天皇賞・秋(GⅠ・東京・芝2000m)まであと三週間。高嶺厩舎は静かな緊張に包まれていた。
零は朝の坂路調教を終え、ブライトウィンドの汗を丁寧に拭いていた。高嶺鉄平調教師が近くで腕を組んでいる。神崎馬主の「勝てなければ厩舎変更」のプレッシャーは、毎日のように電話で届いていた。
「零、馬の気性は落ち着いているか?」
「はい。高嶺先生の過去の話を聞いて、俺もより慎重に……ブライトウィンドを信じて乗ります」
その頃、東京のTiNgS寮では、珍しい「緊急メンバー会議」が開かれていた。
リビングのテーブルに杏夏、理王、春の三人が座っている。杏夏は腕を組み、理王は無表情でコーヒーを飲み、春は眼鏡を直しながら縮こまっていた。
杏夏がまず口火を切った。
「春、正直に話して。零くんって騎手の人、ダービー勝ったブライトウィンドの主戦騎手でしょ? 最近、競馬ニュースで『謎の女性ファン』がまた出てるよ。あんたの変装、そろそろ限界じゃない?」
春は両手を合わせて頭を下げた。
「ごめんなさい、杏夏ちゃん……理王ちゃん。春、零くんとブライトウィンドくんを応援したくて……でも、みんなに心配かけたくなくて」
理王が珍しく口を開いた。クールな声だけど、どこか優しい。
「バカ。隠すならもっと上手く隠せ。俺は最初から気づいてたよ。春が練習中にスマホ見てニヤニヤしてるの、全部競馬レースの結果だろ?」
杏夏がため息をつきながら春の三つ編みを軽く引っ張った。
「理王の言う通り。春が大事なライブ前に『家族の用事』って抜けるのも、全部天皇賞のためでしょ? 私たち、春の味方だよ。でも、事務所にバレたらTiNgS全体が危ないの。どうするつもり?」
春の目が潤んだ。
「春ちゃんにお任せあれ!……って言いたいけど、正直、春も不安だよ。零くん、高嶺厩舎の先生や馬主さんと揉めてて、天皇賞に決まったんだけど……プレッシャーがすごいみたい。春、零くんのそばにいてあげたいの。でも、みんなのステージも大事で……」
杏夏はスマホを取り出し、零の勝負服の写真(ネットから拾ったもの)を並べた。
「この人、結構かっこいいじゃん。春の好みだね。三つ編み眼鏡の文学少女が、命がけの騎手に恋するなんて……ドラマみたい。」
理王が小さく笑った。
「ドラマじゃ済まない。もしスキャンダルになったら、春は活動休止かも。私と杏夏でカバーできる範囲は限界あるぞ。」
杏夏が春の肩を抱いた。
「でも……春が本気で好きなら、守ってあげるよ。私が零くんに直接連絡取ってみる。『春を泣かせるな』って、騎手に警告してくるわ。」
春が慌てて手を振った。
「ええっ!? 杏夏ちゃん、それだけはダメー! 零くん、びっくりしちゃうよ!」
理王が淡々と提案した。
「じゃあ、天皇賞当日、私たちも変装して競馬場に行くか? 三人揃ったら目立つけど……春一人よりは自然に見えるかも。」
杏夏が目を輝かせた。
「それいい! 理王、意外とノリいいじゃん。私、競馬場初めてだけど、ブライトウィンドくんを応援するの楽しそう。春の彼氏の晴れ舞台、見届けようよ。」
春は涙目で二人を抱きついた。
「杏夏ちゃん……理王ちゃん……ありがとう! 春、みんなにこんなに甘えちゃってごめんね。でも、零くんとブライトウィンドくんの天皇賞、絶対に輝かせたい! 高嶺先生の過去の想いも、みんなで背負ってる気分だよ!」
その夜、零のスマホに杏夏から突然のメッセージが届いた。
【杏夏】:風間零さん? TiNgSの杏夏です。春から全部聞きました。春をよろしく。でも、万一春を泣かせたら、私がブライトウィンドより速く蹴飛ばしに行きます。頑張ってください。天皇賞、陰ながら応援してます。
零は画面を見て苦笑いし、春に電話をかけた。
「春……杏夏ちゃんから連絡来たぞ。めっちゃ怖い警告されたけど……なんか、安心した。お前、いい仲間持ってるな。」
春は電話の向こうで照れ笑い。
「えへへ……杏夏ちゃん、理王ちゃんも天皇賞に来てくれるって! 春ちゃんにお任せあれ! みんなの想いも一緒に、零くんとブライトウィンドくんを東京の直線で輝かせるよ!」
高嶺調教師は翌日の調教で零に言った。
「零、馬主さんのプレッシャーは俺が引き受ける。お前は春……じゃなかった、大切な人のために、ブライトウィンドに乗れ。」
佐伯厩務員も笑いながら肩を叩いた。
「高嶺先生の過去を無駄にしないように、な。」