ダービー優勝から三週間後——栗東トレーニングセンター、高嶺厩舎。
朝の調教を終えたブライトウィンドは、馬房で静かに草を食んでいた。零は鞍を下ろし、馬の首を優しく撫でながら息を整えていた。
そこへ、高嶺鉄平調教師が重い足取りでやってきた。いつもの厳しい表情が、今日はさらに険しかった。
「零、ちょっと来い。神崎馬主から連絡だ。次走の話……本気で決着をつけないとまずい」
会議室に呼ばれた零は、すでに神崎隆一馬主が座っているのを見た。馬主はいつもの派手なスーツ姿で、テーブルに拳を軽く置いていた。
「風間くん、高嶺先生。ダービー優勝おめでとう。だが、話は次だ。ブライトウィンドは三冠は無理だったが二冠の夢を掴める馬だ。次は絶対に**菊花賞(GⅠ・京都・芝3000m)**だ。長距離でスタミナを証明して、歴史に名を刻むんだよ!」
神崎馬主の声は熱かった。菊花賞——3歳クラシックの最終戦。3000mの長丁場で、逃げ切りやスタミナ勝負が主流。賞金も大きく、馬主としてのステータスも上がる一戦だ。
しかし、高嶺調教師は腕を組んだまま、静かに首を横に振った。
「神崎さん……それは、俺は反対だ。ブライトウィンドはダービーで十分に力を示した。次は**天皇賞・秋(GⅠ・東京・芝2000m)**に進むべきだ。距離を短くして、スピードを活かしたレースで古馬とぶつかる。菊花賞の3000mは、この馬の脚質にはリスクが大きい」
零は息を飲んだ。厩舎と馬主の意見が、はっきりとぶつかっていた。
神崎馬主は眉を吊り上げた。
「高嶺先生、何を言ってるんだ! ダービー勝った馬が菊花賞を避けるなんて、前代未聞だぞ! 俺はクラシック二冠の馬主になりたい。ブライトウィンドはそれだけの器だ!」
高嶺調教師は、ゆっくりと過去を語り始めた。零も初めて聞く、調教師の“本当の過去”だった。
「神崎さん……15年前、俺がまだ若い調教師だった頃の話だ。俺の厩舎に『シップウノハシャ』という3歳牡馬がいた。ダービー2着の逸材で、みんなが菊花賞でクラシックGI制覇を期待した。馬主は当時、君と同じように『長距離でこそ本領発揮だ』と強硬に押した。俺は反対したんだ。『この馬はスピード型。3000mは体が持たない』と……だが、結局押し切られて菊花賞に出走。レース中、3コーナーで脚を崩し、骨折。安楽死処分になった。あの馬は、俺が守れなかった。以来、俺は『馬の適性を最優先』と誓ったんだ。賞金や名誉より、馬の命と未来を第一に……ブライトウィンドは、似てる。気性は荒いが、零の手綱で輝くスピード馬だ。菊花賞で無理をさせたら、同じ過ちを繰り返す」
部屋に重い沈黙が落ちた。
佐伯厩務員(ベテラン厩務員)が、横で静かに頷いた。
「高嶺先生の言う通りです。ブライトウィンドの調教タイムを見ても、2000m前後がベスト。長距離はまだ体ができてない」
神崎馬主はテーブルを叩いた。
「過去の失敗はわかるが、俺の馬だ! 結果を出せばスポンサーも増える。菊花賞を勝てば、天皇賞なんて後回しでいい!」
高嶺調教師は目を細め、毅然と言った。
「神崎さん、俺は高嶺厩舎の調教師として、馬を壊すような指示は受けない。零も同じだ。ブライトウィンドを主戦に乗せているのは、俺と零の信頼があるからだ。天皇賞・秋なら、古馬相手でも勝負になる。菊花賞は……俺は絶対に認めん」
零は拳を握りしめた。春の顔が浮かんだ。
「高嶺先生……俺も、天皇賞・秋でブライトウィンドを走らせたい。春……いや、俺の支えがいるレースで、馬を信じたいんです」
神崎馬主はしばらく天井を睨んでいたが、大きくため息をついた。
「……わかった。高嶺先生の過去を聞いて、俺も少し考えが変わった。ブライトウィンドを壊す気はない。菊花賞は諦める。天皇賞・秋で、古馬に挑戦だ。ただし、結果を出せよ。俺の投資が無駄にならないように」
高嶺調教師は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、神崎さん。ブライトウィンドは、必ず応えてくれます」
零は胸をなでおろした。高嶺厩舎の結束が、馬主の熱意を押し返した瞬間だった。
——その夜、零は春に電話をかけた。
「春……今日、厩舎と馬主がぶつかってさ。高嶺先生の過去の話が出て、天皇賞・秋に決まった。菊花賞じゃなくて、2000mの古馬戦だ」
春は電話の向こうで目を輝かせた声を出した。
「零くん! 春ちゃんにお任せあれ! 高嶺先生、かっこいいね……馬を大事にする人なんだ。ブライトウィンドくんも、天皇賞で零くんと一緒に輝くよ! 春、絶対に応援に行くから! TiNgSのスケジュールも調整するね!」
零は笑った。
「高嶺先生の過去……俺も胸に刻んだ。ブライトウィンドを、絶対に守る」
しかし、決定の裏で、神崎馬主は古い知り合いの調教師に「天皇賞で結果が出なかったら……」と小声で漏らしていた。厩舎内の緊張は、まだ完全に消えていなかった。