「――結局、何も見つけられませんでしたね」
日が傾き、街に夕闇が滲みはじめる中で、佐天涙子は小さく息を吐いた。
「まあ……こんなものでしょう」
その隣を、弓箭猟虎が並んで歩いている。
「都市伝説狩りって、当たるときは一瞬なんですけどねえ。
外れると、こうやって足だけ疲れて終わるっていうか」
「経験談ですか?」
「はい。しかも大体、危ない目に遭った分だけ損した気分になるんですよ」
佐天は苦笑しながら肩をすくめた。
第十学区に詳しそうな人物を求め、二人は「ストレンジ」と呼ばれるスラム街にも足を運んだ。
だが、得られたのは噂話にもならない曖昧な情報ばかりで、確かな手がかりはひとつもない。
それどころか、聞き込みどころではなかった。
何度もチンピラに目をつけられ、下手をすれば襲われかねない場面さえあった。
二人の都市伝説狩りは、今回も成果なしのまま終わったのだった。
「……でも」
佐天は少しだけ間を置いて、顔を上げる。
「久しぶりに弓箭さんと出かけられて、楽しかったです。おかげで、ちょっと気分が晴れました」
「そう言っていただけるなら、来た甲斐はありましたね」
「はい。あの件があってから、正直ずっと気が張ってたんで」
そう言って、佐天はいつもの調子で笑ってみせた。
あの脅迫めいたリプライのことを、ほんのひとときでも忘れられた――そんな笑顔だった。
「……無理は、なさらないでください」
「だいじょーぶですって。ほら、あたし意外と打たれ強いですし」
「それは……信じたいところですが」
弓箭は穏やかに頷きながら、胸の内で小さく息をつく。
(久々の『デート』が、あんな物騒な場所になるのは……少し、気がかりですが)
その思いは口に出さず、ただ隣を歩く少女の横顔を、そっと確かめるように見つめていた。
その時だった。
向かい側から、二人の小学生が並んで歩いてくる。
片方は、ふわふわとした金髪に、色の白い肌、硝子細工のように透き通った青い瞳を持つ少女だった。人形と見紛うほど整った容貌に、赤いランドセル。
その側面には、白いカブトムシのキーホルダーがぶら下がっている。
もう一人は、眼鏡をかけた、いかにも利発そうな少女。
背筋をぴんと伸ばし、歩き方ひとつ取っても年齢以上に落ち着いて見えた。
「にゃあ、大体――」
金髪の少女が、間延びした声を上げる。
「どうしてカブトムシって、オスのほうが人気あるの? ツノがあるだけで、そんなにエラいのかなあ」
「それはだね」
眼鏡の少女は即座に反応し、得意げに人差し指を立てた。
「主に観賞用・対戦用としての価値が評価されているから。生態的にはメスのほうが重要なのに、人間の価値観は見た目重視なんだよ」
「むー。人間って、ヘンだよねえ」
「本当にそれな。蝶と蛾は見た目も生態も似ているのに、蝶は好かれて、蛾は嫌われる。クモだって、悪い虫を食べてくれるのに、こわいって言われちゃう」
「……それも、ヘンだにゃあ」
金髪の少女はそう呟き、ランドセルに揺れる白いカブトムシのキーホルダーを、指先で軽くつついた。
そんな子供らしい(?)他愛ない会話を続けながら、二人は弓箭と佐天のすぐ脇を、何事もない様子ですれ違っていく。
――その瞬間。
心なしか、白いカブトムシのキーホルダーが、二人とすれ違う刹那に、ほんのわずか動いたような気がした。
◇
「じゃあ……ここからは、一人で歩いて帰りますね」
学生寮から少し離れたところで、佐天はそう言って足を止め、振り返った。
「……本当に、よろしいのですか」
弓箭はすぐには頷かなかった。
一拍置いてから、少し心配そうな声で続ける。
「この時間帯は、人通りも減っています。先ほどのことを考えても、寮まで同行したほうが――」
「いえいえ、そこまでしてもらうわけにはいきませんって」
佐天は慌てた様子で両手を振った。
「今日だけでも、十分すぎるくらいですから」
そう言ってから、少しだけ調子を崩すように笑う。
「それに、弓箭さんこそ大丈夫なんですか?お嬢学校って校則、めちゃくちゃ厳しいって聞きますし。門限、破ったらまずいでしょ」
「……確かに少々面倒ですね」
「でしょ?だから今日は、ここで解散ってことで」
「……分かりました」
不承不承といった様子で、弓箭は一歩だけ下がり、丁寧に一礼する。
「本日は、お疲れ様でした。無事に帰り着いたら……一言、連絡をください」
「はい。ちゃんと帰ったら、すぐ送ります」
佐天はそう答えて、軽く手を振った。
弓箭もまた、控えめに手を上げて応える。
互いにそれ以上は踏み込まないまま、けれど相手の背中を気にかけながら、二人はそれぞれの帰路へと歩き出した。
歩きながら、弓箭は制服のスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点灯させた。
表示されたのは、一枚の画像。
今朝、佐天から送られてきた、例の自撮り写真だった。
指先で拡大すると、写真の隅に、二人の男の姿が浮かび上がる。
白衣を羽織った、どこにでもいそうな冴えない中年男の横顔。
その向かい側には、サングラスをかけ、緑色のジャケットを着た青年。
弓箭の視線が自然と留まったのは、前者だった。
(……この男)
画素が荒く、顔立ちまでははっきりしない。
それでも、胸の奥に引っかかるものがあった。
(やはり、どこかで見たような気がしますね)
確かな記憶には辿り着けない。
いつ、どこで、どういう場面だったのか――思い出そうとすると、輪郭だけがぼやけていく。
ただ、「知っている」という感覚だけが、妙に生々しく残っていた。
写真を見つめながら、弓箭は静かに思考を巡らせる。
(まず、二人の位置関係と距離。向かい合い、距離は近すぎず遠すぎず……少なくとも偶然立ち話をしているようには見えません)
指先で縮小表示させ、周りの背景に目を凝らす。
(場所は心霊スポット。一目につきにくく、一般人が長居する理由もない。となれば、わざわざここを選んだ意図があると考えるのが自然ですね)
結論は、ほとんど迷う余地がなかった。
(何らかの取引――しかも、表沙汰にできない類のもの)
薬物か、違法な機材か、それとも情報。
中身までは断定できないが、「ロクでもない」ということだけは揺るがない。
(そして、その場面が偶然にも佐天さんの自撮りに映り込んでしまった……)
それが問題だった。
当事者たちにとっては、無関係な第三者に『記録』を残されたことになる。
しかも、顔の一部が判別できる形で。
(彼女が脅迫リプを受けたのも……無関係とは思えませんね)
仮説は、一本の線として繋がり始めていた。
その時だった。
スマートフォンの画面に視線を落とし、考え事を巡らせながら歩いていた弓箭は、思わず誰かにぶつかってしまった。
「あっ、すみません!」
慌てて顔を上げると、ぶつかった相手は特に目立つところのない少年だった。服装もごく普通で、特筆すべき特徴はない。
「いえ、大丈夫です」
少年は平坦な声でそう言うと、何事もなかったかのように弓箭をすり抜け、淡々と歩き去っていった。
弓箭はすぐに目を凝らし、背中に過ぎ去る少年を細かく観察する。歩幅の安定感、肩の張り方、呼吸のリズム、そしてわずかに漂う体臭――
訓練で鍛えられた感覚が、少年の立ち居振る舞いに『何か』を感じ取った。
(――この男、普通じゃありません……)
歩き方や息づかい、かすかに混じる独特の匂い。暗部特有の経験者が発する微かな残響を、弓箭の感覚は逃さなかった。
やがて、男が歩いている方向が――先ほど佐天が進んだ方向だと気づいた。
(まさか……!?)
脳裏に恐ろしい予感が走る。呼吸が浅くなる。体が勝手に反応し、足が地面を蹴る。
弓箭は我に返る間もなく走り出した。舗道を蹴る足音が自分の鼓動に重なり、風を切る音が耳を震わせる。やがて視界の奥に、佐天の後ろ姿が見えた。まだ距離はあるが、時間は一瞬たりとも無駄にできない。
そのすぐ後ろ、例の少年の姿も視界に捉えた。片手をポケットに滑り込ませ、確実に何かを取り出している。
「佐天さん‼」
思わず声が震え、絶叫に近い呼びかけになる。
佐天が振り返ったその瞬間――
「あっ、弓箭さ――」
その言葉は不意に途切れた。
同時に、少年の手がポケットからスタンガンを取り出す。チッ――という小さな音と共に、佐天の体が硬直したまま少年の懐に崩れ落ちる。
直後、道路脇に停まっていた黒いバンのドアが勢いよく開き、少年は熟練の手つきで佐天を車内へ押し込む。体が車内に収まるや否や、エンジンが唸りを上げ、バンはギュンッ、と闇に溶けるように走り去った。
「ハァ……ハァ……」
両手で膝を支え、息を整えようとする弓箭。しかし、胸の高鳴りは収まらず、視界の端に残るバンの尾灯が揺れるたびに、心臓が跳ね上がる。
あまりにも突然で、あまりにも速い一連の出来事。
言葉は喉の奥に詰まり、声にならない。唯一できることは、震える指先で膝を押さえ、消えゆく尾灯を見つめることだけだった。
「追わなきゃ……」
弓箭は周囲を見渡すが、街路には人影も車もほとんどなく、頼れる手段は見当たらない。
連中は、まるでタイミングを計っていたかのように、誰もいない瞬間に現れ、佐天を攫った――手際の良さ、動きの正確さから、これは素人の仕業ではないと直感する。
「ああもう‼ 『スクール』がまだ機能していたら、下部組織にすぐ連絡して追跡させられたのに‼」
弓箭は思わず声を荒げた。分かっている、叫んだところで事態は何も好転しないと。
それでも、理性が抑えきれない苛立ちが胸の奥から溢れ出す。
走って追いかけることもできるはずがない――相手は準備万端のプロ、黒いバンは瞬く間に距離を広げていく。世界一のレース選手でも追いつけはしない、そう思わずにはいられなかった。
直後だった。
ヴゥオオォンッ!
荒々しいエンジン音と共に、弓箭のすぐ脇に黒光りしたバイクが滑り込むように急停止した。衝撃で砂利が飛び散り、風圧が弓箭の髪を揺らす。
まるで、弓箭の焦りに応えるかのようなタイミングだった。
フルフェイスのライダーが一瞬こちらを見据え、迷いなくヘルメットを弓箭に投げ渡す。
弓箭は咄嗟に受け止めたものの、身体が硬直する。
「えっ、ななななに……⁉」
予想外の救援に、弓箭の声は震え、思考は瞬時に追いつかない。目の前で留まったバイクが、まるで黒い影のようにそこに立ちはだかる。
フルフェイスのライダーが、素早くバイザーを跳ね上げる。光に反射した素顔を見た瞬間、弓箭は思わず叫んだ。
「こ、警策さん!?」
警策看取は鋭い声で告げる。
「なに固まってんの? 早く乗らないとあの子が連れていかれちゃうよ! 助けたいんでしょ?」
時間は惜しい。
弓箭は息を深く吸い込み、身体を震わせながらも決意を固める。手早くヘルメットを頭に押し込み、後部座席に飛び乗った。バイクが一瞬傾き、風が鋭く頬を叩く。
「しっかり掴まって!」
警策の声に応じ、弓箭は彼女の体に手を回し、力強く掴む。
バイザーがカチリと音を立てて下がり、黒いバイクは轟音を上げながら、砂利を蹴散らし一気に加速した。後ろにいる弓箭の髪は風になびき、心臓の鼓動は耳の奥で脈打つ。
目の前の通りが、夜の闇に溶け込むように流れていく。
走り去る黒いバンの車内。
ハンドルを握るサングラスの青年は、前方から目を離さぬまま、後部座席に声を投げた。
「どうだ。携帯は見つけたか」
「はい」
少年は短く答え、佐天から奪ったスマートフォンを手に取る。
彼女の顔を無造作に掲げ、顔面認証を解除。ロックが外れる音も待たず、写真一覧を開いた。
「……消しました」
「よし」
青年はわずかに口角を上げる。
「目を覚ましたら、他にバックアップがないか洗いざらい吐かせろ。クラウドもSNSもだ。全部だぞ」
「了解です」
だが、少年はスマホをしまいながら、どこか落ち着かない様子でフロントガラス越しの闇を見た。
「……それより、アニキ」
「なんだ?」
「さっきから気になってたんですが……」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから、低く続ける。
「あのバイク……俺たちについてきてませんか?」
青年の指が、ハンドルの上でわずかに止まった。
視界の奥に、赤い尾灯を光らせた黒いバンが浮かんだ。佐天を乗せたまま加速している。街灯の薄明かりが一瞬ごとにバンの輪郭を映し出し、弓箭の視線を引きつける。
「見えたか?」
「はい……間違いなく、あのバンです!」
弓箭は歯を食いしばり、声に力を込めた。
バイクはギュッと前傾姿勢を取り、路面の凹凸を跳ねる衝撃と振動を全身で受け止めながら速度を上げる。
黒いバンは路肩の障害物をすり抜け、急カーブに差し掛かる。警策はバイクを巧みに傾け、バンとほぼ同じ軌道で追跡する。
やがて、高速道路に上ったその時、弓箭の視界が凍りついた。
黒いバンの窓が「ガコン」と小さく開き、そこからひょっこりと人の頭が現れる。先ほど佐天を気絶させた少年だ。
その手には、サイレンサー付きの拳銃が握られている。月明かりに光る拳銃が、わずかに冷たい光を放った。
「危ない!」
後ろの弓箭が声を張り上げた瞬間、空気を裂くような無音の衝撃が放たれた。
弾丸は鋭く迫る――だが、警策の体がバイクごと鋭く傾く。「ギュンッ!」というタイヤの音と共に、車体が路面に吸い付くように傾き、弾道はわずかにそれた。風圧がヘルメットを叩き、耳元で「ヒューッ」と金属を切る音が鳴る。
弓箭は後部座席で全身のバランスを崩しそうになりながらも、手でしっかりと警策の腰を掴む。振動で胸が押し潰されるようだ。
少年の指が再び引き金に触れるが、警策の冷静な判断と機敏な操作で、バイクは弾道の外側を滑るように進む。
数発の銃弾をかわした直後、ぴたりと銃撃が止んだ。
一瞬の静寂――弾切れだ。
「さあ、反撃の時間だよ。スナイパーちゃん」
警策は振り返りもせず、軽口めいた調子でそう促した。
弓箭は短く息を吸い、小さく頷く。
右手で警策の腰を掴んだまま体勢を固定し、左腕だけを静かに前へ向けた。
――ピシュッ。
乾いた音すら残さない発射。
制服の内側に分解して仕込まれていた、炭酸ガス圧式のステルス狙撃銃が火を噴いた。
弾丸は一直線に夜気を裂き、次の瞬間、少年の手元で火花を散らす。
拳銃が弾き飛ばされ、路面を転がった。
「ちくしょう!」
奇襲を潰された少年は悪態を吐き、慌ててバンの中へ身を引っ込める。
だが、それで終わりではなかった。
すぐさま窓の奥で何かが持ち上がる。
次に姿を現したのは――拳銃とは比べ物にならない、異様に大きな筒状の影。
バズーカ砲だった。
とうとう相手も焦り始めたのだろう。隠密行動を是とする暗部のセオリーをかなぐり捨て、力押しに出てきた。
「させませんわ!」
少年の指が引き金にかかる、その刹那。
弓箭の判断と狙撃は、ほんの一拍だけ早かった。
――ピシュッ。
無音の一射。
狙いは胴でも頭でもない。引き金を引く『腕』そのもの。
「ぐっ――!」
短い悲鳴と同時に、少年の腕が跳ね上がる。
照準がわずかに狂った、その瞬間。
――ドンッ!!
重低音が夜を叩き割り、ロケット弾が火花と尾煙を引いて放たれた。
だがその軌道は大きく逸れ、弾頭は街灯の上空をかすめて、闇の空へと吸い込まれていく。
次の瞬間、遠くで――
――ドォォン……!
爆発音が遅れて響き、夜空に派手な花火が咲いた。
しばらく追走を続けたのち、バンは高速道路を降り、一般道へと流れ込んだ。
街灯の間隔が短くなり、路面の起伏や信号機の影が、速度感をいっそう強調する。
「スナイパーちゃん」
警策は視線を前に固定したまま、いつもと変わらぬ調子で呼びかけた。
「次は……タイヤを狙ってもらえない?」
「――っ、それは……!」
弓箭の声に、思わず硬さが混じる。
「そんなことをしたら、車内の佐天さんまで危険に晒してしまいます!」
「大丈夫」
即答だった。
ハンドルを握る手に、迷いはない。
「ちゃんと考えがある。無茶はしない」
一拍置いて、ほんの少しだけ声を落とす。
「だから――私を信じて」
背中越しに伝わるその確信に、弓箭は唇を噛みしめた。
理性は警鐘を鳴らしている。だが、それ以上に、この人の判断に任せてもいいと彼女の直感が告げている。
弓箭は、ゆっくりと息を整え、再び視線を黒いバンへと向けた。
「……了解しました。やります」
「オッケー。合図は私が出すからね」
次の瞬間、彼女はアクセルを一気に開いた。
バイクが唸りを上げ、黒いバンとの距離が一気に縮まる。
「舌を嚙みたくなきゃ歯を食いしばって!」
警策は急ハンドルを切り、道路脇の段差を蹴るようにしてバイクを跳ね上げた。
――浮いた。
重力が一瞬、行方を失う。
バイクは空中で大きく弧を描き、そのまま黒いバンの屋根を飛び越える。
夜風が耳元で悲鳴を上げ、弓箭の視界に、バンの天井がすれすれに流れた。
「なっ――!?」
バンの中から、驚愕の声が漏れる。
だが、警策は止まらない。
着地の直前、体重移動と同時にハンドルを切り、バイクはそのまま空中で一回転。
スピンするように向きを変え、黒いバンと正面から向き合う形で、路上に叩きつけられる。
――ドンッ!
サスペンションが悲鳴を上げるが、警策は完璧に受け流した。
「今だ!」
真正面から、黒いバンが突っ込んでくる。
エンジンの唸り、ヘッドライトの白光、迫り来る質量――。
距離。速度。角度。
すべてが、刹那の一点で重なった。
弓箭は息を止めることすらしなかった。
迷いも、躊躇もない。
右腕に仕込まれた近距離用仕組み銃を、流れるように持ち上げる。
ピシュッ――。
ほとんど音にならない射撃。
圧縮ガスが一瞬で解放され、弾丸は夜気を裂き、一直線に突き抜けた。
次の瞬間、
バンッ!
乾いた破裂音が弾け、右後輪が砕け散る。
ゴム片が火花を散らし、黒いバンの車体が大きく跳ねた。
「うわっ――!」
ハンドルが暴れ、バンは制御を失って蛇行する。
その、ほんの刹那。
警策が動いた。
ヘルメットを乱暴に引き剥がすと、投げ捨てるように放る。
同時に――
バサァッ!
ベッドシーツで空気を叩きつけたような音と共に、彼女の背中から、コウモリを思わせる巨大な銀翼が展開された。
「……ッ!」
弓箭が息を呑む、その刹那すら与えず、警策は運転席を強く蹴る。
身体が宙に投げ出され、夜空へ飛び立つ。
重力を拒むかのように、彼女の体は跳ね上がった。
一瞬で高度を取り、制御を失って蛇行する黒いバンの真上へと躍り出る。
月明かりが、銀翼の輪郭を一瞬だけ浮かび上がらせた。
次いで――
腰元から伸びる、矢印めいた銀色の尾。
しなり、伸び、ためらいなく振り下ろされる。
ギィィンッ!!
金属を断ち裂く、鋭利で耳障りな切断音。
その一太刀で、黒いバンは抗う暇すらなく――
真ん中から、綺麗に割れた。
左右に分断された車体が、別々の方向へ弾き飛ぶ。
火花と破片が夜道に散り、鈍く重い衝撃音が爆ぜる。
そして――
その直前。
銀の尾は、車内に投げ出されていた佐天の身体を正確に絡め取っていた。
すべてが、ほんの数秒の出来事だった。
弓箭の狙撃の狙いは、バンを強制停止させることだけではない。
破壊されたタイヤによって車体に横方向の加速度を与え、内部を一瞬だけ混乱させること。
その結果、バンの中では、佐天の身体が重力と慣性に引きずられ、左右いずれかへと流れる。
その刹那、車体中央には、一瞬だけ「人のいない空間」が生まれる。
警策は、そこを見逃さなかった。
バンは構造上、車体の中央は最も剛性が高く、同時に切断時の破片の飛散方向が最も予測しやすい。想定外の破片が佐天に飛ぶ確率が下がる。
だからこそ、真ん中から断つ。
それが、この連携の答えだった。
夜の静寂が、ゆっくりと戻ってくる。
先ほどまでの轟音が嘘のように、風の音と、遠くの街のざわめきだけが残った。
重力を感じさせない足取りで、警策は路面に降り立つ。
腕の中には、まだ意識を失ったままの佐天の身体。
胸はかすかに上下している――呼吸はある。
「佐天さん!」
ヘルメットを外した弓箭は、ほとんど駆け出すようにバイクを降り、二人のもとへ走り寄った。
耳元に顔を寄せ、胸の動きを確かめてから、ようやく息を吐く。
喉の奥に詰まっていたものが、遅れてほどけていく感覚。
「……何が『無茶はしない』ですか。ほんの少しでもタイミングがずれていたら、佐天さんまで真っ二つになっていたかもしれないのに」
弓箭は、安堵と叱責がないまぜになった声で吐き出す。
警策は肩をすくめ、わざと軽い調子で返した。
「だ~か~ら~、そうならないように、きっちり計算したのよ」
そう言って夜空を見上げる。
先ほどまで確かにそこにあった銀の翼も、矢のような尾も、今は空気に溶けるように消えていた。
弓箭は改めて佐天の顔を見る。
規則正しい寝息。ほんの数分前まで、命の危険に晒されていたとは思えないほど、無防備だった。
(……間に合って、本当によかった)
胸の奥に残る震えを押さえ込みながら、弓箭はそっと佐天の手を握りしめた。
「さてと」
佐天を弓箭に預けると、警策は踵を返し、自らの手で両断した車の残骸へと歩き出した。
まだ熱を残す金属片の隙間から、サングラスの青年が這い出てくる。
「ちくしょう……なんなんだ、お前らは……」
悪態を吐きながら、青年は懐に手を伸ばす。
だが、その動きを――警策が見逃すはずもない。
ヒュッ。
乾いた空気を切る音と同時に、鋭い金属矢が飛び、青年の右腕に深々と突き立った。
「ぎゃあああああああああああ!」
絶叫と共に、指先から力が抜ける。
取り出されるはずだった拳銃は、青年の手を離れ、カラン、と虚しくアスファルトを滑った。
警策はその様子を見下ろし、片手をひらひらと振った。
まるで、言うことを聞かない子どもをあやすみたいに。
「妙なマネはやめといたほうがいいよ~。今のはまだ警告だからさ。次やったら……腕一本、もらっちゃうかもだけど?」
冗談めかした口調とは裏腹に、その目は一切笑っていない。
「……何が目的だ」
歯を食いしばりながら、青年が低く問う。
「別に~?ちょ~っと、聞きたいことがあるだけ」
一拍。
空気が、目に見えて冷えた。
さっきまでの軽さは消え、警策の声色がすっと落ちる。
「先週の土曜、午後二時半。第十八学区の廃ビルの中で――『取引』してたの、アンタでしょ」
逃げ場を与えない、断定に近い問いだった。
「……」
青年は答えず、唇を噛んだまま視線を逸らした。
その沈黙を肯定と見た。
「で? 何を受け取ったの?」
「……知らない」
「へえ、そんなに痛い目見たいの?」
「ち、違う! 本当だ!」
青年は声を荒らげ、必死に首を振る。
「俺はただの『
喉を鳴らし、言葉を続ける。
「確かに、フラッシュメモリーは渡された。でも中身までは知らない! 本当だ、信じてくれ!」
警策は一瞬だけ目を細め、短く息を吐いた。
「……やっぱりね」
どこか納得したように、独り言めいて呟く。
そして、今度は逃げ場を塞ぐ声で。
「じゃあ、次。その依頼人は誰?」
「それはーー」
青年が口を開こうとした、直後のことだった。
ひゅ、と空気を裂くような音がした。
次の瞬間、青年の後頭部に、羽根のついた細い矢が突き刺さっていた。
矢が刺さった瞬間、青年の身体が硬直した。口元から泡がこぼれ、喉が引きつるように痙攣する。やがて、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
鈍い音を立てて、身体がアスファルトに叩きつけられた。
「……ッ!?」
警策は反射的に駆け寄り、膝をついて青年の首元に指を当てる。
脈はない。呼吸もない。
「……死んでる」
「――今のは、『狙撃』っぽいですね」
一部始終を見ていた弓箭が、低く静かな声で断じる。
彼女は一瞬だけ夜空へ視線を走らせ、周囲の建物の配置をなぞるように見渡した。
風向き、距離、角度――頭の中で条件を重ね合わせる。
「少なくとも、数十メートル以上離れた位置からです。この刺し跡の向きと、今の位置関係から逆算すると……」
弓箭の視線が、道路の向こうにそびえる高層ビルの上層階で止まる。
「――狙撃地点は、あそこだと思います」
夜に沈むガラス張りの建物が、無言のままこちらを見下ろしていた。
高層ビルの屋上に、一人の少女が静かに佇んでいた。
夜風が、肩口で揃えられた黒い髪を揺らし、暗闇の中にその姿を浮かび上がらせる。
年齢は十代半ばほどだろうか。白いセーラー服に薄桃色のリボンタイを結び、首元には濃い紫のマフラーを無造作に巻いている。手には黒い指ぬき手袋、下は濃い灰色のプリーツスカートに同色のハイソックス、足元は茶色のローファー。
その両手には、全長1.5メートルほどの長い筒状のものが握られていた。
昔の忍者が暗殺に用いたという、吹き矢に似た道具だ。
「標的、処分完了」
耳元の通信用端末に、淡々と告げる。
返ってきたのは、感情の起伏を感じさせぬ声だった。
『ご苦労様』
少女は夜の景色を見渡す。彼女の右目の目元に、小型スコープが装着されている。数十メートル先の夜道に立つ二つの人影の姿が、さほど遠くなく確認できた。
「あの二人、いかがなさる?」
『今は撤収よ』
続く言葉には、わずかな警戒が滲んでいる。
『対象は
「了解。それにしても――」
少女は視線を外さず、静かに警策の方を見つめた。
そのまま、僅かに口元を歪める。
「あれが噂の『暗部の悪魔』か。物騒な異名の割に、随分と可愛らしい顔をしておるな」