ダービー優勝から十日後——栗東トレーニングセンター、**風間零が所属する『高嶺厩舎』**。
零は朝の調教を終え、ブライトウィンドの馬房の前で汗を拭いていた。厩舎は中堅規模で、零のような若手騎手を何人か抱えている。ブライトウィンドのダービー制覇で、厩舎全体が活気づいていた。
「零、お前よくやったな!」
厩舎のベテラン調教師・**高嶺 鉄平(たかね てっぺい)**が、コーヒーを片手に近づいてきた。50代後半、厳しい表情がトレードマークだが、馬を愛する熱い男だ。零が騎手デビューした頃から面倒を見てくれている恩人でもある。
「高嶺先生……ありがとうございます。ブライトウィンドが素直に応えてくれたおかげです」
高嶺調教師はブライトウィンドの首を優しく叩きながら、ため息混じりに笑った。
「気性が荒かった頃を思えば、別馬だ。お前が主戦になってから、馬が変わった。だが……馬主さんが今日、視察に来るぞ。少しプレッシャーかける気配だ」
その言葉通り、午後になると馬主が現れた。
**馬主・神崎 隆一(かんざき りゅういち)**。60歳近い実業家で、複数の重賞馬を所有する中堅馬主。派手なチェックのスーツを着こなし、常に笑顔だが、目が鋭い。
「風間くん! ダービーおめでとう! ブライトウィンドは我が厩舎の宝だよ。次は菊花賞で二冠に挑もうじゃないか!」
神崎馬主は零の肩を叩きながら、ブライトウィンドをじっくり観察した。高嶺調教師が横で説明を加える。
「神崎さん、菊花賞は距離が3000mになります。ブライトウィンドのスタミナは十分ですが、気性をさらに落ち着かせる調整が必要です。零の騎乗が鍵ですが……」
神崎馬主は頷きながら、零に視線を向けた。
「風間くん、君のインタビューで『大切な人がいる』と言っていたね? まあ、若いんだからいいが……馬のためなら何でもする覚悟はあるか? 最近、うちの競馬部のスタッフが『もっと強く調整した方がいい』と言っている。減量をもう少し……」
零の表情がわずかに固まった。過去の厩舎(前所属)で起きた減量過多による暴走事故を思い出す。高嶺調教師も気づき、間に入った。
「神崎さん、そこは慎重に。高嶺厩舎では馬の体調を最優先にしています。零も馬を信じて乗っていますから」
厩舎スタッフの一人、**ベテラン厩務員・佐伯(さえき)**が近づいてきて、零に小声で囁いた。
「零、気をつけろよ。馬主さんが熱くなってると、調教で無理をさせられるケースがある。ブライトウィンドは零のお前じゃなきゃ扱えない馬だぞ」
零は頷きながら、心の中で春の顔を思い浮かべた。
——その頃、春はTiNgSのツアー最終盤、東京での公演リハーサル中だった。
杏夏ちゃんがスマホのニュースを見せながら、ため息をつく。
「春、また競馬ニュースで『謎の女性ファン』が話題になってるよ……。零くんの厩舎の人たちも、そろそろ怪しんでるんじゃない?」
春は眼鏡を直しながら、明るく笑った。
「春ちゃんにお任せあれ! 零くんから聞いたけど、高嶺厩舎の調教師さんも馬主さんも、ブライトウィンドくんを大事にしてくれてるみたい。春も陰ながら応援してるよ!」
夜、零から電話があった。
「春、今日馬主さんが来て……菊花賞を目指すって。距離は長くなるけど、ブライトウィンドならやれる。でも、厩舎内で調整の意見が分かれてて、少し揉めてる」
春は電話の向こうで真剣に聞いた。
「零くん、大丈夫? 過去の事故の話、春も覚えてるよ。ブライトウィンドくんを無理させないでね……春、零くんと馬の夢、ずっと見ていたいから」
零は優しく笑った。
「ありがとう。高嶺先生は味方だ。佐伯さんも。馬主さんは結果を求めてるけど、俺はブライトウィンドを信じて乗るよ。お前がいるから、プレッシャーにも負けない」
二人は短い時間だけ、ビデオ通話で顔を見合わせた。春の三つ編みが画面越しに揺れる。
「零くん、菊花賞も絶対に応援に行く! 杏夏ちゃんたちも協力してくれるって。春の明るい風で、ブライトウィンドくんを後押しするよ!」
零は頷いた。
「高嶺厩舎のみんなと、神崎さんにも、いつか春のことを……いや、まだ秘密だな。でも、俺とお前とブライトウィンドで、もっと上を目指す」
しかし、次の朝——高嶺厩舎で小さな事件が起きた。
調教中にブライトウィンドが軽く暴れ、零がバランスを崩しかけた。佐伯厩務員がすぐに駆け寄り、高嶺調教師が厳しい声でスタッフを叱った。
「減量のし過ぎは絶対に許さん! 零、馬主さんには俺が話す。お前は馬と向き合え」
神崎馬主からは「結果を出せばいい」とプレッシャーの電話。零はヘルメットを握りしめ、決意を新たにした。