有馬記念優勝から二週間後——。
高嶺厩舎は、年末の勝利で活気づいていた。ブライトウィンドは有馬の疲労を回復し、軽い調教で軽快に動いている。零は右足の痛みがほぼ引いた状態で、毎朝馬と向き合っていた。
高嶺鉄平調教師が零に声をかけた。
「零……有馬を勝った今、陣営で次の目標を話し合っている。神崎さんも前向きだ。国内なら宝塚記念か天皇賞・春だが……海外挑戦はどうだ? 特に**ドバイワールドカップ**。メイダン競馬場のダート2000m、世界最高峰の賞金レースだ」
零の目が少し輝いた。有馬の勝利で自信がついていたが、海外は未知の領域。メイダンのダートは日本のものとは違い、先行有利でキックバック(砂の跳ね返り)が激しく、直線400mの持続力勝負になる。ブライトウィンドは芝実績が豊富だが、ダート適性は未知数だった。
「先生……ドバイですか。ブライトウィンドのスピードなら、先行して粘れるかも。でも、輸送の負担や現地の気候……馬の体調が最優先ですよね」
神崎隆一馬主も会議に参加し、珍しく穏やかな口調で言った。
「有馬優勝で俺の顔も立った。ドバイなら総賞金1200万ドル(約18億円超)。勝てばブライトウィンドの価値が世界レベルになる。零くん、お前が主戦なら挑戦したいが……高嶺先生の意見を尊重する」
高嶺調教師は腕を組み、慎重に答えた。
「疾風の覇者の失敗を教訓に、馬の適性をしっかり見極めたい。まずは国内で一戦挟むか、直接輸送テストを……。零、お前はどう思う?」
零はブライトウィンドの首を撫でながら、心の中で春の顔を思い浮かべた。
「俺は……ブライトウィンドと一緒に、世界を見てみたいです。春にも、いつか『世界のゴールライン』を報告したい」
——その頃、春に危機が訪れていた。
TiNgS事務所の会議室。マネージャーと事務所幹部が春を呼び出していた。杏夏と理王も同席を許され、緊張した面持ちで座っている。
マネージャーが厳しい声で切り出した。
「青天国春。最近の『謎の女性ファン』疑惑について、調査した結果が出た。競馬場の写真……三つ編みの端や眼鏡のシルエットが、君に酷似している。しかも、有馬記念当日、ライブ本番直前に新幹線で大阪から東京に戻った記録もある。説明してもらえるか?」
春の顔から血の気が引いた。杏夏が素早くフォローに入る。
「春は家族の用事で……競馬とは関係ないはずです。私たちも確認していますが、単なる偶然では?」
理王が無表情で補足した。
「ファンの中には似た子がたくさんいます。根拠のない疑惑で春を責めるのは……」
幹部はため息をつき、スマホの写真を並べた。有馬記念のスタンドで変装した春の横顔が、ぼやけながらも拡大されている。零の勝利インタビュー後の控室近くの映像も、わずかに残っていた。
「これは偶然とは思えない。アイドルが騎手と密会し、競馬場に通うなんて……事務所のイメージが台無しだ。春、活動自粛を検討せざるを得ない状況だよ。メンバーにも影響が出る」
春は唇を震わせ、眼鏡を直しながら必死に言葉を探した。
「春……零くんは、ブライトウィンドくんと一緒に夢を追いかけてるんです。命がけで馬に乗って……春はただ、応援したかっただけです。でも、TiNgSのステージも大好きで……両方、諦めたくない……」
杏夏が春の手を強く握った。
「春を責めないでください。私たち三人で話し合って、ちゃんと解決します。スキャンダルに発展させないよう、最大限協力します」
理王が静かに、しかし力強く言った。
「春がいなくなったら、TiNgSは輝きを失う。事務所も、それでいいんですか?」
会議は重い空気のまま終了した。春は寮に戻り、ベッドにうずくまった。三つ編みが乱れ、涙が止まらない。
夜、零から電話がかかってきた。
「春……どうした? 声が元気ないぞ。有馬の後、ゆっくり休んでるか?」
春は声を抑えて答えた。
「零くん……実は、事務所に疑われてるの。春の変装がバレそうで……活動自粛の危機かも。でも、零くんがドバイを考えてるって聞いたよ。ブライトウィンドくん、世界の砂漠で走るなんて……春、応援したいのに……」
零は電話の向こうで息を飲んだ。
「春……ごめん。俺のせいで、お前の夢を危うくしてる。ドバイはまだ決定じゃない。高嶺先生も慎重だ。ブライトウィンドのダート適性テストをまずやって……もし挑戦するなら、お前を悲しませないようにする。でも、春の危機が一番心配だ。俺は……お前がいなくなったら、騎手も続けられないかも」
春は涙を拭き、いつもの明るさを少しだけ取り戻した。
「春ちゃんにお任せあれ!……って言いたいけど、正直怖いよ。でも、零くんとブライトウィンドくんが世界を目指すなら、春も頑張る。杏夏ちゃんたちも味方だよ。ドバイ……メイダンのダート2000m、先行して粘るレースだって聞いた。ブライトウィンドくんの明るい風、砂漠でも吹かせて!」
零は優しく言った。
「ありがとう、春。まずはお前の危機を解決しよう。俺も高嶺先生に相談して、ドバイ挑戦の本気度を固める。有馬の優勝を、世界に広げたい……お前と一緒に」
高嶺厩舎では、神崎馬主がドバイ遠征の予算を検討し始めていた。杏夏は事務所に「春のメンタルケア」を理由にスケジュール調整をかけ、理王は変装グッズのさらなる強化を提案した。
春の危機はまだ去っていない。
しかし、有馬の希望が、砂漠のドバイワールドカップという新たな夢へと繋がり始めていた。