寝室の空気は、甘く、それでいて重い。
カーテンの隙間から差し込む月光が、ベッドに横たわる二人の少女を白く照らし出していた。
綾香の心臓は、耳元で鐘を突くように激しく脈打っている。
愛歌がゆっくりと顔を寄せ、その吐息が混じり合う。
「…いくわよ、綾香」
唇が重なった。
それは、今までのおやすみのキスとは決定的に違う、深く、蹂躙するような大人のキス。
舌の先から伝わってくるのは、姉の体温と、それ以上に圧倒的な根源の香り。
ああ…うれしい。お姉ちゃんが、私を食べてる…
一瞬、その甘美な悦楽に意識が飛びそうになる。
けれど、綾香は自分の指先を強く抓った。
痛みが理性を引き戻す。
ただ抱かれるだけではダメだ。
ただ愛されるだけでは、あの王子様とやらに、あるいは根源という名の虚無に、お姉ちゃんを連れ去られてしまう。
綾香は、自らの魔術特性を全開にした。
地属性。
それは安定であり、定着であり、そして何よりどこまでも地続きであるという概念。
愛歌の身体から溢れ出す、人間には到底扱いきれない莫大な魔力の奔流。
本来なら触れた瞬間に焼き切れるその熱を、綾香は妹という名の、血を分けた地続きの回路を使って、自らの内へと引き込んでいく。
私の身体を、お姉ちゃんの『重し』にする…!
「…あ、あぐ…ッ!」
内臓が焼けるような痛みに、綾香の身体が弓なりに反る。
だが、綾香は愛歌の肩を強く噛み、離さなかった。
今、このベッドの上で、あらゆる境界線が消失していく。
「姉妹」の概念、同じ血が流れているという「連続性」。
「恋人」の概念、互いを唯一無二の番として求める「執着」。
「地」の性質、あらゆるものを繋ぎ止め、天へ昇ることを許さない「重力」。
綾香はそれらすべてを綯い交ぜにし、一本の巨大な杭へと変えた。
そして、その杭を、愛歌と根源の渦の間に、無理やり打ち込んでいく。
「お姉ちゃん…お姉ちゃん、逃がさない…っ! 根源なんて、王子様なんて…見ないで…! 私を、私だけを見て…っ!」
「…っ、綾香、あなた…何を…っ」
全能である愛歌の瞳に、初めて困惑の色が走る。
根源と直結している愛歌の意識。
そのパイプラインに、綾香という異物が、泥臭い地の魔術で割り込んできたのだ。
高潔な神の視座へ引き戻そうとする世界の理を、綾香の情欲が、泥まみれの手で引きずり下ろす。
肉体が重なり、魂が混ざり合う。
それは愛の行為であると同時に、愛歌を「神」から「人」へと堕とし、自分だけの檻に閉じ込めるための、一生に一度の禁忌の儀式だった。
できる、できないじゃない…。やるんだ。私が、お姉ちゃんの根源になるんだ!
綾香は、愛歌の瞳の中に自分だけの姿が映っていることを確認し、恍惚とした笑みを浮かべた。
愛歌の白磁の肌に、綾香の魔力による赤黒い紋様が浮かび上がる。
それは姉を救うための刻印であり、妹が一生をかけて背負う、愛という名の寄生。
「…ふふ。お姉ちゃん…。これで、お姉ちゃんの半分は…私のもの…」
絶叫に近い吐息を漏らしながら、綾香は意識が真っ白に塗りつぶされるその瞬間まで、姉を繋ぎ止めるための呪文を唱え続けた。
愛歌の背中に回された綾香の手が、深く、その肌に爪を立てる。
それは、天上の光よりも深い、奈落の底で結ばれた二人の、本当の始まりだった。
全能の沙条愛歌にとって、世界は既に読み終えた書物のようなものだった。
妹が何を企み、どのような魔術的アプローチで自分を縛ろうとしているか。
そのプロセスも結末も、彼女の瞳にはあらかじめ視えていた。
…でも、これは。私の識っている答えとは、違うわ
愛歌は、自らの内に起きた劇的な変質に、戸惑いを隠せなかった。
ベッドの上、激しい儀式の果てに力尽き、泥のように眠る綾香。
その細い喉元に刻まれた繋ぎ目から、絶え間なく綾香の情念が流れ込んでくる。
それは、愛歌が今まで接続していた根源の渦からの膨大な情報量とは、質が全く異なっていた。
世界の真理。過去と未来。
多重次元の観測。
今まで耳元で鳴り響いていたそれらすべての叡智が、砂嵐のようなノイズにかき消されていく。
代わりに聞こえるのは、ただ一つの、あまりに愚鈍で、あまりに重い声。
『お姉ちゃん。大好き。愛してる。どこにも行かないで。私のものになって』
「…綾香の、声…」
愛歌は自分の手を見つめた。
いつもなら、この手のひらの先にある分子構造まで、その未来までを視ることができた。
けれど今は、ただ自分の肌が、綾香の涙で湿っていることしか分からない。
世界が見えない。
ただ、目の前で寝息を立てる、この小さな、不器用な、愛しい妹しか見えない。
愛歌は、震える指先で綾香の頬に触れた。
すると、自分の中にあった全能という名の空虚な器に、ドロドロとした熱い感情が注ぎ込まれていく。
ああ、そうか。私は、綾香に目隠しをされたのね
綾香という存在が、愛歌と根源の間に、肉と血の盾となって割り込んだのだ。
根源から来る冷徹な知性を、綾香の好きという熱狂がすべて焼き尽くし、愛歌をただの、愛を知らされた一人の女へと作り変えていく。
「ふ、ふふ…。すごいわ、綾香。あなた、本当に…私を人間に落としちゃった」
愛歌は笑おうとした。
けれど、唇がかすかに震えた。
そこで彼女は、人生で初めて、その感情の名前を知る。
「…こわい」
胸の奥が、締め付けられるように痛い。
もし今、この子が目を覚まさなかったら?
もし今、誰かがこの子を私から奪おうとしたら?
今まで失うという概念を持たなかった愛歌が、綾香という唯一の依代を得たことで、同時に喪失の恐怖を突きつけられたのだ。
「私が…不安に、なってる? 何かに、怯えているの…?」
全能の沙条愛歌は、もういない。
ここにいるのは、妹の寝顔を見て、その呼吸が止まっていないか確認せずにはいられない、あまりに脆い一人の姉。
愛歌は、気絶するように眠る綾香の身体の上に、覆いかぶさるように抱きついた。
綾香が自分を縛ったのではない。
自分から、その鎖を喜んで首に巻き付けたのだ。
「…ずるいわ、綾香。こんなに苦しいものを、私に教えるなんて」
愛歌は、綾香の髪に顔を埋め、その温もりを貪るように吸い込んだ。
根源の光よりも、隣に眠る妹の鼓動の方がずっと輝いて見える。
「でも、いいわ。…あなたが私を人間にしてくれたなら。私は、人間として…あなたを一生、愛してあげる」
愛歌の瞳から、一筋の涙がこぼれ、綾香の頬に落ちた。
全能を捨てた少女は、今、初めてこの狭いベッドの上で、自分だけの世界を見つけた。
朝日が、乱れたベッドの上に容赦なく降り注いでいた。
綾香が重い瞼を持ち上げると、視界いっぱいに、透き通るような姉の肌が映った。
「…ん、…ぁ…」
目覚めると同時に、脳内を襲ったのは激痛と濁流だった。
昨日、自らの意志でお姉ちゃんと根源の間に割り込んだ代償。
愛歌がこれまで接続していた膨大な情報の断片、星の記憶、過去から未来へと至る膨大な答えの残滓が、処理能力を超えて綾香の脳に流れ込んでくる。
なに、これ…。あたまが、割れそう…っ!
視界がぐにゃりと歪む。
理解できない数式、見たこともない風景、他者の感情。
それらが濁流となって綾香の精神を削り取ろうとしていた。
お姉ちゃん…ずっと、こんな場所にいたの…?
一人で、こんな嵐のような世界に立ち続けていたのか。
こんなにうるさくて、冷たくて、すべての価値が消失するような情報の中にいたら、私のことなんて見えるはずがない。
綾香は、お姉ちゃんが抱えていた絶望的なまでの全知全能の孤独を、今さらながらに理解し、戦慄した。
お姉ちゃんを、助けなきゃ。私が、この嵐を止めなきゃ…!
今のままでは、自分の脳が焼き切れる。
そうなれば、お姉ちゃんを繋ぎ止める重しがいなくなってしまう。
「ふ、うう…ッ…!」
綾香は震える歯を食いしばり、自らの魔術特性を無理やり駆動させた。
得意とする「地」の属性。
その本質は、流動を許さない、確固たる「固定」。
溢れ出す情報の奔流に対し、綾香は自分の意識を一本の杭として地面に深く打ち込むイメージを持った。
流れるな。
動くな。
ここに、留まれ。
絞って…絞って…私の、身の丈に…!
意識のバイパスを狭め、自分という器が耐えられる分だけの情報量に制限をかける。
広大な海を、一本の細い水道管に押し込めるような無理な固定。
「……はぁっ、はぁ…っ!」
ふ、と脳内の嵐が静まった。
完全に消えたわけではない。
耳の奥でずっと、遠い潮騒のようなノイズは鳴り続けている。
けれど、ようやく目の前のお姉ちゃんの顔を、自分自身の意思で視認できる程度には、意識を安定させることに成功した。
「…できた。…よかった…」
安堵の溜息をつくと、すぐ近くで愛歌がぴくりと動いた。
自分を抱きしめる姉の腕は、昨夜よりも心なしか力がこもっているようで。
「…おはよ、綾香。…早い、のね」
愛歌の声は、どこか眠たげで、そして驚くほど普通だった。
全能を失い、妹という一点のみに視界を狭められた姉と、姉を救うために人知を超えた苦痛を背負った妹。
二人の立場は、昨夜の儀式を経て、奇妙な均衡を保ちながら逆転し始めていた。
綾香は、まだ少し震える手で、自分を抱きしめる愛歌の背中にそっと手を回した。
綾香は、お姉ちゃんの胸に顔を埋めたまま、必死に思考を研ぎ澄ませた。
流れ込んでくる情報の濁流は、先ほどの固定でようやく御せるようになった。
けれど、これではお姉ちゃんから魔力を奪いすぎている。
お姉ちゃんは、その圧倒的な力があってこそ「沙条愛歌」なのだ。
力は返さなきゃ。
でも、お姉ちゃんを「全知」には戻さない。
お姉ちゃんを神様から引きずり下ろしたのは、この「地続き」のパス。
ならば、それをただの壁ではなく、フィルターに作り替える。
「お姉ちゃん、大好き。…ちょっとだけ、私のわがままに付き合ってね」
綾香は、まだ微睡みの中にいる愛歌の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
昨夜のような奪い合うキスではない。
それは、複雑に絡み合った二人の回路を、精密に編み直すための儀式。
綾香は、脳裏に鳴り響く全知のノイズ――「世界の声」にあえて意識を向けた。
焼き切られそうな眩暈に耐えながら、光の奔流(パス)の流れを一本ずつ見極めていく。
幸い、全知のバックアップがどうすればいいかの答えを、皮肉にも綾香の脳に突きつけてくれていた。
力(魔力)は、こっち。お姉ちゃんの身体に還す。…でも、知識(ノイズ)は…ここで止める!
綾香は、二人の間にあるパスを一本の管ではなく、複雑な迷路へと組み替えた。
愛歌が魔術を行使するための強大な力は、そのまま姉の元へ還るように。
けれど、根源から愛歌へ注がれるすべての真理は、その途中で綾香という巨大なダムに溜まり、濾過されるように。
「ん…っ、あ…ぁ…」
愛歌の身体に、本来の瑞々しいまでの魔力が満ちていく。
それと同時に、彼女の瞳から、冷徹な観測者としての光が完全に失われた。
「お姉ちゃん、聞こえる? 私の声だけ、聞いてて」
綾香は、愛歌の耳元で甘く囁いた。
今、愛歌の意識に届くのは、宇宙の真理でも、他人の運命でもない。
パスを通じて直接流れ込む、綾香の「愛してる」「好き」「離さない」という、純度百パーセントの熱情だけ。
調整が終わったとき、綾香は激しい疲労感と共に、確信を得た。
お姉ちゃんには、もう何も聞こえない。
お姉ちゃんには、もう何も識(し)り得ない。
根源からの膨大な情報は、すべて妹である綾香が防壁となって食い止めている。
「…ねえ、綾香。なんだか、すごく静か…。あなたの声が、心臓の音より大きく聞こえるわ…」
愛歌が、どこか陶酔したような、ぼんやりとした瞳で綾香を見上げる。
かつては全知ゆえに「何もかも知っているから興味がない」と言っていた姉が、今は、自分に注がれる妹の情熱の正体を、もっと知りたくてたまらないという顔をしている。
「それでいいの。お姉ちゃんは、私のことだけ考えていればいいんだよ」
綾香は、全知の代償である頭痛を堪えながら、愛おしそうに姉を抱きしめた。
全知を食い止める「生贄」は私だけでいい。
その代わりに、お姉ちゃんの全能を、私のためにだけ使わせて。
少女は、自らを巨大な情報のゴミ捨て場に変えることで、最愛の姉をただの女として、自らの腕の中に繋ぎ止めることに成功した。