Phase27「再開 -リスタート-」
第七学区のとある喫茶店で、佐天涙子はスマートフォンの画面を睨みつけながら、またもやうんうんと唸っていた。
「うーむむ…」
「佐天さん、どうかしましたか?何やら難しそうな顔をされてますけど…」
枝垂桜学園の制服を纏った、いかにもお嬢様然とした少女、弓箭猟虎が佐天に声をかける。
「そうですねぇ…。イイ感じの都市伝説ネタを探してるんですけど、なんか一辺倒でパッとしないんですよ。『黒い森に潜む銀の大蛇』『ミュータント恐竜人間』『超珍しい!巨大アルビノカブトムシ』……。ほら、この通りで。最近は『謎生物シリーズ』が流行ってるんですかねぇ?」
「はぁ…。 わたくしが言えたことではないかも知れませんけど、気をつけて下さいよ…?」
弓箭はどこか呆れたように溜息をつき、コーヒーカップをソーサーにそっと戻した。
つい先月知り合ったこの友人は、とにかく都市伝説が大好きである。街に蔓延る怪しげな噂を嗅ぎつけては、突拍子もない行動に出るのが常だった。
「えっと…、確かに学園都市の都市伝説は、意外と信憑性が高いのは認めますけれど――だからといって、あなた自身が渦中に飛び込む必要はないはずです。ついこの前だって、痛い目を見たばかりじゃないですか……」
先月の中頃、佐天はとある病院で、訳あって一人の女性研究者に拉致され、屋上で銃撃を受けるといった事件に巻き込まれていた。
幸いにも、たまたま現場に居合わせた時ヶ谷という女が、その能力で応急処置を施してくれたおかげで、一命を取りとめたのだった。
「あはは…。初春にも同じこと言われました…。弓箭さんにも心配かけちゃうなんてあたし…」
「で、でしたら……」
「でも!!」
「!?」
「あたしから都市伝説を取ったら何が残るっていうんです!?ただでさえ無能力者なんですから、せめてこれだけは他の人よりも詳しくありたい!そう、これはあたしのサガであり、アイデンティティ!!」
「い、いや…何も都市伝説を取り上げようとしてる訳では…!それに、佐天さんには他にも魅力的なところがあると思います、けど…?」
「例えば!?具体的に!!」
「ひっ!例えば…!?え、えっと…!その…、その〜……うぅ…、か、勘弁して下さい〜〜…!」
ぐいっと距離を詰められた弓箭は顔を真っ赤にして後ずさる。陰の者は強く迫られると咄嗟に言葉が出てこないものなのだ。
「あははは!大丈夫ですって!なんか弓箭さんがテンパってるのみたら安心したなー。あたしだってバカじゃないですから、もう下手に首を突っ込むなんてしないですよ」
「本当に大丈夫なんでしょうか…」
「それに、何かあったら弓箭さんが守ってくれるんでしょ?」
「う…、それは善処はしますけれど…」
「それなら安心ですね」
「それにしても――」
佐天はどこか感心したように店内を見回しながら、話を変えた。
「こんな狭い路地裏にあるカフェ、よく見つけましたね。第七学区にこんなお店があるなんて、全然知りませんでした」
――時は少し遡る。
弓箭に連れられて第七学区の裏路地にあるドアを潜り、階段を降りると、「喫茶エーデルワイス」という名のカフェに辿り着き、驚きを隠せなかった。
そのカフェは、どこか隠れ家的な雰囲気が漂い、客足もまばらで寂れている。
その静寂を破るのは、時計の規則正しいカチ、カチ、という音だけ。まるで時間そのものがゆっくりと滴るかのように響く。
天井から落ちる琥珀色の灯りが、夜を溶かしたように店内を満たしていた。
奥には長いカウンター席があり、磨かれた木肌が鈍く光っている。グラスやカップは整然と並び、かすかに立ちのぼるコーヒーの香りが、甘さと苦味を曖昧に混ぜ合わせていた。
店長と思しき黒人の強面の大男が、カウンター越しで無駄のない動作でカップを磨いている。本人には失礼だが、喫茶店の店長というより、どこかの国の傭兵や暗殺者のような顔のほうがしっくりくる、と佐天は思った。
小さなテーブル席では、金髪オールバックの外国人の男性が一人、白いコーヒーカップを前に本を読んでいる。
その向かいの席には英字新聞を広げた客もいたが、新聞紙に隠れて顔はよく見えなかった。
それでも弓箭のオススメだというので、おっかなびっくり入店し、二人でカウンター席に腰を下ろした。
ちなみにメニューに書かれた「店長のおすすめ」はブラックコーヒーで、値段はなんと9,995円(税抜)。
一瞬、桁を見間違えたのかと思って何度も見返したが、どうやら本気らしい。
コピ・ルアクなどの高級コーヒー豆によるものなのだろうか。それにしても、値段設定が狂っている。
他の品もどれも高く、ケーキ切れが下手なレストランのコース料理より高価だった。
そんな中、弓箭はまるでコンビニで缶コーヒーでも買うかのような気軽さでブラックコーヒーとケーキを注文した。流石お嬢様である。
「ここはわたくしが奢りますから、佐天さんは何でも好きなものを頼んでくださいね」
「えっ、いや、それはさすがに……」
遠慮がちに断ろうとする佐天の言葉を、弓箭は人差し指一本で彼女の唇にそっと触れて遮った。
「ご遠慮なさらないでください。年上の先輩なんですから。たまには甘えていただいても構いませんよ」
そう言って微笑む。その笑みには、不思議と有無を言わせぬ気配が漂っていた。
「……じゃあ、あたしもブラックコーヒー一つで。あ、ミルク多めでお願いします。それと……」
佐天はしばらくメニューを凝視し、それでも一応の配慮なのか、いちばん安そうな品――もっとも、名前だけでは実態がまるで見当も付かないそれを注文した。
店長は眉一つ動かすことなく、「かしこまりました」と丁寧に一礼した。
その低く渋い声は、やけに腹の底に響き、まるで命令を受託した兵士のような響きを帯びていた。
彼は背を向けると、静かな足取りでカウンター奥の器具へと向かった。
――今に至る。
「まあ、ここは以前からよく通っているお店なんです。ご友人にあまり恵まれなかったわたくしにとっては、数少ない憩いの場といいますか……」
「へえ、そうなんですか」
(何しろ……ここは『ただの喫茶店』ではありませんので)
弓箭は心の中で静かに呟き、いまだに店内をきょろきょろと見回している佐天を横目に、さりげなくコーヒーを淹れる店長の方へ視線を向けた。
ふと、弓箭と目が合う。一瞬だけ視線を交わしたのち、男は何事もなかったように再びコーヒー作りに戻った。
「……」
ふと佐天が先ほどまでの明るさと違い、ほんの少し沈んだような顔を浮かべた。弓箭はその些細な変化を見逃さなかった。
「…何か気になることでもありましたか?」
「え、いや……」
「悩み事がおありでしたらお聞きします。わたくしも少しでも佐天さんのお役に立ちたいですから」
「大したことじゃないですよ」
「助け合えるのが『友達』ですよね?」
以前佐天が弓箭に投げかけた言葉。弓箭は意趣返しというように相談役を申し出る。
「分かりました…。話します…」
「はい」
「最近、気になることと言えば、なんか、SNSでトラブルが起きててさ……」
「トラブル……ですか?」
訝しげに問いかける弓箭に、佐天は小さく頷き、スマートフォンを操作して画面を弓箭に向けた。
そこに映っていたのは、中学生二人のツーショット写真だった。
一人は黒髪ロングに紺のセーラー服を着た少女――つまり佐天本人。そしてもう一人は、同じ制服を着た小柄な少女で、頭にはまるで花畑のような飾りをつけている。佐天と同い年で、この前病院でも顔を合わせた、確か初春という名の少女だった。
「ここ、ネットで有名な心霊スポットって聞いていたから、初春と二人で心霊写真を撮りに行ってみたんです。その時に自撮り写真をSNSに上げたら――翌日、脅迫リプが来てて」
佐天は気を落ち着かせるように小さく息を吸い、言葉を続ける。
「最初は怖くてすぐ消しました。でも、それからずっと誰かに見られてる気がして……。今のところ事件性がないから、警備員の人たちも『ただの嫌がらせだろ』って、あんまり真剣には扱ってくれなくて……。念のため、初春に調べてもらってるところです」
「その脅迫リプの送り主に、何か心当たりは?」
「いえ、さっぱりです」
そのことが、ずっと佐天の頭にひっかかっていたのだ。先ほど都市伝説サイトを眺めていたのも、いつものルーティンに縋って少しでも気を紛らわそうとしたのだろう。
その時、弓箭は写真に言いようのない違和感を覚えた。
「――佐天さん、スマホを少し貸していただけませんか?」
促されるままに、佐天は端末を手渡す。
写真には、屋上のフェンスに背を預けてピースを決める佐天と(どう見ても乗り気ではなく、無理やり連れ出されたような)初春が映っていた。いかにも青春を謳歌する年頃の少女の自撮り写真、といったところだ。
しかし、弓箭の目が留まったのはそこではない。
二人の背後、もう一棟向こうにある校舎ビル。その窓の内側に、かすかに人影が映り込んでいた。
それは、白衣を羽織った、どこにでもいそうな冴えない中年男性の横顔。
その正面には、サングラスをかけ、緑のジャケットを羽織った青年が立っていた。
二人は向かい合うように立ち、青年はまるで何かを受け取るかのように右手を差し出している。
写真のほんの隅に小さく映り込んだ光景で、しかも画質も粗いため、手渡されているものが何なのかまでは判然としなかった。
「……何か、分かりました?」
佐天に尋ねられ、写真に集中していた弓箭が、はっと我に返ったように顔を上げた。
「うーん……今のところは何とも言えないですね。この写真、あとでじっくり見返したいので、一枚いただけますか?」
「いいですよ」
スマートフォンを返された佐天は、慣れた手つきで操作する。
ピロン、と軽い電子音が鳴り、弓箭のスマートフォンに写真データが届いた。
「ありがとうございます」
弓箭は受信を確認すると、スマートフォンをそっと制服のポケットに戻した。
その時、二人の背後から声がかかった。
「お待たせしました」
ウェイトレスらしからぬ陰気な声の方に顔を向けると、トレイを抱えた少女が立っていた。
制服は、まさにレトロな喫茶店仕様で、年の頃は中学生といったところか。紫紺の髪は肩に触れるほどの長さで、しっとりとした光沢を帯びている。前髪はやや長く、左目にかかるほどに垂れ下がり、覗く瞳の色は淡い紫紅色で、どこか底知れなさを宿していた。よく見れば、かなり整った顔立ちだと佐天は思った。
少女はぺこりと頭を下げ、湯気を立てるブラックコーヒー二つと、甘い香りを漂わせるケーキをそっとテーブルに置いた。
「以上でお揃いでしょうか」
頷くと、恐ろしい金額が記された伝票を裏向きに置き、音も立てずにカウンターの奥に消えた。
佐天は慎重に、零さないようブラックコーヒーを持ち上げる。最初の一口が喉に触れた瞬間、舌先に広がったのは、単なる苦味ではなく、深いコクと琥珀色の光のような香りだった。
口の中で広がる苦味と甘みの絶妙なバランス、香ばしい余韻が鼻腔を抜け、まるで夜の空気ごと溶け込んでいくかのようだ。
「……美味しい……。こんなコーヒー、初めて……!」
ただのブラックコーヒーが、どうしてこんなに奥行きを持つのか、言葉では説明できない。思わず目を閉じ、ゆっくりと味わう。
一口ごとに、苦みの中に潜む甘さや香ばしさが顔を出し、口の中で複雑に絡み合う。佐天はつい、もう一口と手を伸ばす。
その賞賛の言葉に、普段は強面の店長の頬のあたりが少し緩み、ほんのわずかに嬉しそうな表情が見てとれた。
「ところで、今日は珍しく一人じゃないんですね。嬢ちゃんの連れって、あのゴーグルの旦那以外、初めて見た気がします」
一通り仕事が片づき、手持ち無沙汰になったらしい店長が、カウンター越しに世間話でもするような調子で弓箭に声をかけた。
「わたくしにだって、友人の一人や二人くらいいますよ」
弓箭は少し不服そうに頬を膨らませる。
「そりゃそうか。見たところ、『こっち側』の人間ではなさそうですが」
「?」
店長は興味深そうに佐天の顔を眺めると、戸惑った彼女の様子など意に介さず、苦笑まじりに続けた。
「なーに、気にすんな。しがない喫茶店の店長の独り言です。どうぞ、ゆったりしていってください」
「あ、うん、はい……」
なんとか愛想笑いを作った佐天は、話題を探すように視線を彷徨わせる。
そのとき、ふと目に入ったのは、カウンター席の左側の壁に飾られた十数枚の写真だった。
「あのう、あの写真って、ここの常連さんですか?」
「ええ、まあ」
店長はわずかに微笑み、軽く頷いた。
そこには、眼鏡をかけ白髪をオールバックに撫でつけた初老の男性や、ホステスのようなドレスをまとった金髪の少女、ピンク色の大正袴に二本の角が生えたような銀髪の女など、一癖も二癖もある人物ばかりが写っている。
佐天が目を凝らすと、その中に見覚えのある人物がいた。
「あれ……」
ウェーブのかかった金髪にベレー帽を被った、まるで西洋人形のような少女――そんな写真が、そこに飾られていた。
写真の下には、「サバ缶に愛をこめて」と書かれた小さなメッセージカードが添えられている。
佐天は思わず席を立ち、写真を確かめるように歩み寄った。
「フレンダさん……ここに来てたんですか?」
その問いに、店長は肩をすくめて応じる。
「ああ、あの嬢ちゃんも昔はよく来てたんですな。カフェだってのに、いつも缶詰を持ち込んできてな。困ったもんでしたよ……」
一瞬、視線を写真に向けてから、店長は続けた。
「アイツが通ってた頃は、ここもずいぶん賑やだったのを、よく覚えています…」
その声には、どこか名残惜しさが滲んでいた。
「……そうですか」
一瞬、場の空気が微妙に沈んだ。
佐天は気まずさを振り払うように何か別の話題を探す。やがて、ふと思い出したように声を上げた。
「……そういえば、このお店って地図に載ってませんよね」
それは、彼女がずっと気になっていたことだった。そして、この喫茶店を訪れるきっかけでもある。
ある日、佐天は都市伝説系のサイトで「地図にないカフェ」という噂を目にした。
病みつきになるほど美味いコーヒーで密かに話題になっているが、地図上には表示されず、二度目に行こうとしても辿り着けないらしい。
――『店を出ると、なぜか場所を思い出せない』
――『なのに、コーヒーの味だけは忘れられない』
――『虜になって帰ってこなかった人もいる』
――『時空の狭間に存在する幻の店なのでは』
そんな眉唾な噂が並んでいた。
興味津々になった佐天が弓箭にその話をすると、「あっ、そこならわたくし知ってますよ」とあっさり返されて、思わず目を丸くした。
最初に裏路地のドアをくぐってこの店に入ったときは、噂の割に客が少なくて「本当にここ?」と疑ってしまったほどだ。
だが、それも無理はない。
あんな辺鄙な裏路地にある、看板すら出ていない扉の向こうにカフェがあるなんて、普通は誰も想像しないだろう。
「――この現象に、何か心当たりはありますか?」
佐天の問いに、店長はどこか神妙な顔を浮かべた。
「さあな……でもまあ、リピーターの客をつなぎ留めるのは難しいっていうし」
そう言い終えると、店長は意味ありげにキッチンのほうへ視線を送った。
扉の隙間から、先ほどの陰気なウェイトレスの少女が半分だけ顔を覗かせている。
店長が小さく首を横に振ると、少女は何も言わず、するりと影のように引っ込んだ。
その動きが、妙に手慣れているように見えた。
店長からこれ以上、役に立ちそうな情報を引き出せそうにないと悟り、佐天は話題の矛先を隣の弓箭へと向けた。
彼女は相変わらず背筋を伸ばし、上品な仕草でコーヒーを口に運んでいる。まるで高級ホテルのラウンジにでもいるかのような落ち着きぶりだった。
「弓箭さんは、どうしてこのお店のことを知ってたんですか?」
弓箭はカップをソーサーに静かに置き、少しだけ懐かしむように目を細める。
「わたくしは、昔同じ……『サークル』に所属していた先輩で教育係の方に教えていただいたのです」
その言い方には、ただの部活や学校の集まりとは思えない、どこか含みのある響きがあった。
「ここはまあ、言うなれば、知る人ぞ知る……そんなお店なんです」
そう言って、弓箭は意味深に微笑んだ。
その笑みは柔らかいのに、どこか線を引くような距離感を帯びていて、これ以上は踏み込ませないという無言の意思表示にも見えた。
佐天は、弓箭がこの店の『裏の顔』まで知っているのだと、なんとなく悟った。
そのとき、ピコン、と佐天のスマートフォンが通知音を鳴らした。フォローしている都市伝説系アカウントからの投稿らしい。
「あ、ちょっとごめん」
画面を覗き込んだ佐天の表情が、さっきまでとは打って変わってぱっと明るくなる。どうやら、また面白そうなネタを見つけたようだ――と弓箭は察した。
その予想は的中し、佐天は興奮した様子でスマートフォンを弓箭の前に差し出す。
「ね、これなんかどうです? 『四時と三十分の間にとある列車に乗ると、謎の隧道を通じて異世界に連れ去られる』! こういうのって一番ワクワクしません!? しかもその入口とされる場所がついさっき第十学区で──」
「わたくしには胡散臭い与太話にしか思えないのですが…?」
「そんなに心配なら弓箭さんも一緒に行きましょうよ! ほらほらゴーゴー!」
「ちょっ……待ってください! ああ、もうっ!……ごちそうさまでした!」
弓箭の制止もどこ吹く風とばかりに佐天は勢いよく立ち上がった。ケーキを平らげた皿が揺れるほどの勢いで席を離れ、玄関口へと走っていく。
弓箭も慌ててカウンターに札束を置き、後を追った。
二人はそのままバタバタと店の出口から飛び出していった。
「……やっと帰ったわね」
静けさを取り戻した喫茶店で、金髪オールバックの男性客の向かいに座り、英字新聞を広げていた客が、頃合いを見計らったように紙面を下げた。
現れたのは、紫がかった長い黒髪を左右で束ねた少女だった。端正な顔立ちながら、どこか物憂げな影を宿した双眸が印象
的だ。
「おや、嬢ちゃんの知り合いでしたか」
店長はそう問いかけると、少女――警策看取は、わずかに肩をすくめて応じた。
「まあ、ちょっと訳アリでね」
警策は英字新聞をテーブルに置き、コーヒーを一口含んだ。そして今度は、逆に店長へと視線を向ける。
「それにしても、あのまま帰らせていいの? スナイパーちゃんはともかく、あの紺セーラーの子みたいな『一般人』に店の場所を覚えられたら困るんじゃない?」
「たまにはいいだろ。いくら『暗部向け』の喫茶店とはいえ、一応は商売だからな」
店長は苦笑まじりに答えた。
「それに最近は、『こっち側』の客足も昔に比べてずいぶん減ってきてるしな……」
「やっぱり先月の『デカ目の抗争』が、暗部には相当な打撃だったわけか」
警策が思案するように小さく呟くと、向かいの席で本を読んでいた金髪オールバックの外国人男性――カイツ=ノックレーベンがページを閉じて会話に加わった。
「まあ、『暗部』が不要になるなら、それに越したことはないですガ」
「そうなったら、この店も畳むことになるし、困ったもんだな」
そう言いながらも、店長の声には本気で困っているような響きはなかった。
カイツは肩をすくめ、軽い調子で続ける。
「なら、普通の喫茶店を開けばいいでしょウ。コーヒーの腕も、ずいぶん上がったじゃないですカ。何なら私も『知的傭兵』なんて稼業を辞めて、ディルバーの店を手伝いますヨ」
ディルバー、と呼ばれた店長は、少し照れくさそうに笑った。
「勘弁してくれよ。俺にコーヒーを教えた師匠のお前さんがカウンターに立ってたら、俺の立つ瀬がないだろ」
皮肉交じりの軽口を叩き合う二人を、警策は頬杖をつきながら、少しからかうような口調で眺めた。
「前から思ってたんだけど、カイツちゃんって、店長と結構仲がいいのね」
「ああ、ちょっとした腐れ縁というか、戦友というか……」
ディルバーはどこか懐かしげに微笑み、言葉を続ける。
「昔は世界を転々として何度も死地を共にくぐり抜けたもんだ。今みたいに、ただ美味しいコーヒーを淹れて、お菓子作りに没頭するだけのカフェのオヤジになるななんて夢にも思わなかった」
「ちなみに、昔はお菓子どころか、コーヒーもまともに淹れられなかったでス。教えるのには、ずいぶん苦労したもんですヨ」
普段は表情に乏しいカイツだが、このときばかりは珍しく口角をニヤリと上げた。
警策はそんな二人のやり取りを楽しそうに眺めていた。
「――ところデ」
昔話に耽るのもほどほどに、カイツは本題へ戻ろうと、警策の方に体を向けた。
「あのお嬢さんの件、どう思いますカ?」
というのは、さっき佐天が話していた「自撮り写真で脅迫リプをもらった」件である。
警策は気を取り直し、少し考え込むように目を細めた。
「……『あの場面』が写真に写り込んだのは、単なる偶然だと思うケド」
そう言ってスマホを操作し、一枚のスクリーンショットを表示する。今は削除されているが、佐天がSNSに投稿していたもので、投稿時間もはっきりと表示されていた。
「『取引』に関わっていた連中は、SNSで偶然あの写真を見つけて、さぞかし肝を冷やしたでしょう。で、脅迫リプを送ったワケだ」
カイツは真剣な視線をテーブルに落とし、数秒の沈黙のあと、視線をディルバーへ向けた。
「ディルバー、『取引』の相手については、何か分かったことハ?」
「そこはまだ調査中だ。
「……手っ取り早く奴らを炙り出す方法なら、なくはないけどね」
カイツとディルバーはすぐに警策の意図を理解した。
「――あのお嬢さんを囮にする……ですカ」
佐天の写真を狙って連中は必ず動く。その瞬間を見計らって尻尾を掴む。それが今のところ、最も効率的な方法だ。
「こっちも頼まれたわけだし、あのコのあとをつけてみようカナ。うまくいけば、今日中に奴らが動くかもしれないしね」
そう言って、警策は席からすっと立ち上がる。
「そんじゃ、行ってくるわ。ごちそうさま」
短く告げると、軽やかな足取りで玄関口へ向かい、そのまま店を後にした。
「…………」
去っていく警策の背中を、キッチンに隠れているウェイトレスの少女は黙ったままじっと見送っていた。
長い前髪に隠れた視線の奥で、何かがほんの一瞬だけ揺れた――そんな気がした。
ドアを潜り、裏路地に出る。
警策はしばらくの間、ドアに背を預け、思考に沈んだ。
そのとき、佐天が去り際に口にした言葉がふと脳裏に蘇る。
「……異世界に通じる隧道……」
呟くように反芻しながら、記憶の奥を辿っていく。その言葉には、確かな心当たりがあった。
――十月の中頃のこと。
雨束日花璃の件を解決した直後、食蜂操祈に頼まれて二人で『
その三日後には食蜂本人が連中の仲間に襲撃され、その裏を探るために潜入した別施設で、警策は得体の知れない
そいつの頼みで常盤台に単身向かった結果、待っていたのは壮絶な
あの騒動の最中。もう一つの
警策は『異形の景色』を見た。
巨大な円形闘技場のような場所。
あるいは、地下神殿の内部を思わせる、深く広がる円形空間。
空間の境界が歪み、視界が軋むような、説明のつかない異質さ。
あれは確かに、この世界の『延長線』には存在しない風景だった。
(さすがに考え過ぎ……カナ)
自分に言い聞かせるように小さく首を振り、気を取り直して表通りへと駆け出した。