ブライトウィンドは若葉ステークスを圧勝した勢いのまま、**皐月賞(GⅠ・中山競馬場・芝2000m)**へと駒を進めた。クラシック三冠の第一関門。「最も速い馬」が勝つと言われるレース。中山の内回りコースは小回りで、直線はわずか310m。ゴール前に高低差2.2mの急坂が待ち受け、スタート直後も坂を上るタフな舞台だ。パワーと器用さ、騎手の巧みな手綱さばきが勝敗を分ける。
零は栗東の厩舎で毎日、ブライトウィンドと向き合っていた。馬は零の指示に素直に応えるようになり、調教では中山の坂を想定した坂路で鋭い動きを見せていた。しかし、零は過去の厩舎時代に経験した「馬の気性崩れ」の影を、ブライトウィンドに感じ始めていた。以前所属していた厩舎では、減量を強いられた若い馬が暴走し、騎手が落馬して重傷を負う事故が起きていた。あの時のトラウマが、零の胸に蘇る。
「ブライトウィンド……お前は違うよな。春の風みたいに、俺を運んでくれ」
レース前日、零は春に電話をかけた。
「春、明日は皐月賞。本番だ。無理して来なくていいぞ。ツアー真っ最中だろ?」
春は東京の寮から、声を弾ませた。
「零くん、春ちゃんにお任せあれ! 杏夏ちゃんと理王ちゃんが少し協力してくれて、午前中だけ抜けられるようにしたよ。変装もパワーアップ! ブライトウィンドくんが中山の坂を駆け上がる姿、絶対に見たいの!」
杏夏ちゃんは「絶対にバレないようにね。でも、春が本気なら……」とため息をつき、理王ちゃんは無言で「馬鹿は治らない」と一言。メンバー二人の温かい(?)援護で、春は新幹線に飛び乗った。
皐月賞当日、中山競馬場は満員の熱気。18頭立ての大レース。ブライトウィンドは単勝オッズで中位人気。零の勝負服は白地に青のストライプ、ヘルメットを被った姿は若手騎手らしい引き締まったものだった。
パドックで春は最前列近くに陣取っていた。今回はウィッグを短髪風にし、大きめのサングラスとマスク、競馬場スタッフ風のジャケットで完全変装。心臓が激しく鳴る。
「零くん……ブライトウィンドくん……春、ここにいるよ」
ゲートイン。
中山2000mのスタートは直線入口付近。1コーナーまで約400mだが、すぐに急坂が始まる。ブライトウィンドは好スタートを決め、零は好位の5番手あたりをキープ。道中は小回りのコーナーで馬群が密集し、外を回ると距離ロスが大きい。零は内ラチ沿いを上手く選び、馬の力を温存した。
向こう正面の下り坂でペースが上がる。残り600mの3コーナー付近から、零はブライトウィンドの肩を軽く叩いた。
「ここからだ。春の明るい風を、みんなに見せてやれ!」
直線に入る。短い310mの直線で、先行馬がバテ始める中、ブライトウィンドは外に持ち出され、末脚を爆発させた。しかし——中山名物の急坂が待ち受ける。
馬の息が荒くなり、脚がわずかに乱れた。零は体重を前に預け、手綱を巧みに操り、坂を力強く登らせる。残り200mで2番手に並び、ゴール前で激しい叩き合い!
「行け、ブライトウィンド!!」
零の声が風に乗り、馬は最後のひと踏ん張り。だが、坂の影響で僅かに脚色が鈍り、**3着**でゴール。勝ったのは人気の逃げ馬が粘った大接戦。ブライトウィンドは重賞でまたしても上位争いを演じ、零の騎乗技術が高く評価された。
零は馬を止めた後、首を強く抱きしめた。汗だくの体で息を整えながら、スタンドのどこかにいるはずの春を思い浮かべた。
「……よく頑張った。お前は俺の相棒だ。次はダービーだぞ」
控室に戻ると、零のスマホに春からのメッセージが。
『零くん! 3着おめでとう! ブライトウィンドくん、中山の坂をものすごい勢いで上がってたよ! 春、泣いちゃった……零くんのかっこいい姿も、最高だった! お疲れ様! 大好き!』
しかし、零はスマホを握りしめ、ため息をついた。レース中にブライトウィンドの気性が少し荒れ、零は落馬寸前のバランスを何度も取り直していた。過去の厩舎の暗い記憶——減量過多で馬が暴走し、仲間が落馬して長期離脱した事故——が頭をよぎる。
その夜、二人は中山競馬場近くの静かな場所で短く落ち合った。春は変装を解かず、三つ編みを隠したまま零の手を握る。
「零くん、坂のレース、ほんとにタフだったね……怖くなかった?」
零は春の指を優しく包み、苦笑した。
「怖いさ。騎手は毎日、命がけだ。ブライトウィンドは強いけど、気性がまだ荒い部分がある。もし落馬したら……お前を悲しませるかもしれない。でも、春が応援してくれるから、俺は馬を信じて走れる」
春は眼鏡の奥の目を潤ませ、零の胸に寄りかかった。
「春も怖いよ。でも、零くんとブライトウィンドくんのコンビが、クラシックで輝くところを見たいの。春ちゃんにお任せあれ! ダービーも絶対に応援に行くから! TiNgSのツアーも頑張るし、両方大事にするよ!」
零は春の頭を優しく撫で、短いキスを交わした。騎手の唇はまだレースの熱を残していた。
しかし、競馬メディアでは零とブライトウィンドの「若手コンビの躍進」が大きく報じられ始め、春の変装写真が再び小さく取り沙汰されつつあった。杏夏ちゃんからは「春、次は本当に気をつけて!」と警告のLINEが。
零の厩舎関係者からも、怪しい連絡が入り始め——ブライトウィンドの気性を巡る「調整の圧力」が、零にのしかかろうとしていた。