とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase6「恩師 -メンター-」

(AM10:45)

 

「……高っっ!!!」

 

 佐天は値段表を二度見し、絶句した。

 お化け屋敷を後にし、一息つこうとキャンピングカーを改造したような現代風の屋台に立ち寄ったのだが――

 

 ホットドッグ、一個二千円。

 目を疑いたくなるような数字が堂々と掲げられていた。

 

「……一体どんな材料を使ったらそんな値段になるの?」

「行楽地特有のぼったくり価格でしょう。別に驚くほどのものでもないと思いますが――あっ、ホットドッグ三つください」

 

 そう言って、弓箭は何のためらいもなく注文した。

 流石お嬢様。金銭感覚は庶民とは桁が違う。

 

「はい、ご注文ありがとうございました!」

 

 定番の営業スマイルでホットドッグ三つを差し出され、佐天は思わず頭を抱えた。

 

(……いや、見た目ふつう過ぎない?)

 

 別にパンが金箔でコーティングされてるわけでも、具材が超豪華なわけでもない。むしろ、どこにでもある普通のホットドッグにしか見えない。

 これ、本当に一個二千円もするの?と佐天が呆気に取られていると、横で弓箭はホットドッグを三つ受け取り、三人分の料金を払おうとする。

 

「ちょ、ちょっと待って!自分の分くらい自分で払いますって!」

「ん?これぐらい別にいいですよ。大した金額じゃありませんし」

 

 弓箭に涼しい顔で答えられ、佐天は引きつった笑みを浮かべる。

 名門・枝垂桜学園に通う本物のお嬢様、弓箭猟虎。そのスケジュールの違いを改めて思い知らされる佐天だった。

 

 三人は、遊園地のベンチに腰掛け、それぞれのホットドッグを手にした。

 空は快晴、園内には楽しげな音楽が流れ、先ほどのお化け屋敷の緊張感が嘘のように和らいでいる。

 

「いただきまーす!」

 

 佐天が勢いよくホットドッグにかぶりつくと、リコもそれに倣って頬張った。

 弓箭は落ち着いた仕草で、一口ずつ丁寧に食べ始める。

 

 三人のホットドッグは、一見すると同じもののように見えるが、実はそれぞれ違うソースを選んでいた。

 

 佐天は定番のケチャップ&マスタード。甘さと酸味、ピリッとした刺激のバランスが絶妙だ。

 リコはチーズソースをたっぷりかけており、トロトロのチーズがパンとソーセージに絡んでいる。

 そして弓箭は、オーロラソースを選んでいた。ほんのり甘く、上品なコクがある、大人な味わい。

 

 しかし、数秒後――

 リコが不思議そうに首をかしげた。

 

「ん……?」

 

 彼女は手に持ったホットドッグをじっと見つめると、もう一口かじる。

 そして、困惑した表情のまま佐天と弓箭に向き直った。

 

「この味、なんかちがう…?」

「え?」

 

 弓箭も自分のホットドッグを見比べる。ぱっと見は違いがない。

 だが、よく見るとリコのホットドッグにかかっているソースは、ピンクがかったオレンジ色。

 つまり、それは本来弓箭が選んだものだった。

 

「あ、もしかして……これ、わたくしの!?」

 

 弓箭は慌ててリコの手からホットドッグを取り、自分のと交換した。

 

(ま、まさか完全に間違えて食べていたなんて……!)

 

 自分のホットドッグについた、リコの小さな歯形が目に入る。途端に弓箭の心臓が跳ねた。 

 最初は少し躊躇ったものの、やがて意を決して手に持ったホットドッグを一口かじる。

 

(普通においしい……じゃなくて、今のって、完全に間接キスじゃないですか!?)

 

 顔がじわりと熱くなるのを感じ、慌てて目をそらす。

 一方、リコはまったく気にした様子もなく、受け取ったホットドッグを平然と食べ始めた。

 

 その天真爛漫さが、余計に弓箭の胸を締めつける。

 弓箭は顔を背けながら、何とか気まずさを隠そうとする。

 

(あっ、でも相手が子供ですし、そこまで気にしなくても…)

 

 しかし、それが甘い考えだとすぐに思い知らされた。

 まるで追い打ちをかけるように――

 

「そういえば、どれほど味が違うものか……少し興味が湧きました。弓箭さん、一口いいですか?」

「えっ」

 

 佐天は返事も待たず、弓箭のホットドッグをひょいと取り、何の迷いもなくひと口かじった。

(ええええええええええええ!?)

 

 弓箭の心が悲鳴を上げる。

 

「ふむ……トマトの甘みとマヨネーズのコクが合わさって、まろやかで優雅な味わいですね」

 

 次に、自分のケチャップとマスタードのホットドッグを一口。

 

「こちらは酸味と辛味のバランスが程よく、後味もすっきりしています。どちらも魅力的ですけど、私はやっぱケチャップ&マスタード派かな~」

 

 その食レポっぷりに、さすがの弓箭も呆れる。

 

「い、いきなり真顔で食レポしないでくださいまし……っていうか、今のって……」

 

 間接キスが、さらに重なった。

 

(こ、これが俗に言うリア充度MAXを超えた『超次元級の胸キュンイベント』……!?ま、まさかわたくしの人生にこんな日が訪れるなんて……なんという奇跡……!)

 

 心臓は速く、顔は熱く。普段なら意識すらしない些細なことが、今の弓箭には胸の奥をじわじわと満たしていく。

 気づけば目を伏せ、言葉も出ない。

 

「顔、赤いけど大丈夫ですか?」

 

 佐天が何気ない顔でのぞき込む。

 

「な、なんでもありませんっ!」

 

 弓箭は顔を背け、必死に気まずさをごまかす。けれど、心の高鳴りだけは、どうしても抑えきれなかった。

 リコはそんな二人を見て、「るいこのも食べてみたーい!」と無邪気に笑って近寄るのだった。

 

 

 

(AM11:00)

 

「そういや……あの『影』って、やっぱお化けじゃなかったっぽいですね」

 

 軽い食事を済ませた後、佐天がさりげなく話を切り出した。

 

「……そのようですね」

 

 弓箭は平静を装って返したが、内心ではあの時の自分を思い出し、顔が火照るのを感じていた。

 

(ああ、あんな取り乱して……わたくしとしたことが!)

 

 お化け屋敷で心霊現象を目撃した三人は、その後全速力で館内から逃げ出した。 

 後に運営側から聞いた話によると、直前の停電は、来場者である茶髪のビリビリ少女が驚いて放電したものらしい。そして、同行していたツインテールの少女が、見たことのない能力で照明を復旧させたという。

 あの時弓箭が見た『影』も、照明修理時に偶発的に生じたものと思われる。

 

(しっかし……茶髪ビリビリ少女に、ツインテって……いや、まさかまさか)

 

 一瞬友人二人の顔を思い浮かべる佐天だが、即座にその可能性を否定した。

 

(御坂さんなら停電くらい自分で直せる訳だし、白井さんも生徒会選挙とやらの準備でバタバタしてるって初春から聞いたし……ないない)

 

「――そんなことより、次は何で遊ぼうかな」

 

 佐天が軽く伸びをしながらそう言った。

 

 賑やかな遊園地の通りには、家族連れやカップルが楽しげに行き交っている。陽射しは暖かく、空は高い。けれど、その一方で、彼女たち三人の体力とテンションはすでに若干削られつつあった。

 

「今度こそ、ゆっくりしたものでいこうよ…」

 

 リコが肩を落としながら、弱々しく手を挙げる。序盤のジェットコースターとお化け屋敷のコンボはさすがに刺激が強すぎたらしい。

 

「わたくしも賛成です……」

 

 弓箭も同意し、胸元をそっと押さえる。普段は涼しい顔をしている彼女も、どうやら内心はかなり消耗しているようだった。

 

「まあ、そっか。ジェットコースターにお化け屋敷というのは流石にやり過ぎたかもですね…」

 

 佐天は少し苦笑し、スマホを取り出して時間を確認する。

 

「えーと、11時3分……うん、とりあえず12時まで、他の何かで遊びましょうか。例えば――」

 

 そう言って周囲を見渡し、しばし考え込む。

 

「……ゲーセンとか、どうです? 室内だし、体も休まるし」

「ゲーセン? 行ってみたい!」

 

 リコがぱっと顔を上げて言う。

 

「わたくしも異論はありませんわ」

 

 弓箭も静かに頷く。

 

「よし、決まりっ! さっそく行きましょう!」

 

 佐天が明るく言うと、隣のリコの手を軽く引いて歩き出す。弓箭もそれに続こうと、静かに足を踏み出した。

 ――その瞬間だった。

 

「っ……!」

 

 背筋に、氷のような冷たい感覚が突き刺さる。反射的に振り返るが、そこにあるのはただ、楽しげに行き交う人々の波だけ。

 

「弓箭さん、どうかしました?」

 

 数歩先を歩いていた佐天が、不思議そうに振り返り問いかける。

 

「……いえ、何でもありません」

 

 言いながらも、胸の奥に残るざらついた違和感が拭えない。

 

(誰かに見られてる?気のせいでしょうか…)

 

 一瞬の不安をなんとか押し殺し、弓箭は改めて歩を進めた。

 

 

(AM11:12)

 

 ゲーセンに入ると、周囲にはカラフルなライトが点滅し、賑やかな音楽とゲームの音が響き渡っている。

 にぎやかな雰囲気に、自然と心が浮き立っていく。

 

「さて、最初は何をしようかな?」

 

 佐天はワクワクした表情で周囲を見渡し、目を輝かせながら言った。

 

「お、あそこにプリクラ機がありますね!」

「ぷ、ぷりくら?」

「記念写真のようなものでございますよ。ただし、妙に目が大きく映る代物ですが」

 

 弓箭は少し困ったように微笑んで、心の中で少し考え込んでいた。

 

(前にご学友に見せてもらったことはありますけど、自分で入るのは、ちょっと恥ずかしいですね……)

 

「そうそう! 落書きとかもできて、すっごく楽しいんだよー!」

 

 佐天はリコの手を引っ張り、勢いよくプリクラ機の前へ。

 リコは戸惑ったようにきょろきょろと機械を見回し、わずかに不安げに呟いた。

 

「え、えっと……これって、どうすれば……」

「大丈夫大丈夫! はい、リコ、弓箭さんも入ってください!」

「わ、わたくしも……!?」

 

 一歩下がりかける弓箭。しかし、佐天の楽しそうな表情と、リコの心細そうな顔を見て、仕方なく静かに中に足を踏み入れる。

 

(まぁ……たまには、こういうのも……)

 

「よーし、じゃあ撮るよー! 最初はみんなでピースね!」

 

 佐天が両手で元気よくピースを作って、笑顔を向ける。

 

「こ、こうですか……?」

 

 リコはおずおずと片手でピースを作り、恐る恐るカメラの方を向く。唇は少し緊張で引き結ばれ、ぎこちない。

 

「……わたくしも、ですね……」

 

 弓箭はわずかに頬を赤らめ、片手で控えめにピースを作る。カメラに向けた目は、どこか恥ずかしさと戸惑いが入り混じっていた。

 

 カシャッ!

 

「えー、もっともっと! 次は、弓箭さんも両手でピース、リコもほっぺに手あててみて!」

「えっ、そんな……」

 

 リコは顔を真っ赤にしながら、佐天の指示どおり、ぎこちなく両手でほっぺを押さえた。

 

(な、なにこれ……でも、佐天さん楽しそう……)

 

 わずかに口元を緩める。

 

「わ、わたくしも……? い、いえ、やはり……ええい、ままよ!」

 

 弓箭は覚悟を決め、両手でピースを作る。その手元はわずかに震えていた。

 

(こ、こんな恥ずかしいポーズ……!)

 

 それでも、佐天とリコの笑顔につられて、ほんの少し口元がほころんだ。

 

 カシャッ!

 

「ラストはみんなで肩寄せて、笑顔でピース!」

 

 佐天が二人の肩をぐっと引き寄せる。

 

「ふふっ……意外と楽しいものですね……」

 

 弓箭はそっと肩を寄せ、自然と笑顔になる。

 

(意外と……悪くありませんわね)

 

「うん……なんか……へんだけど、楽しい……かも……」

 

 リコも恥ずかしそうに微笑む。

 

 カシャッ!

 数枚の写真が撮り終わり、画面には撮ったばかりのプリクラ写真が次々と表示される。

 

「わっ、弓箭さんもリコも、すっごく可愛いですね!見て見て!」

 

 佐天は画面を指さし、はしゃぐように笑った。

 

「……これ、これが……わたし……?」

 

 リコは画面に映った自分の、妙に目が大きく、頬がほんのりピンクになった姿をじっと見つめ、照れたように視線をそらした。

 

「う、うぅ……やはり目が異様に大きすぎますわ……」

 

 弓箭も顔を赤くし、思わず口元を押さえる。

 

(ですが……こうして並んで撮ると、不思議と悪くありませんわね……)

 

「よーし、このまま落書きタイムいきますよー!」

 

 佐天はペンを手に取り、画面上の写真にハートマークや星マークを次々と描き加えていく。

 

「ほら、ここに『リコ初プリクラ!』って書いて……」

「あっ、あの、そんな大きく……!」

 

 リコが慌てて佐天を止めようとするが、すでに画面には大きなピンクの文字が。

 

「いいのいいの!思い出だからっ♪」

 

 佐天はにこにこしながら、弓箭の写真の横にも『弓箭さん超キュート♡』と書き込むと、弓箭は顔を真っ赤にする。

 

「さ、さすがにこれは……!」

「ふふっ、良い記念になるのではありませんこと?」

 

 と冗談めかして笑いかける佐天に、弓箭は結局、観念したように微笑んだ。

 やがてプリクラ機から、カシャカシャと写真のシートが排出される。

 佐天がそれを受け取り、嬉しそうに並んだ写真を見つめた。

 

「やったー!ね、いい思い出になったでしょ?」

「うん……楽しかった、かも」

 

 リコは小さく笑みを浮かべる。

 

「わたくしも、悪くありませんでしたわ」

 

 弓箭も静かに頷き、どこか晴れやかな表情。

 

「じゃあ次は――UFOキャッチャー行こうか!可愛いぬいぐるみが取れますよ!」

「ぬいぐるみ……?」

 

 リコが首を傾げると、佐天はにっこり笑って、また二人の手を取った。

 

「うん!リコに似合いそうなの、絶対取ってあげるから!」

 

 そうして三人は、きらきら光るゲームセンターの奥へと歩き出していく。 

 

 

(AM11:20)

 

 ゲーセンの奥まった場所に、ひっそりとした空間があった。賑やかな音楽とゲームの電子音が響く中、その一角だけは少し静かで、カラフルなクレーンゲーム機が並んでいる。

 

「楽しかったかしら?」

 

 警策看取が、隣を歩く茶髪ロングの少女に声をかけた。

 ドリーは手の中に収めたカエルのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、満面の笑みで答える。

 

「うん!すっごくたのしかったよ、『ゆーふぉーきゃっちゃー』!」

 

 その無邪気な笑顔に、警策は思わず穏やかな笑みを浮かべた。

 実をいうと、最初はかなり苦戦していた。目当てのカエルのぬいぐるみはなかなか取れず、何度もアームが空を切るたびに、ドリーの小さな眉が困ったように寄っていく。その様子を見かねて、警策はつい手助けしようと腕を伸ばしかけた。

 だが、その瞬間、ドリーはきっぱりと首を振った。

 

『じぶんでとりたい』

 

 その小さな声は、けれど確かな意志を秘めていた。

 普段なら、誰かに決められ、誰かに与えられるだけだったこの子が、自分の力で欲しいものを掴もうとしている。

 

 ――だから、黙って見守ることにした。

 そしてついに、何度目かの挑戦で、アームがぬいぐるみをしっかりと掴み、ゆっくりと落とし口へ運んでくれた時。

 ドリーは目を輝かせながら、嬉しそうにそのぬいぐるみを抱きしめたのだった。

 

(なんだか…親になった気分みたいね)

 

 そんな風に思っている自分に、少しだけくすぐったさを感じながら、警策はそっとドリーの頭を撫でた。

 

「――それに『ぷりくら』もおもしろかったよ!」

 

 ドリーはそう言って、今度は警策の顔を見上げた。

 

「カオがちょっとへんだったけど」

「ふふ、そりゃあれはそういうものだから」

 

 警策は苦笑しながら、パーカーのポケットに手を差し入れる。指先に触れた小さな写真の束をつまみ上げ、ふと取り出した。

 写真の中には、無邪気にピースを決めるドリーと、いつもの涼しい顔のままカメラ目線を決める自分。

 

「まあ、悪くないわね。こういうのも、たまには」

「つぎはみさきちゃんとさんにんいっしょにとろうよ!」

「アー、そうしよっかな」

 

(アイツの変顔も、ぜひ拝んでおきたいしね~)

 

 警策はふっと口元を緩め、小さないたずら心を胸にしまい込みながら、写真をポケットに戻した。

 二人がしばらく歩いていくと、前方に人混みが出来ているのに気づいた。音楽と笑い声、そして子供たちの叫び声が響き、少しだけその喧噪が警策の耳に届く。

 

「あそこ、なんかにぎやかだね?」

「イベントやってるみたいね」

 

 人々の声がますます賑やかになる中、ドリーは目を輝かせてその方向に向かおうとした。

 

「みてきていい!」

「うん、道に迷わないようにね」

 

 ドリーは無邪気に手を振りながら、すぐに人混みへと走り出した。警策はその背中を一瞬見送ると、少しだけ立ち止まって周囲を見渡す。

 

(あのコも元気ね。まぁ、少し自由にさせてあげてもイイか)

 

 通りを埋め尽くす人々のざわめきが耳に響く。誰かが大声で笑っているのか、楽しげな会話がそこかしこで交わされている。その合間には、ゲーム機から鳴り響く電子音や、クレーンゲームのアームが引き上げる音が耳に届く。色とりどりの光がキラキラと反射し、華やかな空間が広がっている。

 

 警策は一歩、静かに踏み出し、足元を確かめながら人混みを避けるようにゆっくりと歩き出した。忙しなく行き交う人々の姿を横目に、喧騒から逃れるように心地よい静けさを求めて足を進める。

 ──そのとき、不意に人の流れが乱れた。誰かが足をもつらせたのか、急に立ち止まったのか、周囲の波が一瞬だけばらける。

 

 周囲を気にしながら歩いていた警策は、無意識のうちに他の人と近づきすぎてしまい、軽く肩がぶつかった。

 

「…あっ、すみません」 

 

 警策は慌てて謝る。

 

「いいえ、私こそが…」

 

 相手も同じように口を開きかけたが、警策の顔を見た瞬間、その言葉を飲み込んだ。

 警策もまた、その顔を目にした途端、胸の奥がかすかにざわつくのを感じた。

 

 歳は30代前半といったところか。長い髪を無造作に束ね、眼鏡をかけた女性だった。髪には軽くウェーブがかかっており、束ねられてはいるものの、どこか風に揺れるような柔らかさが残っている。

 整った顔立ちと落ち着きのある表情。しかし、その目元には深いくまができており、寝不足のせいか、わずかに疲れた様子が見て取れる。それが却って、彼女の持つ厳格さを際立たせていた。

 

「……警策さん?」

 

 静かな呼びかけだった。

 だが、その声は周囲の喧噪の中でも、警策の耳にまっすぐ届く。一年ぶりに聞くその声に、警策はわずかに眉を動かし、確信を得たように相手を見つめ返す。

 

柊木(ひいらぎ)……先生?」

 

 名前を口にした瞬間、周囲のざわめきが、ほんの少し遠のいたように感じられた。警策の胸の内に、過去の記憶が微かに波紋を広げる。

 目の前の女性――柊木澄玲(すみれ)は、驚きと困惑を半分ずつ堪えた表情で警策を見つめていた。

 二人の間に、ほんのわずかの沈黙が流れる。すぐ近くでは、クレーンゲームの機械音や子供の笑い声が響いているというのに、その一瞬だけ、二人だけの時間がそこに生まれていた。

 

 

(AM11:30)

 

 ゲーセンの奥まった一角、自販機が並んだ休憩スペースがあった。ゲーム機の喧騒から少し離れた場所で、壁際に簡易的なベンチとテーブルが設置されている。

 警策は立ち止まり、自販機の前でポケットを探った。小銭を取り出し、ヤシの実サイダーと抹茶ミルクを一本ずつ買うと、その後者を柊木に差し出す。

 

「……どうぞ、先生の大好物です」

 

 差し出された抹茶ミルクを受け取る柊木の指先は、少し冷たく、細くて骨ばっていた。受け取った彼女は、意外そうに目を瞬かせ、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。

 

「ありがとう。こういうの、久しぶりね」

 

 ベンチに腰掛けると、二人の間には微妙な沈黙が流れる。

 けれど、それは気まずさや居心地の悪さとは少し違っていた。言葉にしなくても、ふとした拍子に昔に戻れるような、そんな懐かしい空気が二人の間に流れていた。

 警策はヤシの実サイダーのプルタブを引き、ジュースの炭酸が弾ける音を聞きながら、静かに口を開く。

 

「先生が、こんなところにいるなんて……意外ですね」

 

 遊園地といえば、子連れの家族かデート中のカップルが訪れるのが普通で、女性教師が一人でふらりと来るには少し場違いに思える場所だ。

 

「今日は娘と一緒に来てて。今ちょうど、ゲーセンでやってるイベントに夢中でね。少しだけ別行動中」

 

 その言葉に、警策は一瞬目を瞬かせた。

 

(へえ、先生に娘がいるんだ……知らなかった)

 

 顔には出さず、すぐに表情を整えた警策が言葉を続ける。

 

「そうなんですか。……こちらも、連れと一旦別れまして。なんだか、不思議な偶然ですね」

 

 その女性――柊木澄玲は、警策がかつて通っていた霧ヶ丘中学の教師である。

 ちょうど一年ほど前、警策看取と時ヶ谷凛音の二人の能力開発を担当していた特別クラスの担任でもあった。

 

「こっちも、一つ聞いてもいいかい?」

 

 柊木が話の流れを変え、少し真剣な顔つきで尋ねた。

 

「何でしょうか?」 

 

 彼女は一瞬、視線を下に落としてから再び警策の目を見据えた。

 

「君は何故、霧ヶ丘を離れたの?」

「…………」

 

 警策の脳裏に、ふと昨日時ヶ谷の言葉が重なる。

 

 ――貴女はあのとき、霧ヶ丘の頂点に立つことができたのに、自らその場所を捨てました。今になって振り返ると、後悔しているんじゃなくて?』

 

 能力の希少価値によって順位付けされる霧ヶ丘では、『液化人影(リキッドシャドウ)』という極めて珍しい能力を発現させた警策は常に頂点(トップ)を君臨していた。

 なのに、その頂点(トップ)に立つ少女は自らその地位を捨て、霧ヶ丘を離れていった。

 警策は少し考え込んだ後、落ち着いた声で答える。

 

「……いろいろ、事情があったんです」

 

 柊木は軽く頷き、視線を外すことなく続けた。

 

「そうか。君がいなくなってから、時ヶ谷さんはね、ずいぶん肩透かし食らったみたいだったよ」

 

 その言葉に、警策は一瞬言葉を失う。

 

「時ヶ谷…さん、がですか?」

 

 柊木は少し微笑んで、感慨深げに言う。

 

「ええ。あの子、君をライバルだと思ってた節があるからね。君が去ったことで、一人で頂点(トップ)に立つのは、きっと…プライドが許さなかったんでしょう」

 

(だから昨日、私との戦いであんなに張り切ってたのか。アイツ……)

 

 内心、呆れたようなため息を吐きながらも、どこか昔のことを思い出すような、懐かしさが胸の奥に滲んだ。

 

 ――この先生は知らない。

 かつてお気に入りの生徒だった二人が、今は『暗部』という薄汚れた世界に身を置いていることを。

 

「先生は、今でも霧ヶ丘に?」 

 

 問いかけた警策の声は、どこか遠い過去を振り返るように静かだった。

 

「ええ、一応ね」

 

 柊木は手元の抹茶ミルクに視線を落とし、静かに一口飲む。

 カップの縁に微かに残る泡が、淡く揺れた。

 その口調には、どこか寂しげな響きが混じっている。

 

「相変わらず、順位と能力に縛られる子たちばかりよ。でも、時々君みたいに、枠に収まらない子が現れる。そういう子ほど…苦労するのよね」

 

 警策はそれを聞きながら、ふと昔の教室を思い出す。

 冷たい数値と評価表。あの世界で、息苦しさを感じなかった日はなかった。

 

「……私たちは、枠からはみ出しすぎたんでしょうか」

 

 能力開発の名門といえば、世間は常盤台ばかりをもてはやす。超能力者(レベル5)を二人も抱えているのだから無理はないだろう。

 だが、霧ヶ丘だって、裏ではそれに劣らぬ化け物を育てていた。

 

(噂に聞く限り、本校の方には『不老不死の怪物を一撃で殺す者』とか、『虚数学区の鍵 』とか、『最強の空間移動系能力者』とか……エグい連中ばかりが籍を置いていたり……)

 

 異能と異端を競い合う学園都市の中で、自分たちがいた霧ヶ丘もまた、例外ではなかった。

 そんな場所で、頂点(トップ)に立ち続けることの重さと孤独を、あの頃の自分は果たして上手く飲み込めていたのだろうか。

 

 その問いかけに、柊木はゆっくりと微笑んだ。

 

「さあね。でも、私は今でも、君たちのことを誇りに思ってるわよ」

 

 ――あぁ、この人は、きっと何も知らないままなんだ。

 警策は、心の奥でひとつ、小さく息を吐く。

 そして同時に、昔と変わらない柊木のその言葉に、わずかに胸の奥が暖かくなるのを感じていた。

 

「で、そんな警策さんは、今どこで何をしてるの?」

「……まあ、先生には縁のない場所で、ぼちぼちやってます」

 

 淡々と告げる警策の言葉に、柊木はわずかに目を細める。

 その表情は、かつて教え子だった少女が、今は自分の手の届かない世界で生きていることを静かに受け入れようとするようでもあり、ほんの少し、寂しげでもあった。

 

「なるほど…ちゃんと新しい居場所を見つけたのね」

 

 言葉の端ににじむのは、教師としての安堵と、追いつけない距離を感じた者だけが持つ、切なさ。

 柊木は抹茶ミルクをひとくち口に含むと、缶の縁についた淡いリップの跡を親指でそっと拭う。

 

「でも、無理はしないでね」

 

 その一言には、教師としての立場を越えた、ひとりの大人としての優しさが滲んでいた。

 警策は少しだけ目を伏せ、返す言葉を探すように視線を泳がせた。

 

「――さ、私もそろそろ娘を迎えに行かないとね」

 

 柊木は簡易的なベンチからゆっくりと立ち上がり、気づけば手にしていた抹茶ミルクを見つめた。

 

「抹茶ミルクありがとう。久しぶりに君と話せてよかった」

「こちらこそ、先生とまたお話ができて嬉しかったです」

 

 その瞬間、警策は自分が笑っていることに数秒遅れて気づく。

 その笑顔は、以前よく見せていた作り笑いとは異なり、どこか自然で、心の底から湧き上がるような温かさを感じさせるものだった。

 

「あっ、一つ言い忘れてた」

 

 去り際、柊木はふと思い出したように足を止め、ゆっくりと振り返り、警策の目をじっと見つめた。

 視線が重なった瞬間、警策は胸の奥がふわりとざわめくのを感じる。

 

 

 

「――変わったんだね、その目つき」

 

 

 

「えっ?」

 

 思わず聞き返す警策に、柊木はやわらかく微笑んだ。

 

「一年前の君の目は、どこか誰も寄せつけないような、そんな暗さがあった。でも今は、ずいぶん澄んだ目をしてる。……きっと、何か吹っ切れたんじゃないかな?」

 

 警策は自分でも気づかぬうちに、わずかに目を伏せ、胸の内にひとつ小さな波紋が広がっていくのを感じる。

 

「……そう、ですかね」

 

 照れ隠しのように、苦笑を浮かべた。

 

 

 

 遠ざかっていく柊木の背中をしばらくじっと見送り、その姿が人波に紛れて消えるのを確認してから、ふと一息つく。

 

(にしても、この前『アイテム』とかいう連中といい、時ヶ谷のヤツといい、最近やけに昔の顔見知りに会うわね。……狭い世間だこと)

 

 苦笑交じりに、そう心の中で呟いた。

 ふと、柊木の言葉が脳裏に柔らかく響き渡る。

 

 ――ちゃんと新しい居場所を見つけたのね。

 

「――居場所、か」

 

 小さく漏れたその言葉は、思ったよりもずっと穏やかで、優しかった。

 そう呟いた自分の声が、なんだか昔の自分とは少し違うような気がして、警策は微かに口元を緩めた。

 

 直後だった。

 

 プルルルル。

 パーカーのポケットから着信音が響き渡り、内省に浸っていた警策の意識を現実に引き戻した。

 慣れた手つきでスマホを取り出すと、画面には見慣れた名前が表示されている。

 

 カイツ=ノックレーベン。

 即座に通話ボタンを押し、先ほどまでの静けさが嘘のように、明るい声色で口を開いた。

 

「ナニナニ、もしかして進展アリィ?」

『例の少女の居場所が分かりましタ。今、現場に急行中でス』

「さーすがカイツちゃん、仕事が早くて助かるわー♡」

 

 警策は軽い調子で返して、

 

「で、どこなの?」

 

 当然の問いかけを投げかけると、カイツの声にわずかな含みが混じる。

 

『それなんですガ……』

 

 その瞬間、通話越しの向こうから、女性のアナウンスらしき声がはっきりと聞こえてきた。

 

『――次のジェットコースターは10分後に出発します。乗り物に乗る前に安全バーをしっかり確認してください』

 

 耳に飛び込んだそれに、警策はしばし沈黙した。

 やがて、深い沈黙を破って静かに言葉を紡ぐ。

 

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………カイツちゃん、まさか今、第六学区に来てるの?」

『はい』

 

 即答だった。

 間違いなく、この遊園地内。しかも、よりによってジェットコースターの列の近くらしい。

 

「じゃあ、あのコの居場所って…」

『ついでに言いますと、昨日ファミレスで見かけた少女二人も彼女と一緒でス』

 

 それを聞いた瞬間、警策は呆れたように深くため息をついた。

 

(――ホント、世間は狭いわね)

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