とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase28「霊園 -セメタリー-」

 第十学区。

 学園都市の中でも、最も治安が悪いとされる学区だ。

 その影響で地価は低く、「他の学区では敬遠される」さまざまな施設が、結果としてこの地に集積している。

 

 たとえば、縁起の悪さの代名詞ともいえる墓地。

 それもまた、巡り巡って第十学区に落ち着いていた。

 もっとも、一般的に想像される墓地とは、その様相を大きく異にしている。

 エレベーターを用いた構造は、どちらかといえば立体駐車場に近い。

 

 射撃演習場のようにパーティションで区切られた「ブース」の中で暗証番号を入力すると、骨壺の収められたコンパクトな墓石が、リフトやエレベーターによって自動的に運ばれてくる仕組みだ。

 その墓石の一つの前に、二人の少女が立っていた。

 

 一人は、紺色のブレザー制服を纏った、長い黒髪の中学生の少女。

 もう一人は、絹糸のように艶やかな長髪を靡かせ、白いワンピースに身を包んだ、十歳前後に見える幼い少女だった。

 二人は揃って目を閉じ、墓石に向かって静かに手を合わせている。

 ポツリと、白い少女が呟いた。

 

「……遅くなってごめんね、さや。ずっと……会いたかった」

 

 その言葉に応えるものはない。

 白い少女――雨束日花璃は、ゆっくりと目を開け、改めて目の前の墓石を見つめた。

 そこに刻まれている名前は、ただ一つ。

 

 水島紗綾。

 かつて日花璃の能力が制御を失ったその日、取り返しのつかない代償として失われてしまった、日花璃の親友の名だった。

 彼女と共に、かつて『主観干渉』に身を置いた百人もの少女たちも、この地でひそやかに眠っている。

 日花璃はワンピースのポケットに手を入れ、そこに触れた冷たい感触を、しばらくの間確かめるように指先でなぞった。

 

 やがてそれを取り出し、小さな墓石の前に、落とすことのないよう、そっと置く。

 それは、街中の自販機ならどこでも売っている、「抹茶ミルク」と書かれた缶ジュースだった。

 

「さやって、確かこれが好きだったよね」

「そうですね」

 

 と答えたのは、隣に立つ黒髪の少女――時ヶ谷凛音だった。

 彼女もまた目を開き、その緋色の瞳を、静かに墓石へと向けている。

 時ヶ谷は小さくため息をついて、

 

「甘すぎるのは苦手だって仰ってましたわね。でも、苦いのも嫌いで……ちょうどいいって」

「……普通にミルクティーにすればよかったのに」

「まあね。『結局これが一番落ち着く』って」

 

 二人はお互いに顔を見合わせ、クスクスと小さく笑った。

 

「……えへへ。なんだか、こうしてりんねとお話しするの、久しぶりな気がする」

「…………」

 

 その何気ない一言に、時ヶ谷の笑みはわずかに揺らぎ、やがて困ったような表情へと変わる。

 彼女は視線を落としたまま、しばらく黙り込んだ。

 

「りんね?」

 

 日花璃は少し訝しげに首を傾げ、

 その沈黙の意味を探るように、彼女の横顔を見つめた。

 やがて、恐る恐るといった様子で、時ヶ谷の桜色の唇が開かれた。

 

「……ごめんなさい、日花璃さん」

 

 一度、言葉を切り、彼女は息を整える。

 

「命を助けるため、だったとはいえ……何年も、眠らせて……日花璃さんの自由を、奪ってしまって」

「…………」

 

 沈黙が、二人の間に落ちた。

 傍目には、時ヶ谷と日花璃は歳の離れた、仲の良い姉妹に見えるかもしれない。

 だが実際には――二人は、同い年だった。

 

「……もう、その話はいいよ」

 

 日花璃は顔を上げ、時ヶ谷を見た。

 真正面から、その緋色の瞳を受け止める。

 

「りんね、ずっと一人で背負ってきたんでしょ。さやのことも、みんなのことも……」

 

 一拍、息を吸う。

 

「なのに、側にいてあげられなくて……ごめんね」

 

 最後の言葉は、ほとんど吐息のように零れ落ちた。

 

「日花璃さん……」

 

 時ヶ谷の喉が、小さく鳴った。

 何かを言い返そうとして、言葉にならなかったのだと、日花璃にも分かった。

 

 次の瞬間、時ヶ谷は一歩踏み出し、

 躊躇うことなく日花璃を抱き締める。

 

 強くもなく、けれど確かに――

 離れたくないという意思だけが、そこにあった。

 

 日花璃は一瞬だけ目を見開き、やがて小さく微笑んで、その背に腕を回した。

 二人の間に、言葉はもう必要なかった。

 静まり返った空間の中で、かつての友人の墓石だけが、変わらず二人のそばにあった。

 

 

     ◇

 

 

 『墓地』のビルの自動ドアが開く。

 味気ない出入り口の近くのベンチに、白衣を着た無精髭の中年男性が腰掛けていた。

 墓参りを終えた二人の少女に向け、声をかける。

 

「終わったか?」

「終わりました」

 

 実際には、何も終わっていないのかもしれない。

 だが、時ヶ谷はそう付け足した。

 何かを区切るように。

 

「じゃあ、帰ろっか」

 

 それだけ言うと、中年男性――榊誠司は煙草を灰皿に押し込み、立ち上がると、二人に背を向けて歩き出した。

 時ヶ谷は逸れないよう日花璃の手を取り、その後をついていく。

 しばらく無言で歩いていると、時ヶ谷が口を開いた。

 

「……改めて、外出許可をいただきありがとうございました、榊先生」

「礼には及ばないよ。本当なら、もっと早く会わせることもできたんだが……念のためだ。雨束くんの体を隅々まで検査して、異常がないと確信するまで待たせちまったな」

「いいえ、日花璃さんの健康が何よりですから」

 

 ところで。

 当たり障りのない会話が続く中、榊の歩幅が、ふいに止まる。

 それにつられるように、時ヶ谷と日花璃も足を止めた。

 

「榊先生、どうかなさったのですか?」

「……いやあ、少々まずいことになったな」

「?」

 

 時ヶ谷が榊の視線を追う。

 少し先――十メートルほど離れた場所に、人影があった。

 よく見れば、数人の少年が輪を作り、その中心に誰かを囲んでいる。

 五人。

 髪を染め、ピアスをぶら下げた、いかにもな風体の不良少年たちだ。

 

「よお、嬢ちゃんたち。こんな物騒なところで女の子だけなんてさ。オレらに、ちと癒やしを分けてくれねえか?」

 

 距離は離れたものの、思いのほか野太い声なのではっきり聞き取れた。

 隣に立つ日花璃は、不安そうに時ヶ谷の袖を引く。

 

「ど、どうしよう……悪い人たちだよ」

 

 奴らは、まだこちらに気づいていない。

 回り道して事なきを得るか、それとも――。

 考えるまでもない。

 時ヶ谷が、意を決して一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。

 

「ここは任せとけ」

 

 行く手を遮るように、榊が右手を差し出す。

 

「しかし……」

「子供のいざこざを止めるのは、大人の役目だろ」

 

 そう言って、榊は軽く肩をすくめた。

「それに――」

 

 教師らしい朗らかな笑みを浮かべ、付け足す。

 

「君が手を出したら、向こうが可哀想じゃないか」

 

 それだけ言い残し、「あっ、ちょっと」と時ヶ谷の制止も聞かずに、榊は前へ向かって駆け出した。

 

「先生かっこいい!」

「…………」

 

 日花璃は目を輝かせ、その背中を見送る。

 二人は、その場から十メートルほど離れた位置で、成り行きを見守っていた。

 

「先生、がんばって!」

 

 両手をぎゅっと握り、小声でエールを送る。

 榊は、不良の一人に飲み会へでも誘うような調子で近づき、肩に腕を回し、何かを言った。

 次の瞬間。

 ズガンッ!と。

 勢いよく、榊は殴り飛ばされた。

 

「うそっ!?」

「ええ。まあ、こうなるかと思いましたとも」

 

 日花璃が目と口を大きく開く横で、

 時ヶ谷は右手でそっと目元を押さえ、ため息まじりに呟いた。

 

「榊先生、喧嘩はまったくできませんのよ」

「さっきはあんなにカッコよかったのに!?」

 

 思わず、日花璃が一歩踏み出した。

 

「先生っ!」

 

 駆け寄り、その傍らに膝をつく。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

「……いやあ、参ったな」

 

 榊は仰向けのまま、空を見上げて苦笑した。

 

「悪いな、時ヶ谷くん。この俺の必死の説得も、どうやらあの若造どもの心には届かなかったようだ」

「……先生、今のは説得ではありませんわ。危機管理能力の欠如を、身をもって実演なさっただけです」

 

 間髪入れず、時ヶ谷が呆れた顔で告げる。

 ――その直後だった。

 

「ぐぁ」

「このぉ! ぐっ」

「ああああああ!」

 

 不意に響いた奇声に、思わずそちらへ視線を向ける。

 気づけば、五人の少年は全員、地面に倒れていた。

 そしてようやく、彼らに取り囲まれていた人物の姿が、はっきりと見えた。

 

 そこにいたのは、二人の少女だった。

 一人は、長い黒髪をツーサイドアップに結い、年の頃は高校生ほど。

 もう一人は、紺のセーラー服に身を包んだ、長い黒髪の中学生だ。

 前者は、片脚を高く持ち上げたまま、微動だにしない。

 後者はその背後に身を寄せ、わずかに息を詰めている。

 

 状況を見るに――

 倒れている男たちを地面に転がしたのは、間違いなく前者だろう。

 

 時ヶ谷は、一瞬息を呑んだ。

 どちらも、見覚えのある顔だった。

 二人はまだこちらに気づいていないらしい。

 

「ありがとう、弓箭さん。おかげで助かりました」

「いいえ、佐天さんこそ、お怪我はありませんか?」

「ええ、あたしはなんとも――」

「あれ……らっこ、るいこ!!」

 

 日花璃の声が、その場の空気を一変させる。

 弓箭猟虎と佐天涙子が振り向き、次の瞬間、ほぼ同時に声を上げた。

 

「「日花璃(さん)!!」」

 

 日花璃は小走りに駆け寄り、そのまま二人の胸元へと飛び込む。

 

「おひさしぶり」

「ご無沙汰しております、日花璃さん」

「お久しぶり、日花璃! 元気そうで何より!!」

「ええ。こうしてお元気そうなお姿を拝見できて、安心いたしました」

 

 三人のやり取りを、時ヶ谷凛音は少し離れた位置から、静かに見つめていた。

 やがて弓箭と佐天もその視線に気づき、ふと目が合う。

 時ヶ谷は指先で制服のスカートの裾をつまみ、丁寧に一礼した。

 

「ご機嫌よう。ええと……佐天さんと、弓箭さん、でよろしかったでしょうか?」

「………」

「どうしたの、るいこ?」

 

 佐天は、何とも言えない表情のまま時ヶ谷をじっと見つめていた。

 声をかけるべきか、視線を逸らすべきか――そう考える間にも、言葉は喉の奥で絡まり、結局何一つ形にならない。

 

 無理もなかった。

 以前、弓箭と日花璃と三人で遊園地へ出かけたとき、この女とは文字通りの死闘を繰り広げていた。正直、あまり良い印象を抱いていなかった。

 だが、後から弓箭に聞かされた話だと、病院の屋上で自分が撃たれたとき、傷口を応急処置してくれたのも、彼女だったらしい。

 

 遊園地での騒動も、誤解とすれ違いの積み重ねだったようだ。

 理解はしている、頭では。それでも、今さらどんな顔で、どんな距離で接すればいいのか。佐天の胸中は、どうにも整理のつかない、複雑なままだった。

 そんな彼女とは対照的に、弓箭は気軽な調子で応じた。

 

「ええ、ご無沙汰しております、時ヶ谷さん」

 

 弓箭は、雨束日花璃の幼いころの記憶を――この目で見ている。

 だからこそ、時ヶ谷凛音がどういう人物なのか、今なら少し分かる気がしていた。

 

「……ど、どうも」

 

 佐天は一拍遅れて、ぎこちなく頭を下げた。

 

「久しぶり……です。時ヶ谷、さん」

「はい。改めまして、時ヶ谷凛音と申しますわ。そういえば――きちんと名乗るのは、これが初めてでしたわね」

 

 丁寧すぎるほど落ち着いた口調に、佐天は思わず肩をすくめる。

 

「……そう、ですね。えっと……遅ればせながら、佐天涙子といいます」

 

 どこか噛み合わない空気を察して、日花璃が慌てて二人の間に割って入った。

 

「もう、りんねもるいこも硬すぎ。久しぶりなんだから、もうちょっと肩の力抜こうよ」

 

 その一言に、佐天は小さく息を吐き、視線を泳がせてから、時ヶ谷を見た。

 

「あのさ……前のことは、その……色々あったけど」

「はい」

 

 一瞬の逡巡。

 それから、意を決したように言葉を続ける。

 

「……助けてくれて、ありがとう」

 

 時ヶ谷は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。

 

「どういたしまして。無事でいらしたなら、それで十分ですわ」

 

 時ヶ谷凛音と佐天涙子。性格も価値観も正反対でありながら、ある意味では似たもの同士でもある二人の少女は、再び邂逅した。

 

 

     ◇

 

 

 弓箭と日花璃の取り成しもあって、四人はどうにか打ち解け、しばらく他愛のない世間話を交わしていた。

 ちなみに榊はというと、弓箭に叩きのめされた不良たちを警備員に通報したあと、こちらへ戻ってくるなり、肩をすくめてこう言い残した。

 

「年頃の女子の話し合いに、タバコ臭いオッサンが混ざったら台無しだろ。俺はその辺をぶらついてくる。終わったら呼んでくれ」

 

 そう言って、彼は本当に適当な方向へと姿を消した。

 

「――なるほど。お二人は都市伝説狩りで、第十学区へいらしていたのですね」

 

 時ヶ谷凛音が興味深そうに頷くと、佐天が待ってましたとばかりに身を乗り出した。

 

「ええ!『四時半前後に、とある列車に乗ると、謎の隧道を通って異世界に連れ去られる』って噂で。だから弓箭さんと一緒に、それを探しに来たんです」 

 

 日花璃は目を輝かせて、佐天の話を興味津々に聞いていた。

 

「へぇよく分かんないけど、なんだかワクワクする!」

「……水を差すようで申し訳ありませんが」

 

 時ヶ谷は一拍置き、感情を挟まない声で続ける。

 

「わたくしの知る限り、第十学区に列車は存在しませんわ」

「えっ?」

 

 佐天が素っ頓狂な声を上げる。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。それ、確信あります?」

「ええ。事実ですので」

 

 迷いのない即答だった。

 

「第十学区は治安の関係上、物流も人の流れも最低限に抑えられています。地下鉄も貨物線も通っていませんし、ましてや『時刻指定で乗れる列車』など――」

「そ、そんなぁ……!」

 

 佐天は今にもその場に崩れ落ちそうな勢いで肩を落とす。

 

「まあ、胡散臭いとは思ってましたけどね」

 

 弓箭は苦笑しながら肩をすくめた。

 

「配送業者が、わざわざ遠回りしてまで目的地に向かうくらい物騒な学区だって聞いてますし。仮に列車なんてものがあったら、真っ先に麻薬の密輸とかに使われてそうです」

「うっ……それは確かに……」

 

 佐天は唸るように声を漏らし、腕を組む。

 

「でもさ、だからこそ『都市伝説』になるっていうか……。公式には存在しないけど、裏では動いてる、みたいな」

「まあ、あながちあり得ない話でもありませんわ」

 

 時ヶ谷は否定も肯定もせず、静かに頷く。

 その様子に、佐天はぱっと表情を明るくした。

 

「だったら、まだ調べる価値はありますよね! せっかくここまで来たんですし、何の収穫もなしで帰るのは、さすがにもったいないっていうか」 

 

 そんな彼女の様子を見て、時ヶ谷は小さく息を吐いた。

 

(まったく……無鉄砲で、危険を前にすると余計に前のめりになるところまで、紗綾さんにそっくりですわ)

 

 止めなければ、と思う。

 同時に――止めきれないことも、分かっている。

 

「それでですね。あたしと弓箭さんは、もう少しこの辺を調べてみようと思うんですけど……」

 

 佐天はそう前置きしてから、日花璃と時ヶ谷へ視線を移した。

 

「お二人も、一緒にどうですか?」

 

 不意に向けられた問いかけに、日花璃は一瞬きょとんとし、それからそっと振り返って時ヶ谷の顔を窺った。

 期待と不安が入り混じった、その小さな表情だけで、興味があることは十分すぎるほど伝わってくる。

 

 時ヶ谷は、わずかに目を細めた。

 佐天の誘いは、ただの思いつきではない。

 先ほどまでのぎこちなさを埋めるための、彼女なりの歩み寄り――そんな意図が、何となく伝わってきた。

 

(……この機に、きちんと向き合っておくのも悪くありませんけれど)

 

 少しの沈黙ののち、時ヶ谷は視線を伏せ、やがて顔を上げた。

 

「――お誘いいただき、ありがとうございます」

 

 一度、言葉を選ぶように間を置く。

 

「ですが……今日は、遠慮しておきますわ」

 

 思いがけない返事に、佐天が目を瞬かせる。

 

「え? あ、そ、そうなんですか?」

「ええ」

 

 時ヶ谷は穏やかな微笑みを浮かべたまま、日花璃のほうへと視線を移した。

 

「日花璃さんは、まだ長い外出に慣れていません。今日はここまでにしておいたほうが、彼女のためになります」

「りんね……」

「それに」

 

 視線を戻し、佐天と弓箭をまっすぐに見据える。

 

「第十学区は、想像以上に不測の事態が起こりやすい場所です。面白半分で踏み込むには、少々危険が過ぎますわ」

 

 言葉は穏やかだが、その奥にある真剣さは、はっきりと伝わった。

 

「ですから――今日はここまで」

 

 そう締めくくると、時ヶ谷は小さく一礼する。

 

「また機会がありましたら。そのときは、ぜひご一緒させていただければ」

「そ、そっか……」

 

 佐天は一瞬だけ視線を落とし、靴先で地面を軽く蹴る。

 

「ちょっと残念ですけど……まあ、無理に誘うのも違いますよね」

 

 そう言ってから、慌てたように顔を上げ、ぎこちなく笑った。

 

「でも……また、会えたらいいなって思いますし」

 

 間を埋めるように、言葉を探してから、ぽつりと続ける。

 

「とりあえず――連絡先、交換しませんか?」

「……ええ、喜んで」

 

 そう答えながら、時ヶ谷は胸の奥で小さく息を吐く。

 今日、同じ道を歩くことはできなかった。

 けれど、また会える場所を、ちゃんと残すことはできた。

 それだけで、今は十分だった。

 

「――ねえ、りんね。どうしてお誘い、断ったの?」

 

 弓箭や佐天と別れ、帰路についたあと。

 手をつないだまま、日花璃がふと問いかけた。

 

「りんねも、行きたそうに見えたけど」

「……そう、見えましたか」

 

 足を止めることなく、時ヶ谷は小さく目を伏せる。

 

「ええ。言葉では断ってたけど、目が……ちょっとだけ、残念そうだった」

 

 その指摘に、時ヶ谷は一瞬だけ言葉を失い、やがて自嘲めいた微笑を浮かべた。

 

「さすがですね。隠しきれませんでしたか」

 

 少し間を置いてから、静かに続ける。

 

「正直に言えば……行きたかったですわ」

 

 日花璃が驚いたように目を瞬かせる。

 

「じゃあ、どうして――」

「……わたくしは、まだ『彼女』に向き合う覚悟ができていないからでしょうか」

 

 時ヶ谷は一度、言葉を切った。

 胸の奥に沈めてきたものを、掬い上げるように。

 

「かつて、わたくしの無茶な判断のせいで……紗綾さんは命を落としました」

 

 淡々とした口調の裏で、かすかな震えが滲む。

 

「だからでしょう。佐天さんの中に、あの子の面影を見てしまうたびに……もし、そばにいることを許してしまったら、受け入れてしまったら――」

 

 小さく息を吸い、言葉を絞り出した。

 

「また同じ過ちを繰り返してしまうのではないか。守るつもりで、結局は……傷つけてしまうのではないかと」

 

 しばしの沈黙が落ちる。

 

「それが分かっていましたから。だから今日は――距離を保つことを、選びましたの」

 

 日花璃はしばらく黙ってから、つないだ手に、そっと力を込めた。

 逃がさないというより、そこにいることを確かめるように。

 

「……やっぱり優しいね、りんね」

「優しいだなんて。わたくしは、ただの臆病者ですわ」

「それでも」

 

 日花璃は一歩だけ距離を詰め、顔を見上げる。

 無理に答えを求めるのでもなく、ただ気持ちを置くように。

 

「心の整理がついたら……るいこと、もう一度、ちゃんと会ってみる?」

 

 問いかけは軽く、それでいて急かさない。

 

 「今すぐじゃなくていい」という余白を、きちんと残した声音だった。

 

 時ヶ谷は答えず、空いた手でスマートフォンを取り出す。

 画面に映るのは、先ほど交換したばかりの連絡先。

 佐天涙子。

 短い名前の列を、しばらくのあいだ指先でなぞる。

 胸の奥で、かすかな痛みと、それ以上に小さな温もりが同時に芽生えた。

 

「……そうしよう、かしら」

 

 呟きはほとんど独り言のようだったが、

 日花璃はそれでも、そっと笑った。

 つないだ手は、いつの間にか、少しだけ強く握り返されていた。

 

 ――そのときだった。

 軽やかな通知音が鳴り、時ヶ谷のスマートフォンが小さく震える。

 画面に表示された名前を見て、彼女はわずかに目を細めた。

 警策看取。

 メッセージの内容は次の通り。

 

 『第十学区、とーちゃく』

 

 直後、写真が一枚添付される。

 写っていたのは、佐天と弓箭、そして――自分と日花璃。

 どうやら、先ほどまで立っていた場所を、少し離れた位置から撮影したものらしい。

 

『ナニアレ。めっちゃ仲良しじゃん』

 

 あからさまに面白がった文面に、時ヶ谷は小さく肩をすくめる。

 指先を滑らせ、淡々と返信した。

 

『ストーカーの真似事は感心いたしませんわ、警策さん』

 

 送信して、ほとんど間を置かずに既読がつく。

 

『え〜、それ言い方ひどくない?「念のため、あの子ガードお願い~」って頼まれたから、私的には真面目に仕事してただけなんだケド〜』

 

 思わず、時ヶ谷はふっと息を漏らした。

 その通りである。

 佐天がSNSに投稿した、例の内容。

 それに寄せられていた、あの脅迫リプも、彼女はすでに目にしていた。

 ゆえに、数少ない信頼できる友人である警策に警護を依頼した。

 

『アンタってさ〜、ほんと素直じゃないよね。あそこまであの子のコト心配してるなら、誘い断らずにくっついてればよかったのに〜』

『……それで、本題は何ですの? まさか、わたくしをからかうためだけに連絡してきたわけではありませんわよね』

『ちがうちがう。私もこれでも結構忙しいんだから〜』

 

 ほとんど間を置かず、次のメッセージが届く。

 その文面に、時ヶ谷の視線がふっと鋭くなる。

 

『店長から伝言。例の男、足取りつかめたってさ』

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