とある暗部の才人工房   作:雨宮ヒトシ

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Phase9「臨戦 -エンゲージメント-」

(PM2:00)

 

 遊園地の東端にある、資材保管用の古い倉庫。

 老朽化したフェンスで囲まれたその一帯は、来園者の目に触れないよう設計されており、アトラクションの裏手にひっそりと存在している。

 

 ペンキの剥がれた鉄扉の前には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたプレートがぶら下がっていたが、風に煽られたのか斜めに傾いている。

 倉庫の中は薄暗く、油のにおいや木材のカビ臭が立ち込めていた。壁際には折れた看板や外された安全バー、使い古された清掃道具などが積まれ、空気は重くよどんでいる。

 

 その物陰――積まれた段ボールとビニールシートの隙間に、白いワンピースの小さな少女が座り込んでいた。

 

 手は背中で固く縛られ、目元と口元には黒い布がきつく巻きつけられている。

 薄く震える体は無防備で、物音に耳を澄ませるようにじっとしている。時折、外から遠くに聞こえるアトラクションの歓声が、その静けさを際立たせていた。

 

 少女の前には、三つの人影が佇んでいた。

 

 一人は、黒いパーカーのフードを深く被った少年。淡い青髪が無造作に垂れ下がり、顔の半分を隠している。埃っぽい段ボール箱の上に無造作に腰を下ろし、膝に載せた小型ノートパソコンを無言で操作していた。目元には濃い隈が浮かび、瞳はどこか虚ろで、まるで生気を失ったように画面だけを見つめている。暗い倉庫の中、唯一モニターに映る光だけが、彼の顔の輪郭を幽かに照らしていた。

 

 一人は、黒髪に黒いジャージ――全身を黒で統一した少年。細身の体つきで、どこか影のように存在感が薄い。さきほど、遊園地で佐天に道を尋ねたのは、紛れもなく彼だった。今は黙して何も語らず、壁に背を預けている。

 

 そしてもう一人。壁際の隅、暗がりの中にぽつんと立っているのは、子供に風船を配っていたあのゲコ太の着ぐるみだった。

 

「お前の作戦、うまくいったな…」

 

 先に口を開いたのは、黒髪の少年――海藤だった。壁に寄りかかったまま、低く呟く。

 その隣で、ゲコ太の頭をぐいと脱ぎ捨て、金髪の少年――花村が汗を拭いながら顔を見せた。やはり着ぐるみの中は蒸し暑く、息苦しさがにじんでいる。

 

「……ゲーセンでこの子が、このカエルのぬいぐるみを嬉しそうにもらってたのを見てさ。……ワンチャンいけるんじゃないかって思ったんです」

 

 花村はやや気まずそうに目をそらしながら、付け足す。

 

「着ぐるみなら子供には警戒されませんし。風船配れば、むしろ向こうから寄ってきますから……」

「お前にしちゃ、よく考えたな」

 

 海藤が感心したように言うと、すぐに眉をひそめた。

 

「……てか、なんか気まずそうじゃね? どうした」

「…………とうとう人攫いに手を染めてしまったんですね。俺たち、マジで終わってる…」

 

 着ぐるみの蒸し暑さと良心の呵責、両方に苛まれた花村は、どこか複雑な表情を浮かべていた。

 海藤は肩をすくめ、どこか呆れたように言った。

 

「そういやお前、ヤクザ映画に感化されて裏社会に憧れてたっけな。……いい加減、現実見ろよ。『暗部』ってのはこういうもんさ――腐ってるし、終わってる」

「……俺、『悪の正義』ってやつが、本当にあるんだと思ってたんですよ」

 

 花村は息をつき、もどかしげに額の汗を拭った。

 

「たとえばさ、表じゃできないことを裏でやって、結果的には街を守ってるとか……。悪いことしてても、どこか筋は通ってる――そんな『かっこよさ』があるんだって、信じてたんです」

 

 体だけが着ぐるみ姿のまま、花村はうなだれながら苦笑する。

 

「でも実際は……子供を騙して、さらって、閉じ込めて……そんなの、どう足掻いたってただのクズじゃないですか」

 

 言葉の端々に、気づきたくなかった現実への諦念と、後悔がにじんでいた。

 海藤はそんな花村を横目で見て、一つため息をついた。

 

「……そんな中途半端な情けなんざ、こんなとこじゃ命取りだぞ」

 

 口調は冷めていたが、どこかで「分からんでもねぇ」と言いたげな気配も感じさせる。

 

「でも……っ」

 

 花村が言いかけたそのとき、パソコンのキーを叩く音がぴたりと止んだ。

 

 蒼石優太が、無言のまま顔を上げる。

 深く落ち窪んだ目元には、何の感情も浮かんでいなかった。まるでこの場に自分の体だけを置いて、意識はどこか別の場所にいるような、そんな虚ろさ。

 

 その視線が、ゆっくりとリコのほうへ向けられる。

 手を縛られ、黒い布で目と口を覆われた少女は、壁際にうずまったまま、身じろぎひとつせず小さく震えていた。

 

 やがて、蒼石は起伏のない声で切り出した。

 

「――そんな気に病まなくていいッスよ、花村くん」

 

 ぼそりと、けれど確信を込めて言う。 

 

「確かに僕たちのやってることは『人攫い』かもしれないスけど、時ヶ谷さんは別にこの子に危害を加えるつもりはないと思うッス」

「え?」

 

 花村は思わず目を見開いた。

 その反応にも構わず、蒼石は無表情なまま、続けた。

 

「この子は『鍵』だって、時ヶ谷さんは言ってたじゃないッスか――だったら、少なくとも時ヶ谷さんが彼女を必要としている限り、この子の安全は保障される」

 

 花村はうまく言葉が返せなかった。

 理屈は通っている。けれど、心が追い付かない。

 ぐるぐると回る思考の中で、蒼石の目がふと、PCの画面からこちらに戻ってくる。

 

「それに……花村くん」

 

 その口調だけは、わずかにトーンが変わっていた。

 

「ここで『終わってる』とか『クズ』とか言うの、今さらッスよ。――僕らは、もう引き返せない場所に来てるんスから」

「……この子、この後どうなるんですか?」

 

 少し逡巡したあと、花村が低く問いかけた。

 彼の視線は目隠しされた少女に向けられている。その表情には、やり場のない戸惑いと、罪悪感が入り混じっていた。

 

「回収班が到着すれば、そのまま回収されるッス。そして……おそらく、またコールドスリープに戻されるだろう」

 

 蒼石は視線を画面に戻し、まるで天気予報でも語るような平板な口調で言った。

 だがその語尾には、かすかに躊躇が混じっていた。言葉の裏にある感情を読み取ろうとするように、花村は黙って蒼石の横顔を見つめる。

 

 海藤がふと蒼石のほうを見やって、口を開いた。

 

「そういや蒼石、お前さっきからずっとパソコンの方を見てるけど、何やってた?」

 

 視線を画面から外さないまま、蒼石が淡々と返す。

 

「ああ、時ヶ谷さんから第十学区の監視カメラを確認するように頼まれたんス」

 

 その学区名に、花村が顔をしかめた。

 

「第十学区って、確か……あの治安の一番悪い学区ですよね?」

 

 その土地の悪名は広く知られており、配送業者ですら迂回ルートを取るといわれている。そのせいで土地は安く、『他では敬遠される』数多の施設が集中的に建てられていた。

 学園都市で唯一の墓地をはじめ、少年院、実験動物の処分場、原子力関連の研究所――都市の『負のインフラ』とも言える施設が密集している異質な区画。

 

 海藤も思わず眉をひそめる。

 

「で、なんでそんなとこ見張ってんだ? ……そもそも俺たちと関係あんのか?」

 

 蒼石は静かにキーボードを叩き終え、ため息まじりに肩を落とす。

 

「時ヶ谷さんから、詳しく話すなって口止めされてるんス。それに……君たちは、知らないほうがいいと思うッスよ」

 

 室内に、わずかな沈黙が落ちた。

 

「……あんまりこういう言い方したくねぇけどさ、俺たちも十分、共犯者なんだぜ。今さら『知らないほうがいい』とか言われてもな」

 

 海藤の言葉に、花村も無言で頷く。

 蒼石は苦笑を浮かべつつ、小さく首を振った。

 

「だからこそ、ッスよ。共犯者だからって、全部知っていいとは限らない。……誰かが手を汚して、そのぶん他の誰かは、なるべく穢れないで済むようにって――時ヶ谷さんの考えは、たぶんそういうことッス」

 

 その声音には、淡々としながらも、どこか自嘲めいた響きがあった。

 部屋の空気がわずかに重くなる中、海藤も花村も言葉を飲み込んだまま、沈黙が続いた。

 とうとう気まずい沈黙に耐えきれなくなったのか、花村がぎこちない笑みを浮かべて口を開いた。

 

「……にしても、蒼石先輩って監視カメラのハッキングができるって、やっぱすごいですよね」

 

 話題を無理やり転換したのは明らかだったが、空気を変えようとする彼なりの気遣いだった。

 海藤がふっと鼻で笑い、肩をすくめながら言った。

 

「まあ、こいつ昔『書庫(バンク)』にクラッキングして、速攻でバレて捕まったのが『暗部堕ち』のきっかけだからな」

「なにその武勇伝!? てか、それだけのスキルがあるなら、なんで下部組織でくすぶってるんですか?」

 

 花村が驚いたように声を上げる。

 蒼石は無表情のままで、

 

「もちろん『上』からスカウトされたこともあったッスよ。でも……断ったッス。僕、ああいう『本物のドン底』には、手を染めたくなかったっていうか……」

 

 その言い方には、かすかに冷めたような響きが混じっていた。

 表面上は飄々としているが、彼の中には『越えてはいけない一線』をきちんと持っているのだと、二人はあらためて感じた。

 

「しっかし、いろいろ苦労したなぁ」

 

 花村が肩を回しながら、思い出したように言う。

 

「尾行の時、なんだか連れの子にめっちゃ警戒されてて、てっきりバレたかと思いましたよ」

「そりゃお前の尾行が下手すぎただけじゃね?」

 

 海藤が即座にツッコミを入れると、花村はわざとらしくショックを受けたように頭を抱える。

 

「ひどいですよ! いくら下っ端でも一応『暗部』ですよ!? こう見えて、研修とか受けたんですから!」

 

 そんな冗談めいたやり取りを経て、花村はふと思い出したように呟く。

 

「……でも、最後にあの子、連れからふっと離れてくれたおかげで、うまく行きましたね」

 

 それが、計画の成功を決定づけた『偶然』だった。

 

「……どんな感じの子だったんスか?」

 

 蒼石がわずかに興味ありげに尋ねた。

 

「えっと、黒髪を短く二つ結びにした、いかにもお淑やかなお嬢様って感じでしたよ」

 

 花村が記憶を手繰るように答えると、蒼石の手が止まった。キーボードの音が途絶え、場に微妙な沈黙が落ちる。

 海藤がその間を逃さず、訝しむように眉をひそめた。

 

「……なんだ、何か心当たりでもあるのか?」

「…………」

 

 蒼石はゆっくりと息を吐いて、

 

「実は最近、『スクール』って暗部組織から、ある少女の監視依頼が来てたんスよ」

 

 その口調はいつになく慎重だった。しばし言葉を探すように目線を泳がせ、それから低く続けた。

 

「依頼主は、頭にゴーグルをかぶった風変わりな男。監視対象だった少女は、元『スクール』所属のスナイパー――だけど、独断専行で除名されたって話ッス」

 

 言いながら蒼石の表情が険しくなる。一呼吸置いてから、低く呟いた。

 

「……で、その依頼主、例の暗部抗争のあとから連絡がつかないんス」

 

 言葉の重みに、空気がわずかに冷える。

 蒼石は再び花村の方へと顔を向けた。目は真剣そのものだった。

 

「花村くんが言ってた子……特徴が、どうにも一致する気がして」

 

 花村はしばらく考え込み、突然手を打った。

 

「……あっ、思い出しました!」

 

 海藤が眉を跳ね上げる。

 

「何をだよ?」

「あの子、射的ゲームで無双してたの見たんです!」

 

 蒼石が目を瞬かせた。

 

「……射的?」

「はい、ゲーセンの。的を全部、一発ずつで倒してました。しかも撃ち方が妙に本格的で、姿勢もブレてなくて……あれ、どう見ても素人の動きじゃなかったです」

 

 蒼石は小さく息を呑むと、無言でキーボードを叩き、モニターに一枚の画像を表示させる。

 

「……その子、こんな見た目だったんスか」

 

 画面には、長い黒髪をツーサイドアップにした少女が映っていた。

 乳白色の肌。琥珀色の冷たい瞳。抜群なスタイル。品のある顔立ちの奥に、どこか人を寄せつけない影を宿している。

 

「あ、間違いない。この子です!」

 

 花村が即答する。

 

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………いやな予感がする」

 

 蒼石がぽつりと呟いた、まさにそのとき――

 

 ガンッ!!

 倉庫の扉が勢いよく開け放たれ、薄暗い空間に鋭い光が差し込む。

 

 三人は反射的にそちらに視線を向けた。

 逆光の中、ヒールの音だけがコツコツと鳴り響き、そのたびに空気が張り詰めていく。

 

 一歩ずつ、確かな足取りで姿を現したのは――

 黒髪を二つ結びにした、いかにもお嬢様然とした少女だった。

 

「……誘拐犯か何かと思えば――」

 

 透き通るようで、底冷えのする声が空間を裂く。

 

「――暗い倉庫で幼女を拘束して、しかも目隠し? これじゃもう、ただのロリコン変態集団にしか見えませんわね」

 

 その声に、拘束されていた少女がかすかに反応する。

 

(……らっこ?)

 

 蒼石は息を呑む。まさか、の予感が図星だった。

 

「お前、どうしてここが――」

 

 海藤が問うより先に、彼女は涼しい顔で微笑んだ。

 

「わたくし、ちょっとあなた方の真似をさせていただいたんですよ」

 

 弓箭は一歩進み、続ける。

 

「尾行していたのは、あなた方だけじゃないということです」

 

 遊園地で、弓箭は誰かに見られている気配を感じ取った。

 最初はただの気のせいだと思っていたが、その違和感はどんどん強くなり、やがて確信へと変わっていった。

 

 観覧車に乗る提案をしたのも、ただの遊びではなく、遊園地全体を見渡せる場所から尾行者を確認するためだった。

 

 だが、尾行者を振り切ったとしても、正体が分からなければまた狙われるリスクがある。

 だから、弓箭はその尾行を逆手に取って、相手を誘い込んだのだ。

 

「わざと『抜けた』ふりをして、お二人を孤立させたんです」

 

 弓箭はそう言って、ほんの少しの間、冷静に続けた。

 

「その隙に相手が動きやすくなるから、逆に尾行して、場所を突き止めたってわけです」

 

 彼女は、人混みを活用するのが得意だった。

 本来、スナイパーにとって人混みは不利だが、弓箭はその隙を利用し、そこへ逃げ込んだ標的を見逃さずに仕留める方法を心得ている。

 

「わたくし、周りに溶け込むのが得意なんですよ……(影が薄いですからね)」

 

 最後に何か自虐気味にボソッと呟かれたが、三人には聴き取れなかった。

 だが、一つ明らかになったことがある。

 

 『狩る側』と『狩られる側』、たった一瞬で両者がひっくり返された。

 きょとんとしたまま動けない下っ端三人組を前に、弓箭は驚きなどまるで意に介した様子もなく、ふわりとサディスティックな笑みを浮かべる。

 

 

 

「さて、ご友人方との大事なデートを邪魔したからには――せめて、楽しめる狩りであってくださいよ?」

 

 

 

 その声は柔らかく響きながらも、底知れない冷たさを孕んでいた。鋭く細められた瞳が、じっと三人を射抜いている。

 花村が小さく息を呑み、足元でわずかに震える。何かを言いかけた。

 

「ま、待っ――」

 

 その声が最後まで届くことはなかった。

 一瞬で距離を詰めた弓箭が、影のように滑り込む。次の瞬間、花村は着ぐるみごと地面に叩きつけられていた。

 

「うぐっ!」

 

 重い音と共に、花村の身体が地面に沈む。抵抗する間もなく、一撃で叩き伏せられた格好だ。

 着ぐるみの中綿がわずかに衝撃を吸収してくれたのが、せめてもの救いだったのかもしれない。

 

「花村くん!?」

 

 蒼石が叫ぶ。顔を引きつらせ、目の前の現実を信じられないといった様子で、思わず一歩踏み出す。

 

「他人の心配をしてる場合ですかね?」

 

 弓箭の声が、吐息のように届いた。

 蒼石が反応する間もなく、鋭い蹴りが彼の胸を打ち抜く。

 

「――ッ!」

 

 そのまま身体が宙に浮き、背中から壁に叩きつけられる。

 

 ガッシャン!

 コンクリートに衝突した鈍い音が響いた。 

 

「グハッ!」

 

 肺の空気が一気に押し出され、視界が真っ白になる。耳の奥でキーンと耳鳴りが鳴り続け、激しい痛みが全身を駆け巡った。

 崩れ落ちる寸前、蒼石の意識がすうっと闇に沈んでいった。

 

 倒れた仲間二人に目をやると、海藤の顔からすっと表情が消えた。

 怒りとも違う。燃え上がる感情ではなく、氷のように冷え切った気配。

 殺気だけが、じわじわと空気を刺すように立ちのぼる。

 

「お前……よくもやってくれたな」

 

 低く、喉の奥で絞り出すような声だった。

 次の瞬間、地面を蹴る。

 

 クナイを抜きざま、海藤は一直線に弓箭へ突進。無駄のない足運びで、一気に距離を詰めた。

 

 だが、弓箭は――わずかに身体を傾ける。

 それだけで、斬撃は虚空を裂いた。刃先は肩をかすめすらしない。

 

 続けざまの突き、回し蹴り、逆手からの斬り上げ――。

 

 だがそのすべてを、弓箭は紙一重でかわしていく。

 舞うような回避。鋭く、それでいて柔らかい動き。

 

 服の裾すらなびかせない絶妙な間合いに、海藤の額に汗がにじんだ。

 

(こいつ……思ってたより素早い! スナイパーじゃなかったのかよ?)

 

 手応えがない。こちらの動きが、まるで先読みされているかのようだ。

 

(だったら――!)

 

 背後に跳躍。空中から、五枚の手裏剣を扇状に散らすように投げた。

 狙いは分散。どれか一枚でも当たれば御の字、避けきれない角度だった。

 

「テメェ、舐めんなよ!」

 

 ピシュッ。

 ――静かな破裂音。

 弓箭の袖口から、小さな空気の震えが走る。

 音はほとんどない。手裏剣が次々と空中で弾け飛んだ。

 

 海藤の目が見開かれる。

 

(……撃ち落とされた!? でもどっから!?)

 

 弓箭の手には銃器といった類のものは一切見当たらない。

 仕掛けは、彼女の腕にあった。

 

 服の中に分解して仕込まれた狙撃銃――炭酸ガスの圧で無音発射される、ステルス仕様の銃だ。

 右腕には近距離用、左腕には中距離用。腕の動きひとつで即座に構築される設計。

 

 視認もできないほど素早く、無音で、そして正確。

 予想外の武器に一瞬あっけを取られたのが致命的だった。

 

 次の瞬間――

 

「……っあ……ッ!」

 

 右の二の腕に焼けるような痛み。

 直後、左脚のふくらはぎにも衝撃。体勢を崩して片膝をつく。

 

「くそっ……!」

 

 思わず吐き捨てた言葉とともに、その場に崩れ落ちる。

 その前に、コツン、コツン――と規則的なヒールの音が迫る。

 

 弓箭がゆっくりと歩み寄っていた。

 その袖口から、ひょっこりと顔を覗かせる銃口が、無言のまま海藤を狙っている。

 そして、冷ややかに告げた。

 

「……無駄な抵抗はしない方が身のためです。それともまだ痛めつけられたいんですか?」

 

 ……その台詞に、海藤は妙な既視感(デジャヴ)を覚えた。

 昨日、廃施設で出くわした、あの腹黒小悪魔少女にも、確か似たようなことを言われたような――。

 

 海藤は吐き捨てるように言った。

 

「……だから、舐めんなって言ってんだろ」

 

 直後だった。

 

 カチャッ。

 金属音が背後から響いて、弓箭が反射的に振り返る。

 そこには、銃を構えた黒服の男たちが四人、無言で立っていた。

 

「……観覧車で姿を確認したのは三人でしたけれど、他にもお仲間がいたんですね」

 

 弓箭の声には、不思議と緊迫感が薄かった。むしろ状況を観察するような静けさがあった。

 

「俺らはあくまでも捕獲班。あっちは回収班さ」 

 

 傷ついた足をかばうように膝をついたまま、海藤は肩をすくめるように続ける。

 

「ま、こっから先は交渉の余地もあんまりなさそうだな――さて、どうすんの?」

「…………」

 

 弓箭は一つ小さく息をついた。

 そして、静かに目を閉じてから、開く。

 

「……リコさん、あと1分だけお待ちいただけませんか?」

 

 

 

(PM2:10)

 

 リコがさらわれてから、およそ半時間が経過しようとしていた。

 あちこち探し回ったが、やはりどこにも見当たらない。

 

 遊園地の園内には、まだ子供たちのはしゃぐ声やアナウンスが響いているというのに、佐天の胸には、じわじわと黒い不安が染み広がっていく。

 この空間だけ、時間の流れが妙に遅く感じられる――そんな錯覚すら覚えた。

 

 リコの名前を呼びながら、迷子センター、観覧車の周辺、スタッフの詰所と、思いつく限りの場所を奔走した。だが、どこにもいない。

 何かがおかしい。それだけは、直感でわかっていた。

 

 焦燥に駆られ、スマートフォンを取り出して弓箭に電話をかける。

 コール音だけが、周囲の喧騒から浮いたように耳に響いた。

 

「……弓箭さんも電話に出ないし、一体どうなってんの……?」

 

 指先が汗ばんでいることに気づいて、佐天は静かに手のひらを握りしめた。

 ふと、もう片手に持っている、リコが落としたと思われるピンク色のゲコ太のぬいぐるみに視線を落とす。

 心なしか、笑っているはずのその顔が、どこか泣いているようにも見えた。

 

(こうなったら、初春に連絡を――)

 

 一瞬、そんな考えが脳裏をよぎった。

 

(いや、こんなこと言ったら警備員(アンチスキル)が来て大事になりかねない…)

 

 あの子があれだけ警備員(アンチスキル)を忌避していたのには、きっと何か理由があるはず。

 人助けのためとはいえ、彼女の意に反した行為をしていいのだろうか。

 

 スマホを手にしたまま、しばらくその場に立ち尽くす。葛藤と焦りが胸の奥で渦を巻いていた。

 何度も迷いが頭をよぎるが、やがて通話ボタンを押す。

 

 プルルルル――コール音が続く中、

 ふと、長い髪に眼鏡の女性とすれ違って、

 

「………遊園地の東にある倉庫、あの子が、そこへ連れていかれるのを見たよ」

「………っ!?」

 

 耳元から囁かれた声に、佐天は思わず振り返ったが、すでにその女性の姿は、人波に溶けるように消えていた。

 

(今のは……?)

 

 胸がざわつく。

 半信半疑のまま、電話が繋がり、聴き慣れた少女の明るい声がスマホ越しに届いた。

 

『もしもし、佐天さん? どうかしたんですか?』

「あ、いや、ちょっとかけ間違えちゃったみたい!じゃあまたね、初春!」

『えっ? ちょっと、佐天さ…」

 

 その言葉を最後まで聴かず、佐天は通話を切った。

 スマホをポケットに滑り込ませ、代わりにリコのぬいぐるみをぎゅっと胸元に抱える。

 疑念、不安、戸惑い――すべてを飲み込み、佐天涙子は顔を上げた。

 

 目的地は一つ。

 遊園地の東にある倉庫。

 その情報が本物かどうかは分からないけれど、そこにリコがいる可能性があるなら、行くしかない。

 

 決意を込めた足取りで、彼女は人混みをすり抜けるようにして、東のエリアへと駆け出した。

 

 

(PM2:11)

 

 

「……退屈な狩りでしたね」

 

 倉庫の薄暗い空間の中、弓箭は冷たく呟いた。

 床には四人の黒服たちが無様に倒れている。

 

 彼らの無意識の呻き声が、ほんのわずかに空気を震わせるだけだった。

 弓箭は冷ややかな目で倒れた男たちを見下ろし、そして無言でリコの方へ歩み寄った。リコの拘束と目隠しをほどくと、ほんの少しだけ顔を上げたリコが、弓箭の豊かな胸に顔をうずめてきた。

 

「ご無事でしたか、リコさん?」

「らっこ、かっこよかった――まるでヒーローみたい!」

 

 その言葉に、弓箭は一瞬、驚いたように目を開く。普段の冷徹な表情から、ほんの少しだけ頬がゆるんだような気がした。

 

「……いえ、それほどでも…」

 

 その目の奥には、ほんの少しだけ柔らかな光が宿っているように見えた。

 

 ヒーロー――

 その言葉が、弓箭の脳裏に強く響いた。『スクール』のスナイパーとして、散々人を殺めてきた自分にとっては、少し重すぎる言葉である。かつての弓箭なら、その言葉を一笑に付していたであろう。

 けれど今は、心に何か暖かいものが、確かに灯っているのを感じた。まるでそれが自然なことのように、優しさが少しずつ心に染み込んでくる感覚。そんなもの、自分には縁のないものだと思っていたのに。

 

 自分がこれまでやってきたことは、決して誇れることではないとわかっている。

 人を引き裂き、心を壊し、死に追いやったその手を――あの時の自分には何も感じなかった。しかし、今はその手に、少しでも違う感情が宿っていることに、自分でも驚きを隠せない。

 

 思えば、誘拐犯一行を制圧したときもそうだった。昔の弓箭なら、獲物を徐々に追い詰めていき、その悶え苦しむ様を見て悦びを見出していたはずだ。――それが、彼女の戦い方だった。相手の命を自分の手で奪うことに、何の躊躇もなかった。

 

 だが、今回は違った。冷徹で無情な手を、どこか遠くのもののように感じていた。リコを一刻も早く助けるため――そのためだけに動いた自分に、気づけば少しだけ安堵していた。

 こんな感情を、まだ自分が持っていたなんて――思ってもみなかった。

 

 しばらくして、弓箭はリコの肩にそっと手を添えると、優しく、けれどほんのわずかに距離を置くようにその体を押し戻した。

 リコは少し不安そうに弓箭の顔を見上げたが、すぐに何かに気づいたように、床に倒れている青髪黒髪金髪に目を留めた。

 

「……あっ」

 

 リコが思わず声を漏らす。

 

「この人たち……昨日、目が覚めたときに――あの部屋にいた……!」

 

 弓箭はその言葉を聴きながら、その三人にゆっくりと視線を落とした。

 

(ふむ……何かの依頼で動いているようには見えましたけれど、やはり『暗部』の関係者だったんですね。まあ、この程度では……せいぜい下部組織といったところでしょうか)

 

 そのまま足元に転がる男たちを見下ろしながら、思考を巡らせる。

 

 さて、この連中をどう扱うべきか――。

 

 誘拐事件が発生した以上、形式的には警備員(アンチスキル)に通報するのが順当だろう。だが、そうなれば被害者であるリコもまた、事情聴取の対象となる。

 それに、こいつらが警備員(アンチスキル)に拘束されたとしても、すぐに釈放されるに違いない。

 

 現実の話として、学園都市で犯罪者を捕らえたところで、大した意味はない。

 凶悪かつ有能な人物ほど『暗部』に買われるのが、この街の現実である。

 警備員(アンチスキル)が『暗部』の動向に干渉できない以上、根本的な解決には到底至らない。

 

 だからこそ、『暗部』の世界ではセオリーが違う。

 戦いとは、『相手を無力化する』のではなく――『確実にとどめを刺す』ことが、唯一の勝ち残る道とされているのだ。

 

 ――生かしておくべきか?

 

(こいつらはただの下っ端みたいですし、リコさんに関して何か目ぼしい情報を持っている可能性は低いですよね)

 

 それでも、かつての自分なら間違いなく即断していた。

 見逃す理由など一つもない。任務の完遂とは、敵の息の根を止めること。

 ――それが『スクール』で培った戦い方だった。

 

 だが、今の自分は違う。

 とどめを刺そうという気持ちが、不思議と湧いてこない。

 

 その冷たい衝動に、かつてのような正当性を感じられなくなっていた。

 弓箭は少しだけ考え込んだ末に、リコへと向き直る。

 

「とりあえず、一旦ここを離れましょう」

「うん」

 

 リコが小さくうなずいた。

 

 その時だった。

 

 ――ぱちん、と乾いた音が背後から響く。

 それは、場違いなほど優雅な拍手。

 

「お見事ですわ」

 

 穏やかでありながら、どこか含みを持った声が背後から届く。

 弓箭がすぐさま振り返ると、そこに佇んでいたのは一人の少女だった。

 

 艶やかな黒髪。白磁のような肌。どこか妖艶さが漂う深紅の瞳。

 紺のブレザーと赤のネクタイに、白のプリーツスカート。

 

(それは確か……霧ヶ丘の制服ですよね)

 

 だが、弓箭の意識はその容姿ではなく、別の一点に集中していた。

 

(……この人、いつの間に? このわたくしが気配(におい)を逃すなんて……ありえません)

 

 そう――彼女が現れるまで、気配(におい)はおろか、足音すらも感じ取れなかった。いくら治療した鼻が本調子ではないとはいえ、ここまで近づかれたら流石に気付かない訳がない。

 そんな弓箭の怪訝な視線など意に介さず、少女――時ヶ谷凛音は床に倒れ伏す三人の少年や黒服たちを一通り見渡したのち、軽やかに言葉を続けた。

 

「ふうん……この傷口、能力というよりは――銃ですね。なるほど、能力に頼らず仕留めるタイプですのね」

 

 涼やかな眼差しが、僅かな好奇心を漂わせながら弓箭を捉える。

 

「その割にこの手際の良さ――貴女、ひょっとして『暗部』の人間ではありませんこと?」 

 

 芝居がかた優雅な口調の裏に、鋭利な刃のような探りが込められていた。

 問いかけれれた弓箭は、わずかに眉をひそめた。警戒心が濃く滲む瞳で相手を見据える。 

 

 敵意をはっきりと見せないその少女――時ヶ谷凛音の態度に、底知れなさを感じたからだ。

 油断ならない。そう直感した。

 

 そこで、ふと気づく。

 リコが怯えた表情で小さく身をすくめ、自分の背中に隠れるようにしていた。

 

「リコさん?」

 

 リコは小さく唇を震わせて、ぽつりと呟いた。

 

「……昨日、戦ってた女の人」

 

「っ!?」

 

 その一言に、弓箭は思わず身を構える。

 一気に警戒の色を強め、弓箭はリコをかばうようにして立ちはだかる。

 

「……どちら様ですか?」

 

 ぴんと張り詰めた空気の中、弓箭の声は静かだったが、確かな鋭さが宿っていた。

 時ヶ谷はくすと微笑んだ。その仕草一つすら計算されているようで、どこか演技めいている。

 

「ふふ、ありがちなセリフかもしれないけれど――人の名を尋ねる前に、まず自分から名乗るのが礼儀ではなくて?」

 

 まるで優雅なティーサロンにでもいるかのような口ぶりで、しかしそこには皮肉と圧力が確かに含まれていた。

 弓箭は眉一つ動かさず、さらに一歩を踏み込むように問いかける。

 

「何が目的なんですか?」

 

 時ヶ谷のしとやかな微笑が、ほんのわずかに深まる。

 

「貴女に用はありませんの。その子を――おとなしくこちらに引き渡してただければ、今回は見逃してさしあげますわ」

 

 時ヶ谷の視線が、弓箭の背後にいるリコへと向けられる。

 弓箭は、ちらりと後ろのリコに目をやった。怯えるように彼女の背後に隠れているその姿を見て、唇を引き結ぶ。

 

「……おとなしくと言われて、素直に従う筋合いはありません」

 

 毅然としたその返答に、時ヶ谷は小さく肩をすくめると、まるで気の毒そうに言った。

 

「あら残念。ならば仕方ありませんわね――こちらも、少しだけ手荒な真似をさせていただきますわよ?」

 

 その声音はあくまで上品で穏やか。しかし、言葉の裏には有無を言わせぬ圧が潜んでいた。

 だが弓箭は微動だにせず、即座に返す。

 

「リコさんを傷つけると言うのでしたら――返り討ちです」

 

 その声音に迷いがなかった。かつて数多の命を葬ってきたスナイパーの冷酷さと、今は守るべき存在のために刃を抜く覚悟が、混ざり合っていた。

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