とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase4「共鳴 -レゾナンス-」

 話し合いの結果、当分の間リコは佐天の寮に居候することになった。

 本来なら警備員(アンチスキル)に身元調査を依頼したいところだが、本人がそれを頑なに拒む以上、無理強いするわけにはいかない。

 

(暗部の情報網を駆使できれば、何かが分かったかもしれませんけどね)

 

 だが、それも叶わない。弓箭がかつて所属していた『スクール』は、先日の暗部抗争で跡形もなく解体されてしまった。

 考えても仕方がないと分かっているのに、未だに『暗部』への未練を引きずる自分が滑稽に思えて、弓箭はかすかに苦笑した。

 

 そんな暗い話はさておき、

 

「……これ、とても美味しいです!」

「はむはむ」

 

 ちょうど夕飯の時間になったので、佐天に手料理を振舞ってもらった弓箭とリコは、頬張りながらその味を堪能していた。

 

 本日の献立はサバのカレーライス。

 煮込まれたサバはホロホロと柔らかく、スパイスの効いたルーに旨味が溶け出している。ほのかに香る生姜とにんにくが、魚の風味を引き立てつつもくさみを消し、後味をさっぱりさせている。

 

「カレーのスパイシーさにサバの濃厚なコクと旨味が絡み合い、口の中でとろけて余韻が残ります!!」

「りゅいこ、しゅごい!」

「お二人とも、食べながら喋らないでくださいね」

 

 佐天は呆れたようにため息をつきながらも、どこか懐かしさを覚える。

 

(……なんだろう、すごく既視感(デジャブ)のあるやりとりだね)

 

 どこぞの金髪の少女の食欲を満たすために買い込んだサバ缶は、結局、その役目を果たすことなく、今も冷蔵庫の片隅で静かに眠っている。

 食材を無駄にせずに済んだのは、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。

 

「……おかわり、もらっていい?」

 

 リコがスプーンを握りしめ、空になったお皿を差し出す。

 

「もちろん!」

 

 佐天が笑顔で即答し、お皿を受け取った。

 その様子を眺めながら、弓箭はふと考える。

 

(まだぎこちないご様子ではありますが、少しずつ心を開いているのでしょうか?)

 

 リコは食べることに集中しながらも、時折、佐天や弓箭の顔をじっと見つめる。まるで、自分がここにいてもいいのか確かめるように。

 やがて、佐天がよそわれたカレーライスを受け取ると、彼女の唇がほんのわずかに緩む。

 その笑みはあまりにも微かで、一瞬のことだったが――それでも、確かにそこにあった。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

「ご粗末様でした」

 

 食器を片付け終えた後、部屋には穏やかな静けさが広がっていた。ほんのりと漂うスパイスの余韻が、心地よい満足感を残している。カレーの香りに包まれた空間の中で、胃の中までじんわりと温かかった。

 

「それにしても、佐天さんってお料理上手ですね」

 

 弓箭が感心したように言うと、佐天はどこか照れくさそうに笑う。

 

「そうですか?まぁ、これでも一人暮らしが長いので、それなりにやってますよ」

「るいこ、お料理、すごい」

 

 リコも静かにそう言って、佐天をじっと見つめる。彼女の言葉は短いが、そこには確かな敬意が込められていた。

 

「ふふっ、ありがとう。でも、せっかく週末ですし、おいしいものを食べるだけじゃなくて、どこかに遊びに行くのもいいですよね」

 

 佐天がふと思いついたように言うと、弓箭が小さく首を傾げる。

 

「遊びに……ですか?」

「そうそう!せっかくですし、リコも少し外の空気を吸ったほうがいいと思うんですよね」

 

 リコがぱちりと瞬きをする。

 

「……どこへ?」

「うーん、どこがいいかな……」

 

 リコの素朴な問いに、佐天は少し考え込む。

 あまり人が多すぎる場所は疲れてしまうかもしれないし、静かすぎても気を遣わせるかもしれない。

 ほどよく賑やかで、気楽に楽しめる場所――しばし思案し、やがて顔を上げる。

 

「遊園地とか、どうです?」

「ゆうえんち……」

 

 リコが小さく呟き、その響きを確かめるように数回繰り返していた。

 

「弓箭さん、明日って空いてます?」

「ええ、特に予定はありませんけど」

 

(ここここここれが……世に言う『遊園地デート』というリア充度満点(マックス)のビッグイベントですか!?)

 

 弓箭は思わず背筋を伸ばし、平静を装いながらも内心の動揺を隠しきれない。

 そんな彼女の様子には気づかず、リコがぽつりと呟く。

 

「……ゆうえんち、行ってみたい」

 

 その言葉に、佐天がぱっと笑顔になる。

 

「じゃあ決まりね!」

 

 和やかな雰囲気が広がる中、ふと時計に目をやった弓箭が、少し申し訳なさそうに口を開いた。

 

「……もう遅いですし、そろそろお暇いたします」

「あ、本当だ。遅くまでありがとう!」

 

 佐天は玄関まで弓箭を見送りながら、ふと思いついたように提案する。

 

「そうだ、明日は朝9時に第七学区の駅前で集合ってのはどうです?」

「ええ、それで構いませんわ」

「それじゃ、弓箭さん。えっと、なんだっけ…」

 

 言葉に詰まり、考え込む佐天に、弓箭は訝しげな視線を向ける。

 すると、次の瞬間――

 

「はでぶら!」

「……えっ!?」

 

 唐突な単語に、弓箭は思わず目を瞬かせる。

 意味は分からないが、確かにどこかで聞いたことがあった。

 

「フレンダさんに教わりました。さようならって意味だって」

「あっ、なるほど…」

 

(そういえば、あの金髪(ゴールド)にも同じように言われたことがありましたね…)

 

 ヴァイオリンケースを背負い、ビニール傘を手にしながら、弓箭は優雅に一礼する。

 

「では、また明日お目にかかりますわ」

「うん!」

 

 佐天が手を振りながらドアを閉めると、学生寮の廊下に静寂が満ちる。

 

(雨、もう止みましたわね)

 

 先ほどまでの和やかな空気は扉の向こうへと消え、代わりに雨上がりの冷えた空気がそっと肌を撫でた。

 空気はひんやりとしていて、雨上がり特有の澄んだ匂いが微かに鼻をくすぐる。

 遠くでぽたり、ぽたりと雫が滴る音がするほかは、何も聞こえない。

 

 静まり返った廊下で、弓箭はそっとポケットに手を入れ、小さなカエルの形をしたキーホルダーを取り出す。

 丸みを帯びたフォルムを指でなぞると、思い出が蘇る。

 

 

     ◇

 

 

 数時間前、カラオケの一室。

 賑やかな曲が流れるはずの空間は、妙な静けさに包まれていた。

 

 弓箭猟虎と弓箭入鹿は向かい合って座っているものの、互いに視線を合わせようとはせず、ぎこちなく俯いている。

 

(く、空気が重い…!)

 

 その場に居合わせた帆風潤子は、二人の沈黙にどうしたものかと落ち着かず、そわそわと視線を彷徨わせていた。

 気まずい沈黙が続く中、佐天涙子が意を決したように口を開く。

 

「と、とりあえず!」

 

 場の空気を変えようと、手を叩きながら続ける。

 

「部外者のあたしから見るとなんだかお互いにすれ違っているように見えるんです。お互いどう思ってるのかここでちゃんと話して、スッキリさせちゃいましょう!」

 

 その言葉に帆風も同意して、

 

「そ、そうですよ。女王はいつも仰っています、『派閥員同士の信頼こそが大切だわぁ』って!」

 

 場の空気を和ませようと力説するが、どこかズレた発言に一同は微妙な表情を浮かべる。

 

(信頼……今まさに、それが揺らいでいるから困ってるんじゃ……)

 

 佐天が苦笑しながらも気を取り直し、改めて二人を見つめる。

 すると、弓箭猟虎が少し躊躇した後、意を決したように口を開く。

 

「……帆風さんは、わたくしのこと、避けてたじゃないですか」

「えっ?」

 

 思わぬ指摘に、帆風は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに何かを思い出したように目を泳がせる。

 

「それは…あの頃、わたくしの…アレが…」

「……?」

 

 曖昧な言葉に、猟虎は首をかしげる。

 

 佐天はそんなやり取りにじれったさを感じ、手をひらひらと動かしながら促した。

 

「うーん、ほら帆風さん!そこでごにょごにょしてたら伝わらないですよ!」

 

 帆風は申し訳なさそうに肩をすくめ、小さく息をついた。

 

「す、すみません!ですからその、わたくしの能力が…」

 

 言葉を詰まらせる帆風を見かねて、弓箭入鹿が静かに補足する。

 

「帆風さん、ご自身の能力がうまく制御できていなかったのですよね」

 

 帆風はコクンと小さく頷いた。

 

「ええ…。それで、周りの皆さんを傷つけたくなくて、遠ざけるような発言を…」

 

 その言葉に、弓箭猟虎はわずかに目を見開く。帆風が距離を取った理由は、ただの気まぐれではなく、彼女なりの配慮だったのだ。

 

「そ、そういうことでしたか…帆風さんの件はわたくしの勘違いだったのですね」

 

 納得したように小さく息をつくが、その表情はまだ晴れない。

 けど――

 

(入鹿ちゃんが、わたくしから離れていったのは帆風さんが原因ですし、まだ少し納得できないです)

 

 弓箭猟虎の視線が、弓箭入鹿の横顔を探るように揺れる。

 帆風の事情は分かった。だが、それだけでは説明のつかないものが、弓箭猟虎の心の奥に、まだ引っかかっていた。

 

「…そんな帆風さんに、わたしは憧れてた。帆風さんみたいに強くなりたかった」

 

 弓箭入鹿は静かに打ち明ける。

 いつものお嬢様口調ではなく、どこか迷いの滲んだ声だった。

 彼女が何かを言おうと口を開きかけたが、弓箭猟虎はそれを待たなかった。

 

「……だから、わたしから離れていったの?」

 

 堪えていた感情が、ついに溢れ出る。

 

「ち、違う!」

「じゃあどうして!?どうしてあの時、病院でわたしを独り置いていったの……!?」

 

 目の奥が熱くなる。喉が詰まる。

 それでも、止まらなかった。

 

「帆風さんの方が……大事だったんじゃないの…!?」

 

 その言葉に、入鹿は一瞬息を呑む。

 戸惑ったように目を伏せ、それでも震える声で答えた。

 

「それは…確かにあの時は気が動転していて、帆風さんと二度と会えなくなってしまうと思って………」

 

 自分の言葉を噛み締めるように、入鹿は拳を握る。

 

「あの後、病院に戻ったら猟虎ちゃんがいなくて…、色んな人に聞いて、探し回ったりした……。でも…」

 

 唇を噛み締める。悔しさが滲んだ声が、静かに続く。

 

「……全然誰も相手にしてくれなくて……っ」

 

 弓箭猟虎はふと、あの日のことを思い出していた。

 病室を飛び出した後、無我夢中で走り回って――気づいたら、病院の屋上で眠っていた。

 

(……結局、わたしはあの時、どこにも行けなかったんだね)

 

 そんな猟虎の思考を断ち切るように、入鹿の静かな声が響いた。

 

「……猟虎ちゃんとは、いつも一緒にいるものだと思ってたら、いつの間にか心の方が離れていったんだね」

 

 入鹿はゆっくりと猟虎の方を見た。

 

「猟虎ちゃんに寂しい思いをさせて……本当にごめん」

 

 一度、息を飲み込む。

 

「……って、口ではいくらでも言えるよね」

 

 そう言うと、入鹿は手を伸ばし、そっとマイクを持ち上げた。

 

「なら……歌で伝えるわ――わたしの、気持ちを」

 

 入鹿は静かに目を閉じ、一度深く息を吸い込んだ。

 手に持ったマイクをぎゅっと握りしめ、躊躇いがちに口を開く。

 

 ――最初の一音が、そっと部屋に解き放たれた。

 震えるような優しい歌声だった。

 

「――♪宙に浮かんだ君の言葉はいつも、僕を救ってくれた」

 

 声はかすかに揺れていた。けれど、一度歌い始めると、次第にその声音は芯を持ち、力強さを帯びていく。

 佐天はその歌詞に聞き覚えがあった。

 

(……この曲、確かアリサさんの…)

 

 そう思いながら、じっと耳を傾ける。

 入鹿の歌声は続く。

 

「♪近すぎる距離 当たり前過ぎて 忘れそうになる」

 

 猟虎は、無意識のうちに息を呑んだ。

 最初はただ、入鹿の声を聴いていただけだった。

 けれど、歌詞が進むにつれ、その一言一言が胸の奥に染み込んでくる。

 

(……入鹿ちゃん)

 

 言葉だけでは届かなかった気持ちが、旋律に乗って心に流れ込んでくる。

 入鹿の歌が、かつて二人の間にあった時間や思い出を、一つずつ呼び覚ましていく。

 

 ――あの頃、いつも一緒だったこと。

 ――実験で緊張している自分の手を、入鹿がそっと握ってくれたこと。

 ――才人工房の屋上で、夕日を見上げながら、みんなで過ごした日。

 

 音が記憶を刺激し、感情を揺さぶる。

 胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じた。

 そして、その瞬間――理屈ではなく、ただ自然に。

 

 ガタッ。

 猟虎は、衝動のままに立ち上がった。

 ヴァイオリンケースを開き、迷いなく楽器を構える。

 そして、入鹿の歌声に応えるように、ゆっくりと弓を動かした。

 

 ――澄んだ音色が、カラオケルームに響き渡る。

 入鹿は一瞬、驚いたように目を見開いた。

 けれど、すぐに口元を綻ばせる。

 

(……猟虎ちゃん)

 

 歌声とヴァイオリンの旋律が重なり合う。

 まるで、ずっと言えなかった想いが、音楽を通じて交わされていくようだった。

 

 入鹿の声が、感情の熱を帯びて響く。

 猟虎のヴァイオリンが、それに寄り添うように、柔らかく、優しく音を紡ぐ。

 

 二人の音が、ゆっくりと溶け合っていく。

 それは、途切れかけた絆を、もう一度を繋ぎ直すかのように――。

 

 

 

「――お二人とも、素晴らしいご演奏でした」

 

 帆風が感嘆したように微笑みながら、穏やかに手を叩く。

 佐天も、思わず興奮気味に声をあげた。

 

「にしても、弓箭さんもARISAの曲を知ってたんですね!」 

 

 入鹿は小さく頷くと、どこか懐かしそうな表情を浮かべた。

 

「そうですね。『アタリマエの距離』は結構好きでしたので、何度も一人で練習してました」

 

 猟虎もヴァイオリンを丁寧にケースに収めながら、ぽつりと口を開く。

 

「ARISAさんの曲は前にクラスの皆さんが話題に出してましたので、わたくしも聴いてみたことがあります…。あ、わたくしはその話の中には入っていけかったんですけど…」

 

 そう言って目を伏せる猟虎を、佐天は心の中で苦笑する。

 

(あはは…、なんか弓箭さんらしいな)

 

 入鹿はじっと猟虎を見つめる。

 

「……猟虎ちゃんのヴァイオリン、すごく綺麗だった。優しくて、暖かくて……やっぱり、すごい」

 

 猟虎が驚いたように顔を上げた、その瞬間――

 チュッ。

 不意に、入鹿が猟虎の頬にそっと唇を寄せた。

 

 ――一瞬の静寂。

 

「いいいいい入鹿ちゃん、(わたし)、もう高校生だよ…!?」

 

 猟虎の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

 耳まで熱を持ち、慌てたように身を引こうとするが――

 入鹿は、そんな猟虎をぎゅっと抱きしめながら、ふわりと微笑む。

 

「いいの!」

 その一言には、何の迷いもなかった。

 猟虎は困惑しながらも、入鹿の腕の温もりを感じると、抵抗する力が抜けていくのを感じた。

 

 抱きしめられたまま、彼女は小さく息をつく。

 二人はしばしの間、何も言わず、ただ抱きしめ合っていた。

 

 そんな二人の様子を、佐天涙子と帆風潤子は思わず顔を見合わせる。

 

(あれ……なんかすごく尊いものを見てしまった気がする)

 

 言葉にするのは少し気恥ずかしくて、二人は代わりに微笑み合った。

 カラオケの賑やかなBGMとは裏腹に、その一室だけが穏やかで、温かな時間が流れていた。

 

「あっ、そうだ」

 

 何かを思い出したかのように、入鹿は急いでポケットを手探りし、何か小さな物を取り出した。

 

 それはカエルの形をしたキーホルダーだった。

 

「これ、イベントで2個もらったから、猟虎ちゃんにも1個渡そうと思ってたの」

 

 入鹿は少し照れくさそうに微笑みながら、そっと猟虎の手のひらを置く。

 

 猟虎はそれをじっと見つめた。

 

(入鹿ちゃんったら…こんなカエルが好きだったなんて…まだまだ子供っぽいところもあるんだ…)

 

 そう思うと、どこか懐かしくて、心の奥が温かくなった。

 

「……あ、ありがとう」

 

 言葉にするのが少し恥ずかしくて、猟虎はそっとキーホルダーを握りしめた。

 

 すると、ふと佐天のことが脳裏をよぎる。

 猟虎はちらりと彼女を見て、少し戸惑いながらも口を開いた。

 

「あの、さ、佐天さん……ありがとうございます。おかげで、入鹿ちゃんとまた話せるようになって……」

 

 佐天はにっこりと笑い、ひらりと手を振る。

 

「いやぁ〜あたしは大したことは…。いえ、どういたしまして!」

 

 猟虎は再び手元のキーホルダーに目を落とす。

 ――仲直りの印。

 小さなカエルのマスコットが、どこか愛おしく思えた。

 

「仲直り、できてよかったですね。弓箭さん」

 

 佐天の言葉に、猟虎はぱっと顔を上げた。

 

「……はい!」

 

 それは初めて見る、屈託のない、心からの笑顔であった。

 

 そんな猟虎を見届けると、佐天はふと思い出したように手を打つ。

 

「せっかくカラオケに来たし、あたしも何か歌おうかな!ARISAといえば、『telepath』を練習してきたから、歌いたいな!」

 

 明るい声が響き、場の空気が自然と和らぐ。

 

 こうして――長い間すれ違っていた姉妹の距離は、ゆっくりと、けれど確かに縮まっていった。

 

 

 

 ――そして、時は現在へと至る。

 弓箭猟虎は、手の中のゲコ太のキーホルダーをそっと見つめていた。

 

(……入鹿ちゃんと、おそろい)

 

 その小さなマスコットが、どこか温かいものに感じられる。

 唇に浮かぶ微かな笑みを隠すように、弓箭はそっと歩き出した。

 夜の街灯が、彼女の影を優しく照らしていた。

 

 

     ◇

 

 

 第七学区にある、七階建てのマンション。

 コンクリートの建物は夜の闇に溶け込むように静かに佇んでいた。ところどころに灯る窓の明かりが、無機質な壁面を柔らかく照らしている。

 雨が降りしきる中、一人の少女が足早にエントランスへと駆け込んだ。

 

「――ただいま」

 

 警策看取は少し湿った息をつきながら、マンションの一室のドアを開ける。室内の温かい空気が、冷えた体を少しだけ和らげた。

 

「あっ!みーちゃん、おかえりなさい!」

 

 明るい声が迎える。リビングのソファからひょいと顔を出したのは、部屋着姿の少女だった。

 長い茶髪がふわりと揺れる。柔らかな表情に、どこか幼さを残した笑顔。

 少女の名はドリー。警策の同居人であり、大切な友人でもある。

 

「って、みーちゃん、びしょぬれじゃない!?」

 

 警策の姿を見るなり、ドリーの笑顔はすぐに驚きへと変わった。

 ぱたぱたと駆け寄りながら、心配そうに目を丸くする。

 

「…ああ、急に降り出したんだ。傘、持ってなくてサー」

 

 警策は軽く息をつきながら、水分でずっしり重くなっていそうな長い前髪をかき上げた。

 雨を吸った生地が肌に張りつき、冷たい感触がじわりと背筋を伝う。シャツの布地は湿気を帯びて淡く透け、白い肌の輪郭がぼんやりと透けて見えた。

 

「もう、かぜひくよ!タオル、もってくる!」

 

 言うか早いか、ドリーはぱたぱたと部屋の奥へと走っていった。

 警策は小さく笑いながら、彼女が持ってきたタオルを受け取る。 

 

「ちょっとシャワーを浴びてくるから、待っててね」

 

 冷えた体に、じんわりと温かい空気が広がっていくのを感じながら、警策は自室へと向かった。

 

 濡れた制服を脱ぎ、バスタオルでざっと長い髪を拭う。

 肌に触れる布の温かさが、ようやく少しだけ体を落ち着かせた。

 ――それなのに、心の奥にはまだ冷たいものが残っている。

 

 警策は無意識に息をつく。思い出すのは、数時間前の戦闘――

 

 

 

 時ヶ谷との激しいぶつかり合いの最中、突如としてそれは起こった。

 冷凍睡眠装置に横たわっていたはずの少女が、突如として目覚め、装置の開閉口を強引にぶち破って中から這い出たのだ。

 

 直後、閃光。

 

 視界が白く染まり、次いで爆ぜるような衝撃が辺りを襲う。

 反射的に身を引いた警策は、その異様な光景に思わず目を見開いた。

 あの時ヶ谷ですら、珍しく感情をあらわにしていた。

 

 すべて一瞬の出来事だった。

 施設はほとんど廃墟と化し、瓦礫が崩れる音が耳をつんざく。

 少女は光の残滓を引きずるように、ふらつきながらも出口へと走っていた。

 

 ――追うべきか?

 

 そう思った刹那、耳を裂くようなサイレンの音。

 これだけ派手にやらかして、警備員(アンチスキル)が動かないわけがない。

 

 警策は一瞬、時ヶ谷と視線を交わした。

 互いに何も言わなかったが、どちらも理解していた。

 ここは、一旦退くべきだ――。

 

 

 

 シャワーを浴び終え、湯気に包まれながら、じんわりと体の冷えが引いていくのを感じる。

 濡れた髪の滴をバスタオルで拭いながら、肌の水分を丁寧にぬぐう。

 

 それから、ゆったりとした部屋着に袖を通し、ドライヤーのスイッチを入れた。

 温風が髪を撫でる心地よさに浸っていると、不意にノックの音が響いた。

 

「みーちゃん、はいっていい?」

「どうぞ」

 

 ドアが小さく軋む音とともに、ドリーがひょこっと顔を覗かせる。

 手には何か小さなものを握っていた。

 

「これ、きょうイベントでもらったんだ。いっぱいもらったから、みーちゃんとみさきちゃんにもいっこずつわたそうとおもって」

 

 そう言いながら、警策の手のひらにちょこんと乗せられたのは、カエルの形をしたキーホルダーだった。

 

(……また、あのカエルか)

 

 ふと足元に視線を落とす。

 並んで揃えられた自分とドリーのスリッパにも、同じモチーフのカエルがちょこんと鎮座していた。

 警策は心の中で小さくため息をつく。どんだけこのカエルのコトが気に入ってるんだ――そんなことを思いながらも、口元には自然と穏やかな笑みが浮かんだ。

 

「そっか、ありがとうね。うれしいわ」

 

 そう言ってキーホルダーを指で軽く弾く。ドリーは満面の笑みを浮かべながら、ぴょこんと小さく跳ねるように言った。

 

「えへへ、これでみーちゃんとおそろいだね!」

 

 まるで子供みたいに無邪気な様子に、警策は思わず肩の力を抜いた。

 ふと、手のひらのキーホルダーを見つめる。

 

(……まあ、今は肩の力を抜いてもイイか。あのコの調査はカイツちゃんに任せたし、少しくらい息抜きしても問題ないっしょ)

 

 ゆるりと目を上げ、目の前のドリーに問いかける。

 

「ねえ、ドリー。明日、一緒に遊園地に行かない?」

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