懲りずに似たようなネタを投稿してみます。
妹の立場を利用してすがりつく綾香のいじらしさを見てあげてください。
そんなに長くはならないと思います。
――それは、ひどく冷たい愛の予感。
沙条綾香は、まだ幼い。
魔術師としての才能が姉に比べて絶望的であることも、父からの期待が自分ではなく姉に注がれていることも、幼心に理解はしていた。
けれど、それ以上に綾香を不安にさせていたのは、姉・愛歌の底知れなすぎる瞳だった。
お姉ちゃんは、私のことなんて見ていない。
お姉ちゃんは、この世界のことなんて、どうでもいいと思っている。
そんな疑念が、幼い綾香に試し行動をさせていた。
わざと我が儘を言ってみる。
家事の手伝いを放り出してみる。
不機嫌な顔で、姉のスカートの裾を力任せに引っ張ってみる。
「…ねえ、お姉ちゃん。お本、読んで。今すぐ」
愛歌は、ふわりと微笑んだ。
聖母のような、あるいは無垢な少女そのものの、完璧な笑顔。
「いいわよ、綾香。お望みなら、いくらでも」
愛歌が綾香の頭を撫でる。
その指先が髪に触れた瞬間――それは起きた。
魔術回路が意図せず共鳴したのか。
あるいは、全能に近い姉の意識が、あまりに無防備な妹へ溢れ出したのか。
綾香の視界が、真っ白に弾けた。
――どろりとした、黒い泥の感覚。
――大樹のような、あるいは内臓のような、悍ましい聖杯の胎内。
――愛しい「王子様」へ捧げるための、あまりに無惨な生贄。
あ…あ、ああ…っ!
視えたのは、数年後の未来。
最愛の王子様に胸を貫かれ、歓喜と絶望のなかで、愛歌が完成し、そして消える結末。
姉という存在が、人としての形を保てなくなり、ただの概念や呪いへと成り果てる、美しくも無惨な終焉。
「――っ、はあッ!!」
意識が現実に戻る。
綾香は、自分の呼吸が激しく乱れていることに気づいた。
心臓が早鐘を打っている。
「どうしたの、綾香? 顔色が悪いわ」
心配そうに覗き込んでくる愛歌。
その瞳は、やはりどこまでも透き通っていて、先ほど視た凄惨な未来など微塵も感じさせない。
けれど、綾香は知ってしまった。
このままでは、お姉ちゃんがいなくなってしまう。
自分に興味がないどころか、お姉ちゃんはこの世界のすべてを捨てて、どこか遠い、救いのない場所へひとりで行ってしまうのだ。
「…綾香?」
返事のない妹に、愛歌が首を傾げる。
いつもなら、ここでなんでもないと拗ねて逃げ出すはずの綾香が、違った。
「……い」
「え?」
「いかないで」
綾香は、壊れ物を抱きしめるような力で、愛歌の腰にしがみついた。
今までのような構ってほしいという甘えではない。
それは、崖っぷちから落ちようとする人間を必死に繋ぎ止めようとする、切実な拒絶だった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん…! どこにも行かないで。私のそばにいて。お本なんていいから、ずっと、私を見てて!」
愛歌の体温を感じる。まだ、ここにある。
未来で視た、あの冷たい泥の中に姉をやりたくない。
あんな風に、誰かに殺される姉を見たくない。
「あら、あら…。ふふ、今日は一段と甘えん坊さんね。どうしたのかしら、急に」
愛歌は驚いたように目を丸くし、それから、今までで一番嬉しそうに目を細めた。
妹が自分に抱いているのが、純粋な愛情ではなく、未来への恐怖から来る執着であることなど、全能の彼女にはお見通しだったのかもしれない。
「いいわよ、綾香。あなたがそう望むなら。…お姉ちゃんは、ずっとあなたの特別でいてあげる」
愛歌の白い手が、綾香の背中を優しく叩く。
綾香はその胸に顔を埋め、涙を堪えながら誓った。
もっと、もっと、お姉ちゃんにべったりになろう。
片時も離れず、その服を掴んでいよう。
自分がお姉ちゃんを繋ぎ止める鎖になれば、あんな未来は、きっと変えられるはずだから。
…けれど、綾香はまだ知らない。
妹からの過剰な執着さえも、愛歌にとっては王子様との物語を彩るスパイスのひとつに過ぎないということを。
そして、握りしめたその手の温もりが、いつか自分を縛る最も重い呪いになるということを。
「大好きよ、綾香」
姉の囁きは、どこまでも甘く、ひどく冷たかった。
それからの綾香は、まさに愛歌の影となった。
学校から帰れば一目散に姉の元へ駆け寄り、その細い腰に腕を回す。
料理をする愛歌の背中に張り付き、読書をする愛歌の膝を枕にする。
かつての試し行動のような幼い反抗心は消え失せ、代わりに芽生えたのは、片時も目を離せば姉がどこかへ消えてしまうという強迫観念に近い献身だった。
「お姉ちゃん、お風呂沸いたよ。一緒に入ろう?」
「ええ、いいわよ。綾香は本当に甘えん坊さんね」
湯気に包まれた浴室で、愛歌の白磁のような肌に触れるたび、綾香はあの時視た黒い泥を思い出し、その温もりを確かめるように強く抱きついた。
眠る時も同じだ。愛歌の寝間着の裾を握りしめ、彼女の心音を聞きながらでなければ、綾香は悪夢に食い殺されそうだった。
そんな、濃密すぎるほどに「姉」に塗りつぶされた日々を数年繰り返し――。
少女から大人へと身体が変わり始める、少し早めの思春期。
綾香は、自分の中に芽生えた致命的な違和感に気づいてしまう。
――それは、姉妹という鎖を超えた熱。
その日も、二人は同じベッドの中で、薄い毛布を共有していた。
愛歌は既に穏やかな寝息を立てている。
月明かりに照らされた姉の横顔は、人間というよりは、精巧に作られた神話の彫像のように美しかった。
…きれい
不意に、綾香の指先が愛歌の唇に触れた。
今までは失いたくないという恐怖がすべてだった。
お姉ちゃんがいなくなるのが怖い。
死んでしまうのが怖い。
けれど、今この瞬間に胸を突き上げている鼓動は、恐怖によるものではなかった。
なんで、私…こんなに苦しいんだろう
握りしめていた愛歌の手。
その細い指を、自分の指と絡める。
かつてはお姉ちゃんは怖いと思っていた。
全能で、自分に興味がなくて、どこか人ならざる空虚さを抱えた姉を、綾香は確かに恐れていたはずだった。
けれど、今はどうだ。
自分を見つめる愛歌の瞳に。自分を呼ぶ愛歌の声に。
そのすべてに、身体の芯が痺れるような熱を感じてしまう。
私…お姉ちゃんのこと、お姉ちゃんとしてじゃなくて…
女の子として、好きだ。
その自覚は、冷や水を浴びせられたような衝撃となって綾香を貫いた。
家族愛でも、姉妹の情愛でもない。
あのとき視た王子様に愛歌が向けていたような、狂おしいまでの独占欲と渇望。
それを、あろうことか綾香は自分の姉に対して抱いてしまったのだ。
「…あ」
暗闇の中で、愛歌の睫毛が震えた。
ゆっくりと開かれた瞳が、至近距離で綾香を見つめる。
「綾香? どうしたの、そんなに心臓をバクバクさせて」
愛歌がふわりと微笑み、自由な方の手で綾香の頬を撫でる。
その指先の温度。
自分を陶酔させる甘い香り。
数年前、あれほど恐ろしかったはずの姉の底知れなさが、今はたまらなく愛おしく、そして、独り占めしたい獲物のように思えてしまう。
「なんでもない、お姉ちゃん…。ただ、ちょっと暑くて」
嘘をつきながら、綾香はより深く、愛歌の腕の中に潜り込んだ。
もしも自分のこの感情がバレれば、お姉ちゃんはどんな顔をするだろう。
軽蔑されるだろうか。それとも、やっぱり興味なさげに笑うだけだろうか。
いいよ。嫌われても、軽蔑されても…
姉が望む王子様が現れる前に。
姉が自分を置いて、あの黒い結末へ突き進む前に。
自分が妹という立場を利用して、この人をがんじがらめに縛り付けてしまいたい。
恐怖から始まった執着は、思春期の熱を帯びて、より深く、より逃れられない恋という名の呪いへと変質していった。
「ねえ、お姉ちゃん。ずっと、一緒にいてね」
「ええ。約束よ、綾香」
愛歌の優しい声が、綾香の理性をじわじわと溶かしていく。
綾香は姉の胸に耳を当て、トク、トクと刻まれる鼓動を聞きながら、ドロドロとした暗い悦びに身を浸した。
これなら、もう王子様なんて必要ない。
お姉ちゃんの隣にいるのは、私だけでいい。
綾香の抱く感情は、もはや純粋な妹の枠をとうに踏み越えていた。
けれど、彼女は利口だった。
自分の想いをそのままぶつければ、この全能で残酷な姉は、自分を妹という便利なカテゴリから外してしまうかもしれない。
だから、綾香は妹としての特権を最大限に利用し、建前という名のベールを被せたまま、愛歌への侵食を開始した。
――それは、甘い猛毒のような執着。
「お姉ちゃん、おやすみの…ちゅ、して?」
ベッドの中で、綾香は上目遣いに愛歌を見つめる。
幼い頃なら微笑ましい光景だっただろう。
だが、今の綾香の瞳には、湿り気を帯びた熱が宿っている。
愛歌はいつものように、慈しむような笑みを浮かべて綾香の額に唇を落とした。
けれど、綾香はそれを許さない。
愛歌の首に細い腕を絡ませ、引き寄せる。
「…ここじゃなくて、こっち。お姉ちゃんの大好きが、もっとほしいの」
縋るような、震える声。
愛歌は一瞬だけ不思議そうに目を細めたが、拒むことはなかった。
柔らかい唇が、綾香の頬、そして口角に触れる。
「これでいいのかしら? 綾香は本当に、私を独り占めしたいのね」
「…うん。お姉ちゃんは、私だけのものだもん」
唇同士が触れ合う寸前の距離で、綾香は愛歌の吐息を吸い込む。
本能が叫んでいた。
このまま噛みちぎってしまいたい。
この人を食べて、私の一部にしてしまえば、あの王子様に奪われることも、泥の中に消えることもないのに。
お風呂でも、綾香の行動は大胆さを増していった。
背中を流すという口実で、愛歌の白磁の肌に指を這わせる。
お湯の中で、愛歌の腰に足を絡め、心臓の鼓動が重なるほど密着した。
「お姉ちゃん、あったかいね」
「ええ、そうね。少し…苦しいけれど」
愛歌の困ったような声。
それでも愛歌は綾香を突き放さない。
彼女にとって、この世界のすべては庭の石ころと同じほどに無価値で、唯一妹という記号だけが、彼女をこの現世に繋ぎ止めるかすかな重しだったからだ。
綾香はその重しとしての立場を、悪辣なまでに利用した。
お姉ちゃんの肌も、声も、匂いも。全部、私だけのもの。誰にもあげない
寝る時も、綾香は愛歌を抱き枕にするようにして離さなかった。
愛歌の胸元に顔を埋め、服の上からその柔らかな膨らみに触れる。
それは偶然を装った、けれど明確な意図を持った接触。
「…ねえ、お姉ちゃん。私、お姉ちゃんがいれば、他には何もいらないよ」
「あら、お父様が聞いたら泣いてしまうわね」
「いいの。私には、お姉ちゃんだけがいればいい。お姉ちゃんも…そうでしょ?」
綾香の問いかけは、祈りであり、呪いだった。
まだ、自分は妹だ。
大好きという言葉も、抱きしめたいという欲望も、すべては仲の良い姉妹という建前の陰に隠せる。
けれど、綾香の指先は震えていた。
愛歌の髪を梳き、その白い首筋を見つめるたび、理性が悲鳴を上げる。
この建前を脱ぎ捨てて、私はあなたの番になりたい。
あなたの運命を塗り替えて、あの王子様の代わりに、私に殺されてほしい。
まだ…まだ、言っちゃだめ。
言ったら、お姉ちゃんはどこかへ行っちゃうから
綾香は愛歌の細い腕を、より一層強く、折れんばかりに抱きしめた。
それは、愛歌を救おうとする守護の形でありながら、同時に彼女を窒息させようとする、昏い愛の檻でもあった。
「お姉ちゃん…大好き。大好きだよ…」
繰り返される言葉は、日に日に熱を帯び、もはや祈りよりも執着に近い響きを帯び始めていた。
愛歌はそのすべてを全能の瞳で受け入れながら、ただ、静かに微笑み続けている。
沙条広宏は、魔術師として極めて理性的であり、冷徹な観測者であった。
根源へと至る至宝、愛歌。
そして、その添え物としての次女、綾香。
沙条の家系が悲願を達成するための歯車は、完璧に噛み合っているはずだった。
聖杯戦争を目前に控え、愛歌という全能の器は順調にその神性を研ぎ澄ませている…。
そう、信じていた。
だが、ここ数日の邸内の空気は、広宏の背筋を凍らせるほどに異質だった。
――それは、捕食者の視線。
書斎のモニターに映し出される、居間の光景。
そこには、ソファに座る愛歌の膝に顔を埋め、陶酔したようにその指先を弄ぶ綾香の姿があった。
「……」
広宏は無意識に、持っていたペンを握りつぶしそうになった。
かつての綾香は、愛歌を恐れていた。
その万能ゆえの欠落を本能で察知し、怯えていたはずだ。
しかし、今の綾香の瞳に宿っているのは、恐怖などではない。
それは、底なしの情欲と、執拗なまでの独占欲。
「あれは…妹が姉に向ける目ではない」
広宏は低く、苦い声を漏らした。
綾香の視線は、獲物をじっくりと追い詰め、喉元に牙を立てる機会をうかがう野生の雌そのものだ。
愛歌という至高の存在を、一人の女として、自らの腕の中に繋ぎ止めようとする――。
魔道において、情愛は時に強力な触媒となる。
だが、綾香が愛歌に向けているものは、既に人間としての理を逸脱していた。
恐るべきは、愛歌の反応だった。
全能であり、この世のすべてを路傍の石と同義に扱っていたはずの愛歌が、綾香の異常な接触を拒まない。
それどころか、綾香が抱きつくたびに、その空虚な瞳に微かな温度が宿る。
「…愛歌が、綾香に食われている」
広宏は戦慄した。
本来なら、愛歌という巨大な存在が綾香を飲み込むのが道理だ。
しかし現実は逆だった。
綾香という卑小な存在が、その歪んだ愛執によって、根源の渦そのものである愛歌を個の中に閉じ込めようとしている。
愛歌が沙条の悲願ではなく、一人の少女の愛執に塗りつぶされていく。
それは魔術師として、父として、決して許容できない事態だった。
「愛歌を濁らせるわけにはいかない」
広宏はモニターを消し、暗い書斎の中で立ち上がった。
聖杯戦争を勝ち抜き、根源へ至るためには、愛歌は純粋な器でなければならない。
綾香という異物が愛歌に女としての情愛を教えてしまえば、計画のすべてが狂う。
「…綾香。お前はよくやった。だが、これ以上は過ぎたる毒だ」
広宏の脳裏に、かつて自分が想定していた次女の役割が浮かぶ。
もしもの時のための予備、あるいは生贄。
それを実行する時期が、少し早まっただけのことだ。
「愛歌に執着し、彼女をただの人間に引きずり込もうとするなら…お前を排除しなくてはならない」
父親の瞳に、温かな情は一滴もなかった。
あるのは、完成間近の芸術品を守るために、余分な粘土を削ぎ落とそうとする彫刻家のような冷徹さ。
「明日の夜、地下の工房へ綾香を呼び出そう。…愛歌が気づく前に、処理を済ませる」
広宏は静かに、魔術回路を励起させた。
彼がまだ気づいていないのは、自らが見捨てた次女の執念が、既にどれほど深く至宝の心根に毒を回しているかという、その一点のみであった。
広宏の計算は、二つの意味で致命的に狂っていた。
一つは、愛歌と心身ともに密着し続けた綾香の身の内には、姉から溢れ出した膨大な魔力が澱のように溜まっていたこと。
そしてもう一つは――今の綾香にとって、死の恐怖など、姉から引き離される絶望に比べれば塵に等しかったことだ。
――それは、愛執が招いた血の結末。
地下工房の冷たい空気の中、広宏が放った拘束の魔術。
本来なら、未熟な綾香の四肢を縛り、意識を刈り取るはずだったその術式は、綾香が発した叫び一つで霧散した。
「嫌…お姉ちゃんと、離れるなんて…絶対に、嫌ぁッ!!」
綾香の魔術回路が、強制的に駆動する。
姉と交わった、風呂で、ベッドで、その肌から吸い上げてしまった根源の残滓。
それが綾香の細い血管を焼き、彼女を一時的な異形へと変貌させた。
「な…ッ!?」
広宏が驚愕に目を見開いた瞬間。
綾香は、子供の身体能力では到底不可能な速度で地を蹴った。
手近な作業台にあった儀礼用のナイフ。
それを、彼女は迷うことなく、実の父の心臓へと突き立てた。
ドスッ、という鈍い音。
「…ば、かな…。綾、香…おま、え…」
広宏の口から溢れたのは、娘への言葉ではなく、ただの困惑だった。
完成されたシステムであったはずの自らの計画が、予備に過ぎなかったはずの次女に壊された。
その事実だけを遺して、沙条の家主は光を失った泥人形のように、床へと崩れ落ちた。
「あ…あ、ああ…」
手に残る、嫌なほど熱い感触。
返り血で真っ赤に染まった自分の手と、物言わぬ肉塊になった父親を見つめ、綾香の理性が音を立てて砕けた。
自分が何をしたのか。
これからどうなるのか。
何もわからない。
ただ、どす黒い後悔と、それ以上の虚脱感が彼女を襲い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「う、うわああああああん! お父様、お父様…っ!!」
血の海の中で、ただ泣き叫ぶ少女。
その背後に、ふわりと、あまりに場違いなほど優雅な足音が響いた。
「あらあら…。お父様、壊しちゃったのね」
愛歌だった。
彼女は倒れた父親を一瞥だにせず、ただ、泣き崩れる妹を見つめていた。
その瞳は、やはりどこまでも冷静だ。
実の父が殺された悲しみも、妹が殺人者になった驚きもない。
ただ、目の前にある事象を淡々と受け止めているだけの、神の視座。
「おね、えちゃん…っ、お姉ちゃん、お姉ちゃん…!!」
綾香は血まみれの手で、愛歌の真っ白なワンピースに縋り付いた。
汚してしまう。
自分の罪で、この綺麗な姉を。
けれど、今の綾香には愛歌しかいなかった。
この世のすべてを敵に回しても、この温もりだけは手放せなかった。
「…いいわよ、綾香。大丈夫」
愛歌は、血で汚れることも厭わずに、綾香の頭をやさしく抱き寄せた。
その腕は驚くほど安定していて、冷たい。
今の愛歌にとって、綾香が父を殺したという事実は、彼女を妹として愛でる理由にこそなれ、拒絶する理由にはならなかった。
ああ、やっぱり…。私の愛する妹は、お父様よりずっと私に近いところにいたのね
愛歌はまだ、綾香に救いも対価も差し出さない。
ただ、震える妹の背中を、まるで壊れた玩具を慈しむような手つきで撫で続ける。
「泣かないで。私がいるわ。…あなたが壊したものは、私が全部、なかったことにしてあげるから」
愛歌の瞳には、微かな興味の光が灯っていた。
自分を愛し、自分を求め、自分を守るために修羅となった妹。
その歪みがこれからどう育っていくのか。
血の臭いに満ちた地下工房で、一人の少女の人間としての時間は終わりを告げ、二人だけの、狂った楽園への扉が開かれた。
血の臭いと鉄の味。
そんな悍ましいものを洗い流すために、愛歌は綾香の手を引き、浴室へと向かった。
湯船に張られたお湯はどこまでも澄んでいて、先ほどまでの惨劇が嘘のように静まり返っている。
愛歌は慣れた手つきで綾香の服を脱がせ、自らも衣を脱ぎ捨てて、震える妹を優しく湯船へと誘った。
「さあ、きれいにするわね、綾香」
愛歌の手が、石鹸の泡とともに綾香の肌を撫でる。
けれど、綾香の瞳からは、お湯よりも熱い涙が次から次へと溢れ出して止まらない。
――溢れ出した、最後の一線。
「…っ、ごめ、んなさい…お姉ちゃん、ごめんなさい…」
しゃくり上げる声が、タイル張りの浴室に反響する。
鏡に映る自分は、目が赤く腫れ、鼻を啜り、髪は張り付き、きっと見るに堪えないほど不細工な顔をしているはずだ。
それでも、胸の奥で暴れるこの感情だけは、もう抑え込むことができなかった。
「私…っ、私ね、お姉ちゃん…」
愛歌の手が止まる。
綾香は顔を上げられないまま、膝を抱え、絞り出すように言葉を紡いだ。
「私、お姉ちゃんのこと…普通のお姉ちゃんとして、見てないの。…一人の、かけがえのない…女の子として、好きなの…っ!」
ついに、言ってしまった。
喉の奥にずっと刺さっていた、棘のような真実。
お姉ちゃんがいなくなるのが怖いという恐怖の裏側に隠していた、醜悪で、甘美で、許されない恋心。
「…気持ち悪いよね。お父様を殺して…実のお姉ちゃんに、こんな…。ごめんなさい、こんな気持ち悪い妹で、ごめんね…っ!!」
綾香は顔を覆い、子供のように号泣した。
嫌われてもいい。軽蔑されて、ここで殺されてもいい。
これ以上、この想いを抱えたまま妹のフリをして姉に触れ続けることの方が、今の綾香には耐え難い拷問だった。
浴室に響くのは、綾香の泣き声と、蛇口から滴る水の音だけ。
愛歌は、何も言わなかった。
軽蔑の言葉も、拒絶の仕草も、あるいは期待していたような家族としての慰めさえも。
ただ、愛歌の長い指先が、綾香の濡れた頬をそっと掬い上げた。
「…不細工じゃないわよ、綾香。今のあなたは、今までで一番…私に似ているわ」
愛歌の声は、驚くほど平坦で、それでいて不思議な心地よさを孕んでいた。
彼女はまだ、恋というものを真に理解しているわけではない。
けれど、一つの対象に向かってすべてを投げ出し、倫理も家族も踏みにじるその形だけは、誰よりも理解していた。
「気持ち悪いだなんて、思わない。…だって、私をそんな風に想ってくれるのは、この世界であなただけだもの」
愛歌は綾香の額に自分の額をそっと重ねた。
愛歌の瞳は、やはりどこまでも冷静だ。綾香の告白を受けても、その全能の視座が揺らぐことはない。
けれど、その指先は、泣きじゃくる妹の背中を、これまで以上に所有物を確認するような執拗さで撫で回していた。
「泣かなくていいわ。…あなたが私をそこまで求めてくれるなら、私も、あなたの特別でい続けてあげる」
それは、恋への返答ではない。
ただ、自分に依存し、自分を愛して壊れた妹を、自らの庭のコレクションに加えることを決めただけの、冷徹な受容。
「さあ、顔を上げて。…もっと私を見て、綾香。あなたのその汚れた恋心を、私が全部、抱きしめてあげるから」
綾香は涙に濡れた瞳で、姉の空虚な、けれど美しい微笑みを見上げた。
絶望的なまでの幸福感と、二度と引き返せない暗い奈落の予感。
二人の境界線は、この夜、血とお湯に溶けて完全に消失した。
お風呂の熱気で頭が朦朧とするなか、綾香は必死に思考を巡らせていた。
お姉ちゃんは、いつかこの世界を捨ててしまう。
私がいまここで「お姉ちゃんのモノ」になって、彼女にすべてを委ねてしまえば、お姉ちゃんがいなくなる時、私はただ置き去りにされる。あるいは、彼女の一部として消えてしまう。
そんなの、嫌だ。
欲しいのは、所有される安心じゃない。
お姉ちゃんがどこへ行こうと、その隣に並んで歩ける資格だ。
あの真っ白な絶望の未来へお姉ちゃんが歩き出すなら、その手をつかんで、一緒に奈落へ落ちるための強さが。
――それは、魂を分け合う契約。
「お姉ちゃん…。私、決めたの」
綾香は震える手で、愛歌の濡れた両手を握りしめた。
その瞳には、先ほどまでの絶望的な涙とは違う、鋭く、昏い光が宿っている。
「私、お姉ちゃんを絶対に一人にしない。お姉ちゃんがどんなに遠いところへ行っても、私がついていけるようになるから。お姉ちゃんの重荷になっても、呪いになっても…隣にいるから」
愛歌は、何も言わずに妹を見つめている。
その瞳は相変わらず透明で、妹の決意を試すように静かだった。
「だから…お姉ちゃん。私に、初めてをちょうだい」
綾香の声が、熱を帯びて浴室に響く。
「魔術も、身体も…お姉ちゃんの特別なものを、全部。私に刻み込んで。私の初めても、全部お姉ちゃんにあげる。そうすれば…私たちは、ただの姉妹じゃない、もっと別の…逃げられない何かに、なれるよね?」
それは、自分を救ってほしいという懇願ではない。
自分を共犯者として、姉の運命に永遠に繋ぎ止めてほしいという、呪縛の願いだった。
愛歌の所有物になるのではなく、愛歌と運命を共にする者としての刻印を求めたのだ。
愛歌は、しばらくの間、無言で綾香を見つめていた。
妹が自分の中に芽生えさせた、全能の姉に対する執着と、対等であろうとする傲慢。
その歪みが、愛歌にはたまらなく愛おしく、そして愉しく感じられた。
「ふふ…。あなたって、本当に欲張りね、綾香」
愛歌が小さく笑った。
それは、慈悲深い姉の顔ではなく、初めて自分に興味を示した獲物を見つめる、魔女の微笑み。
「お父様を殺して、今度は私を縛る毒になりたいなんて。…いいわよ。そこまで言うなら、ちゃんと応えてあげる」
愛歌は立ち上がり、バスタオルを手に取ると、綾香の身体を優しく、けれど逃がさないような力強さで包み込んだ。
「初めては、こんなに湿っぽいところじゃなくて…ちゃんとベッドでもらってあげるわ。あなたの心も、身体も、その汚れた魔力も…全部、私と混ぜ合わせましょう?」
愛歌の手が、綾香の頬を撫で、そのまま耳元で囁く。
「覚悟してね、綾香。お姉ちゃんと混ざり合ったら…もう、死ぬまで離してあげないんだから」
浴室を出て、二人は父の遺体がある地下を背に、寝室へと向かう。
廊下の暗闇が、二人の影を一つに溶かしていく。
それは、救いなどどこにもない、けれど世界で一番甘美な心中への第一歩だった。
「…うん、お姉ちゃん。…大好き」
綾香は、その手に残る血の感触さえも、愛歌と結ばれるための香料であるかのように感じながら、姉の導きに身を任せた。