(AM09:00)
第七学区駅前。
弓箭猟虎は、駅の改札近くに立ち、ちらりとスマホの画面を確認した。佐天涙子からのメッセージが数分前に届いている。
『もうすぐ着きますよ!リコも一緒!』
少し肌寒い秋の朝。駅前には通勤・通学の人々が忙しなく行きかっているが、彼女はその喧噪とは無縁のように、品のある落ち着きでそこに佇んでいた。
彼女の今日の装いは、クラシカルなチェック柄のワンピースに、白いブラウスを合わせた上品なコーディネート。襟元には小さなリボンが結ばれ、袖口のフリルがふわりと風に揺れている。足元は少しヒールのあるショートブーツ。
(少し、おしゃれしすぎましたかしら……?)
普段より少しだけおしゃれを意識したコーディネートだったが、それは今日が特別な日だから――というよりは、単に佐天との外出に合わせてのことだった。
(そろそろでしょうか……)
と、そんなことを考えているうちに、遠くから元気な声が響いてきた。
「おーい!弓箭さーん!こっちこっち!」
視線を上げると、駅の階段を駆け下りてくる佐天涙子の姿が目に入る。
彼女は黒いカーディガンを羽織り、白シャツを着崩していた。すらりとしたパンツスタイルが、彼女らしい軽やかな雰囲気を際立たせている。
手を振りながら駆け寄ってくる彼女の隣には、もう一人、純白のワンピースを身にまとった少女――リコの姿があった。
絹のように艶やかな長い髪が揺れ、白いワンピースの裾がふわりと舞う。まだ自分のものとして馴染んでいないのか、彼女はどこか所在なさげに佐天の後をついてきている。
「お待たせー!あれ?弓箭さん、なんか今日はオシャレしてませんか?」
佐天は弓箭の姿を見つけるなり、ぱっと表情を輝かせた。弓箭の服装をまじまじと見つめ、口元に楽しげな笑みを浮かべる。
「……たまには、こういう格好もよろしいかと」
弓箭は少し照れたように視線をそらしながら、そっと髪をかき上げる。
ふと、隣に立つ少女へと目を向けた。
「おはようございます、リコさん」
柔らかく微笑みかけると、リコは少しきょとんとした後、少しぎこちなく口を開いた。
「……お、おはよう、らっこ」
そう言いながら、リコはそっと佐天の袖をつまんだ。その仕草に、弓箭はわずかに目を細めた。
まだ戸惑いが残るものの、こうして言葉を交わすたびに、少しずつ馴染んでいくのがわかる。
「よーし、それじゃ行きましょうか?――遊園地へ」
佐天の弾んだ声に背を押されるように、弓箭とリコはふと顔を見合わせ、自然と歩をそろえる。
秋の空の下、三人の足音が重なり、軽やかに響いていった。
(AM9:17)
第六学区。
アミューズメント施設を集約し、サービスやアミューズメント分野を徹底して研究、実験するための区画である。学区全体が巨大な遊園地のような構造になっており、遊園地をはじめ、プール、ホテル、劇場など、多彩な施設が盛り込まれている。
娯楽産業の最前線とも言えるこのエリアだが――
「――『実は地下に秘密のカジノがある』とか『見慣れないマスコットは誘拐犯がこっそり紛れ込んでいるのだ』などの、怪しい噂も絶えない……らしいです」
電車で第六学区に到着し、遊園地のゲートをくぐるなり、佐天は楽しげにそんな話を持ち出した。
「……いかにも遊園地によくある都市伝説って感じですね」
弓箭はどこか呆れたように肩をすくめる。
「えー、でも実際にそういうのがあったら面白くないですか?」
佐天は笑いながら続ける。
「例えばさ、遊園地の裏側には本当に秘密の通路があって、夜になると能力者たちが集まう地下格闘場が開かれてる……とか!」
「ふーん、まあ、ありえなくはないでしょうね」
弓箭は興味なさげに言いながらも、その目には微かに思案の色が浮かぶ。
「でしょう!」
佐天は嬉しそうに手を打った。
(そういえば、『スクール』にいた頃、能力者同士が命を賭けて戦う地下格闘場――『コロシアム』の噂を聞いたことがありますね…詳しいことは分りませんが)
一方、その話を聞いていたリコは、少し不安そうに二人の袖をきゅっと掴んだ。
「……本当にそんなのがあったら、怖い……かも」
か細い声に、佐天ははっとして表情を和らげる。
「あっ、ごめん。怖がらせるつもりじゃなかったんだけど……」
慌てて謝りつつも、すぐに明るい声で続けた。
「でもご心配なく!何かあったら、弓箭さんが何とかしてくれるからね!」
「らっこが?」
リコがきょとんとした顔をすると、佐天は自信満々に頷く。
「そうそう。このお姉さん、可愛らしい見た目とは裏腹に実は結構強いんだよ!(`・∀・´)エッヘン!!」
「ちょっと、何故いきなりわたくしに飛び火が…」
弓箭は呆れたようにため息をつきながらも、どこか諦めたように肩をすくめた。
(――なんだか、妙なフラグを立てられた気がするのですが……?)
(AM09:45)
目の前にそびえ立つジェットコースターのレールは、まるで迷路のように空へと伸び、幾度となく急降下と急上昇を繰り返していた。絶叫と歓声が入り混じる中、三人は乗り場の列に並ぶ。
「遊園地と来たら、まずはこれでしょ!」
佐天がわくわくした様子で拳を握る。
「……この高さ、なかなかのものですね」
弓箭は顔を上げ、レールの頂点を見つめながら淡々と呟く。その表情には動揺の色はないが、ほんのわずかに眉が寄っている。
「……あの、これ……すごく速そう……」
リコは列の中で身を縮めながら、不安げにコースターを見上げる。
「大丈夫大丈夫!一度乗ったら意外と楽しいって!」
「……ほんと?」
「ほんとほんと!ほら、弓箭さんも言ってあげて!」
急に話を振られた弓箭は、軽くため息をつきつつもリコの方を見た。
「ええ、大丈夫です。むしろ、スリルを楽しむものですよ」
「……すりる?」
リコの表情に不安が残るが、それでも意を決したように頷いた。
――そして、ついに三人の順番が来た。
座席に座り込み、安全バーが降りる。佐天の隣にはリコ、反対側には弓箭が座る。
「この時点で結構ドキドキするね!」
佐天が楽しそうに笑いながら言う。
「ジェットコースターとは、こういうものでしょう」
弓箭は淡々とした口調のまま、静かに前を見つめている。
(……佐天さんの隣がリコさんに取られちゃったのは少々残念ですが…)
「……うぅ……」
リコはバーをぎゅっと握りしめ、緊張で身体をこわばらせていた。
カタカタカタカタ――
ジェットコースターがゆっくりと坂を登り始める。下から見上げていた時よりもはるかに高く、地上がどんどん遠ざかっていくのがわかる。
「うわぁ、結構高いなー……!」
「リコさん、深呼吸です。落ち着いて」
「う、うん……」
頂点に近づくにつれ、一瞬だけ静寂が訪れる。
「――ほら、言った通り、意外と――」
ガクンッ!!!
突然の落下。
「きゃあああああああっ!!」
「っ――!」
「きゃっ……!?!」
風が全身を叩きつけるように吹きつけ、視界がぐるぐると回る。急降下、急旋回、予想もつかない動きの連続に、叫び声がかき消されるほどの轟音が響き渡る。
「――は、速すぎ――!」
「……これは、予想以上ですね!」
「ひゃあああぁぁぁ――!!」
リコは必死にバーにしがみつき、佐天は笑いながらも若干顔が引きつっている。そして――弓箭もまた、普段の余裕はどこへやら、風に煽られながらも目を見開いていた。
最後の急降下を終え、勢いのままゴールへと駆け抜けると、ジェットコースターは緩やかにブレーキをかけ、乗り場へと戻っていく。
――ガシャン。
安全バーが上がると、佐天は大きく息を吐いた。
「はぁ―!楽しかった!」
「……え、えっと……」
リコはまだ放心状態で、ふらふらしながら降りようとする。
「あら、大丈夫ですか?」
弓箭が支えるように手を添える。
「……弓箭さん、もしかしてちょっと顔色悪いですか?」
「……いえ、何も問題ありません」
(うぅ、たっぷり1時間かけてセットしておいた髪がぐちゃぐちゃに…)
明らかに髪が乱れ、わずかに息が上がっている弓箭を見て、佐天はくすっと笑う。
「ほんとに~?でも、意外と楽しんでたでしょ?」
「……まあ、思った以上にスリルがありましたね」
そう言いながら、弓箭は乱れた髪をさりげなく整えた。
「じゃあ、次はお化け屋敷行きませんか!」
「……もう少し、落ち着いたものにしませんか?」
「えー?」
そんなやりとりをしながら、三人は次のアトラクションへと歩き出した。
(AM09:45)
観覧車がゆっくりと上昇していく。カプセルの中からは、第六学区の遊園地が一望できた。色とりどりのアトラクションや人々の賑わいが、まるで箱庭のように広がっている。
「すごーい!こんなたかいところからみるの、はじめて!」
ベージュ色のキャスケット帽をちょこんとかぶり、明るいピンク色のパーカーを羽織った少女――ドリーは目を輝かせながら、ガラス越しに外を覗き込んでいた。小さな手が窓に添えられ、身体ごと景色に引き寄せられるような仕草をする。
「せっかくのしゅうまつだし、みさきちゃんもいっしょにきてくれたらよかったのに」
「まあ、アイツは『別件』の調査で忙しいから仕方ないわね」
警策看取は肩をすくめながら答える。
今日の彼女はいつもの紺ブレザー制服ではなく、ゆったりとした黒いパーカーを身にまとい、ポケットに両手を突っ込んで座っている。下は淡い色のショートパンツで、足元には黒いスニーカーと、くしゅっとした白い靴下を合わせていた。
(アイツも大変ね。この前『インディアンポーカー』絡みの事件で誘拐されたとかなんとか……)
ふと、蜂蜜色の少女の顔が脳裏をよぎる。警策はぼんやりと窓の外へと視線を流した。
(……『
一つ片付けば、また一つ。『
――どこかに監禁されているそいつの居場所を探し出し、助け出す。
その手掛かりとなるのは、木原幻生。すでにこの世を去った科学者。
警策はかつて彼の協力者として動いていた時期があり、奴が関わった研究施設やアジトを一通り記憶していた。
だが、それらをしらみつぶしに調べても、大した成果はなかった。
(ひょっとしたら、あのジジィでさえ、そいつの行方を掴めていなかったのかもね)
結局、都市伝説のおかげで正解にたどり着いた――皮肉な話だ。
しかも、その答えが他ならぬ『
とはいえ、未だに分からないことも多い。
あの少女は、一体何者なのか。何のために封印されていたのか。
そして、今はどこにいるのか。
(……時ヶ谷のヤツから、もう少し話が聞ければよかったんだけどね)
『仕事』をほったらかしにして、こんなふうにのんびりしていられるのも、一種の贅沢なのかもしれない。
そんな矢先――
「あっ、みて!ジェットコースターだ!」
ドリーが嬉しそうに窓の外へ指を差す。
警策がその方向へ目を向けると、ちょうどジェットコースターが急降下する瞬間だった。すさまじいスピードで駆け抜ける車両に乗った人々が、歓声とも悲鳴ともつかない叫び声を上げる。観覧車の中までその声が届き、ドリーが「わぁ……!」と感嘆の息を漏らした。
あまりの速さに搭乗者の顔までははっきりと見えなかったが、もし数秒早く視線を向けていれば、見覚えのある顔を目にしていたかもしれない。
ついでに――廃施設から逃げ出したあの少女の姿も。
「ジェットコースター、のってみたいなぁ」
ドリーが憧れたように呟く。
「絶叫系はまだ早いって、あの医者にクギを刺されたからね」
警策は苦笑しながら答えた。
その言葉にドリーは何かを思い出したように、ぱっと顔を輝かせる。
「そういや、あのおいしゃさんって、ゲコたにそっくりなんだよね!はじめてみたときはびっくりした!」
「私も最初は驚いたわ。カエルのような顔に、ふざけた口調だけど……まあ、腕は確かみたいね」
ドリーはクローン人間として生まれ、かつて薬物投与によって寿命が縮められていた。その影響で、今も寿命調整のために定期的にカエル顔の医者の診察を受けている。
「遊園地に行く許可も、やっと出たばかりだし、無理はしないようにって言われてる」
「そっかぁ……じゃあ、ジェットコースターはダメなんだね」
ドリーは少し残念そうに窓の外を眺める。遠くには遊園地のシンボルとも言えるジェットコースターのレールが伸びていた。上空で止まった観覧車のゴンドラからは、それがよく見える。
「まあ、そのうち乗れる日も来るから!」
警策はしゅんとなったドリーを慰めるように軽く寄りかかった。
ふと、ドリーは何かを見つけたようにぱっと顔を上げ、目を輝かせる。
「ねえ、みーちゃん!あれってなに?」
指差す方向へ目をやると、園内の一角に、古びた洋館のような建物が見えた。入り口の上には大きく血塗れのような赤黒い文字で『Haunted House』と書かれている。
「ああ、あれはお化け屋敷だね」
「おばけやしき!しってる、ホンでよんだ!おばけなら、ゆっくりうごくからだいじょうぶでしょ?」
「……お化けと乗り物を一緒にするのはどうかと思うケド」
あまりにも突飛な発想に警策は呆れつつも、観覧車の中で足をぶらぶらさせながら無邪気に笑うドリーを見て、どこか微笑ましく思った。
「ま、絶叫系よりはマシか。いいわよ、お化け屋敷に行こうかな」
「やったー!」
ドリーは嬉しそうに手を叩き、警策も彼女のテンションにつられたかのように小さく笑った。
観覧車がゆっくりと地上へ向かい始めたのを感じ、やがて、ゴンドラは着地し、扉が開く。
ドリーは勢いよく立ち上がると、警策の袖をちょこんと掴んだ。
「はやく、みーちゃん!」
「はいはい、そんなに急がなくてもお化けは逃げやしないわよ」
口元にわずかな笑みを浮かべつつ、警策は歩き出す。
ドリーは袖を握ったまま、小さく弾むような足取りでついてくる。
二人の楽しげな足取りは、そのままお化け屋敷へと向かっていった。
(AM10:15)
お化け屋敷の入り口をくぐると、途端に周囲の光が薄れ、暗闇が支配する空間が広がった。じめっとした空気が肌にまとわりつき、遠くからかすかに不気味な笑い声が響いてくる。
「る……るいこ、ちょっとこわい…かも」
リコが佐天の袖をぎゅっと掴み、小さく震える。頼るようなその仕草に、佐天は優しく微笑んだ。
「大丈夫大丈夫、お化けなんて全部作り物だから!」
明るい声でそう言いながら、ぽんぽんとリコの頭を撫でる。その調子にはまるで恐怖の気配がない。
一方、その背後を歩く弓箭は、どこか普段とは違う緊張感を漂わせていた。鋭い眼差しは周囲を見渡し、肩に微かな固まりが見える。
(……暗闇は得意だけど、人間とお化けは別問題なんです!)
狩猟術に長けた彼女にとって、闇の中で敵を察知するのは造作もない。しかし、『見えてはいけないもの』がいるかもしれない場所での静寂は、普段の感覚とはまるで違っていた。背後から這い寄るような圧迫感が、冷たい指のように首筋をなぞる。
佐天はそんな弓箭の様子をちらりと横目で盗み見る。
(あれ?弓箭さん、なんか……いつもより動きが硬くない?)
普段なら堂々とした足取りのはずが、どこかぎこちなく、歩幅も微妙に狭い。時折、わずかに肩をすくめるような仕草さえ見せる。
(ふふっ、なるほどね~?)
佐天の口元が悪戯っぽく歪む。
「リコは怖がってるけど、弓箭さんは平気っぽいですね。流石です!」
軽い調子で言うと、弓箭の肩がピクリと跳ねた。だが、すぐに表情を整え、きっぱりと言い放つ。
「と、当然です。お化けなどへっちゃらですわ」
その声がほんのわずかに上がっているのを、佐天の耳はしっかりと捉えていた。
(……うんうん、これは間違いなくビンゴだね~)
佐天はちょっぴり小悪魔めいた笑みを浮かべると、さらりと口を開く。
「そういえばさ、このお化け屋敷、ちょっとした都市伝説があるらしいですよ」
「か、怪談とかですか?」
弓箭がわずかに息を呑む。
「そう。ここって、昔は別の建物だったんだけど……ある日、お客さんの一人が行方不明になったんだって。出口から出てこなくて、どこを探しても見つからなかった。それ以来、こんな噂が流れるようになったんです」
「ど、どのような……?」
リコの声がかすかに震える。
「『余分な影』がある、って話」
「余分な……影?」
「うん。普通、人の影って一つだけでしょ?でも、ここでは、気づいたら『自分の影が増えている』ってことがあるんだって……」
その言葉に、弓箭の表情が一瞬固まる。彼女の目に映るものが、いつもとは異なる不穏な空気をまとい始めたかのようだった。
「でね、その影の正体は分ってないんだけど、『影が二つになったら、もう外には出られない』って言われてるんですよね……」
「なっ……!」
弓箭が一瞬だけ肩をすくめるのを、佐天は見逃さなかった。
その瞬間――
パチンッ!
館内の薄暗い照明が、一瞬の間を置いてすべて消えた。
辺りが完全な闇に包まれる。
「きゃあぁっ!!」
リコが悲鳴を上げ、佐天の腕にしがみつく。
(えっ、このタイミングで停電?)
佐天も驚きを隠せなかった。
ゾワリと背筋が冷える。時間の流れが止まったような静寂。
鼓動だけが、耳の奥でいやに大きく響く。
――そして、数秒後。
ピッ。
照明が戻った。
「……ふぅ」
一同がホッと息をつく。だが――
「ら、らっこ……後ろ……」
リコの小さな声が、空気をざわりと揺らした。
視線は弓箭の背後に釘付けになっている。
震える指が、ゆっくりと弓箭の足元を指し示した。
「?」
弓箭は、おそるおそる振り返る。
――自分の足元に伸びる影の隣に、もうひとつ、黒い影が佇んでいた。
「……え?」
呆然とする弓箭。
冷たい汗が背中を伝う。喉がひゅっと縮こまり、息が詰まる。
指先がわずかに震え――
――そして。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」
弓箭の絶叫が、館内に響き渡った。
(えっ、なに今の!?)
佐天の表情が引きつる。
……もちろん、先ほど話した都市伝説は、すべて弓箭をからかうためのでっち上げなのだが――
(AM10:15)
かすかに漂う線香のような香りが鼻をくすぐる。狭い廊下には薄暗いランプが点々と灯り、陰が揺らめいていた。まるで何かが潜んでいるかのような不気味な静けさが支配している。
警策はそんな環境にも動じることなく、淡々と歩を進めていく。
一方で――
「ううっ……」
ドリーは今にも泣き出しそうな顔で警策の腕にしがみついていた。小柄な身体はびくびくと震え、潤んだ瞳が怯えに染まっている。
「そんなに怖い?来たいって言ったのはドリーじゃないか」
「だ、だって……おばけって、ホンでよんだのとぜんぜんちがうもん……!」
「どんな本を読んだか知らないケド……まさか、可愛いシーツをかぶった幽霊とか、フワフワ飛んでるやつとかじゃないでしょうね…?」
警策は呆れたように言いながらも、ドリーの手を振り払うことはしなかった。小さな手が彼女の袖をぎゅっと掴んでいるのを感じながら、軽く肩をすくめる。
「み、みーちゃん、はなれないで……!」
ドリーは不安げに見上げながら、さらに袖を引っ張る。その仕草がまるで怯えた子猫のようで、警策は思わずくすっと笑った。
「大丈夫、私はちゃんとここにいるから」
「ほんとうに…?」
「ホントに決まってるでしょ。……ほら、こうすれば安心?」
そう言って、警策はドリーの頭をぽんぽんと優しく撫でた。ドリーは一瞬きょとんとした後、ぱぁっと顔を輝かせる。
「えへへ……みーちゃんのて、あったかい」
「まったく……怖がりなんだから」
警策が苦笑しながらも、どこか楽しそうに呟いた、そのとき――
バンッ!!
天井から突如として血まみれの女が吊り下げられた。
「ひゃっ!」
ドリーが反射的に警策の背中にしがみつく。彼女の長い髪が逆立ち、体から微弱な電流が弾けた。
「ちょっ、ドリー。落ち着いて、これはただの作り物だって!」
警策が慌てて宥めた、その時――
ビリッ!
驚きのあまり、ドリーは全身から強烈な電流を放つ。青白い閃光が館内を照らし、影が一瞬くっきりと浮かび上がる。
そして――
パチンッ!
館内の照明が一斉に落ちた。
真っ暗になった館内に、不吉な沈黙が訪れる。
「………ドリー」
「わ、わたしなんかやっちゃった……?」
先ほどの血まみれの女役のスタッフが、天井から引きずられるように無理に体を捻りながら降りてきた。肩を激しく上下させ、顔を引きつらせている。
直後、かすかな懐中電灯の明かりが灯る。
「び、ビックリした……!もう!なんなの、あなたたち!」
警策は薄暗がりの中、ため息をつきながらドリーを見やる。
(人を怖がらせようとして、逆に驚かされるとは……)
「ご、ごめんね……おどろきのあまり、つい……」
ドリーはしゅんとしながら、自分の指先を見つめている。指先からはまだかすかに静電気が弾けていた。
一方、スタッフの女性は照明が落ちたままなのを見て、頭を抱えた。
「どうしよう……他のエリアも暗くなってるかも。これじゃ営業に支障が出るわね」
「すみません、うちの子がご迷惑をお掛けしました。照明の方は私が何とかします」
警策は申し訳なさそうに言うと、スタッフの女性は一瞬戸惑ったようにまばたきした。
「えっ、あなたが……? でも、そんな簡単に直せるものなの?……」
「大丈夫です。ちょっとだけお時間をください」
そう言って、警策は手のひらから小型の液体金属の人形を生み出した。
人形はスルリと壁の隙間から溶けるように入り込み、配電盤へと忍び込む。
「ふーん、さっきの放電で内部の細い配線が焼き切れたみたいだけど……このコなら直せる」
警策はスマホを取り出し、画面をチェックする。
人形に付けた小型カメラが映し出すのは、配電盤の奥に入り組んだ細い配線。
断線した箇所が映し出され、警策は軽く息をついた。
「……えっと、このあたりね」
人形が装置の内部を這い回り、柔軟な体を活かして狭い部分へと潜り込んでいく。
スルリと伸びた腕が細い配線を掴み、小さなスパークが走る。
細やかな動きで断線部分を繋ぎ直していくのを、警策はスマホ越しに確認した。
スタッフの女性もスマホの画面を覗き込み、息を吞んだ。
「な、何これ……すごい……!」
「もう少しで終わります」
数分後――
ピッ。
照明装置の電源が復旧し、館内の明かりがふわりと戻っていく。
「おお、直った!」
スタッフの女性が驚きと感激の声を上げ、辺りを見回した。
暗闇に包まれていた空間が、一瞬で日常を取り戻す。
「本当に……助かりました……!」
彼女は深々と頭を下げ、ほっとしたように笑った。
「あなたがいてくれなかったら、復旧に何時間かかったことか……本当にありがとう!」
「いえ、お役に立てたなら良かったです」
警策は肩をすくめて軽く答える。
「みーちゃん、すごい!!」
ドリーが弾けるように警策の腕にしがみついた。
大きな瞳がきらきらと輝き、無邪気な喜びが全身からあふれ出している。
「ほんとになおしちゃった! みーちゃんって、なんでもできるんだね!」
「いや、そんなことは……」
警策が少し困ったように視線を逸らすと、ドリーはますます興奮した様子で続ける。
「……みーちゃん、ヒーローみたい!」
「ヒーローって……」
警策は苦笑しつつも、ドリーの純粋な賞賛が少しだけくすぐったく感じた。
直後だった――
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」
突如、別のエリアから響き渡った悲鳴。館内の空気が一変し、周囲の客もざわめき始める。
警策はピクリと眉を動かし、声のした方に視線を向けた。
(――この声、どこかで……)
このとき彼女はまだ知らなかった。
配電盤内部の金属板が偶然反射し、とある少女の影のすぐ隣に『