ブライトウィンドが未勝利戦を勝ってから、わずか三週間後。
風間零は主戦騎手として、**毎日杯(GⅡ・阪神競馬場・芝1800m)**に挑戦することになった。3歳重賞。まだ底を見せていない素質馬たちが集まるレースで、零とブライトウィンドのコンビは「伏兵の新星」として少しずつメディアに取り上げられ始めていた。
「零くん、毎日杯……! 春、絶対に応援に行くよ!」
電話越しの春の声はいつもより弾んでいた。でも零は少し声を落とした。
「春、TiNgSのライブ練習と被ってるだろ? 無理すんなよ。俺は馬とちゃんと向き合うから」
「春ちゃんにお任せあれ! 調整して絶対行く! ブライトウィンドくんも零くんも、春の明るい風で押し上げるよ!」
春はそう言って笑ったが、心の中は複雑だった。杏夏ちゃんからは「最近集中力足りないんじゃない?」と心配され、理王ちゃんにも「春、なんか隠してる?」と鋭く突っ込まれている。秘密の恋は、アイドル人生に確実に影を落とし始めていた。
レース前日、栗東トレーニングセンター。
ブライトウィンドの気性が、再び荒れ始めた。調教師が頭を抱えるほど、ゲート試走で暴れ、零が跨がると耳を伏せて牙を鳴らす。
「零……お前、最近春に会えてないから機嫌悪いのか?」
零は馬の首を優しく叩きながら独り言を呟いた。自分でも不思議だった。この馬は、春のことをまるで感じ取っているかのように、零が心ここにあらずの時に限って暴れる。
本番当日——阪神競馬場。
春は朝イチの新幹線で大阪入りした。三つ編みを二つに分けてツインテール風にし、コンタクトにサングラス、派手なパーカーを着込んで完全変装。TiNgSの緊急合同練習は「午後から調整参加」と杏夏に嘘をついてきた。罪悪感で胸が痛い。でも、零の大事なレースを、そばで見ていたかった。
パドック。
零がブライトウィンドを引いて歩く姿が見えた。黒い勝負服に白い帽。表情はいつもより引き締まっている。春はスタンドの端から、そっと手を振った(もちろん気づかれないように)。
「零くん……がんばって。ブライトウィンドくんも、春の風を感じて!」
ゲートインの瞬間、異変が起きた。
ブライトウィンドが突然後ろ脚で暴れ、ゲートの中で立ち上がろうとした。零は必死に手綱を抑え、体重を前に預ける。騎手生命に関わる落馬の危機。観客からどよめきが上がる。
「零くん……!」
春は思わず立ち上がった。眼鏡を外した目が、涙でかすむ。
スタート。
ブライトウィンドはゲートを大きく出遅れた。それでも零は冷静に馬を立て直し、中団後方からじっくりと脚を溜める作戦を取る。毎日杯のハイペースに合わせて、道中は我慢に我慢を重ねる。
直線に入ったところで——風が吹いた。
零が馬の肩を叩き、声を張り上げる。
「今だ、ブライトウィンド! お前の明るい風を、春に見せてやれ!」
馬はまるで春の声に応えるように、爆発的な末脚を発揮した。外から一気に伸びて、先行馬を次々と捉えていく。残り200mで2番手に並び、ゴール前で鼻差の激戦——!
結果は……**2着**。
勝ったのは人気の素質馬だったが、ブライトウィンドは最後まで粘り、零の騎乗で重賞でも通用することを証明した。タイムも優秀。零は馬を止めた後、首を強く抱きしめた。
「……お前、よく頑張った。次は絶対勝とうな」
控室に戻った零のスマホに、春からメッセージが殺到していた。
『零くん! 2着おめでとう! ブライトウィンドくん、すっごくかっこよかった! 春、胸がいっぱい……!』
その後、零は春と競馬場近くの静かな喫茶店で落ち合った。春はまだ変装のまま、眼鏡をかけ直して零の手を握る。
「零くん、落馬しそうになって……怖かったよ。でも、零くんが馬を信じてる姿、春、大好き」
零は春の三つ編みを指で優しく巻きながら、疲れた笑顔を浮かべた。
「春が来てくれてたから、俺もブライトウィンドも頑張れた。でも……今日の練習、杏夏さんに怒られただろ?」
春は目を伏せた。
「うん……ちょっと。『春、最近大事なライブ前に集中力散漫だよ』って。でも春、零くんとブライトウィンドくんの夢も、TiNgSの夢も、両方諦めたくないの!」
零は春をそっと抱き寄せた。騎手の肩はまだレースの汗と熱を帯びていて、春の小さな体を温かく包む。
「俺もだ。お前を泣かせたくない。でも、騎手は馬と命を預ける仕事だ。次はもっと危ないレースもあるかもしれない……それでも、そばにいてくれるか?」
春は零の胸に顔を埋めて、強く頷いた。
「春ちゃんにお任せあれ! 零くんの風になるよ。ブライトウィンドくんも一緒に、春の『シャインポスト』を目指そうね!」
二人は短い時間だけ、秘密のキスを交わした。
しかし、この日を境に、二人の関係は徐々に周囲に怪しまれ始める——。