平穏な双子の日常に、冷たい風が吹き込んだ。
魔術協会からの召喚状。
格式張った封蝋と、無機質な事務的文言。
沙条家の当主交代を認めさせるための形式的なものか、あるいは根源に至る可能性を秘めた愛歌の変節を疑っての、事実上の拘束指示か。
どちらにせよ、お姉ちゃんを連れていくつもりはない。
ロンドンからの招待、あるいは宣戦布告。
「三日後、か…」
私はリビングのソファで、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
レンズの奥に、全知のバックアップから引き出した冷徹な知識が走る。
時計塔の連中が何を考え、どの法政科の人間が待ち構えているか。
彼らの醜い野心も、保守的な保身も、今の私には透けて見える。
「綾香? そのお手紙、なぁに。また難しそうな顔をして」
背後から、お姉ちゃんがふわりと抱きついてきた。
制服のままの彼女からは、学校の図書室の匂いと、甘いお菓子の香りがする。
「ううん、お姉ちゃん。ちょっとロンドンに行ってくるだけ。すぐ帰ってくるから、お姉ちゃんはお留守番、できるかな?」
「ええ…。寂しいけれど、綾香がそう言うなら。…お土産、忘れないでね?」
愛歌は私の首筋に顔を埋め、甘えるように鼻先を擦り寄せる。
この無垢な反応を守るためなら、ロンドンごと焼き払ってもいいとさえ思えた。
三日後の朝。
私はお姉ちゃんにお休みのキスをして、慣れ親しんだ自室から空間転移(テレポート)を起動した。
本来、極東からロンドンへの転移など、現代魔術の常識では不可能。
けれど、今の私にはお姉ちゃんとのパスを通じて引き出した方法がある。
一瞬の浮遊感。
目を開ければ、そこは霧に包まれたロンドン、魔術協会の深部――査問室の前だった。
「…ふぅ」
私は一度眼鏡を外し、瞳に宿る昏い熱を確認してから、再び眼鏡をかけた。
重厚な扉を開くと、そこには並み居る老魔術師たちが、高圧的な視線を並べて私を待っていた。
「沙条綾香か。…父・広宏の死の説明と、姉・愛歌の状態について、詳細な報告を求める」
中央の老人が、居丈高に杖を叩く。
私は一歩も引かず、むしろ不敵な笑みを浮かべて、用意していた答えではなく事実を突きつけた。
「報告? そんな退屈なこと、必要ありません。…私がここに来たのは、あなたたちに命令を与えるためです」
「なんだと…っ! 小娘、無礼にも程が――」
怒号が飛び交うより早く、私は指を鳴らした。
床に描かれた防護の術式が、私の地の固定概念によって一瞬で停止し、室内の酸素が凍りつくような重圧に変わる。
「黙って。…私は、お姉ちゃんを傷つけるもの、お姉ちゃんの時間を奪うもの、すべてを排除すると決めたの。…時計塔も、聖杯戦争も、例外じゃない」
私は全知の情報を一部解放し、彼ら一人一人の秘匿している弱点(魔術的欠陥)を淡々と、呪文のように唱え始めた。
ある者は血筋の汚点、ある者は禁忌の実験、ある者は致命的な回路の劣化。
「…どうしてそれを…ッ!?」
震え上がる老人たち。
彼らにとって、私はもはや「広宏の次女」ではない。
愛歌という神を食らい、その権能の一部を傲慢に振りかざす、得体の知れない魔女に見えているはずだ。
「お姉ちゃんには干渉しないで。沙条家は私が管理する。…もし、三日以内に監査を打ち切らないなら…ロンドンの霊脈、全部私が固定して、魔術が使えない街にしてあげるけど、どうする?」
冷たい、眼鏡越しの視線。
それは愛歌がかつて持っていた全能の冷徹さに、綾香独自の執着が混ざり合った、最悪の圧力だった。
数分の沈黙の後、時計塔の重鎮たちは、蒼白な顔で頷くしかなかった。
転移で自宅に戻ったのは、お昼過ぎのことだった。
玄関を開けると、パタパタと足音が聞こえ、愛歌が飛び出してきた。
「おかえりなさい、綾香! 早かったのね」
「ただいま、お姉ちゃん。…うん、みんな物分かりがいい人たちだったよ」
私は眼鏡を外し、再び可愛い妹の顔に戻って、愛歌の腕の中に飛び込んだ。
ロンドンでの殺伐としたやり取りなど、夢だったかのように。
「あ、お土産。…紅茶と、お姉ちゃんが好きそうなスコーン、買ってきたよ」
「うれしい! さっそくお茶にしましょうか」
お姉ちゃんの笑顔を見る。
私の背負う罪と嘘が、また一つ重くなったけれど、それでいい。
彼女が笑っている限り、この世界は、私にとっての正解であり続けるのだから。
「…また、羽虫が紛れ込んだの?」
リビングのソファで、愛歌お姉ちゃんの膝に頭を乗せていた私は、不意に立ち上がった魔力の揺らぎを察知して、眼鏡のブリッジを指先で叩いた。
「綾香? どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ、お姉ちゃん。ちょっと、お庭にまた野良猫が来ちゃったみたい。すぐに追い払ってくるから、お姉ちゃんはそのままテレビ見てて」
お姉ちゃんの額に軽くキスをして、私は玄関へと向かう。
扉を開けた先、庭の隅で詠唱を始めようとしていた魔術師の姿が見えた。
私は溜息をつきながら、指先ひとつ動かさずに地の固定概念を叩き込んだ。
「――あ、がっ…!?」
悲鳴すら上げさせない。
彼の魔術回路を一時的に凍結させ、物理的な衝撃で庭の外へと弾き飛ばす。
これで今週、五人目だ。
「…しつこい。本当に、しつこい」
部屋に戻り、お姉ちゃんの穏やかな寝顔を眺めながら、私は冷徹に計算を始めた。
時計塔の法政科に名を連ねる、武断派のロード。
彼らは沙条愛歌という至宝が、ただの次女の管理下に置かれていることが我慢ならないのだろう。
力で奪えると思っている。
お姉ちゃんには、普通の女の子として、朝起きて、学校に行って、私と甘いものを食べて笑う生活を続けてほしい。
そのためには、この羽虫の巣を根こそぎ叩き潰す必要がある。
「魔術師らしく、正面から決闘を申し込むのが一番手っ取り早いかな…」
私は全知のバックアップを検索し、最適な手段を導き出す。
一門全員、眷属も含めて、表舞台で徹底的に、再起不能まで叩き潰す。
そうすれば、他のロードたちも「沙条の領地」には二度と指一本触れようとは思わなくなるはずだ。
「でも、地脈経由で内側から心臓を止めるのは…確実だけど、ちょっと地味かなぁ」
私はふふ、と独り言を漏らす。
魔術師は、視覚的な恐怖に弱い。
地属性の本質は固定だけれど、その応用は重力と結晶だ。
「…よし。お姉ちゃんが学校に行っている間に、終わらせよう」
翌日。
指定した決闘場――都心から離れた廃墟の跡地に、ロードとその一門が意気揚々と現れた。
彼らは私を運良く姉の力を借りているだけの小娘と侮り、重厚な礼装を並べて勝ち誇っている。
私はただ一人、制服の上に当主のローブを羽織り、眼鏡を光らせてそこに立った。
「全員揃ってる? ――じゃあ、始めようか」
私が一歩、地面を踏みしめる。
その瞬間、地脈から汲み上げた膨大な魔力が、結晶化した地の槍となって大地から噴き出した。
「な…ッ!? 物理干渉の規模が――」
「逃がさないよ。ここはもう、私の庭だから」
逃げ惑う彼らの足元を、重力操作で床に縫い付ける。
一人一人の魔術特性を全知で読み取り、その対極にある概念で回路を直接上書きしていく。
火には水を、風には土を。
絶望的な相性差と、桁違いの魔力量。
数分後。
そこには、自慢の魔術を一つも発動できないまま、宝石のように美しい結晶の中に生きたまま閉じ込められた魔術師たちの群れがあった。
死なせはしない。
けれど、彼らは一生、自分の力で魔術を行使することはできないだろう。
私の固定が、彼らの魂を縛り続けるから。
「ふぅ…。ちょっと派手にやりすぎちゃったかな」
眼鏡を拭き、私は空間を転移した。
スーパーで夕飯の買い出しを済ませ、自宅の玄関を開ける。
「ただいま、お姉ちゃん!」
「おかえりなさい、綾香。今日はなんだか、とっても晴れやかな顔をしているわね」
愛歌お姉ちゃんがキッチンから顔を出し、私を迎え入れてくれる。
私はすぐに当主の顔を捨てて、お姉ちゃんの腰に抱きついた。
「うん。…ちょっと、うるさかった雑音を消してきただけ。これでもう、誰もお姉ちゃんの邪魔はしないよ」
「そう。…綾香がいれば、私はそれだけで幸せだわ」
お姉ちゃんが私の頭を撫でてくれる。
その優しくて、何も知らない手のひら。
私はその温もりを守るためなら、何度でも、誰相手でも、この世界を固定してみせる。
お姉ちゃんが、明日も、明後日も、ただの「沙条愛歌」として笑っていられるように。
私は眼鏡をかけ直し、少しだけ微笑んで、今日の献立の相談を始めた。
「ううん、いいのよ綾香。あなたがいない学校は、なんだか色のない映画を観ているみたいで、少しだけ退屈だったわ」
愛歌お姉ちゃんは、私の登校許可を心から喜んでくれた。
昨日の掃除のおかげで、時計塔からの干渉は完全に止まった。
魔術師たちの間で、沙条の次女は触れてはならない禁忌として刻まれたはずだ。
これでようやく、本当の日常が手に入る。
「さあ、お姉ちゃん。今日はお揃いの髪飾りにしようか」
私は、昨日の冷徹な当主の顔を完全に脱ぎ捨てた。
鏡の前で、お姉ちゃんの柔らかな金の髪に、私が選んだ落ち着いたブルーのリボンを編み込んでいく。
「ふふ、嬉しいわ。綾香とお揃いなんて。…ねえ、今日は学校の帰りに、あのキラキラしたキーホルダーを売っているお店に寄り道してもいいかしら?」
「もちろん。お姉ちゃんが欲しがってたやつ、全部買おうね」
私はお姉ちゃんの肩に顔を寄せ、鏡越しに視線を合わせた。
お姉ちゃんの瞳には、もう世界の残酷な真理も、数年後の悲劇も映っていない。
ただ、今日という日を楽しみにして、私を見つめる純粋な喜びだけがある。
玄関の扉を開けると、暖かな陽光が私たちを包み込んだ。
私はお姉ちゃんの細い指を、恋人同士のようにしっかりと絡める。
もう、誰に遠慮する必要もない。
「行こう、お姉ちゃん」
「ええ、行きましょう、綾香」
通学路を歩く私たちの足取りは軽い。
すれ違う人々は、ただの仲の良い、美しい双子として私たちを眺めている。
その視線さえ、今の私には心地よかった。
この普通を維持するために、私は父を手にかけ、姉の神性を奪い、魔術師の権威を踏みにじった。
その後悔なんて、一滴もない。
教室という名の揺り籠
教室に入ると、クラスメイトたちが「沙条さん、おはよ!」と声をかけてくる。
お姉ちゃんは、少しだけ照れたように、けれど完璧な普通の女の子の仕草で手を振り返した。
「おはよう、みなさん。…今日は妹も一緒なの。ね、綾香」
「…おはようございます」
私はお姉ちゃんの背中にそっと手を添える。
授業が始まり、先生の声が遠くで響く。
私はノートを取るふりをして、隣の席で真剣に教科書を見つめるお姉ちゃんの横顔を盗み見た。
時折、私の頭の中に全知のノイズが微かに混ざる。
根源の向こう側から、何かが私を呼んでいるような、あるいは咎めているような感覚。
…うるさいな。消えてよ。
私は心のなかで、そのノイズを地の概念で深く、深く押し潰した。
今の私に必要な情報は、お姉ちゃんの呼吸の音と、休み時間に何を話そうかという小さな悩みだけだ。
窓の外では、春の風が桜の若葉を揺らしている。
かつて視た、あの暗い地下で消えていくお姉ちゃんの姿は、もうどこにもない。
ここにいるのは、私の腕の中に収まり、私だけを頼りにして生きている、私のお姉ちゃん。
「ねえ、綾香」
休み時間、お姉ちゃんが小声で私に囁いた。
「今日の放課後、寄り道したら…そのあとは、ずっと一緒にいてくれる?」
「当たり前だよ、お姉ちゃん。…ずっと、一生、お姉ちゃんの隣にいるから。約束だよ」
私たちは、教卓の影でこっそりと小指を絡めた。
それは、世界を欺き、運命を捻じ曲げた二人の、甘い甘い共犯の証。
少女たちの日常は、これからも続いていく。
たとえその足元が、どれほど昏い犠牲の上に成り立っていたとしても、この小さな箱庭の中で、二人は永遠の恋を謳歌し続けるのだ。
あとがき
一応ここまでで一区切りですが、数日以内にはその後のエピソードをちょいちょい投稿する予定です。
相当ニッチな需要だったと思いますが読んでいただけた方ありがとうございます。