午後の日差しが差し込む静かな教室。
古典の先生の朗々とした声が子守唄のように響く中、私は必死にノートを取るフリをしていた。
…っ、お姉ちゃん…!
突然、左手の中指にはめた見えない指輪が、ドクンと熱く拍動した。
隣の席に座る愛歌お姉ちゃんが、机の下で私のパスに干渉してきている。
単なる魔力の受け渡しじゃない。
私たちが、魂の奥底まで混ぜ合わせたことで出来上がった、二人だけの特別なバイパス。
そこを、お姉ちゃんの甘く濃密な魔力が、愛撫するようにゆっくりと、けれど力強く循環し始めた。
「…ふ、ぅ…っ」
思わず漏れそうになった吐息を、唇を噛んで押し殺す。
魔力が全身の回路を駆け巡るたびに、背筋がゾクゾクと震え、指先までがじんわりと熱を帯びていく。
それは、どんな愛撫よりも直接的に脳を揺さぶる、魔術師にしか分からない至上の悦楽。
ずるいよ…こんなの、反則だよ…
私はチラリとお姉ちゃんの方を盗み見た。
お姉ちゃんは、まるでお手本のような優等生の顔をして、背筋を伸ばして黒板を見つめている。
けれど、その左手は机の下で、私の魔力を優しく迎え入れ、さらに熱くしてこちらへ送り返してきている。
お姉ちゃんには、もう全知はないはずだ。
けれど、私と繋がっているこのパスの扱い方だけは、本能的に理解しているらしい。
魔力循環は、互いの魂を削り、混ぜ合わせ、再び自分の中へと取り込む行為。
新鮮なお姉ちゃんが私の中に流れ込み、私の好きという情念が、お姉ちゃんの回路を潤していく。
気持ちよくなっちゃうでしょ…授業中、なのに…
視界がわずかに霞み、心臓の音がうるさくなる。
お姉ちゃんの魔力は、冷たいはずなのに火のように熱い。
私の地の属性が、その熱を逃がさないようにガチガチに固定しようとするけれど、循環の波はそれを優しく解きほぐしていく。
まるで、教室という公共の場で、誰にも気づかれずに深い抱擁を繰り返しているような。
認識阻害の指輪が、その背徳感をさらに加速させる。
「…っ」
あまりの心地よさに、ペンを持つ手が止まってしまった。
すると、お姉ちゃんがふっとこちらを向き、悪戯が成功した子供のような、無垢で、けれどひどく艶やかな微笑みを浮かべた。
「…どうしたの、綾香? 難しい顔をして。…具合でも、悪いの?」
先生にもクラスメイトにも聞こえる、透き通った声。
けれど、机の下で私に送り込まれる魔力は、さらにその密度を増していく。
「…なんでも、ない。…お姉ちゃんこそ、授業に、集中して…」
私は消え入りそうな声で返すのが精一杯だった。
眼鏡の奥で、私の瞳はとろけそうに潤んでいる。
お姉ちゃんは、私が自分を人間(おんなのこ)にしたお返しのつもりなのだろうか。
全知を失い、私に依存するようになったはずの彼女が、こうして時折、私の余裕を奪い去るような強引さを見せる。
ああ、もう…。お姉ちゃんを守る騎士(ナイト)様が、形無しだよ…
私は、お姉ちゃんの魔力に身を委ねながら、早くチャイムが鳴ることを必死に祈った。
放課後になったら、この熱をどうやって鎮めてもらおうか。
そんな不純な考えが、全知のバックアップさえも真っ白に塗りつぶしていく。
お姉ちゃんの好きという魔力の波に、私は静かに溺れていった。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、私はお姉ちゃんの手を引いて、ほとんど逃げ出すようにして校門を抜けた。
夕暮れ時の帰り道。
人影がまばらになった公園の木陰で、私はようやく立ち止まって、お姉ちゃんに向き直った。
眼鏡が少し曇っている気がして、それを拭きながら精一杯の抗議を口にする。
「…お姉ちゃん、さっきのはやりすぎだよ」
「あら、何のことかしら? 私はただ、綾香に元気を分けてあげようと思っただけなのだけれど」
愛歌お姉ちゃんは、どこまでも純粋な、けれどすべてを分かっているような微笑みを浮かべて首を傾げた。
その無垢な瞳を見ていると、毒気が抜かれそうになるけれど、今回ばかりは譲れない。
「元気を分けるって…あんなに濃密な魔力を流し込んだら、どうなるか分かってるでしょ? 私、授業中ずっと、立ってるのもやっとだったんだから」
私の声が少し震える。
お姉ちゃんは、私の反応を楽しむように一歩近づき、私の胸元にそっと手を置いた。
「だって…学食で、あの子たちがずっと綾香を見ていたでしょう? あなたが困った顔をするたびに、あの子たちの瞳が熱くなるのが分かったの。それが、なんだか…とっても気に入らなくて」
「それって…ヤキモチ?」
「ええ、そうよ。悪いかしら? 私の綾香を、私以外の誰かが欲しがるなんて。だから、あなたが誰のものか、魂に刻み直してあげたの」
お姉ちゃんは、独占欲を隠そうともせずに言い放った。
全知を奪われ、世界の理を識らなくなった代わりに、彼女の感情は以前よりもずっとストレートで、苛烈になっている。
「…嬉しいよ、お姉ちゃんにそこまで思ってもらえるのは。でも、やり方は考えて。…その、下着の替えを鞄に入れておいて、本当に良かったんだから」
私が顔を真っ赤にして小声で白状すると、お姉ちゃんは一瞬きょとんとした後、鈴を転がすような声で笑った。
「ふふ、まあ! 綾香、そんなに…。準備が良いのね」
「笑わないでよ! お姉ちゃんのせいなんだから!」
私は恥ずかしさのあまり、お姉ちゃんの胸に頭をぶつけるようにして抱きついた。
お姉ちゃんの身体からは、甘い香りと、先ほどの魔力循環の名残のような、どこか懐かしい熱が伝わってくる。
「ごめんなさいね、綾香。…次は、お家で、誰にも邪魔されないところで、もっとたっぷり注いであげるわ」
「…もう。加減してよね、本当に」
私はお姉ちゃんの腰に腕を回し、ギュッと抱きしめた。
お姉ちゃんのヤキモチが嬉しいなんて、私も相当におかしくなっている。
けれど、こうして人間らしく感情を爆発させるお姉ちゃんを守れるのは、世界で私だけなのだ。
「お姉ちゃん。…大好きだよ」
「ええ、私もよ。愛してるわ、綾香」
夕闇が迫る中、認識阻害の指輪同士がカチリと触れ合う。
お姉ちゃんを普通の女の子にする計画は、どうやら私の理性と羞恥心を削りながら、順調すぎるほどに進んでいるようだった。
「さあ、帰りましょう。今夜は、綾香が好きなものを作ってあげるわ」
お姉ちゃんの手を握り返し、私はまた歩き出す。
明日の授業は、どうか平穏でありますように。
そう願いながらも、私はお姉ちゃんの隣で、何とも言えない幸福感に満たされていた。
スーパーの買い物カゴを二人で持つのは、すっかり私たちの日常になった。
以前の、食材の分子構造まで理解して完璧すぎる一皿を作っていたお姉ちゃんじゃない。
今の彼女は、特売の挽き肉を選び、玉ねぎの皮を剥きながら目が痛いと涙を浮かべる、そんな温かな不器用さを持っている。
「お姉ちゃん、玉ねぎのみじん切り、だいぶ細かくできるようになったね」
「ふふ、そうかしら? 綾香が隣で見ててくれるから、頑張っちゃった」
エプロン姿の愛歌お姉ちゃんは、キッチンに立つ姿も様になってきた。
私たちは肩を並べて、ハンバーグをこねる。
手がひき肉の脂でヌルヌルになっても、お姉ちゃんは嫌な顔ひとつせず、一生懸命に形を整えていく。
「空気抜き、ちゃんとやらないと焼いたときに割れちゃうよ」
「こうかしら? …えいっ、えいっ」
手のひらで肉を叩きつけるリズミカルな音。
かつてお姉ちゃんの細い指先から放たれていたのは、世界を書き換える奇跡の数々だった。
けれど今は、私のお腹を満たすための、美味しいハンバーグの種が生まれている。
ジューという音とともに、香ばしい肉の匂いが部屋いっぱいに広がる。
私がサラダの野菜をちぎり、スープの味を調える間に、お姉ちゃんは慎重にハンバーグをひっくり返す。
「できたわ! 綾香、見て、とっても上手に焼けたみたい!」
食卓に並んだのは、どこにでもある家庭の夕食。
けれど、私にとっては聖杯よりも価値のある、奇跡のような食卓だ。
「お姉ちゃん、本当に料理できるようになってきたね。…あんなに包丁を怖がってたのに」
「だって、綾香が美味しいって言ってくれるのが、今の私にとって一番のご褒美なんですもの。…はい、あーん」
お姉ちゃんが一口サイズに切ったハンバーグを差し出してくる。
私はそれを受け取り、肉汁の溢れる熱さを口の中で転がした。
「…ん、おいしい。最高だよ、お姉ちゃん」
「よかった…!」
全知を失ったお姉ちゃんの心は、今、こうした小さな成功や私との時間で埋め尽くされている。
神様だった頃の彼女には、きっと理解できなかった種類の幸福。
空腹を感じて、食べ物を作って、愛する人と「おいしいね」と言い合う。
私が全部、作り替えたんだ。…この、幸せな光景も。
食後、お姉ちゃんは私の指にはまった見えない指輪を、自分の指輪と重ねるように触れた。
「ねえ、綾香。料理も、お掃除も、学校の勉強も…もっとたくさん覚えたいわ。あなたが驚くくらい、素敵な『普通の女の子』になりたいの」
「…お姉ちゃんは、もう十分素敵だよ」
私はお姉ちゃんの唇についたソースを、今度はキスで拭った。
ヤキモチで私を困らせたり、一生懸命料理を作ったり。
そんなお姉ちゃんのすべてを、私はこの先もずっと、一番近くで見守り続けていく。
「明日は、何を作ろうか」
「そうね…綾香のリクエストなら、なんだって挑戦するわよ」
幸せな悩みを語り合いながら、夜は更けていく。
沙条邸のキッチンには、かつての冷たい静寂ではなく、二人の少女の穏やかな笑い声が、いつまでも響いていた。
夕食の片付けを終えて、私たちはどちらからともなく誘い合って、湯気の立ち込めるバスルームへと向かった。
かつてのお姉ちゃんにとって、お風呂はただ身体を清潔にするための効率的な作業でしかなかったはず。けれど今の彼女は、入浴剤が溶けてお湯が乳白色に変わるのを「綺麗ね」と喜び、お湯の温かさに「極楽だわ」と吐息をもらす。
広いバスタブに二人で身を沈めると、溢れ出したお湯が贅沢な音を立てて床に流れていった。
私はお姉ちゃんの背中側に座り、彼女の細い肩を抱きしめる。
「…幸せだよ、お姉ちゃん」
肌と肌が触れ合う熱。
お湯のなかで、私たちの見えない指輪が時折カチリと触れ合う。
認識阻害をかけていても、私とお姉ちゃんの間では、その銀の感触は驚くほど鮮明だ。
「ええ…私もよ、綾香。こうしてあなたの鼓動を背中で感じていると、自分が本当に生きているんだって、実感できるの」
お姉ちゃんは私の腕に自分の手を重ね、うっとりと目を閉じた。
私はお姉ちゃんの濡れた髪をかき上げ、その白い首筋に顔を埋めた。
お風呂の熱のせいか、それともお姉ちゃんの存在そのもののせいか、頭がふわふわとして、全知のバックアップさえも心地よいノイズへと変わっていく。
「お姉ちゃん…本当に、もうどこにも行かないよね?」
「当たり前でしょう? 私はあなたのお姉ちゃんで、あなたの恋人。…あなたのいない世界なんて、今の私には想像もつかないわ」
お姉ちゃんが振り返り、濡れた睫毛を震わせて私を見つめる。
その瞳には、全能ゆえの冷酷さなど微塵もない。
ただ、私を愛おしむ熱い情熱だけが、湯気の中に揺らめいている。
私たちは、お湯の中で何度も、何度も唇を重ねた。
放課後のヤキモチの余韻、夕食の時の温かな会話、そして今この瞬間。
積み重なる普通の幸せが、私たちの絆をよりいっそう、逃れられないものへと変えていく。
「綾香の肌、とってもすべすべして気持ちいいわ…」
お姉ちゃんの手が、お湯の中で私の身体を優しく愛撫する。
それは魔力循環のときのような強引なものではなく、ただ確かめ合うような、慈しみに満ちた動き。
「…お姉ちゃん、の…方が、ずっと、綺麗だよ」
上気した頬を寄せ合い、私たちは狭いバスタブの中でひとつになった。
外の世界では、まだ魔術師たちが権力争いに明け暮れ、聖杯戦争の火種が燻っているのかもしれない。
けれど、この蒸気に包まれた聖域には、そんな汚れは一切届かない。
お姉ちゃんを普通の女の子にしたことで、私はこの、蕩けるような幸福を手に入れた。
たとえこれが、全知を代償にした偽りの楽園だったとしても、私はこの温もりを手放すつもりは、永遠にない。
「ねえ、綾香。…お風呂から上がったら、髪、乾かしっこしましょう?」
「うん…お姉ちゃん、大好き」
幸せな重みに包まれながら、私たちはいつまでも、温かなお湯の中で夢のような時間を共有し続けていた。
お風呂上がり、お互いの髪を丁寧に乾かし合った私たちは、どちらからともなく一つのベッドへと潜り込んだ。
部屋の明かりを消すと、カーテンの隙間から差し込む月光が、シーツの海を淡く照らし出す。お姉ちゃんは、私の腕の中にすっぽりと収まり、その心地よい重みと体温を預けてきた。
「…ねえ、綾香。なんだか、夢を見ているみたい」
お姉ちゃんの囁きは、夜の静寂に溶けてしまいそうなくらい優しかった。
私は、彼女の柔らかな腰を引き寄せ、指先に触れる銀の指輪の感触を確かめる。
認識阻害の術は解かない。
誰にも見えないこの光こそが、私たちの真実だから。
「夢じゃないよ、お姉ちゃん。明日も、明後日も、ずっとこうして隣にいるから」
私は、お姉ちゃんの額、鼻先、そして少し熱を帯びた唇に、ゆっくりと、慈しむようにキスを落とした。
それは、今日という普通の日を無事に終えられたことへの感謝と、明日という未来を二人で迎えるための契約。
「…ん、…おやすみなさい、綾香。私の、愛しい妹…」
「おやすみ、お姉ちゃん。大好きだよ」
お姉ちゃんの寝息が、すぐに規則正しいリズムに変わる。
全知のノイズも、今は遠い海の鳴動のように静かだ。
お姉ちゃんを神座から引きずり下ろし、この小さなベッドの中に閉じ込めた。
世界を騙し、父を欺き、それでも手に入れたこの安らかな寝顔。
私は、お姉ちゃんの温もりを抱きしめたまま、幸福な眠りへと落ちていった。
二人の左手で、誰にも見えない銀の輪が、月明かりを浴びてひっそりと、けれど確かに輝いていた。