

(――――悪魔らしく、その幻想(もくろみ)に逆らってみせようじゃないか‼)

 

 次の瞬間だった。

 銀の剣が――どろり、と溶け崩れた。

 

 べしゃ、と濡れた音を立てて落ちた銀色の滴が、地面を滑るように広がっていく。

 同時に、周囲に屹立していた無数の人形達も、まるで糸が切れたようにぐにゃりと崩れ落ち、そのまま形を失って、ずるずると銀色の水たまりへと還っていった。

 

 ばしゃばしゃっ……。

 無数の波紋が地面を這い、闇に染まる人工林の大地に冷たく艶めく銀色の液体が広がっていく。

 

 そして、警策看取を中心に、銀色の海は蠢きながら広がり続ける。

 まるで生きているかのように、あちこちに散らかっている鉄骨やコンクリート片を吞み込んで這い回るその様はさながら――

 

(銀色の……影?)

 

 思わず時ヶ谷凛音の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。

 ただの比喩ではない。

 

 視界の端で、銀の影がゆらりと蠢くたびに、空間の奥行きそのものが歪んで見える。

 空気が沈み、風が止まり、まるで世界のルールが書き換えられていくようだった。

 

 時ヶ谷の背筋を、ぞわりと冷たいものが駆け上がった。

 夥しい、『悪寒』。

 

 さきほど『歪曲揺光』を浴びたときに感じた、あの穏やかな温もりとは正反対の感覚。

 凍えるような恐怖が、皮膚の裏側を這いずり回る。

 まるで、周囲一帯の空間そのものを侵蝕し、支配する『何か』――

 

「――液化人影(リキッドシャドウ)廻転(アクセル)

 

 言葉と同時に。

 地を這っていた銀の影が、一斉にざわめき立ち、方向を変える。

 蠢く銀流が、まるで命を得た獣の群れのように『少女』へと殺到する――否、正確には、その頭上に浮かぶ巨大な光球へと。

 

 ぶわっ、と。

 風圧を巻き起こしながら、濁流のごとく『それ』が駆け上がる。

 

 瞬間、世界が悲鳴を上げた。

 銀の影が光球に触れた刹那、

 

 ――ズチュッ。

 粘膜を裂くような音とともに、その一部が引き裂かれ、めり込んでいく。

 崩れた肉を喰いちぎるように、銀の影がうねり、巻き込み、そして――呑み込んだ。

 

 貪欲に、容赦なく。

 光の外殻は侵蝕され、銀の奔流にじわじわと沈み込んでいく。

 

 その光景は、まるで空に開いた巨大な果実へ、異形の触手が群がり、内側からじゅるじゅると中身を吸い出していくようだった。

 溶け合い、混ざり合い、形を崩し。

 

 銀色の渦が光の奔流を取り込みながら、全体をじわじわと『同化』させていく。

 それはもはや、ただの攻撃ではなかった。

 

 存在そのものを奪い取り、自らの一部に取り込む――

 捕食と呼ぶにふさわしい、原始的で、抗いがたい摂理そのもの。

 

 それでもなお、光球はしぶとく抵抗を続けていた。

 脈打ち、明滅し、何度も激しい閃光を放っては、迫る銀の影を拒もうとする。

 

 だが――

 喰らい、呑み込み、侵食し続けた『それ』は、ついに警策の足元へと収束しはじめた。

 地を這っていた流体が渦を巻きながら集中し、ひときわ大きな塊へと膨れ上がっていく。

 

 そして――

 その銀塊は、徐々に『形』を持ちはじめた。

 

 それは、人の形などではなかった。

 大きさにして四メートルを超える。

 

 膨大な銀の質量が幾重にも折り重なり、獰猛な輪郭を成していく。

 額から天を貫くように伸びた二本の角は、まるで戦槍。

 

 銀色の金属光沢が鋭利に光を反射し、見る者の皮膚感覚にすら突き刺さるような気配を放っている。

 口元には薄く鋭い牙が覗き、その双眸は、あらゆる存在の底を見透かすかのように深く、冷たく、ただそこにいるだけで、絶対的な威圧感を周囲に撒き散らしていた。

 

 神話のなかですら畏れられ、語ることさえ忌まれた存在――巨大に強大な、ドラゴン。

 

 銀の竜が、ゆっくりと首を持ち上げた。

 その双眸が、なおも空に留まり続ける光球をじっと見据える。

 まるで、逃がす気など最初からなかったと告げるように。

 

 そして次の瞬間――

 その巨大な身体が、夜の空に弧を描いた。

 

 口を、開く。

 顎が軋む音とともに限界まで開かれる。

 

 光球も、最後の抵抗を見せた。

 閃光を迸らせ、雷光のごとき光線を周囲に放つ。

 球体が怒りと恐怖に軋むように、ギチギチと不快な音を立てて歪む。

 

 だが――それすらも無意味だった。

 銀の竜の顎が、ひと呑みにするように光球へと突っ込む。

 その圧倒的な質量と、抗いがたい『捕食』の本能が、光球の表層を裂き、奥へ、奥へとめり込んでいく。

 

 ――バシュウゥン!

 吸い込むような音と共に、光が一気にしぼみ、狂ったように閃いていた奔流が、次々に銀の竜の体内へと吸い込まれていく。

 まるで、『能力そのもの』を喰らいつくすかのように。

 最後の一閃を放った直後、巨大な光球は、呆気ないほど静かに――音もなく、消えた。

 

「――今だ、時ヶ谷!」

 

 警策の鋭い声が、夜の空間を裂くように響いた。

 

 その叫びと同時に――

 

 『少女』の背後に、ふわりと、何かが触れる。

 肩に添えられたのは、そっと撫でるような、しかし確かな温もりを持った手。

 それは、時ヶ谷凛音の左手だった。

 

 警策が『少女』の力を吸収し、注意を引きつけている隙――

 その間を縫って、時ヶ谷は音もなく彼女の背後に回り込んでいたのだ。

 時ヶ谷は、優しくその肩に手を添えながら、瞳を静かに閉じ、

 

 次の瞬間――

 その唇から、凛とした声が紡がれる。

 

「――時間制御(クロノシフト)反転(リバース)

 

 その言葉と共に、静かに時が解けはじめた。

 『少女』の背中で激しく脈動していた光の翼が、ふわりと揺れて――まるで空気に溶け込むように、音もなく消えていく。

 

 暴走の余韻を残したその身体が、糸の切れた人形のように、そっと膝を折った。

 しかし、その背を支える時ヶ谷の柔らかな腕が、彼女をそっと包む。

 抱き留めた『少女』の額に、そっと額を重ねるようにして、彼女は囁いた。

 

「……お帰りなさい、日花璃さん」

 

 それは、温かく、優しい声だった。

 そしてほんの一拍ののち、彼女の瞳がわずかに伏せられる。

 

「そして――さようなら」

 

 夜風がそっと吹き抜ける。

 すべてを包むような沈黙の中。

 終わったはずの夜が、どこか名残惜しく思えた。

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