とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase26「結末 -コンクルージョン-」

「やはり、私に会いに来たのか」

 

 収容所の面会室で、柊木澄玲は、ガラス越しの人物にそう切り出した。

 薬物の違法投与および佐天涙子に対する殺人未遂の罪により、彼女は逮捕され、現在は警備員(アンチスキル)の収容施設に収監されている。

 

 面会者――時ヶ谷凛音は、紺色のブレザー制服の襟元を指先で整えると、背筋を伸ばしたまま椅子に腰を下ろした。

 ひと呼吸置いてから、睫毛を伏せ、静かに声を落とした。

 

「……先生に、少々お聞きしたいことがございまして」

 

 ガラスの向こうで腕を組んでいた柊木が、嘲るように方眉を上げる。

 

紗綾(あの子)のことなら、何も教えることはないわ」

 

 冷たい言葉は吐きながらも、柊木の声はかすかに震えていた。

 彼女は、どこか自嘲めいた、苦笑いを浮かべる。

 

「……むしろ、あなたのほうがあの子を理解しているでしょう? 私なんかより、ずっと」

 

 重たい沈黙が、ガラス越しの空間に降りる。

 

「……私は、良い母親ではなかった」

 

 柊木は組んでいた腕をほどき、テーブルにそっと指先を置いた。

 形の良い白い指が、わずかに震えている。

 

「……家族より仕事を選び、研究にのめり込み……その結果、夫とは決定的にすれ違い、離婚。挙句の果てには、娘の親権すら奪われた――母親としては、失格だ」

 

 苦笑とも溜息ともつかぬ声が漏れ、彼女の唇から自嘲の笑みが崩れ落ちた。

 

 時ヶ谷はその言葉を黙って受け止め、目を伏せたまましばしの沈黙に沈む。

 そして、ぽつりと呟くように口を開いた。

 

「……先生が、あんなことをされたのは――本当に、『復讐』だけが理由なのでしょうか?」

 

 柊木の眉がぴくりと動いた。

 

「……何が言いたいの」

 

 時ヶ谷は顔を上げ、その紅い瞳で柊木をまっすぐに見つめた。

 

「以前、榊先生が仰っていました。『体晶』――あの薬物は、木原幻生と、彼の教え子だったある女性研究者との共同開発だと」

 

 言葉の節々に静かな確信が滲む。

 柊木の指が、テーブルの上でかすかに引きつる。

 

「……それ、もしかして――その『教え子』とは、柊木先生、あなたのことではないのですか?」

 

 質問のあとに訪れた沈黙は、何より雄弁だった。

 柊木は視線を逸らし、誰にも向けられぬ虚空を見るように目を細めた。

 

 その頬を覆う影は、面会室の薄明かりのせいではなかった。

 時ヶ谷の瞳が、ガラス越しの彼女を真っ直ぐに射抜く。

 

「……娘を間接的に殺した自分が許せなくて、この街ごと消えてしまいたかっただけではありませんか?」

 

 柊木の肩が、ぴくりと揺れた。

 けれど、彼女の口からは何の否定も、反論も返ってこなかった。

 

 言葉の代わりに、微かに震えた睫毛が、未だ癒えぬ罪の重さを物語っていた。

 そこで、時ヶ谷はふと視線を伏せ、少しだけ息を整えてから、話題を切り替えた。

 

「……わたくしはね、たぶん先生と、それほど変わらないのではないかと、そう思うのです」

 

 意外な言葉に、柊木は思わず眉をひそめ、小さく首をかしげた。

 けれど、時ヶ谷は構わず言葉を継ぐ。

 

「わたくしが日花璃さんを保護していたのは――ただの善意からではありませんでした。あの子の中に眠る力を解析して、制御の方法を見出し、それを手がかりに……わたくし自身の能力を、進化させようとしていたのです」

 

 淡々とした語り口に、かえって感情の影がにじむ。

 

「時間を、巻き戻すためです。紗綾さんの死を――なかったことにするために」

 

 そこまで言うと、時ヶ谷はふっと目を細め、口元に自嘲の色を滲ませた。

 無論、かつて一度試したことはあった。けれど、たとえ身体の傷を元通りに戻せても、すでに失われた命までは取り戻せなかった。

 

「でも……それって結局、先生が日花璃さんの力を使って、この街を壊そうとしたのと――やってることの『根っこ』は、同じだったんじゃないかって。後になって、気づいたのです」

 

 静かな沈黙が、ふたりの間に落ちる。

 面会室のガラス越しに向かい合うその姿は、どこか合わせ鏡のようだった。

 

 正直に言って、時ヶ谷は――ずっと迷っていたのだ。

 それがどんなに高尚な目的であれ、自分のしてきたことが本当に『正しい』と言い切れるのか、確信が持てずにいた。

 

 命を救うという大義を掲げながら、彼女はその実、日花璃の自由を長きにわたって奪っていた。

 あの少女の『時間』は、冷たいコールドスリープ装置の中で止まり続けていた。

 意識も記憶も眠ったまま、誰の声も届かぬ密閉された世界で。

 

 柊木がかつてばらまいた『幻の能力』の都市伝説――その存在は、時ヶ谷も当然把握していた。

 むしろ、情報操作の匂いを感じ取った時点で、事の真相に辿り着くことは難しくなかった。

 にもかかわらず、日花璃を『移動』させることも、『守る場所』を変えることもせず、彼女はあの施設に眠らせ続けた。

 

 ――気づいていた。

 誰かがいつか、あの子の存在に気づいてしまうことも。

 

 そのとき、争いが生まれることも。

 けれど、何ひとつ動かなかったのは――

 

 もしかしたら、心のどこかで、誰かに『止めてほしかった』のではないだろうか。

 自分の選んだこの道が、ただの独善ではないのか。

 

 もう後戻りできないところまで来てしまっていたからこそ、

 誰かにそれを断じてもらいたかった――そんな未練じみた感情が、

 彼女の奥底には、確かに燻っていたのかもしれない。

 

「…………」

 

 柊木は何も言わなかった。ただ、静かに時ヶ谷の言葉を聞いていた。

 時ヶ谷はしばらくその沈黙を見つめてから、ふっと微笑を浮かべる。

 そして、まっすぐに柊木の目を見据えたまま、柔らかく言った。

 

「……それに、母親失格だなんて。わたくしは、そうは思いません」

 

 その言葉に、柊木の瞳がかすかに揺れる。

 まるで、見てはいけないものを見透かされたように――あるいは、思いがけず救われたように。

 

「先生、いらしてましたわよね。紗綾さんの、お墓参りに」

 

 時ヶ谷は、どこか懐かしむような口調で、そっと続けた。

 

「素性を隠していたのに、それでも足を運びました。見つかるかもしれないと分かっていながら……それでも、どうしても会いに行きたくなってしまったのでしょう? ――やっぱり、大切だったから」

 

 静かに、まるで子どもを諭すように。

 けれど、その声は真摯で、やわらかく、どこか温かかった。

 

 つぅー、と。

 柊木の頬を伝い、一筋の雫がこぼれ落ちた。

 それは、無言のまま崩れ落ちた心の縁から零れた、小さな叫びのようでもあった。

 

 ――きっと、時ヶ谷の言葉が、彼女の胸の奥に届いたのだ。

 どれだけ悪人を演じようとしても、どれだけ自分を責めていようとも。

 

 柊木の本質は、きっと、娘を想い続けた母親のままだった。

 その姿を静かに見届けた時ヶ谷は、そっと椅子から立ち上がる。

 

「……それでは、そろそろ時間ですので、わたくしはこれで失礼いたしますわ」

 

 礼儀正しく一礼し、くるりと背を向けて、出口へ向かおうとしたそのとき――

 

「……待って」

 

 小さく、けれど確かに呼び止める声が背中を打つ。

 時ヶ谷は歩みを止め、わずかに振り返る。

 

 柊木は、袖で涙を拭いながら、まっすぐな瞳でこちらを見ていた。

 先ほどまでの影のような面影はもうない。そこにあったのは、ただの一人の、悔いを抱いた母親の顔だった。

 

「……たぶん、聞く資格なんてないと思う。でも、一つだけ……教えてくれない?」

 

 時ヶ谷は静かに頷く。

 

「……なんでしょう」

 

 柊木は、しばし言葉を選ぶように沈黙したのち、ぽつりと口を開く。

 

「……あの子は、あなたと一緒にいて……幸せだったの?」

 

 その声には、震えがあった。答えを聞くのが怖いというより、それでも知りたい――そう願う切実さがあった。

 

 しばしの沈黙。

 時ヶ谷は、何かを噛みしめるように瞼を伏せた。

 

 その問いに、どう答えるべきか――すぐに言葉は出てこなかった。

 だが、やがて彼女はゆっくりと顔を上げ、静かに、そして真っ直ぐに柊木を見つめ返した。

 

「……紗綾さんは、ずっと不安そうでした」

 

 予想外の切り出しに、柊木の表情がわずかにこわばる。

 

無能力者(レベル0)であることに、劣等感(コンプレックス)を抱いていたのだと思います。誰よりも努力していたのに、結果だけがついてこない……そんな理不尽を、ずっと背負い続けていました」

 

 時ヶ谷の声音には、確かな痛みがにじんでいた。

 

「それでも……わたくしと一緒にいるとき、彼女は笑ってくれたのです」

 

 優しく、けれどしっかりと、彼女は言葉を継いだ。

 

「本人はうまく隠しているつもりだったのかもしれませんけれど、強がりだって、目を見ればすぐに分かりました。あんなにも不器用で、拙くて、でも――心の底から、大切なものを守ろうとするような笑顔でした」

 

 ふと、懐かしさを宿すように、時ヶ谷の唇がわずかにほころぶ。

 

「……ですから、わたくしは信じたいのです。幸せだったかどうかを決めるのは、彼女自身です。けれど――あの笑顔を見たわたくしは、少なくとも、それを否定することはできません」

 

 言い終えた時ヶ谷は、改めて深く一礼し、それから静かに背を向けて歩き出した。

 もうそれ以上、言葉を交わすことはなかった。

 

 柊木は、その背を、最後まで見送っていた。

 目尻にはまだ乾ききらぬ涙が残っていたが、どこか、ほんのわずかに――その表情には、安堵のような色が差していた。

 

 

     ◇

 

 

 その頃、別の場所では――。

 留置場の重い鉄扉が音を立てて開き、三人の少年がそこから解き放たれた。

 

「いやあ、やっと自由になったぁ〜……!」

 

 金髪パーカー姿の少年・花村樹人(きと)は、両腕を大きく広げて伸びをしながら、まるでシャバの空気が恋しかったとでも言うように深呼吸した。

 

「留置場生活って、マジで精神に来るぜ……」

「そりゃ大げさだな」

 

 黒髪にジャージ姿の少年・海藤高成(こうせい)は、淡々と毒を吐きつつ、ふうとため息をつく。

 

「ほんの四十八時間でこれって……少年院だったどうなってたんだ、お前」

「…………」

 

 無言のまま後ろからついてくるのは、青髪で目の下に深い隈を刻んだハッカー少年・蒼石優太。

 腕を組んだまま、俯き加減で黙って歩く彼の顔には疲労と虚無感しかなかった。もちろん、会話に加わる気力など皆無である。

 

 三人は、先日の事件で誘拐の疑いで警備員(アンチスキル)に拘束されていた。

 とはいえ、取り調べの結果――犯行の意図も組織性も確認できず、証拠不十分により釈放されたばかりだった。

 

 初春飾利が、結局のところ復元された監視カメラの映像を証拠として提出しなかった――という事情もある。

 だが、それにしても、これほどスムーズに釈放されたのはどうにも出来すぎている。

 あの警備員(アンチスキル)達の対応も、微妙に腑に落ちない点が多かった。

 

 ――やっぱり。

 蒼石は、歩きながら一つの理論に至っていた。

 

(……時ケ谷さんが、根回ししてくれてた可能性が高いっスね)

 

 権限のある大人――しかも警備員(アンチスキル)風紀委員(ジャッジメント)に顔の効く人物でなければ、ここまで円滑な手続きにはならない。

 ましてや、自分たちの関わった事件は、表沙汰になればそれなりに大事になる案件だった。

 

 当然、時ヶ谷凛音の立場や能力を思えば、それは決して不可能ではない。

 むしろ彼女の性格からしても――あくまで「表に出ない範囲で、必要な手を打っておく」くらいのことは、朝飯前だろう。

 

(……『書庫(バンク)』のクラッキングで捕まったときも助けられたし……また一つ、借りが増えたっスね)

 

 蒼石は、深くは表情に出さなかったものの、内心ではわずかな畏怖と、感謝を抱いていた。

 

「……にしてもさ」

 

 ぽつりと花村がつぶやいた。釈放されたとはいえ、吹き抜ける風はどこか肌寒く、心の底まで冷えていくような感覚が残っていた。

 

「俺たち、これからどうなるんですかね…」

 

 その問いに、海藤は少しだけ間を置いてから口を開いた。

 

「ま、俺と蒼石は変わらず暗部に戻るだろうけど……お前はどうしたいんだ?」

 

 花村は、曖昧に笑ったあと、口を閉ざし、しばらく黙り込む。

 裏社会の下っ端バイトとして、危ない橋を渡り続ける日々。あの頃は、ただ『カッコいい悪』に憧れて、スリルに酔っていた。

 

 しかし、暗部の仕事に関わるたびに、その幻想は打ち砕かれた。突きつけられるのは、救いも正義もない現実ばかりで、気づけば失望だけが積もっていた。

 しばらく考えたあと、彼は静かに口を開く。

 

「……先輩たちについていきます」

 

 海藤が、訝しむように目を細めた。

 

「それでいいのか?」

 

 花村は、遠くの街並みに目をやった。雑多で、にぎやかで、どこか懐かしい――それでも、今は少しだけ違って見える。

 

「確かに……暗部は、俺が思ってたのと全然違いました。映画みたいにカッコよくて、筋の通った『悪の正義』がある世界だと思ってた。でも、現実は……ただのクズとクズの潰し合いだった」

 

 その瞳には、確かな熱が灯っている。

 

「それでも、俺は――そんな泥だらけの中に、かすかでも『まっとうな何か』があると信じたいんです。信じられる人がいて、やるべきことがあるなら……俺はまだ、ここにいたい」

 

 少し唇を引き結んでから、ぽつりと続ける。

 

「なんなら――俺が、暗部を変えてみせますよ」

 

 予想外の言葉に、海藤と蒼石は思わず目を見開いた。

 あまりにも無謀で、甘くて、子供じみた理想論。

 

 何の力も後ろ盾もないただ一人の少年が、腐りきった泥沼に踏み込んで、そこに光を灯そうというのだ。

 笑ってもいいはずなのに、誰も笑えなかった。

 

 その瞳に宿る決意が、あまりにもまっすぐだったからだ。

 しばしの沈黙が三人の間を満たした。

 だがその沈黙は、決して重苦しいものではなかった。

 

「……言うねぇ、お前」

 

 やがて、海藤が苦笑混じりに呟いた。

 

「でもまあ、嫌いじゃねぇよ――そういう中途半端な正義感」

「っスね」

 

 蒼石は、わずかに口元を緩めながら相槌を打った。

 

 変わらない現実はある。

 踏み入れた以上、簡単には抜け出せない世界もある。

 

 けれど――変えようと願うことまで、誰にも否定はできない。

 花村の言葉は、確かにどこか稚拙で、未熟で、理想論に過ぎなかった。

 

 それでも。

 そこに立ち止まらず、自分なりの答えを出そうとした姿勢だけは、きっと無駄にはならない。

 三人は、ゆっくりと歩き出した。

 

 それぞれの覚悟を胸に、この街の闇に、再び足を踏み入れる。

 ほんのわずかでも、自分たちなりの光を携えて。

 

 

     ◇

 

 

「何もないね?」

 

 第七学区の大学病院の診察室。

 カエル顔の医者が、パソコンの前で回転椅子をくるちと回しながら口を開いた。ふざけた口調とは裏腹に、目元だけが妙に鋭い。

 

 医者の背後のパソコンのモニターには、スキャン結果を示す複数のグラフや数値が並んでいる。

 対面の椅子に腰かけている弓箭猟虎は、こくりと固唾を飲み込んで、言葉の続きを待っていた。

 

「体中に溜まってたはずの体晶の毒素、きれいさっぱりなくなってるよ?……というか、まるで――」

 

 医者は再び画面に目を戻し、首をかしげる。

 

「最初から体内に毒素なんて存在しなかったみたいにね?不自然なくらい『正常』なんだ。どうやって治療したのか、こっちが聞きたいくらいだよ?」

 

 彼の言葉には、どこか医者としての興味以上の『疑問』が混じっていた。

 まるで、医学の常識が通じない何かを目の当たりにしてるような声色。

 弓箭は返す言葉を見つけられず、ただ黙って医者の言葉に耳を傾けていた。

 

「あの子のことは、まあ直接会って確認するのが一番なんだけど――」

 

 カエル顔の医者は、軽く肩をすくめて、

 

 

 

「いきなり本番で動揺されても困るから、まずは、ちょっとした予習ってやつだね?」

 

 

 

 こんこんこん、と病室のドアを三回ノックした。

 たったそれだけの仕草に、弓箭猟虎の胸がぎゅっと締め付けられる。心臓が耳元で鳴っているようだった。

 

 返事があるまでの数秒が、永遠のように思えた。手のひらは汗ばみ、無意識に足元がもじもじと動く。

 はい? と内側から返ってきたのは、どこか頼りなく、澄んだ――幼い少女の声だった。

 

 弓箭はそっとドアノブに手をかけ、深呼吸ひとつ。

 ゆっくりとドアを押し開けると、目に飛び込んできたのは、見慣れた病室の光景。

 

 少女は真っ白なベッドの上にいて、上半身だけ起こしていた。

 窓辺のカーテンが柔らかく風にそよぎ、陽射しの中に白い布がふわりと舞っている。

 その光景ごと、まるで夢の中の一場面のように美しかった。

 

 生きていた。

 そのたった一つの、何よりも重い事実に、弓箭の胸の奥がぎゅっと震えた。

 

 もう一度、会えた。

 たったそれだけで、涙がこぼれそうになる。

 今すぐにでも飛びついて、ぎゅっと抱きしめたい。

 

 それでも、必死に自分を律して、その場に立ち尽くす。

 あの……、と幼い少女は、小さく首を傾げて、言った。

 

 

 

「お姉さん、病室を間違えてない?」

 

 

 

 少女の言葉は、あまりにも無邪気だった。

 その声音には、ほんの少しの不審と、距離を測るような探る気配が滲んでいた。

 まるで、目の前に立つ弓箭を、ただの通りすがりの他人だとでも思っているかのように――。

 

 ああ、と弓箭は、心の奥に小さな痛みが生まれるのを感じた。

 

 ――あれは回復というより、『リセット』といった方が近いね?

 

 さきほどの診察室で、医者が放った言葉が、弓箭の脳裏に鈍く響く。

 

 ――体細胞の一部がね、ほんのわずかだけど『若返り』してるみたいなんだよ?まあ、誤差の範囲とも取れるけど……これはちょっと、普通の代謝の話じゃ説明できないね?  

 

 医者は苦笑していたが、それは医学の知識をもってしても理解しがたい現象だった。

 そしてその理由を、彼らは知る由もない。

 

 あの最後の戦いの只中――

 『歪曲揺光(フラクチュエイト)』の強化を受けた時ヶ谷凛音が、限界の先で行った奇跡。

 一瞬だけ、現実の法則を捻じ曲げるようにして、彼女は少女の時間を巻き戻したのだ。

 

 日花璃の身体を『能力開発を受ける以前』――毒素も損傷も蓄積もない、何者にも汚されていなかった頃へと戻した。

 その結果として、体晶による深刻な毒性も、細胞の傷も、痕跡すら残さず消えていた。

 

 だが、それは肉体だけの話ではなかった。

 

 ――それに伴い、記憶の方も、完全に『リセット』されてるみたいだよ?

 

「……、っ」

 

 弓箭は、小さく息を止める。胸の奥が軋む。視線が、どうしても下を向く。

 それに気づいたのか、ベッドの上の少女が、不安そうに――否、どこか心配そうに声をかけてくる。

 

「あのう?」

 

 その声音は、優しく、無垢だった。

 弓箭のことなど、少しも覚えていないとわかる、その真っ直ぐすぎる声。

 

「だいじょうぶ? お姉さん、なんか……辛そうに見えるけど」

 

 白く澄んだ声で、真っ白な少女は尋ねる。

 何の打算も、含みもない、曇りのない瞳が、ただ弓箭を見つめていた。

 

「……大丈夫です」

 

 弓箭はわずかに震える吐息を漏らしながら、答える。

 

「ただ、疲れているだけですから」

 

 真っ白な少女はしばらく、弓箭を顔をじっと眺めていた。

 

「……あの、もしかして、お姉さんと、どこかで会ったことある?」

 

 その問いかけが、弓箭には何よりも辛かった。

 それはつまり、真っ白な少女の中から、自分との思い出がまるごと――跡形もなく、消えてしまったという証拠なのだから。

 

 何一つとして。名前も、笑顔も、触れたぬくもりすらも。

 ぽつんと病室の真ん中に立ったまま、弓箭猟虎は、懸命に声を押し出した。

 

「日花璃さん、覚えてませんか? わたくしたち……雨の裏路地で出会ったんですよ」

「――うらろじ?」

 

 少女は不思議そうに瞬きをする。

 

「わたし、そんなところにいたっけ?」

 

「傘を一本しか持ってなくて、佐天さんが日花璃さんをおんぶして……、三人で、なんとか凌いだんです」

「さてん……って、誰のこと?」

 

 弓箭の心が、静かに、しかし確かにきしむ。

 声を止めることもできず、ただ、記憶をなぞるように語り続けた。

 

「そのあと、三人で一緒に遊園地に行きました。ジェットコースターに乗って、お化け屋敷に入って……プリクラを撮って、ゲーセンで、佐天さんとわたくしで、日花璃さんのために景品を――」

 

 そうまで言って、サイドテーブルに目を向ける。

 相変わらず置かれている、ピンク色のゲコ太のぬいぐるみと、金色に光るゴールデンゲコ太キーホルダー。

 少女のために、二人が頑張って取った宝物。

 

 だが今、それらを目にした少女の顔には、何の反応も浮かばない。

 記憶のどこを探しても、それが何なのか、思い出せないのだ。

 そして、静かに――真っ白な少女は言った。

 

「……ごめん。覚えてないの……」

 

 その一言が、ナイフのように胸を貫く。

 弓箭の胸元まで、泣きたい衝動がせりあがってくる。

 それでも彼女は、それをすべて嚙み殺した。

 

 目を伏せ、喉元でせき止め、どこにも漏らさなかった。

 ここで泣くことは、少女を困らせるだけ。

 それだけは、したくなかった。

 

(……あぁ、わたくしを置いていかないでという約束は果たしてもらえなかったんですね……。やはりわたくしはそういう運命(ほし)の下に生まれたってことですか……)

 

 これはきっと罰だ。今まで他人を傷付けてきた自分への。少しでも幸せになれるかもしれないと思ってしまった自分への。わずかな間に享受できた幸せの代償なのだと弓箭は自分を納得させようとしていた。

 

(でも、日花璃さんは今ここにいる。大切に思える人を守る戦いに少しでも力添えできたのであれば、それは喜ばしいことじゃないですか…!)

 

「……っ、く…、ふっ……」

「っ…?」

 

 

 

「ぷふっ、あははは!らっこ、変な顔!」

 

 

 

 え? と、弓箭の動きが止まった。

 さっきまで弓箭の胸を締め付けていた、あの無垢で無表情な少女の顔が、いつの間にか笑顔に変わっていた。

 

 けらけらと――本当に楽しそうに笑っている 

 真っ白な少女が、いつの間にか色づいていた。

 頬を紅潮させ、肩を小さく震わせながら、声を上げて笑うその姿は、まるで二日前まで一緒に過ごしていた雨束日花璃そのものだった。

 

 弓箭猟虎には、訳が分からない。

 目の前の出来事を信じられず、まるで幻を見ているような気分だった。

 動揺する心を落ち着けようと、両目をごりごり擦り、幻聴かと疑って耳をぎゅっと引っ張ってみる。

 

「日花璃……さん?」

 

 震える声でそう問いかけた、その瞬間――

 

「ドッキリ、大成功~~~!!」

 

 背後から、どこか勝ち誇ったような、溌剌とした声が病室に響いた。

 驚いた弓箭がくるりと振り返ると、病室の扉はいつの間にか再び開いていて、――そこには、二人の少女が立っていた。

 

 一人は、黒髪を長く伸ばし、紺色のセーラー服を身に包んだ少女。

 唇の端を吊り上げ、犬歯をちらりとのぞかせるような、意地悪げな笑みが浮かんでいる。

 その顔はどこか誇らしげで、いたずらが成功した子供のような得意気さを漂わせていた。

 

 もう一人は、やや紫がかった長い黒髪を左右で結わえた、紺色のブレザー姿の少女。

 扉のすぐ脇の壁に背を預け、腕を組みながら、まるで劇のワンシーンを見届ける観客のように、どこか楽しそうな目でこちらを見つめている。

 

「あれ? え? 佐天さん? それに……警策さん? ど、どういうことですか?あの子、記憶が『リセット』されたんじゃ……?」 

 

 弓箭が混乱したまま声を上げる。視線は、ベッドの上で笑っている少女と、入口に立つ二人の少女の間を行き来していた。

 理解が追い付かない。たしかに、医者ははっきりと――『記憶はリセットされた』といっていたはずだ。

 

「ま、確かに『一度』記憶をリセットされたのは嘘じゃないわよ」

 

 警策看取は淡々と答えて、

 

「デモデモ、アンタがあの子の精神世界に入ったとき――彼女の記憶を、追体験してたじゃない?」

 

 あ、と弓箭は思わず声に出してしまった。

 そういえば、あのとき自分は確かに見た。

 雨束日花璃の過去、あの子の想いや苦しみ、そして……『希望』すら。

 

「……まさか」

「そう。つまり、あの子の記憶は、アンタの頭の中に『バックアップ』されてるようなモンでしょ?」

 

 警策は指先をくるくる回しながら、軽い調子で続ける。

 

 

 

「だったら、あとはソレを『コピー』して、改めて彼女の頭にインプットすればイイ。――ちょうど、記憶を扱える友人もいるしね?」

 

 

 

 例えば、データをあらかじめフラッシュメモリーにバックアップしておいて――万が一、本体のストレージがクラッシュしてデータが吹っ飛んでも、バックアップから復元すれば元どおりになる。

 

 無茶苦茶すぎる。

 無茶苦茶すぎるけど、そういえば学園都市の第五位は人間の記憶を意のままに書き換えられるんだった。

 

 呆然と、ただ呆然と。

 何も考えられないまま、ベッドに座る少女――日花璃の顔を見上げた。

 

 ……、弓箭は何も言わない。

 その背中を見ていた佐天が、はっと何かに気づいたように、おそるおそる口を開く。

 

「――って、あれ? あのう、弓箭さん……もしかして、本気で怒って、ます?」

 

 からかい半分に仕組んだサプライズ――だったのだろう。

 でも、弓箭にとっては違った。あまりにも重く、あまりにも大きすぎたのだ。

 日花璃も、さすがに空気を察したのか、慌てて言葉を継ごうとした。

 

「ご、ごめんね、らっこ。意地悪をするつもりじゃなかっ――」

 

 その言葉は、最後まで続かなかった。

 弓箭が、小さな身体をぎゅっと抱きしめたからだ。

 

「よかった……」

 

 声が震えていた。

 

「本当に、無事でよかったです……!」

 

 その一言に、どれほどの思いが詰まっていたか。

 日花璃には、まだ全部はわからないかもしれない。

 けれど、抱きしめられた温度だけは、きっと伝わっている。

 

 警策看取は、そんな二人の様子を黙って見ていた。

 目元を細めるでもなく、ただ淡々と、けれどどこか安心したように。

 それから、気配をなるべく立てぬように、静かに踵を返す。

 

「……お待ちください」

 

 警策が病室のドアをくぐる直前、弓箭の声が背中に届いた。

 警策は動きを止め、ゆっくりと振り返る。

 振り返ったその顔は、やはりどこまでも無表情で、感情の読み取りにくい仮面のようだった。

 

「わたくしたち、ひょっとして……前にもどこかで会いませんでしたか?」

 

 一拍。

 間を置いて、警策は口元だけで微かに笑った。

 

「さあ、なんのコトかしら?」

 

 それきり。

 それ以上は何も語らず、警策は再び出口の方を振り返ると、一言もなくそのまま出て行ってしまった。

 

 弓箭は、その背中をじっとを見送りながら、

 

(……ありがとうございます。あの時、『アイテム』から助けて貰えなかったら、きっと、わたくしはここに立ってはいなかったでしょう)

 

 心の中でだけ、そっと礼を告げる。

 

 弓箭猟虎と雨束日花璃。

 かつて死を運命づけられていた二人の少女は、ある日、ふとしたきっかけで交差した。

 笑いを分かち、痛みを重ね、想いを繋ぎながら、二人の魂は寄り添っていった。

 

 その有り様は、見る者によっては、あまりに都合の良い物語に映るかもしれない。

 けれど、それがどうしたというのだろう。

 これは――誰もが願い、誰もが笑顔で終われる、奇跡のような幸せな結末(ハッピーエンド)だ。

 

 

     ◇

 

 

 病院の屋上、十月の風が高く吹き抜け、肌をかすめる。

 警策は手すりにもたれ、無言で街の光景を見下ろしていた。

 眩しい陽射しに照らされたビル群の向こう、何かを見透かすように虚空を見つめながら、ぽつりと呟く。

 

 

 

「……()()()()()()()()?――()()()()()()

 

 

 

 直後、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 着信画面に表示されたのは、何の番号もない『非通知』の文字。

 

 警策は躊躇なく通話ボタンを押し、スマホを耳に当てる。

 響いてきたのは、くぐもった、老人のような声だった。

 

『久しぶりだな、警策君』

「……生きてたの?」

『生きてるとも言えるし、そうでないとも言えるな』

 

 老人の声は、まるで自嘲するかのような笑みを滲ませる。

 

『「絶対能力進化(レベル6シフト)実験」が潰えたあのとき、僕は――御坂君の放った膨大なAIM拡散力場の残滓に、自我を滑り込ませたんだ。今の僕はどちらかというと、AIM思念体といったところか。肉体の限界や寿命の束縛からから解放されたが……反面、この姿では実験ができないから、鬱屈が募る日々だよ』

「……ヤッパリ。あの『Rache』っていう匿名投稿者、アンタだったんだね」 

 

 警策はひとつ、鼻で笑った。

 

「美琴ちゃんの能力の一部を取り込んでるなら、電子機器に干渉するのもたやすいはず。デジタル空間の『内側』からアクセスしていたなら――そりゃIPアドレスなんて痕跡、最初から残るワケないわ」

『相変わらず、察しがいいな』

 

 姿はないはずなのに――声の端々から、老人がにやりと笑っているのが伝わってくる。まるで、画面の向こうで得意げに手を組んでいるような気配すら漂わせながら、彼は続けた。

 

『「才人工房(クローンドリー)最大の禁忌」――あれがこの街に解き放たれたとき、世界がどう歪むのか――僕はそれを見届けたかったのさ。願わくば、誰も見たことのない「化学反応」をね』

「アンタの置き土産――お目当ての『置き去り(チャイルドエラー)』は、結局ただの幼子に戻っちゃったケド。……それで、今どんな気分?」

 

 挑発するような口ぶりで問いかける警策に対して、幻生の声には微塵も動揺がなかった。むしろ、愉悦すら滲んでいる。

 

『「実験」というものは、常に失敗がつきまとうものさ。だが、それもまた尊いんだ。失敗の中にこそ、次の扉を開く鍵が隠れている。思い通りにいかないからこそ、研究は面白い。それに――君が見せてくれたじゃないか。僕の予想すら超えた、はるかに面白い『現象』を』

 

 『歪曲揺光(フラクチュエイト)』の効果で、警策が発現させた――異能を喰らう、あの銀色の影。

 それは確かに、『歪曲揺光(フラクチュエイト)』によって変質させられた自身の能力から生まれた、言わば副産物に過ぎないだろう……。

 

 少なくとも、警策はそう思っていた。思おうとしていた。

 けれど、ふと脳裏をよぎる。

 

 ――あの時、雨束日花璃は本当に、あの影の姿をそう想像していたのだろうか?

 あの異様なまでに緻密で具体的な存在感。

 

 異能を喰らい、すべてを吞み込もうとする異質な力。

 果たして、あれは『想像の産物』と片づけてしまっていいものなのか?

 

 まさか、とは思うが。

 まさか、あれは『歪曲揺光(フラクチュエイト)』とは別に――

 

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

『なんだい?』

「電子機器を自由にいじれるなら、わざわざ匿名投稿なんてまどろっこしい手を使わなくても、最初からこうやって直接、電話でもメッセージえも送れたはず――違う?」

 

 一拍の沈黙、警策は続ける。

 

「……もしかして、私を試してたの?」

 

 警策の声は、風に流されるにはあまりに静かで、鋭かった。

 

「私がどこまで読み取れるか、どこまで『辿り着ける』かを。それに、あの時ワザワザあの子を話題に持ち出したのも……ただの気まぐれじゃなく、私に、彼女を見つけさせるために……」

『――データのない段階で理論を組み立てるのは、研究者として最も忌むべき行為だよ、警策君』

 

 どこか、諭すようでいてあざ笑うような、幻生の声。

 

『観測された事実に合わせて仮説を立てる代わりに、仮説に都合よく「事実」を捻じ曲げ始める。――まあ、ある意味では、それこそが「自分だけの現実(パーソナルリアリティ)」というものかもしれないがね』

 

 警策は、俯いたまま、その言葉の真意を静かに反芻した。

 

『では、僕はもう行くよ。いつかまた会おう、警策君』

 

 耳元で最後の声が消えると同時に、通話は唐突に途切れた。

 何の前触れもなく、何の余韻も残さず、あっけないほどに。

 

 警策はスマホをゆっくりと下ろし、しばらくの間黙って空を上げていた。

 

 高層ビルの隙間から覗く空は、すでに秋の深まりを思わせる薄曇り。

 その下に広がる都市の喧騒は、何も知らぬふりで、いつも通りの時間を刻み続けていた。

 

 彼女の胸には、確かな予感が残っていた。

 あれは、終わりの挨拶ではない。

 むしろ、始まりの合図――そんな気がしてならなかった。

 

 その時だった。

 

 ――ブルブルッ。

 再びスマホが震えた。

 今度は『非通知』ではない。

 

 食蜂操祈。

 画面に表示された発信者名を見て、即座に通話ボタンをタップする。

 次の瞬間、聞き慣れた、どこか間延びした声音が耳に飛び込んできた。

 

『あの子のお見舞い、終わったかしらぁ?』

「……ちょうど今、終わったところよ」

 

 返答は簡潔だが、声にはどこか安堵が差していた。

 

『それで、彼女は元気ぃ?』

「能力は……使えなくなったケド、もう大丈夫よ」

 

 『歪曲揺光(フラクチュエイト)』――

 その力は、今のこの街にはあまりにも異質で、あまりにも過剰だったのかもしれない。

 未成熟な器には重すぎる力。未熟な世界には理解されない異能。

 だからこそ、それを封印するというのが一番良い選択だと思う。

 

 

『そう。ならよかったわぁ』

 

 安心したように言いながらも、次の言葉に入る前に、食蜂はほんの一拍、意識的に間を空けた。

 

『それよりぃ――』

 

 その語尾には、先ほどまでの緩やかさにはそぐわない、鋭さが滲んでいた。

 

『「遺産(レリック)」の関連施設、二件見つけたわよぉ』

 

 警策の瞳が、わずかに細まる。

 

『これからその一件を潰しに行くけどぉ、看取さんも――ちょっと手伝ってくれないかしらぁ?』

 

 あくまで甘ったるい声音。

 けれどその奥には揺るぎない信頼が滲み出ていた。

 

「……わかった」

 

 通話を切ると、警策はスマホをそっと下ろし、ひとつ静かに息を吐く。

 風がビルの合間をすり抜け、微かに制服の裾を揺らした。

 

「今度は『遺産(レリック)』か……」

 

 呟く声は低く、それでいてどこか楽しげでもあった。

 そのまま視線を上げ、改めて広がる街並みへと目を向ける。

 

 

 

「――ホント、退屈しない街だね」

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