沙条綾香はお姉ちゃんを愛してしまった   作:柚葉

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沙条綾香は普通にしたい

綾香の脳内を埋め尽くす、数千、数万、数億という断片的な真理。

情報のダムとなった彼女の精神は、調整を終えた今も、決壊の危機にさらされていた。

 

このゴミ…どこかに捨てないと、私が保たない。でも、どこに?

 

地を司る綾香にとって、最も身近な排出口は大地だ。けれど、この情報の濁流をそのまま足元の土に流せば、この土地の霊脈は狂い、地形そのものが変質し、災厄を振り撒く禁足地に変わってしまうだろう。

 

それはダメ。お姉ちゃんと過ごすこの家を、めちゃくちゃにするわけにはいかない…

 

思考の海、ノイズの嵐の中で、綾香は必死に解決策を探る。

そして、皮肉にも彼女の中に流れ込んできた全知のバックアップが、その答えを提示した。

 

――情報の循環、あるいは返礼。

 

そうだ…もともと、お姉ちゃんのものじゃなかったんだ。返せばいいんだ、全部。

 

これらは根源から溢れ出した、世界を構成するための設計図や記憶だ。

ならば、それを個に留めておくからパンクする。

 

綾香は自らの魔術回路を、ただのダムから「変換器(コンバーター)」へとアップデートさせた。

 

「…お姉ちゃん、ちょっとだけ離して」

 

綾香は愛歌の腕から抜け出し、シーツの上に座り直した。

そして、自分の背骨を軸に、天(根源)と地(肉体)を繋ぐ垂直のラインをイメージする。

 

吸引し。愛歌へと注がれる情報の奔流を、綾香のパスで一度すべて飲み込む。

 

さらに圧縮し、綾香という地の固定概念で、情報をただの意味のない魔力へと圧縮する。

 

そして還流する、意味を剥ぎ取ったエネルギーを、そのまま逆流させ、根源へと突き返す。

 

「…ッ、くぅ、あッ…!」

 

身体が熱い。毛穴から火が噴き出しそうな感覚。

けれど、綾香は地の強固な意志で自分を繋ぎ止めた。

流れてきた知識を理解してはいけない。

ただの荷物として右から左へ流す。

 

私はただの、お姉ちゃんの影。お姉ちゃんを眩しくさせないための、フィルターなんだから…!

 

数分後。

綾香の脳を焼き切らんばかりに荒れ狂っていたノイズが、すうっと引いていった。

完全に消えたわけではない。

依然として全知へのアクセス権は握っている。

けれど、それは必要な時だけ引き出しを開ければいい資料室のような状態へと整理された。

 

愛歌へと注がれる情報は、綾香という関所を通る際、その意味を奪われ、ただの純粋な魔力として愛歌に還り、余剰分はまた根源へと還っていく。

 

「…あ」

 

視界が晴れた。

もう、世界が多重に重なって見えることはない。

目の前にいるのは、ただの、美しくて、ちょっと困ったような顔をしているお姉ちゃんだけ。

 

「…終わったわ、綾香? なんだか、空気がとっても澄んでるわね」

 

愛歌が不思議そうに首を傾げる。

彼女の全能は健在だ。けれど、その力は今、目の前の願いを叶えるためにしか働かない。

遠い未来を憂うことも、世界の残酷さに絶望することもない。

 

綾香が作ったフィルターが、愛歌から余計な真実をすべて奪い去ったのだ。

 

「うん…。これで、もう大丈夫だよ。お姉ちゃんは、何も知らなくていいの」

 

綾香は、かつての父親が愛歌にさせようとしていた聖杯への生贄も、自分が視た王子様に殺される未来も、すべて自分一人の胸の中に閉じ込めた。

 

お姉ちゃんには、花が綺麗だとか、ご飯が美味しいとか、そういうことだけを識っていてほしい。

そして、私のことが大好きだという、たった一つの真実だけで生きていてほしい。

 

「…愛してるわ、綾香。なんだか、今までで一番、そんな気がするの」

 

愛歌が綾香の首筋に顔を寄せ、満足げに目を閉じる。

綾香は、その背中を優しく叩きながら、自分だけの王国の完成を、暗い喜びとともに噛み締めた。

 

お父様も、王子様も、世界も。お姉ちゃんには、もう、何も触れさせない。

 

こうして、沙条邸の朝は、血の臭いと甘い愛の余韻、そして完璧な孤独のなかで静かに明けていった。

 

血の海となった地下工房を片付け、冷え切った家政を整える。

沙条の家系という呪縛を、今度は綾香がその細い肩で背負う番だった。

 

今日は学校へは行かない。

今の綾香には、少女としての日常よりも優先すべき戦いがある。

食卓で、お姉ちゃんに遅めのお昼――彼女が好きな、甘い香りのするフレンチトーストを差し出した。

愛歌はそれをおいしそうに頬張り、何も疑わずに微笑んでいる。

 

その隣で、綾香は一枚の便箋に向き合った。

 

送り先は、時計塔――魔術協会。

広宏が築いてきた人脈と、沙条という名の権威を、そのまま自分の掌中に収めるための儀式。

 

『父、広宏は、不慮の事故により逝去。

 また、長女・愛歌は、強大すぎる魔術回路の拒絶反応により、現在、心身の著しい衰弱状態にある。

 これより、次女・沙条綾香が当主の座を継承し、聖杯戦争を含めた一切の責務を代行する。』

 

淡々と事実を並べた手紙。

唯一の嘘。

それは、お姉ちゃんが弱っているということ。

本当は、お姉ちゃんはかつてないほど自由になったのだ。

全知の重圧から解放され、ただの少女として呼吸している。

けれど、そんなことを協会が知れば、彼らは愛歌を素材として、あるいは欠陥品として回収しに来るだろう。

 

お姉ちゃんには、もう何もさせない。魔術も、戦争も…全部、私が片付ける。

 

手紙を封じながら、綾香は自分自身に誓った。

お姉ちゃんの中身を組み替えたのは自分だということ。

彼女から全知を奪い、自分に依存するように作り替えたということ。

それは、お姉ちゃん本人にも、神様にも、誰にも言わない。

 

これは、綾香一人だけが背負うべき、甘美な大罪。

 

「…綾香? ずっと難しい顔をして、何を書いているの?」

 

愛歌が、皿を置いて覗き込んできた。

かつての愛歌なら、手紙の内容など見ずとも識っていたはずだ。

けれど今の彼女は、愛おしそうに首を傾げ、妹の答えを健気に待っている。

 

「なんでもないよ、お姉ちゃん。…お家の手続きを、ちょっとね。これからは私が、お姉ちゃんを養ってあげるから」

 

「あら…。ふふ、かっこいいわね、綾香。まるでお姫様を守る騎士(ナイト)様みたい」

 

愛歌は楽しそうに笑い、綾香の首筋に腕を絡めた。

その純粋な接触が、綾香の胸を締め付ける。

 

(そうだよ、お姉ちゃん。私はもう、守られるだけの妹じゃない)

 

自分の中に溜まった、全知の情報の残滓。

それを使えば、魔術師としての格上でしかなかった父を超え、協会を黙らせる力さえ手に入る。

綾香は、愛歌の柔らかな髪を撫でながら、自分の瞳がかつての姉のように冷徹に、けれど深い熱を帯びていくのを感じた。

 

「…お姉ちゃんを守る、恋人になるから」

 

「ええ…。頼りにしているわ、私の、かわいい綾香」

 

愛歌の囁きに、綾香は深く頷いた。

姉をこの小さな箱庭に閉じ込め、外敵から、運命から、そして彼女自身の神性から守り抜く。

たとえその果てに、二人で地獄へ落ちることになろうとも、綾香はその手を離すつもりはなかった。

 

手紙を出すために立ち上がった綾香の背中は、わずか一日で、一端の魔術師としての不吉な静謐さを纏い始めていた。

 

綾香は鏡の前で、自分の姿をじっと見つめた。

愛歌とパスを繋ぎ、根源の奔流を食い止める重しとなった代償。

綾香の肉体的な成長は、この幼い、けれど艶めかしい熱を帯びた瞬間のまま、時を止めてしまうだろう。

 

けれど、それは綾香にとって絶望ではなく、一つの完成だった。

 

「…うん、これがいい」

 

綾香は机の引き出しから、古い眼鏡を取り出してかけた。

レンズ越しに見る世界は、少しだけ冷たく、理知的で、他者を拒絶するような当主の顔に見えた。

 

「お姉ちゃんと話すときは、このまま。甘えん坊で、ちょっと生意気な妹のままでいよう。…お姉ちゃんの前では、ずっと可愛くいたいから」

 

魔術師としての自分と、愛歌の恋人としての自分。

綾香はその二つを、眼鏡というスイッチで使い分けることに決めた。

魔術協会と渡り合うときは、あの全知のバックアップを冷徹に使いこなし、有無を言わせぬ当主として振る舞う。

けれど、眼鏡を外して愛歌の胸に飛び込むときは、世界で一番無防備な妹に戻るのだ。

 

 

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

リビングで、窓の外を眺めていた愛歌に声をかける。

 

「私たち、一緒に学校に通わない? エスカレーター式の女子校。お姉ちゃんと私が同じ教室にいても、きっと誰も不思議に思わないように手続きしてあげる」

 

愛歌が、ぱっと花が咲いたような笑顔で振り向いた。

 

「学校? 綾香と一緒に、同じお洋服を着て、お勉強するの? …素敵ね。なんだか、本当に普通の女の子みたい」

 

「そうだよ、お姉ちゃん。普通でいいの。普通がいいの」

 

綾香は愛歌の手を握りしめた。

全知を失った今の愛歌には、学校という狭い社会さえも新鮮で、刺激的な冒険になるだろう。

同級生として、常に彼女の隣に座り、悪い虫がつかないように、余計な知識が彼女に触れないように、自分がすべてを管理する。

 

魔術協会もしばらくは静かなはず。…不意に誰かが来ても、今の私の力を見せつければ、みんな黙るわ。

 

愛歌は、綾香が差し出した学校のパンフレットを嬉しそうに眺めている。

その横顔を、綾香は熱い視線で見つめた。

 

ずいぶん無理な固定の魔術を使ってしまった。

背はもう伸びないかもしれない。

一生、この幼い身体のまま、神にも等しい姉を飼い慣らし、守り続けることになるだろう。

けれど、それがどうしたというのだ。

 

「お姉ちゃん。制服、きっと似合うよ」

 

「楽しみだわ、綾香。…あなたと一緒にいられるなら、どこだって天国だもの」

 

愛歌が綾香の頬に口づける。

眼鏡を外した綾香は、とろけるような笑顔で姉に抱きついた。

 

外の世界では冷徹な魔術師。

この家の中では、お姉ちゃんを愛しすぎて壊してしまった、可愛い恋人。

 

二重生活の幕が上がる。

それは、血で汚れた手で必死に作り上げた、世界で一番優しくて、世界で一番歪な「幸せな姉妹」の物語だった。

 

 

転校初日の朝。

鏡の前で並んで身支度を整える私たちは、どこからどう見ても仲の良い双子の姉妹だった。

 

本来なら学年も違うはずだけれど、私の特権と少しの暗示で、私たちは同じクラスの編入生ということになっている。

 

「…ねえ、綾香。このリボン、少し曲がっていないかしら?」

 

愛歌お姉ちゃんが、少し首を傾げて私を見る。

シックな紺色のジャンパースカートに、清潔な白のブラウス。

お姉ちゃんの浮世離れした美しさは、ミッション系の厳格な制服に包まれることで、かえって聖母のような神聖さを際立たせていた。

 

「大丈夫、お姉ちゃん。私が直してあげる」

 

私は背伸びをして、お姉ちゃんの胸元のリボンを整える。

魔術師の家系なのに、選んだのは十字架の掲げられたミッションスクール。

皮肉なものだ。

けれど、お姉ちゃんがカタログを見て「このお洋服、可愛いわ」と微笑んだのだから、それが正解なのだ。

 

登校中も、私はずっとお姉ちゃんの手を離さなかった。

すれ違う生徒たちが、まるでお伽話から抜け出してきたようなお姉ちゃんの姿に目を奪われ、足を止める。

 

…見ないで。お姉ちゃんに触れないで。

 

私は内心で毒を吐きながら、お姉ちゃんを庇うように一歩前を歩く。

学校に着けば、そこは私たちが作り上げた新しい箱庭だ。

 

「さあ、お姉ちゃん。ここが私たちの教室だよ」

 

担任に紹介され、私たちは隣同士の席に座った。

お姉ちゃんは物珍しそうに教室を見渡し、窓から差し込む光に目を細めている。

全知を失った彼女にとって、黒板のチョークの音も、休み時間の騒がしいお喋りも、すべてが新鮮な未知として映っているようだった。

 

「…綾香、見て。あの子たちが持っているキーホルダー、とってもキラキラしているわ。あんなものがこの世にあるなんて、識らなかった」

 

お姉ちゃんが子供のように目を輝かせて囁く。

かつての彼女なら、そのキーホルダーの製造工程から、持ち主の将来までを一瞬で把握して興味を失っていただろう。

けれど今の彼女は、ただのキラキラしたものとしてそれを楽しみ、驚いている。

 

「放課後、買いに行こうね、お姉ちゃん。…お姉ちゃんが欲しいものは、私が全部あげるから」

 

私は机の下で、お姉ちゃんの指先をそっと絡めた。

 

授業中も、私は時折お姉ちゃんの様子を伺う。

お姉ちゃんは真面目にノートを取っているけれど、時々、ふっと意識が遠のくような顔をすることがある。

根源のノイズを私が食い止めている副作用か、あるいは、あまりに平穏な日常が彼女にはまだ眩しすぎるのか。

 

…大丈夫。私が慣れさせてあげる。お姉ちゃんを、立派な『普通の女の子』にしてあげるんだから。

 

休み時間、案の定、お姉ちゃんの周りにはクラスメイトが集まってきた。

 

「どこから来たの?」

 

「髪の毛、すごく綺麗!」

 

お姉ちゃんは少し戸惑いながらも、私の教えた通りに「妹がいないと何もできないの」と、困ったように微笑んで見せる。

 

その姿は、あまりに完璧な「お姉ちゃん」だった。

 

「ねえ、綾香。学校って、なんだか賑やかで…胸の奥が少しくすぐったいわ」

 

お昼休み。屋上のベンチで、私が作ったお弁当を食べながら愛歌が言った。

私は、お姉ちゃんの口元についた卵焼きの欠片を指で拭い、そのまま自分の口へ運ぶ。

 

「なじめそう? お姉ちゃん」

 

「ええ。だって、隣にはずっとあなたがいるんですもの」

 

聖堂の鐘のような音が、校内に響き渡る。

魔術も、血も、絶望的な未来も、今のここには存在しない。

ただ、恋人同士のような距離感で肩を寄せる、二人の少女がいるだけだ。

 

…うまくいく。このまま、世界からお姉ちゃんを隠し通して、二人だけで生きていくんだ。

 

シックな制服に身を包んだ私たちは、祈りの歌が流れる校舎の中で、誰よりも深く、誰よりも暗い愛を共有し続けていた。

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