第十八学区。
第七学区と同じく、中等教育を主とした学区。前期・後期中等教育が主体の第七学区とは異なり、この学区には小中高大の一貫教育とした「学園」や「学院」の学校が数多く存在する。
その多くは、学園都市でも名の知れたエリート校である。
例えば、かつて警策が通っていた霧ヶ丘付属中学――その本校である霧ヶ丘女学院は、この第十八学区に校舎を構えている。
アスファルト舗装の道路を、一台の白いコンパクトカーが走っていた。
その車の中では、警策看取が運転席でハンドルを握り、後部座席には弓箭猟虎と巌根泰造が並んで座っていた。
喫茶エーデルワイスを出て、あらかじめ用意されていたレンタカーに乗り込み、指定された待ち合わせ場所で巌根と合流してから――およそ三十分。
その間、三人の間に会話はほとんどなかった。車内にはただ重い沈黙だけが流れていた。
やがて、その沈黙に耐えかねたのか、先に口を開いたのは巌根だった。
「あのう……この車、一体どこに向かってるんだ?」
「第十一学区」
運転席の警策が、あっさりと答える。
「学園都市における陸路物流の拠点。この街で一番モノの出入りが激しい場所だよ」
彼女は肩をすくめて、説明を続けた。
「物流の最適化と高速化を目的に作られた学区でね、作業のほとんどは自動化されてる。常駐してるのは数人のエンジニアくらいで、基本的に人の姿はほとんどない。『外』から来た運転手は、専用装置をレンタルしてトラックの電子系を取り付けるだけで、あとは機械が自動で荷下ろしを済ませてくれる仕組みだ。……まあ、そういう場所だからこそ、生身の人間の目はほとんどない。この街から脱出を企むなら、あそこが一番都合がイイ」
高い壁に囲まれたこの街は、侵入の難易度において世界でも屈指の防御を誇っている。
こっそりと逃げ出すのは、ほとんど不可能に近い。
だが、この世に完璧な防衛システムなど存在しない。どれほど難攻不落の防壁でも、必ずどこかに綻びはある。
そして第十一学区は、その数少ない『綻び』の一つだった。
巌根はどこか感心した様子で言った。
「へ、へえ……そんな抜け道があるなんて、まったく想像できなかった。さすがは『暗部』のエリート。考え方が、俺みたいな下っ端とは根本的に違うね……」
「……」
その隣で、弓箭猟虎はわずかに視線を向ける。
そこには、どこか呆れた色が浮かんでいた。
(本当に愚かな人ですね……)
胸中で、彼女は静かに呟く。
(わたくしたちに利用されていることには、まったく気づいていません)
そもそも、『最も都合のいい抜け道』など、暗部の人間が相手なら真っ先に疑われる場所だ。
こちらが思いつくことは、向こうも同じように思いつく。
それが、同じ裏の世界に生きる者同士というものだ。
だが、だからこそ。
『誰もが最初に思いつくルート』は、敵を誘い出すには格好の餌にもなる。
警策と弓箭の狙いは、まさにそこにあった。
しばらく、再び沈黙が車内を支配する。
先ほど巌根が口を開いたことに少なからず影響されたのか、今度は弓箭がふと気になっていたことを思い出したように、運転席の警策へ問いかけた。
「そういえば、今日、喫茶店で
納夢というのは、例の喫茶店にいる、あの陰気なウェイトレスのことだ。
あの店で働いている店員は彼女しか見たことがない。平日の昼間に姿がないのは、少々珍しい。
警策は軽い調子で答えた。
「ああ、あのコなら今日は他の『バイト』があるから――彼氏さんと一緒にね」
「へえ、そうなんですか………………ん?……え?え、ええええええええええええええええええええええええっ!?」
一拍遅れて、車内に割れんばかりの絶叫が響き渡った。
「な、なななななな何をおっしゃっているのですか!? あの納夢さんに!? か、彼氏ですって!?」
車内に響いた絶叫に、隣の巌根はびくりと体を跳ねさせた。
目を皿のように見開き、口を半開きにしたまま固まる。まるで今この瞬間、目の前で宇宙人の解剖ショーでも始まったかのような顔だった。
「ちょっと! 車内で騒ぐんじゃないわよ! 危ないって!」
弓箭が勢いよく運転席に身を乗り出した拍子に、車体がふらりと揺れる。
警策は慌ててハンドルを切り直し、なんとか車を元の車線へ戻した。
小さく息をつきながら、彼女は何事もなかったかのように話を続けた。
「店長から聞いた話だとね――きっかけはあの子の飼ってるフェレットらしい。街中に逃げ出して立ち往生してたところを、たまたま通りかかった少年が見つけてくれたんだって。それが最初の出会いってワケ……まあよくある話だよね」
バックミラー越しに恋バナに興味津々な弓箭をちらりと見て、警策はくすりと笑った。
「弓箭ちゃんも会ったことあるじゃない?」
「え、わ、わたくしも!?」
驚きと好奇心で目を大きく見開く弓箭に、警策は少しからかうように、
「まあ、それはまた今度のお楽しみに☆」
「いやいや、気になるじゃないですか! お願いです、教えてください!」
再びハイテンションで身を乗り出して背もたれに手をつく弓箭をよそに、警策は「その手はもう食わない」とばかりに、黙々と運転に専念したのだった。
◇
時を同じくして、第十八学区の大通りを、一人の少女が歩いていた。
肩口で切り揃えた黒髪に、白いセーラー服。首には濃い紫のマフラー。
その肩には長い黒いポスターチューブを無造作に掛け、手には黒い指ぬき手袋。濃い灰色のプリーツスカートに同色のハイソックス、足元は茶色のローファー。
彼女はスマートフォンを耳に当てながら、誰かと通話している。
「――ただ今、第十八学区に到着。そっちはどうじゃ?」
電話の向こうから、まるで感情を持たぬかのように冷徹な声が返ってきた。
『「
「こちらで始末する、じゃったな」
少女は相手の言葉に耳を傾けることもなく、まるで独り言のように続けた。
「しかし大丈夫かのう? 相手はあの『暗部の悪魔』じゃぞ。下手すりゃ、返り討ちに遭うのが関の山じゃ」
電話の向こうの声は、冷たさと無機質さを際立たせる。
『あなたには関係ない。あなたはただ、自分の役目を果たせば良い』
「はいはい……前々から思っておったのう。クールビューティは結構じゃが、あまり冷たすぎると男にモテぬぞ?」
『…………』
「まあよかろう。風が騒いでおるんだし、忍びの務めじゃ。こちらも、そろそろ動くとするのかのう」
『健闘を、ウィステリア』
「そっちもじゃ、アイリス」
そう言って、ウィステリア――と呼ばれた少女は電話を切って、スマートフォンをセーラー服のポケットにしまい込んだ。
背筋を伸ばし、視線は街の群衆の間を縫うように動く。目に映るのは、ただの日常の通行人。
肩口のポスターチューブを軽く抱え直すと、無音の足取りで歩道を進む。茶色のローファーがアスファルトを踏む音さえ、風にかき消されるようだった。
そんな時だった。
「――喫茶エーデルワイス、秋季限定メニューをよろしくお願いします!」
ふいにウィステリアは足を止め、声の方へ視線を向ける。
大通りの広い歩道の隅で、二人の人影が行き交う人々に声をかけ、チラシを手渡していた。
一人は、男にしてはやや長めの金髪を後ろで無造作に束ね、ラフなパーカーを羽織った少年。
もう一人は、肩に触れるほどの紫紺の髪を持ち、前髪は左目にかかる程度に長く垂れ、覗く瞳の色は淡い紫紅色。陰鬱さを漂わせつつも整った端正な顔立ちの少女。身に纏っているのは、どこかの喫茶店のものと思しきレトロな制服。
面白いことに、声を張り上げて通行人に呼びかける少年よりも、ほとんど口を開かず静かにチラシを手渡す少女の方が、圧倒的に多くのチラシを配っている。まあ、そりゃあ、可愛いからというのも理由の一つだろう。
ふわりと、誰かに捨てられたらしきチラシが、11月の風に乗って彼女の足元に落ちる。それを拾い上げてみれば、「喫茶エーデルワイス」と記された文字と、お店の所在が示されていた。
(喫茶エーデルワイス――聞いたことがおるな。あれは確か、『暗部』向けのカフェで、一般には開放されておらぬはずじゃ……)
疑念を抱きつつも、どこか不釣り合いな二人に興味を覚えたウィステリアは、少し離れた位置から観察する。ふと陰気な少女と目が合うが、相手は動じることもなく、すぐにチラシ配りに戻った。
(うむ……ひょっとすると、暗部の客が減り商売に支障をきたしたゆえ、方針を変えて一般にも開放せしめた、ということかもしれぬ。おっと、今はこんなことを考えておる場合じゃないな)
そう思い至ったウィステリアは、特に気に留めるそぶりも見せず、止めていた足を再び動かし、静かにその場を離れた。
「…………」
しばらく無言のまま、白いセーラー服の少女の姿が人混みの中へ溶けていくのを見届けた後、陰気なウェイトレスの少女は静かに歩き出し、まだ野次馬にチラシを配っている金髪の少年のもとへ向かった。
そして、繊細な指先でそっとその肩を叩く。
金髪の少年こと花村樹人は、それに気づくとすぐに振り返った。
「どうした、
ウェイトレスの少女――納夢禍棲は、ただ静かに首を横に振る。
「花村君、今日の『バイト』はここまでです」
「えっ、でも……」
花村は手元のチラシの束を見下ろした。
「まだこんなに残ってるし。それに――」
花村は周囲をさりげなく見回し、誰も聞いていないことを確認してから声を潜める。
これから口にする言葉は、通行人に聞かれていい類のものではない。
「『ビラ配り』のふりをして、人混みの中から『
その通りだった。『ビラ配り』とは、あくまで表向きの理由に過ぎない。
人混みの中を不自然なく見渡し、たとえ誰かと目が合っても怪しまれないようにするための偽装だ。
納夢の返答は極めて簡潔だった。
「それなら、もう見つけました」
「え、マジで!?」
驚きを隠せない花村に、納夢は無表情に近い顔のまま、ほんのわずかに呆れた色を浮かべた。
「海藤さんから、あらかじめ相手の顔写真は見せられていましたし。ある程度、敵の潜伏先も予想していたからこそ、今回の『バイト』の場所をここに決めたんじゃないですか?」
「……そうだったな」
花村は頬をかきながら、気まずそうに目をそらす。
もしかすると『ビラ配り』に妙に本気を出しすぎて、肝心の標的を見落としていたのかもしれない。
そんな可能性が頭をよぎったが、その言葉は喉の奥でそっと飲み込んだ。何せ彼女の前でそんなことを口にしたら、彼氏としての尊厳が地面に叩きつけられるのは目に見えている。口が裂けても言えなかった。前に彼女の寮でペットのフェレットに指を噛まれたときですら、黙って耐えたくらいなのだから。
「あれ、でも……」
ポンコツ少年花村は、一瞬遅れて事態に気づいたように顔を上げた。
「相手を見つけたのなら、今すぐ追いかけねば!このまま見失ったら……」
「それなら心配は要りません」
納夢はごく落ち着いた声で応えた。
「上空の小型ドローンで、蒼石さんも今ごろ確認しているはずです。あとはそちらで監視を続けてくだされば十分かと。それに……」
彼女はほんの僅かに声を落とし、知る者にしか意味が分からぬ言葉を紡いだ。
「
(とはいったものの……)
納夢禍棲は再び人混みの方へ視線を向けた。しかし当然ながら、白いセーラー服の少女の姿はすでにどこにもなかった。
花村樹人は、そんな彼女の横顔にかすかな違和感を覚える。いつもと変わらぬ無表情ではあるが、その奥にわずかな『引っかかり』が残っているように見えた。
(気のせいでしょうか――今、あの女から……微かながら『奴ら』の気配を感じました)
今この場で共有すべき情報ではないと判断したのか、彼女はその思考を静かに胸の内へ沈めた。
◇
警策看取たちの乗ったコンパクトカーは、第十八学区から第十一学区に進んでいた。高架道路のバイパスだ。
朝陽に照らされたコンクリートの道路は長く伸び、車の流れもまばらだ。周囲に遮る建物もなく、ただアスファルトの帯が地平へと続いている。
そんな単調な風景の中で、警策はバックミラーで確認し、それから後部座席の弓箭に向けて問いかけた。
「……気づいたカナ?」
「ええ」
答え合わせに近いその質問に、弓箭の短い肯定が間髪を入れずに返ってきた。彼女は窓の外へ目を向けたまま、周囲の状況を正確に捉えていた。
警策はまるでこの状況を面白がるようにくすりと笑って、
「ソロソロ仕掛けてくる頃かと思ってたケドさ、まさかこんなに堂々と来るとはね~。連中も思い切ったことするじゃん」
「え、えっとー……」
無論、そのやり取りに一人だけついていけない人物がいた。弓箭の隣に座る巌根泰造である。状況を飲み込めていない彼は、護衛役の二人の少女の顔を交互に見比べながら、おずおずとした声で尋ねた。
「何かあった? さっきから二人とも、妙なこと言ってるけど……」
「簡単な話だよ?」
警策は相変わらず緊張感を感じさせない気軽な調子で続ける。
「ほら、この高架道路に入ってから、周囲の車の数が減ってきてるでしょ?」
「……まあ、確かに」
巌根は窓の外を見回す。言われてみれば、先ほどまで見えていた一般車両の姿がほとんどない。広い高架道路の上にあるのは、十数台の車だけだ。
だが、それが何だというのだろう。
「しかもね~、よく観察してみると妙なんだよ」
彼女は顎で後方を示す。
「後ろの黒いセダン、さっきからずっと同じ距離を保ってる。こっちが速度を落としても、車線を変えても、ぴったりついてくる」
さらに、フロントガラスの向こうを指す。
「前を走ってるワゴン車もそう。さっきの分岐でも降りなかったし、速度も妙に安定してる。普通のドライバーなら、もう少しバラけるはずなんだけどね」
言われて巌根は改めて周囲を見る。確かに彼女の言った通り、周囲の車の配置が妙だった。
前。後ろ。隣の車線。
まるで――こちらを囲むように並んでいる。
「……えっと、つまり?」
それでも理解が追いつかず、巌根は戸惑った声を出す。
「つまり――」
隣に座る弓箭が、警策の言葉を継ぐように口を開いた。
彼女の視線は、窓に映る後方の車列に向けられている。
「この高架道路に入ってから、わたくちたちの周囲にある車両は……」
わずかな沈黙のあと、断言する。
「
その言葉が、まるで引き金だった。
次の瞬間。
キィィィィィッ!!
前方を走っていたワゴン車が、突然タイヤを軋ませながら不自然に減速した。
同時に、後部座席のスライドドアが勢いよく開く。中から現れたのは、黒いアサルトライフルを持った男たちだった。
無機質な銃口が、一斉にこちらへ向けられる。
「ひっっっっっっっっっ!?」
巌根の喉から、情けない悲鳴が漏れた。
「全員伏せて!」
警策の叫び声が合図かのように、弓箭は即座に動いた。
驚きのあまり口をぽかんと開けて固まっている巌根の体を強引に引き寄せ、そのまま後部座席の足元へ押し倒した。
「頭を下げてください!」
次の瞬間。
ダダダダダダダダダッ!!
耳をつんざく連続銃声が、高架道路に轟いた。
フロントガラスに火花が散る。ボンネットに弾丸が叩きつけられ、金属が悲鳴のような音を上げる。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
警策は身を低くしたままハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。
コンパクトカーが唸りを上げて加速する。彼女はハンドルを切り、前方のワゴン車の横を強引に抜けようとした。
しかし忘れるわけにはいかない。
敵の車両は、すでに包囲陣形を完成させていた。
ドンッ!!
鈍い衝撃が横から突き刺さった。
隣の車線を走っていた黒いSUVが、躊躇なく体当たりしてきたのだ。
白いコンパクトカーの側面が激しく歪み、車体が大きく横へ流れた。
タイヤが悲鳴を上げ、制御を失った車体が高架道路の縁へ滑り、それから――白いコンパクトカーは、コンクリートのガードレールに激突した。
敵の襲撃は、それだけで終わるはずもなかった。
先ほどのワゴン車はもちろん、横から体当たりしてきた黒いSUV、さらに後方を走っていたセダン――否、それだけではない。
周囲を走っていた車両が次々と減速し、停止する。
気がつけば、十数台の車両が高架道路の上で円を描くように停止していた。
ドアが乱暴に開かれ、そこから武装した男たちがぞろぞろと姿を現し、一斉に銃火器を構える。
ダダダダダダダダダッ!!
弾丸の嵐が高架道路の空気を切り裂き、車体へ容赦なく叩きつけられた。
ボディが凹み、ガラスが砕ける。弾丸が金属を貫き、火花を散らす。フロントガラスに蜘蛛の巣のような亀裂が走った。サイドミラーが吹き飛ぶ。車体に無数の弾痕が刻まれていく。
やがて、一人の男がゆっくりと手を挙げた。他の者より一歩後ろに立つ、リーダーらしき男だ。
それが合図だった。
ピタリと、銃声が止む。
ついさっきまで戦場のようだった高架道路が、嘘のように静まり返った。
残ったのは、風の音と、アイドリングを続ける車の低い振動だけ。
包囲の中心には、白いコンパクトカーが取り残されていた。
ボディは弾痕だらけ。フロントガラスはひび割れ、サイドミラーは吹き飛び、車体はガードレールに押しつけられるように歪んでいる。
まさに満身創痍だった。
しかし、車内からの反撃はない。動く気配すらなかった。
リーダーらしき男は、その様子を数秒じっと観察する。やがて、彼は軽く顎をしゃくった。
周囲の数人の男に向けて、短い合図を送る。
それは言葉にするまでもない指示だった。
――死んだか確認しろ。
指示を受けた男たちは銃を構えたまま、慎重に歩き出す。アスファルトを踏む靴音が、小さく響いた。
一歩。二歩。三歩。
誰も言葉を発さない。
ただ警戒の視線だけが、傷だらけのコンパクトカーへ注がれている。
やがて、先頭の男が車のドアの前に立った。
彼は後ろの仲間をちらりと振り返る。
視線が交差する。全員が、小さく頷いた。
男はゆっくりと手を伸ばし、ドアハンドルに触れた。
その瞬間だった。
ドゴォンッ!!
凄まじい音とともに、コンパクトカーのドアが内側から吹き飛んだ。
鉄板が弾丸のような速度で跳ね上がる。
避ける暇など、なかった。
「ぐぁっ!?」
ドアはそのまま、目の前にいた男の胴体へ直撃する。
男の体が宙に浮き、数メートル後方へ叩き飛ばされた。
アスファルトに転がる鈍い音が、高架道路に響いた。
「ッ!?」
突然の出来事に、敵たちの視線が一斉にそちらへ向いた。
だが、一瞬だけコンパクトカーから注意が逸れていたのが致命的だった。
ピシュッ。ピシュ。ピシュ。
その僅かな間、コンパクトカーの周囲に近づいていた男たちがまるで糸を切られた人形のように次々と崩れ落ちる。
それだけではない。少し離れた位置にいた、リーダーらしき男の周囲に立っていた数人の男たちも、同時に膝を折って倒れこむ。
弓箭猟虎である。彼女は両腕に装着された仕掛け銃で、男たちを正確に狙撃していた。
「撃て!」
遅れて事態を理解したリーダーが叫ぶ。慌てて車の中へ飛び込み、身を潜める。
狙撃を免れた他の部下たちも同様に、車の陰へ転がり込みながら銃を構えた。
(人数はこっちの方が多い。集中砲火を浴びれば一溜まりもない! ドアは奴らが自分で吹き飛ばした。遮蔽物はほとんどない。逃げ場なんてどこにも――)
しかし、彼は一つだけ重要なことを見落としていた。
ほんの数分前、自分たちはあれだけの集中砲火を浴びせていたはずだ。
数十丁のアサルトライフル。弾丸の嵐。
それなのに、コンパクトカーの中にいた三人は、何故今も無傷で生きている?
相手は装甲車ではなく、ただの白いコンパクトカーだ。
そんな薄い車体が、大口径のライフル弾を完璧に防げるはずがない。
ならば、彼女たちは――どうやって、あの弾丸の雨を凌いだのか。
答えは、次の瞬間に示された。
ばさりと、巨大なベッドシーツで空気を叩くような音がした。同時に男たちの視界いっぱいに、銀色の何かが広がる。
それは、コウモリを思わせる巨大な翼だった。
金属光沢を放つ翼が三人を包み込むように展開し、弾丸の嵐をすべて受け止めていたのだ。
「なっ!?」
リーダーの喉から、驚愕の声が漏れる。
だが、動揺している暇はない。
彼は歯を食いしばり、銃を構えたまま怒鳴る。
「攻撃を止めるな! ありったけの弾を全部撃ち込め!」
正直なところ、それだけであの金属翼を破れる保証はなかった。
だが、一瞬でも攻撃を止めれば、相手に反撃の隙を与える。
先ほど、それを身をもって思い知らされたばかりだった。
あのスナイパー女に、ほんの数秒の隙で、あれだけの仲間が撃ち抜かれている。同じ轍を踏んでたまるか!
リーダーは遮蔽物の陰に身を隠しながら、引き金を引き続けた。
ダダダダダダダッ!!
再び銃火が咲く。弾丸の雨が、銀色の翼へと叩きつけられた。
しかし、相手は防戦一方ではなかった。
シュッ。
銀色の防壁の内側から、何かが飛び出した。
それも一つではない。複数だ。
だが、その正体を確認する暇はなかった。
「ぐぁっ!!」
突然、右腕に激痛が走る。
思わずリーダーは銃を取り落としそうになった。
視界の端で、赤い液体が飛び散る。
自分の血だと気づくのに、ほんの一瞬遅れた。そして、その原因にも。
一本のナイフが、彼の二の腕に深く突き刺さっていた。
「な……!?」
その直後。
「ぎゃっ!」
「ぐっ!」
周囲からも悲鳴が上がり、仲間たちも次々と銃を落としていた。
二の腕。肘。手首。やられたのは急所ではない。
だが、武器を持てなくなる場所を正確に狙われている。
数秒もしないうちに、弾丸の嵐は弱まり――やがて完全に止んだ。
「ばか……な」
リーダーは息を荒げながら呟く。
理解できない。自分たちは全員、車体やドアの陰に隠れて射撃していた。正面から投げたナイフで、遮蔽物の向こうの腕だけを狙うなど不可能だ。
それに――今のナイフは、直線ではなかった。
まるで空中で軌道を変えたかのように、不自然な角度から飛び込んできた。
「ドローンナイフ」
その疑問に答えるように、巨大な銀翼がゆっくりと開いた。その中から無傷の警策看取、弓箭猟虎、そして巌根泰造が現れる。
警策は淡々と続ける。
「ただの投げナイフじゃないのよ。追尾機能を仕込んであって、飛行中に軌道を修正できる優れモノ」
つまり、遮蔽物の陰に逃げても意味がない。
ナイフは空中で軌道を変え、隠れた腕だけを狙って突き刺さる。
「ひたすら撃ち続ければ何とかなるなんて、あまりにも幼稚な発想だよ。私は脳筋じゃないからサー、そういうタイプとはどうも気が合わないナー」
「
冷え切った刃のような声音が響いた、直後だった。
警策たちの真正面にある黒塗りの自動車――その屋根の上に、黒いフードをまとった人物が静かに降り立つ。
フードに顔の大半を隠されて人相はほとんど見えないが、風に揺れる長い髪から、それが少女であることだけは分かる。
警策は視線を細め、その人物をじっと見つめた。
相手もまた感情のない無機質な視線で、こちらを見下ろしている。その視線が交差した瞬間、フードの影から少女の顔がはっきりと覗く。
思わず息を呑むほどの、美しい少女だった。
年頃は高校生ほどか、いや、中学生と言われても違和感はない。
透き通るように白い肌。銀というより、ほとんど白に近い長い髪。そして、氷の結晶を思わせるアイスブルーの瞳。一見すると北欧系のような容貌だが、よく見れば顔立ちはどこか東洋人寄りでもある。
少女はしばし周囲を見回した。
警策と弓箭の手によって戦闘不能となった、数十人の武装集団。アスファルトの上に倒れた男たちが散乱し、うめき声だけがかすかに響いている。
その光景を一瞥すると、少女は小さく息をついた。
それが独り言なのか、あるいは車の中で倒れているリーダーに向けた言葉なのかは分からない。
「無様ね。まあ、最初からあてになどしてないけど」
「……なん、だと…」
車内の男は血まみれになった右腕を抑えながら、怒りに歪んだ声で怒鳴った。
「ふざけんな! そもそもこっちは、向こうに高位能力者がいるなんて聞かされてねぇんだ!お前らのせいで、何人の仲間がやられたと思ってる!」
その怒声を、少女はまるで価値のない雑音でも聞くように受け流した。
表情一つ変えないまま、淡々と言い放つ。
「教えるまでもない。あなたたちはただの『足止め』よ。返り討ちにあったのは、指示を無視した自業自得」
まだ何かを言い返そうと口を開きかけた男を、少女は無視した。
その視線はすでに、目の前に立つ三人――いや、正確には警策看取に向けられている。隣に立つ弓箭猟虎の存在など、まるで最初から視界に入っていないかのようだった。
氷のような瞳が、わずかに細められる。
「護衛対象を囮に敵を誘い出す……ね。すべてあなたの筋書き通りというわけ、暗部の悪魔?」
「オヤオヤ」
警策は肩をすくめ、口元に薄い笑みを浮かべた。
その視線が、少女の冷たい双眸をまっすぐ見返す。
「私の素性まで把握してるとは……これはこれは、思ったよりデカい魚を釣り上げたみたいね?」