天皇賞・秋優勝から二週間後——。
高嶺厩舎の空気は、勝利の余韻とは裏腹に重く淀んでいた。
会議室のテーブルを挟んで、神崎隆一馬主と高嶺鉄平調教師が睨み合っていた。零は壁際に立ち、佐伯厩務員がその後ろで腕を組んでいる。ブライトウィンドは馬房で静かに休んでいるはずだったが、厩舎全体に緊張が張りつめていた。
神崎馬主の声が低く響いた。
「天皇賞を勝った今がチャンスだ。次は**ジャパンカップ(GⅠ・東京・芝2400m)**に出走させる。国際レースだ。外国馬とぶつかって、ブライトウィンドの価値を世界に知らしめる。賞金もスポンサーも跳ね上がる。俺の馬なんだぞ、高嶺先生」
高嶺調教師は拳をテーブルに押しつけ、声を抑えた。
「神崎さん……また同じ過ちを繰り返す気か。ジャパンカップは2400m。ダービーと同じ距離だが、相手は世界の強豪だ。ブライトウィンドはまだ3歳。体が完全に出来上がっていない。無理をすれば天皇賞の疲労が蓄積し、故障の危険がある。俺は……同じ失敗は絶対にしない」
神崎馬主の目が鋭くなった。
「過去の失敗を引きずるな。結果を出せばすべて丸く収まる。零くん、お前はどう思う? 主戦騎手として、馬の可能性を信じているはずだ」
零は唇を噛んだ。過去のトラウマ——減量過多で馬が暴走し、騎手仲間が落馬して二度と乗れなくなった光景が、毎晩夢に現れるようになった。
「……俺は、高嶺先生の判断を尊重します。ブライトウィンドは俺の手でここまで来た。馬を壊すようなレースは、乗りたくない」
神崎馬主は立ち上がり、冷たい笑みを浮かべた。
「わかった。俺も厩舎変更はしたくないが……もしジャパンカップを回避するなら、ブライトウィンドの主戦は別の騎手に替えることも検討する。風間くん、君の『大切な人』のためにも、結果を出し続けろよ」
部屋に重い沈黙が落ちた。高嶺調教師の顔が苦渋に歪む。佐伯厩務員が零の肩を強く握った。
——その同じ夜、TiNgS寮。
春、杏夏、理王の三人はリビングで灯りを落とし、真剣な表情で向き合っていた。春の眼鏡の奥に、涙がたまっている。
杏夏が低い声で言った。
「春……零くんから連絡あったんでしょ? 馬主さんがジャパンカップ強行で、高嶺先生と完全に揉めてるって。零くん、かなり追い詰められてるみたいね」
春は三つ編みを指で握りしめ、震える声を出した。
「うん……零くん、声が疲れてた。高嶺先生の過去の傷も、再び開いてるみたいで……ブライトウィンドくんを壊したくないって、ずっと葛藤してるの。春、零くんのそばにいてあげたいのに……年末のカウントダウンライブとジャパンカップの日程が、完全に被っちゃってる……」
理王が珍しく感情を露わにした。クールな声に、苛立ちが混じる。
「アイドルが騎手の彼氏を優先してライブをサボるなんて、事務所にバレたら即終了だ。春、お前はHY:RAINの時と同じ過ちを繰り返す気か? メンバーみんなが頑張ってきたのに……」
杏夏が理王を制し、春の背中を優しくさすった。
「理王、きつい言い方はやめて。でも……本当だよ、春。私たちも春の夢を応援したい。でも、零くんとの関係が表沙汰になったら、TiNgS自体が消える可能性がある。ファンも、事務所も、許してくれない」
春は唇を噛み、涙をこらえた。
「春……わかってるよ。でも、零くんは命がけで馬に乗ってる。高嶺先生は馬の命を守ろうとして、馬主さんに睨まれて……春だけが、逃げてるみたいで……」
突然、杏夏のスマホが震えた。未知の番号からだった。
杏夏は眉を寄せ、スピーカーにした。
「……もしもし、杏夏です」
電話の向こうから、零の声がした。低く、疲れきった声。
「突然すみません。TiNgSの杏夏さん……ですよね? 春から、君たちのことを聞いています。俺は風間零です。……春を、守ってやってくれませんか。俺のせいで、春の夢を壊したくない。でも、今の俺は……ブライトウィンドを守るので精一杯で……」
杏夏の表情が強張った。理王も無言で耳を傾ける。
春は慌ててスマホにしがみついた。
「零くん……! 春、ここにいるよ! 杏夏ちゃんたちも、一緒に……」
零は苦笑するような息を吐いた。
「春……ごめん。ジャパンカップにブライトウィンドを出走させることになった。高嶺先生は最後まで反対だったけど、馬主さんの圧力で……俺は乗るしかない。もし落馬したり、馬に何かあったら……お前を悲しませる。俺は……もう、春にこれ以上、負担をかけたくない」
春の涙が溢れた。
「零くん、そんな……春ちゃんにお任せあれ! って言いたいけど……春も、怖いよ。零くんやブライトウィンドくんを失うのが、一番怖い……」
杏夏が電話に向かって、静かに、でも力強く言った。
「風間さん。春は私たちの大切なメンバーです。でも、春があなたを本気で好きなら……私たちも、守ります。ただ、春を泣かせるようなことがあったら、絶対に許しません。ジャパンカップ……春はライブで動けません。でも、心はそちらに向けます」
通話が切れた後、寮に重い沈黙が落ちた。
理王がぽつりと言った。
「……騎手って、こんなに命がけなんだな。春、お前は本当に、アイドル続けながらこれを背負えるのか?」
春は三つ編みを握りしめ、涙を拭った。
「春……わからない。でも、零くんとブライトウィンドくんの未来を、見届けたい。みんなと一緒に、シャインポストを目指したい……両方、諦めたくないよ……」
高嶺厩舎では、その頃、高嶺調教師が一人、ブライトウィンドの馬房の前に立っていた。
「疾風の覇者……お前と同じ道を、ブライトウィンドに歩ませるのか……」
神崎馬主の野心と、厩舎の信念。零のトラウマと、春の秘密。
すべてが、ジャパンカップという大きな舞台で、決着を迎えようとしていた。
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