「ここ……でもなさそうですね」
佐天涙子は第七学区にある、苔むした旧校舎らしき建物を見上げながら呟いた。
廃墟と化したその建物は、かつての賑わいを感じさえないほど静まり返り、窓ガラスのほとんどがひび割れ、蜘蛛の巣が無造作に張り巡らされている。かすかな風が木々を揺らし、足元に枯れ葉を集めていた。
「そりゃそうかー。つき合わせてすみません」
「い、いえ、お気になさらず」
と答えたのは、隣に立っている弓箭猟虎だった。彼女の声はどこかぎこちなく、まだ慣れない相手との距離感を測るようだった、
(……これで3件目でしょうか)
弓箭は内心で数えながら、ふとため息をつきそうになるのをこらえた。
ファミレスで軽くお昼を済ませた後、親睦を深めようと「何かしないか」と考えた末、結局二人で都市伝説探しをすることになったのだった。思いつきの割には妙に張り切る佐天の姿を見ていると、弓箭は断るに断れなかった。
何しろ初めてできた『友人』のお誘いを、ずっと独りぼっちだった弓箭が断れるはずもなかった。
『幻の能力』の目撃談の多い場所が4件ヒットしたが、二人で手分けするのではなく、1件ずつ一緒に調べることにした。
1件目は廃工場。空振り。
2件目は地下駐車場。やはり空振り。
そして、3件目がこの旧校舎である。
「ま、ネットの情報って所詮こんなもんですよね」
佐天は肩をすくめながら、気軽な口調で言った。どこおか呆れたような笑顔を浮かべているが、その視線は旧校舎の奥をじっと見つめている。
「ま、まだ1件残ってるじゃないですか。諦めるのはまだ早いですよ」
弓箭は慌てて応じたものの、自分でも半ば勢いで言った言葉に少し自信がなかった。残る1件に希望があるかは分からない。それでも、ここで終わりにしたら、彼女の期待を裏切るような気がしてならなかった。
「よーし!じゃあ次、行ってみますか!」
佐天は軽く拳を握り、再び張り切った様子を見せる。弓箭はその元気さに少し救われたような気がした。
(やっぱりこの人、すごいですね)
弓箭は佐天の背中を見つめながらそう思った。これまで何度も期待を裏切られたにもかかわらず、彼女は笑顔を崩さない。単なる強がりではなく、どこか本当に楽しんでいるように見える。
「最後の場所ってどこなんですか?」
弓箭が尋ねると、佐天はポケットからスマホを取り出した。そこには簡単な地図とともに、次の目的地が表示されている。
「えっと、第七学区の外れにある……廃研究施設ですね。ふーむ……、あたしの都市伝説ハンターのセンサーに反応が!そこには何かがある、と」
佐天は得意げな笑みを浮かべ、胸を張った。
「なんですかその、としでんせつハンターのセンサーって?」
「えへへ、まあいいじゃないですか!さぁ、さっそく行きましょう」
佐天は手をひらひらと振りながら先に歩き出す。弓箭はその背中を追いかける形で続いたが、内心にわずかな疑念がよぎる。
(気のせい、でしょうか。その施設、確か昔は『
『
施設内では様々な実験が行われていたが、弓箭が所属していたのは『
だが、その中で最も印象的だったのは……。
(『
歩きながら、弓箭は幼い記憶を探る。その禁忌については、主立って語られることはなかった。ただし、断片的な情報だけは耳にしたことがある。
曰く、それを手に入れた者は、学園都市の能力開発に革命をもたらす。
曰く、それを正しく使える者は、現存する超能力者の順位を覆す。
曰く、それが解き放たれた時――学園都市そのものが揺らぐ、と。
ふと、弓箭は前を歩く佐天の背中を見た。彼女は足元の枯れ葉を踏みしめながら、まるで探検でもしているように意気揚々としている。そんな佐天に、不安を伝えるべきか否か、迷いが生じた。
(……余計な心配、ですよね。何も起こらない方がいいんですから)
そう自分に言い聞かせ、弓箭は佐天の後を黙って追い続けた。
◇
「一体なにが……」
4件目にたどり着いた時、佐天は驚きを隠せなかった。
廃研究施設と思しき建物は、ほぼ完全に崩壊していた。ひび割れたコンクリートや折れ曲がった鉄骨があちこちに散らばり、地面には破壊の跡がいくつも残っている。施設の入口付近には『立入禁止』の黄色いテープが張り巡らされ、十数人の警備員が厳重に目を光らせていた。
「地震でもあったんでしょうか…?」
佐天は軽い冗談を交えながら呟いたが、その声はどこか引きつっていた。
「……地震、ではないですね」
隣に立つ弓箭の表情も険しいものだった。崩壊した建物をじっと見つめる彼女の目は、何かを見通そうとするかのように細められている。
(この感じ……誰かが戦った跡でしょうか?でも、こんな短時間で?)
胸の奥に奇妙な感覚が広がっていく。まるで、かつて『
「どうします?近くまで行ってみますか?」
「いえ、やめておきましょう。今は深入りしない方がよさそうです」
弓箭の言葉に、佐天は珍しく頷いた。冗談交じりの言葉も、彼女の直感的な判断力も、今は封じ込められているように見える。
二人はその場を離れる決断をしたが、背後に残る崩壊した研究施設が彼女たちの心に奇妙な余韻を残していた。
その時、一台の黒塗りの車が警備エリアに滑り込むように停まった。
佐天と弓箭は無意識のうちにそちらを見つめる。車のドアが開き、中から降りてきたのは一人の女性
「黄泉川先生……!?」
驚きの声を上げる佐天に、その女性――黄泉川愛穂が振り返る。
一方、その姿に弓箭はわずかに眉をひそめる。
(この人、ただの
「なんだ、佐天じゃん。お前がこんなところにいるとはな」
黄泉川は目元を少し緩めながらも、すぐに表情を引き締める。そして、目の端で弓箭を一瞥すると、短くため息をついた。
「ここは子供が来るようなところじゃないじゃんよ。さっさと帰りな」
「黄泉川先生。この施設、何が起きたんですか?」
佐天の問いに黄泉川は眉間に皺を寄せたが、何かを決めたように少しだけ口を開いた。
「詳しくは知らないが、地震や建物の老朽化の線は薄そうじゃんよ」
黄泉川は軽く肩をすくめながら、ちらりと警備区域の奥を見やった。
「どうやら、中でちょっとしたトラブルがあったみたいじゃん。幸い、死傷者は見つかっていないじゃんよ」
「それはよかったです…」
佐天は胸を撫で下ろすように安堵な表情を浮かべたが、その横で弓箭は視線を下げたまま微かに眉をひそめた。
(この隠蔽の手際の良さ、暗部関連の可能性が濃厚ですね)
弓箭は自らの経験を頼りに、その推測を補強していく。学園都市の暗部に属していた者なら、この手の隠蔽工作がいかに迅速かつ徹底して行われるかを嫌というほど知っている。
地震や建物の老朽化では説明がつかない。これほど大規模な破壊が行われたにもかかわらず、死傷者が一人も出ていないという状況からして、テロ行為の線も薄い。
ならば、結論は一つだ。
(暗部の高位能力者同士が――この施設内で戦闘を行った、と考えるのが最も妥当でしょうね)
◇
「結局、幻の能力が何だったか分かりませんでしたね……そりゃそうか〜……」
帰り道、佐天は肩を落とし、小さくため息をついた。その横顔には、ほんのり悔しさがにじんでいる。
「そんなに落ち込まないでください、佐天さん」
弓箭が穏やかに声をかける。その声はどこか安心感を与える響きを持っていた。
「こういうのは、すぐに答えが出るとは限らないんです。むしろ、一歩進めただけでも十分成果じゃないでしょうか?」
「……そうですかね?」
「ええ。次の手掛かりを探していけば、いずれ謎は解けるはずです。急がず、焦らず。そんなに難しく考えなくてもいいと思います」
弓箭の言葉に、佐天は少しだけ顔を上げた。その表情には、わずかに笑みが戻っている。
「そっか。じゃあ、また次の場所で頑張ればいいですよね!」
「はい。佐天さんには、その前向きさが一番の武器、だと思いますから」
「へへっ、それって褒めてます?」
軽口を叩き合う二人の間に、柔らかな空気が流れた。夕暮れの風がそっと二人を包み込み、どこか穏やかな時間が流れていく。
その空気は不意に裂けた。
「あれ、猟虎ちゃん!?」
背後から響いた聞き覚えのある声に、弓箭は一瞬ぎょっとして足を止めた。
(この声……まさか)
確認するように振り返ると、そこには二人の女子中学生が立っていた。
一人は、長い銀髪を縦ロールにした、年齢に似つかわしくない中学生離れしたプロポーションが印象的な少女。
佐天はその人物に見覚えがあった。
「あっ、帆風さん!」
「あら、佐天さん。ご無沙汰しております」
帆風は穏やかな笑顔を浮かべ、礼儀正しく挨拶を交わす。
「どもどもー。その節はあたしの都市伝説トークにつきあってもらいましてありがとうございます!で、そちらの方は…」
もう一人は、こちらも帆風と同じく常盤台中学の制服を着用したいかにもお嬢様然としていて、赤茶色の長めの前髪で右目を隠した少女。なんだか落ち着かなさそうにそわそわしているように見える。
「ええ、こちらは…」
帆風が紹介を始める前に、弓箭猟虎がかぼそく呟いた。
「入鹿ちゃん……それに帆風、さん…」
「えっ」
佐天は驚いて目を丸くする。
「弓箭さんも帆風さんと知り合いだったんですか?それに…」
(この人がさっき弓箭さんが言っていた……?)
帆風は改めて茶髪の少女の紹介を始めた。
「こちらは弓箭入鹿さん。わたくしの同級生で、そちらの弓箭猟虎さんの妹さんです。本日はこの辺りのお店でゲコ太キャンペーンをやっているとのことで、入鹿さんと一緒に行って参った次第です」
帆風はそのお店のキャンペーンでもらったであろうカエルのマスコットを佐天に見せる。
(御坂さんは学校サボってでもゲットしてそうだな…)
佐天は友人である超能力者のことを思い出して少し苦笑した。
(そうか、弓箭入鹿さん…。弓箭さんの妹…。弓箭さんによるとこの人と過去に何かあったみたいだけど…)
「その、猟虎さん…、も随分とお久しぶりですね…。あぅ…そんなに睨まないでいただきたいのですが…わたくし、何かしてしまいましたでしょうか…?」
「……」
複雑な表情で向き合う帆風と弓箭猟虎。佐天はただその様子を見守るしかなかった。
弓箭猟虎は佐天の腕を掴んでその背中に隠れてしまう。
「ちょっ、弓箭さん、一体何があったんです?」
「……、やっぱり入鹿ちゃんはわたくしなんかより帆風さんの方が…」
絞り出すような言葉に、入鹿は顔を青ざめた。
「いえ、そんなつもりじゃ…」
「じゃあどうしてあの時わたくしを見捨てて…!」
「え……?」
入鹿は言葉を探しながら俯く。何か説明したいことがある様子だが、それが声に出せないもどかしさが漂う。
険しくなった空気を察した佐天が、慌てて場を和ませようと間に入る。
「まあまあ何かすれ違いがあるみたいですし、どこかで落ち着いて話しませんか?例えばさ…」
佐天は周囲を見回し、視線がふとカラオケ店の看板に留まる。
「あっ、そうだ!友達と遊びに行くと言ったら定番のカラオケとかどうです?弓箭さんのヴァイオリンも聴いてみたいな~」
というわけで、佐天の(半ば強引な)提案により四人は急遽カラオケへ。
◇
10月の冷たい夜風が頬を撫でる。
カラオケを終え、帆風潤子と弓箭入鹿と別れた二人は、夜道を歩いていた。街灯が並ぶ道には、わずかに湿った秋の風が吹き抜ける。
「カラオケ、楽しかったですね」
「そうですね」
「弓箭さんのヴァイオリンを聴けましたし、あたし、感動しましたよ」
街灯の淡い光に照らされた道には湿り気が漂い、遠くで車の音が響いている。
「そう言ってもらえると……少し照れますね」
「もっと自信持ってくださいよ。次はもっとリズム系の曲とか挑戦しましょうよ!」
そんな佐天の言葉に弓箭はわずかに微笑んだが、次の瞬間、ポツリと頬の冷たい感触が落ちた。
「えっ……雨!?」
佐天が顔を上げると、空からぽつぽつと雨粒が舞い降りてくる。
「降り始めましたね」
「傘持ってないですけど! うわー、どうしよう」
「とりあえずどこか近い場所で雨宿りしましょう」
二人は足早に近くの路地へと駆け込んだ。細い道に入り、建物の軒先で雨宿りする。
「前回雨が降ったのは確か…、9月の終り頃でしたっけ?半月ぶりの雨ですね」
佐天が肩をすぼめながら尋ねる。
「9月30日でしたね。まあ、天気って気まぐれなものですから」
弓箭は落ち着いた口調で答えた。
その時、ふと弓箭が路地の奥に目を向けた。
「……あちら、何か変じゃありませんか?」
「へん?」
佐天も弓箭の指差す方を見る。暗い路地の奥に、人影のようなものが見えた。
「誰か……いる?」
二人はゆっくりとその影へと歩み寄った。歩を進める度に、足元が水たまりにかすかに響く音を立てる。
近づくと、それはやや薄汚れたタオルケットを身に纏った少女だった。
歳はおそらく十歳前後といったところか。髪は絹糸のように艶やかで、今にも引き千切れそうにしおれたまま、頬にぺたりと張り付いている。透き通るように白い肌が青白く、肩がわずかに震えているのが見て取れる。
彼女は壁に寄りかかるようにして、ひとり座り込んでいた。
「大丈夫?」
「……」
佐天が優しい言葉で問いかけるが、少女は反応せず、ただぼんやりと虚空をみつめているだけだった。その眼差しには、まるで何も感じていないかのような無表情が浮かんでいる。
「家はどこか分かる?」
「……」
「お名前は?」
「……」
無言の時間が続く中、佐天の表情に心配の色が浮かび上がる。
「このままじゃ風邪引いちゃいますし、
「それが一番無難ですね」
弓箭も冷静に頷く。
だが、その言葉が届いたかのように、少女はびくっと肩を震わせ、二人から少し距離を取る。
「えっ、どうしたんですか?」
佐天は驚いた顔で少女を見つめるが、少女は言葉を飲み込み、ただかぶりを振るだけだった。その仕草からは、深い不安と恐れがにじみ出ている。
弓箭はその光景を静かに観察しながら、心の中でつぶやいた。
(『
「
「そう、ですか……」
佐天は少し躊躇いながら、少女を見つめる。迷いの表情を浮かべた後、意を決したように、少女の手を取った。
「でも、放っておくわけにもいかないでしょ!」
いきなりの接触に、少女は少しぎょっとしたように見えたが、すぐに手を引かれることなく、そのまま佐天に導かれるように歩き始めた。最初はわずかな抵抗を感じたように見えたが、佐天の手の温もりが、どこか安心感を与えてくれていたのか、少しずつ、彼女の表情は柔らかくなっていく。
「ご安心ください。
「いや、それは大丈夫じゃな…」
弓箭はどこか呆れたように言いかけたが、途中で言葉を飲み込む。
(えっ、これってご友人のお宅に訪れるチャンスなのでは!?)
「こほんっ…、良いではありませんか。佐天さんの家なら安心ですし、この子もきっと落ち着けるでしょうし…何より、わたくしもお礼を兼ねてご一緒することに意味があるかと存じます」
湧き上がる興奮を抑え込むよう咳払いし、できるだけ自然な表情を浮かべて言う。
「弓箭さんも?まあ、構いませんけど」
「ほ、ほんとですか!?」
思わず声を上げた弓箭に、佐天は怪訝な表情を向ける。
「いきなりどうしたんですか?」
「い、いえ、何でもないです…。そんなことより、まずはこの雨をどう切り抜けるかですね」
弓箭は誤魔化すように話題を変えたが、佐天は特に気にした素振りもなく、うんうんと頷いていた。
しばらく辺りを見回すと、佐天が声を上げた。
「あっ、そこにコンビニがありますね」
「では、わたくしが買いに行きますので、その間ヴァイオリンを預かってよろしいでしょうか?」
「いいですよ」
弓箭はヴァイオリンケースを佐天に預け、コンビニへ向かって歩き出した。
数分後、弓箭が戻ってくると、手には一本のビニール傘を持っている。
「お待たせしました」
「あれ、一本しかないんですか?」
佐天は少し驚き、目を丸くする。
「残念ですが、どうやら売り切れだったようですね」
弓箭は軽く首を振りながら答える。
佐天は「そっかー」とため息をつく。
(ふふ、これで自然な形で相合傘が……)
弓箭は心の中で勝利の笑みを浮かべつつも、外面では困惑した表情を演じる。
「二人ならまだしも、三人はちょっと厳しいんじゃ……?」
佐天は少し困ったように眉をひそめた。
「一人が支え、もう一人がこの子を背中に乗せれば……なんとかなるのではありませんか?」
「あっ、その手があったか!」
佐天がぱっと明るい表情になり、手を打って喜んだ。
「よし、決まりですね!」
弓箭は思わず口元を緩め、佐天の勢いに乗せられるように頷いた。
佐天は軽く背を屈めて腰を下ろし、そっと肩に抱きかかえるように少女を乗せた。少女は少し戸惑いながらも、その背中にしがみつく。
「大丈夫、よいしょっと……」
佐天はそう言いながら、少女を背負う姿勢を整えると、ふっと安堵の息をついた。
弓箭はビニール傘を片手に持ち、二人の上に広げた。それから、ゆっくりと佐天の方に差し出す。
「それでは、行きましょうか?」
「うん」
佐天が頷くと、弓箭はそのまま傘を持って佐天と少女の上にしっかりとさし続けた。
二人は歩き始め、子供とはいえ少し重たく感じる少女を背負いながらも、佐天の表情を穏やかだった。弓箭もその側で、傘をしっかりと支える役目を果たす。
こうして、相合傘ならぬ三人傘が、佐天の学生寮にたどり着くまで続いた。
寮の部屋に到着すると、佐天が鍵でドアを開け、二人を中に招き入れた。
「どうぞ、狭いけどくつろいでくださいね」
佐天の言葉に、弓箭は一歩足を踏み入れた瞬間から、目をキラキラと輝かせて部屋を見回した。
「お、お邪魔します……」
声のトーンは控えめに装っているものの、その表情は明らかにワクワク感を隠しきれていない。
(わたくしが、佐天さんのプライベートスペースに……! 何という特別な体験なのでしょう!)
心の中では歓喜の舞を踊りそうな勢いだが、できるだけ冷静を装う。
「うん?弓箭さん、なんか顔引きつってません?」
佐天が怪訝な顔で尋ねると、弓箭は慌てて咳払いし、お嬢様らしい優雅な微笑みを浮かべた。
「い、いえ。ご立派なお宅だなと思いまして」
「そうか?結構普通の学生寮ですけど…お嬢様にとっては新鮮でしたかね」
「そうですね、えへへ」
(落ち着きなさい、弓箭猟虎。初訪問で動揺するなど、淑女にあるまじき振る舞いです!)
必死に心を静めながら、弓箭は佐天の案内で謎の少女と共に部屋へと足を踏み入れた。
「じゃあ、私がこの子のシャワーを手伝うから、弓箭さんはその間にキッチンにあるものでお湯を沸かしてもらえます?」
「えっ、勝手に使っていいですか?」
「まあ二人で手分けした方がが効率がいいかと思いまして。弓箭さんが嫌なら別にくつろいでもらって構いませんが」
「そ、そんなことありません!喜んでやらせていただきます」
弓箭は背筋を伸ばし、堂々とキッチンへ向かった。その後ろ姿を見送りながら、佐天は浴室へと少女を連れて行った。
あっという間にシャワーを浴びせた後、佐天は遅れて一つの事実を思い出す。
(着替えはどうしよう?)
少女が身にまとっていたタオルケットは、どこで拾ったのか分からないが、さすがにそのままでは可哀そうだった。
「ちゃんとした服、着たほうがいいよね」
佐天はそう言いながら、タンスから子供時代のお下がりの服を探し出し、少女に着せた。幸いなことに、少女が割と細身だったのでサイズはピッタリ合った。
「ほら、髪もちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
ドライヤーで優しく少女の髪を乾かす。ドライヤーの熱風が静かに部屋を包み込み、少女は心地よさに少しだけ瞼を落とした。
そのタイミングで、ちょうど戻ってきた弓箭は温かい飲み物を差し出した。
「おまたせしました。どうぞ、子供ならココアがお好きかと思いまして」
いかにも上品な仕草でカップを差し出す弓箭を見て、佐天は思わず微笑みを浮かべた。
(この人、やっぱお嬢様なんだよね)
少女は少し戸惑いながらも素直にココアを受け取った。カップの温かさが手のひらにじんわりと伝わる。
「熱いから、ゆっくり息を吹きながら飲んでね」
「………」
佐天の優しい声に、少女は一瞬だけ佐天の顔を見上げた。そして、言われた通りそっと息を吹きかける。白い湯気がふんわりと漂い、部屋に甘い香りが広がった。少女は慎重にカップを傾け、ココアに口をつける。ほんの一口飲むと、瞳が少しだけ柔らかく揺れた。
「……あったかい」
ぽつりと漏れたその声に、佐天の表情もほころぶ。
「おいしい?」
佐天が尋ねると、少女はこくんと小さく頷いた。
「よかった。弓箭さん、グッジョブです」
「お褒めいただき恐縮です」
弓箭は少し照れたように言いながらも、どこか満足げに微笑んだ。
静かな部屋にココアの香りが広がり、束の間の穏やかな時間が流れていった。
「あっ、そうだ」
佐天が何かを思い出したように口を開く。
「よかったら、ちょっと質問をしてもいい?もちろん、答えたくなかったら無理は言わないけど」
少女は少し躊躇った後、こくりと頷いた。
「あなたはどこから来た?なんであんな薄暗い路地に隠れてたの」
少女は俯き、小さな声で答えた。
「……わからない」
「えっ?」
思わず聞き返す佐天に、少女は眉をひそめた。記憶を辿るように考え込みながら、ぽつぽつと言葉をつなぐ。
「目が覚めたら、知らない場所にいて……目の前に、知らない人たちがいたの」
「知らない人?」
「うん。男の人が三人、縛られていて……女の人が二人……、戦ってた。喧嘩でもしたのかな」
佐天と弓箭は顔を見合わせる。少女の話はただの喧嘩では済まない雰囲気を漂わせていた。
「それでどうなったの?」
「……その後どうなったか、自分でもよく覚えてないの。ただ気が付いたら、いつの間にか外に逃げ出して……狭い路地の中に入っていたの」
少女の声はだんだん小さくなり、佐天はそっと彼女の手を握った。
「そっか……怖かったね。でももう大丈夫だから」
優しい佐天の言葉に、少女は微かに肩の力を抜いた。その様子を見守っていた弓箭は、少々考えを巡らせる。
(この子の言うことが本当でしたら、彼女は自力であの路地にたどり着いたことになりますね――子供の足で。結構近い場所だったでしょうか?)
弓箭は慎重に口を開いた。
「その『知らない場所』って、どのような場所か覚えていらっしゃいますか?」
少女は首を傾げながら記憶を手繰り寄せる。
「うーん、なんか……精密機器がいっぱい置いてあった気がする」
「精密機器、ですか?」
「うん。それに、自分は銀色っぽい装置に眠らされていた、と思う。自分が何者なのか、どうしてあそこにいたのか、何にも覚えてないの」
「なるほど…、何らかの要因で記憶を失ったかもしれませんね」
(科学的な施設を思わせる描写、戦っていた女たち……まさか)
弓箭の脳裏には、真っ先に佐天と共に目撃した廃施設の跡地が浮かんだ。
今まで得た情報がクモの糸が絡み合うように、徐々に一本の線で繋がり始める。
(情報をまとめてみますと、この子はあの廃施設に閉じ込められ、そこで何者かが彼女をめぐって争っていました。……あの施設に関わっていたとなれば、もしかしてこの子も『
しばらく弓箭が考えにふけっていると、佐天が訝しげに彼女を見つめた。
「なんか難しい顔をしてますけど、何かありましたか」
「あっ、いえ、何でもないです」
弓箭は慌てて普段通りの笑顔を浮かべ、佐天に視線を戻した。
「そうだ、そういや自己紹介はまだでしたね」
佐天は少女を見つめ、少し躊躇いながらも言葉を続けた。
「あたしは佐天涙子、こちらは友達の弓箭猟虎さん」
「るいこ……、らっこ……?」
少女が反芻するように、二人の名前をつぶやく。
「でも、そっかー。あなたは自分の名前を憶えてないんだね。何もかもがまだ混乱してるんだろうけど……」
佐天は少し申し訳なさそうに肩をすくめると、すぐに思いついたように顔を明るくした。
「じゃあ、とりあえず仮の名前でも付けてみませんか?」
「と、おっしゃいますと?」
「ほら、あたしは『るいこ』、弓箭さんは『らっこ』ですから、その真ん中をとって『リコ』ってどうでしょう?」
佐天が軽く微笑むと、少女は静かにその名前を口の中で繰り返した。
「………リコ?」
小さな声でその名をつぶやき、しばらく黙って考えているようだった。
「リコ……」
再度、呟くその声には少し戸惑いが混じっていたが、どこか懐かしさを感じさせる響きでもあった。
弓箭はその様子を見守りながら、少し呆れた顔をしつつも、口元に小さな笑みを浮かべる。
「発想が適当過ぎませんか?……でも、悪くないお名前ですね」
弓箭の言葉に、佐天はにっこりと笑う。
「よし、決まり!今日からよろしくね、リコ」
佐天がそう言いながら手を差し出すと、少女はその手を見つめ、少し驚いたように目を見開いた。
しばらく無言でその場に立ち尽くしていたが、やがて少女――リコは目をうるませ、静かに、まるで何かを確かめるかのように小さく頷いた。
その表情には、名前を与えられることで得たわずかな安心感と、長い時の中で忘れかけていた何かが再び息を吹き返したような感覚が浮かんでいた。それはまるで、停滞していた時間の流れが、再び静かに動き出したかのようだった。