沙条綾香はお姉ちゃんを愛してしまった   作:柚葉

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沙条綾香は旅行したい

あれから季節は巡り、私たちは最高学年になった。

沙条邸での二人暮らしも、学校での公認の双子カップルとしての立ち位置も、もはや揺るぎない日常として定着している。

 

そんな私たちの高校生活、最大のイベントがやってきた。

 

「修学旅行、イタリア…。お姉ちゃん、飛行機の準備は大丈夫?」

 

成田空港のロビーで、私はお姉ちゃんの手を引いて歩く。

ミッション系の女子校らしく、行き先はイタリア。

魔術師の家系である私たちにとっては、ある種の敵陣に飛び込むようなものだけれど、今の私には不安なんてなかった。

 

「ええ、とっても楽しみだわ、綾香。…ローマの休日みたいに、二人でジェラートを食べられるかしら?」

 

愛歌お姉ちゃんは、旅行用のキャリーケースを転がしながら、少女のように瞳を輝かせている。

全知を捨てた彼女にとって、パスポートを提示する瞬間も、機内食のメニューを選ぶことも、すべてが新鮮な発見なのだ。

 

私は眼鏡を指先で叩き、周囲に展開している術式を再確認した。

海外、それも聖堂教会の息がかかった土地へ行くとなれば、これまでの隠蔽では不十分かもしれない。

 

お姉ちゃんの指輪、私の指輪…。

そして私たちの特別すぎる雰囲気を、周囲の巡礼者や代行者たちの目から反らさないと。

 

私は全知のバックアップを極限まで薄く引き出し、イタリアの地脈に馴染むよう、私たちの存在を風景の一部として固定した。

これで、どれだけ私たちが街中で密着していても、人々は仲の良い東洋人の観光客としか認識しないはずだ。

 

離陸し、高度を上げた機内。

クラスメイトたちが興奮して騒いでいる中、私たちは毛布を分け合い、一つのイヤホンで音楽を聴きながら肩を寄せ合った。

 

「ねえ、綾香。イタリアに着いたら、二人きりでこっそり抜け出さない?」

 

「…お姉ちゃん、それ、修学旅行の趣旨から外れちゃうよ?」

 

「いいじゃない。自由行動の時間は、全部私に頂戴? 誰も知らない石畳の路地で、あなたと迷子になりたいの」

 

お姉ちゃんが私の耳元で甘く囁き、銀の指輪がはめられた指で私の手を握りしめる。

雲を突き抜け、太陽に近い場所で交わす密やかな約束。

 

イタリアか…。

お父様が言っていた聖杯の探求とは違うけれど、私とお姉ちゃんにとっては、これが本当の聖地巡礼になるのかもしれない。

 

「わかった。…お姉ちゃんが行きたいところ、私が全部連れて行ってあげる」

 

飛行機は、かつての運命を置き去りにして、青い空を切り裂きながら進んでいく。

異国の地で、お姉ちゃんとどんな思い出を作ろうか。

私は、お姉ちゃんの肩に頭を預け、まだ見ぬイタリアの街並みに思いを馳せた。

 

イタリア、フィウミチーノ空港に降り立った瞬間、地中海の眩い光が私たちを迎えました。

 

クラスメイトたちが「空気が違う!」「建物が全部おしゃれ!」とはしゃぐ中で、私は一人、肌に刺さるような独特の霊的密度を感知して、眼鏡の奥で神経を尖らせていました。

ここは魔術の源流に近い場所であり、同時に聖堂教会の本拠地。

 

でも、隣でお姉ちゃんが「見て、綾香! 空が絵の具みたいに真っ青だわ」と無邪気に笑うのを見て、そんな警戒心はすぐに溶けていきました。

 

ローマの街は、どこを切り取っても映画のワンシーンのようでした。

コロッセオ、真実の口、トレビの泉…。

集団行動の合間、私たちは示し合わせたように、クラスの列からふっと姿を消しました。

 

「本当に抜け出しちゃったね、お姉ちゃん」

 

「ふふ、いいじゃない。今日は私とあなたの休日だもの」

 

細い路地の石畳、歴史の重みを感じさせる琥珀色の街並み。

私はさらに強力な認識阻害を編み上げ、通りかかる神父や修道女たちの視線さえも、滑るように受け流していきます。

 

スペイン広場の近く、小さなお店で買ったピスタチオとヘーゼルナッツのジェラート。

お姉ちゃんはそれを一口食べると、「冷たくて、甘くて…なんだか宝石を食べているみたい!」とはしゃいで、私に自分の分を差し出してきました。

 

「綾香も食べて。…はい、あーん」

 

大勢の観光客が行き交う広場の階段で、私たちは堂々と食べさせ合い、指先を絡めました。

見えない指輪が、イタリアの強烈な陽光を反射して、私にだけは眩しく輝いて見えます。

 

「お姉ちゃん、口元…またついてるよ」

 

「…取ってくれる?」

 

昨日までの日常を、この異国の地で繰り返す。

それは、私たちが世界のどこにいても、お互いが帰る場所であることの証明でした。

 

ふと、お姉ちゃんがヴァチカン宮殿の見える方向を見つめて、少しだけ寂しそうに微笑みました。

 

「…ねえ、綾香。もし私が、まだあの全知の中にいたら…この街の石の一つ一つに宿る悲しい記憶まで全部識ってしまって、こんなにおいしくジェラートを食べられなかったかもしれないわね」

 

お姉ちゃんの言葉に、私は胸を締め付けられるような愛しさを感じて、彼女の腰をぐっと抱き寄せました。

 

「お姉ちゃんは、何も識らなくていいんだよ。お姉ちゃんが識るべきなのは、このジェラートの味と、イタリアの風の匂いと…私のことが大好きだっていう、その気持ちだけでいいの」

 

「…ええ。そうね。今の私には、あなたの熱さが何よりも正しい真実だわ」

 

夕暮れ時、テヴェレ川のほとり。

オレンジ色に染まる水面を見つめながら、私たちは二人だけの時間を慈しみました。

 

「綾香。明日からのヴェネツィアも、フィレンツェも…ずっと私の隣にいてね。他の女の子たちがあなたに話しかけようとしたら、私、また魔力循環で邪魔しちゃうかもしれないわよ?」

 

「…それは勘弁して、お姉ちゃん。下着の替え、イタリアまでそんなにたくさん持ってきてないんだから」

 

私の抗議に、お姉ちゃんはいたずらっぽく笑って、私の頬にキスをしました。

 

魔術師としての宿命も、重苦しい血筋の責任も、このイタリアの風がどこかへ運んでいってくれるような気がしました。

修学旅行という名の、甘美な逃避行。

私たちは誰にも邪魔されない聖域をイタリアの空に広げ、明日という未知の景色を、手を繋いで迎えようとしていました。

 

イタリアの夜は、日本のそれよりもずっと深い。

古びたホテルの重厚な石造りの壁が、外の喧騒を遮断し、室内にはエアコンの微かな駆動音だけが響いていた。

 

修学旅行の夜。

同室には、学食であんなに盛り上がっていたクラスメイトの二人もいる。

消灯時間を過ぎ、彼女たちの寝息が聞こえ始めた頃…私のベッドの端が、沈んだ。

 

お姉ちゃん…!?

 

暗闇に目が慣れてくると、薄いシーツの隙間から、するりと潜り込んでくる人影が見えた。

愛歌お姉ちゃん。

彼女は私の返事も待たず、背後から私を抱きしめると、首筋に熱い吐息を吹きかけてきた。

 

「…あ、や、か…」

 

「お姉ちゃん、ダメだよ。みんな、すぐそこに…」

 

私が必死に小声で制止するのも聞かず、お姉ちゃんの指先が寝間着の裾から忍び込んできた。

しかも、ただ触れるだけじゃない。

認識阻害の指輪を通じて、昼間よりもさらに熱く、ドロリとした魔力が、直接私の神経を撫でるように流し込まれる。

 

「んっ…ふ、ぅ…っ」

 

あまりに唐突で強引な快感に、腰が跳ねそうになる。

私は慌てて枕に顔を埋め、声を押し殺した。

けれど、お姉ちゃんの手は止まらない。

全知を失って以来、お姉ちゃんの愛はますます加減を知らなくなっている。

私の反応を楽しむように、一番弱いところをピンポイントで魔力的に突いてくるのだ。

 

「…んん…っ、お姉ちゃ、…いきなり、触らないで…っ」

 

その時だった。

 

「…ん。…沙条さん? 起きてるの…?」

 

隣のベッドのクラスメイトが、寝返りを打ちながら微かに声を上げた。

私の心臓が、鐘のように激しく鳴り響く。

 

「…あ、…ううん、なんでもないよ。ちょっと、寝苦しくて」

 

私は震える声で精一杯の嘘をつく。

けれど、その間もお姉ちゃんはお湯のように熱い魔力を循環させ続け、私の耳朶を甘噛みしている。

快感と恐怖が混ざり合い、頭の芯が真っ白になりそうだ。

 

「…ふふ。綾香、心臓がとっても速いわ」

 

お姉ちゃんが、私の耳元で楽しそうに囁く。

彼女はわざと、クラスメイトに聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で私を翻弄している。

昨日のヤキモチの話の続きなのか、それともイタリアという場所が彼女を大胆にさせているのか。

 

お姉ちゃん、これ…絶対バレてるよ…。

 

認識阻害の魔術で、お姉ちゃんが私のベッドにいる視覚的な情報は誤魔化せているかもしれない。

けれど、布が擦れる音や、私の荒い呼吸までは隠しきれない。

 

しばらくして、隣のベッドからはまた静かな寝息が聞こえ始めた。

どうやら、彼女たちは仲の良い双子が一緒に寝ているだけと思い込もうとしてくれた、あるいは気を遣って寝たふりをしてくれたらしい。

 

「…もう。お姉ちゃん、本当に…やり方を考えてよ」

 

私は諦めて、お姉ちゃんの方を向き、暗闇の中で彼女の首に腕を回した。

お姉ちゃんは満足そうに目を細め、私の胸に顔を寄せる。

 

「いいじゃない。…私たちは、どこにいたってこうして結ばれているんだから」

 

お姉ちゃんの指先が、また私の魔術回路を優しく、執拗になぞり始める。

明日のヴェネツィア観光、寝不足で歩けるかな…。

そんな不安を、お姉ちゃんの熱い唇が一つずつ奪っていく。

 

イタリアの夜は、まだ始まったばかり。

同室のクラスメイトたちの存在さえも、お姉ちゃんの独占欲を煽るスパイスでしかないようだった。

私は、お姉ちゃんに抱きしめられながら、また一つ、抗えない愛の沼へと沈んでいった。

 

翌朝。

ヴェネツィアへ向かうバスの中、私はひたすら窓の外を眺めながら、眼鏡の奥で死んだ魚のような目をしていた。

 

睡眠不足。

そして、一晩中お姉ちゃんの魔力に当てられたせいで、体の芯がふわふわと浮いているような、妙な倦怠感が抜けない。

 

「綾香、顔色が悪いわ。…酔っちゃったかしら?」

 

隣の席で、お姉ちゃんはそれはもう涼しい顔で私を覗き込んでくる。

ツヤツヤの肌、一点の曇りもない笑顔。

昨夜、あんなに情熱的に私を翻弄していた人物と同一人物とは思えないほどの聖母っぷりだ。

 

ヴェネツィアのサン・タルヴィーゼ駅を降りると、そこには見渡す限りの水路と迷宮のような路地が広がっていた。

私たちはモーターボートに揺られ、運河を進む。

 

「ねえ、沙条さんたち。…昨日の夜、なんか…楽しそうだったね?」

 

後ろの席から、昨夜同室だったクラスメイトの一人が、顔を真っ赤にしながら小声で話しかけてきた。

私は思わず持っていたガイドブックを落としそうになる。

 

「…っ、いや、その、お姉ちゃんが寝ぼけて、私のベッドに来ちゃって…」

 

「ふふ、いいのよ。私たち、何も見てないし、何も聞いてないことにしてるから。…でも、沙条さんのあんな声、初めて聞いたかも」

 

彼女たちはニヤニヤしながら、足早に先へ行ってしまった。

…完全にバレている。

女子校のネットワーク、恐るべし。

 

「綾香、困った顔をして…可愛いわね」

 

お姉ちゃんが私の腕に自分の腕を絡め、耳元でくすくすと笑う。

 

「笑い事じゃないよ、お姉ちゃん。…せっかく築いた高潔な双子のイメージが台無しだよ」

 

「いいじゃない。あの子たちが、あなたに手を出そうなんて思わないための魔除けだと思えば」

 

お姉ちゃんはそう言って、認識阻害をかけた指輪を私の指輪にカチリとぶつけた。

水の都の迷宮は、彼女の独占欲を加速させる。

狭い路地、影の多い橋の下。

彼女は隙あらば私を壁際に追い込み、人目を盗んで私の唇を奪おうとする。

 

午後の自由時間、私たちは二人だけでゴンドラに乗り込んだ。

船頭の漕ぐオールが水を切る音だけが響く、静かな小運河。

 

「綾香。…こっちに来て」

 

お姉ちゃんに手招きされ、私はゴンドラの狭い座席で彼女の隣に腰を下ろした。

揺れる船体、水の匂い。

 

「イタリアに来てから、ずっと私を甘やかしてくれているお礼よ」

 

お姉ちゃんは私の眼鏡をそっと外した。

全知を捨てた彼女の指先が、今度は魔力ではなく、ただの愛として私の頬を撫でる。

 

「…私、幸せだわ。あなたが守ってくれたこの世界で、あなたに愛されて、こうして旅をしている。…お父様も、聖杯も、もう何もいらない」

 

お姉ちゃんの言葉は、ヴェネツィアの古いレンガに吸い込まれていった。

私は、境界が無い視界の中で、誰よりも鮮明に映るお姉ちゃんの唇を、今度は自分から迎えにいった。

 

ゴンドラが大きな運河に出る直前、夕陽が建物の隙間から差し込み、水面を黄金色に染め上げた。

 

「お姉ちゃん。…日本に帰っても、学校を卒業しても、ずっとこうして隣にいてね」

 

「当たり前でしょう? 私はもう、あなたの隣でしか、普通の女の子として生きていけないんだから」

 

私たちは、お互いの指輪を重ね合わせ、ヴェネツィアの冷たい水に誓った。

これから先、どんな困難があっても。時計塔が何を企み、聖堂教会がどう動こうとも。

私はこの普通の、恋するお姉ちゃんを守るために、世界そのものを固定し続ける。

 

修学旅行も折り返し。

私たちの愛の逃避行は、イタリアの美しい景色を塗り替えながら、よりいっそう深く、甘く、続いていくのだった。

 

イタリア最終日。

フィレンツェの石畳を歩きながら、私はふと、この旅で得た確信を噛み締めていました。

 

お姉ちゃんは、もう大丈夫。

かつて世界を破滅に導くほど肥大していた彼女の愛は、今や私というたった一人の人間に向けて正しく収束し、彼女をこの世界に繋ぎ止める楔(くさび)となっている。

 

「最後は、ドゥオーモ(大聖堂)のクーポラに登りたかったけれど…」

 

私は、お姉ちゃんの少し疲れた、けれど満足げな横顔を見て苦笑しました。

昨夜の夜更かしのせいで、お互いに体力の限界です。

私たちは大聖堂の前のカフェで、最後のエスプレッソを楽しんでいました。

 

「いいのよ、綾香。高いところに登らなくても、こうしてあなたの隣で同じ風を感じているだけで、私はどこにだって行ける気がするわ」

 

お姉ちゃんは、カップを持つ私の左手に、自分の左手を重ねました。

認識阻害の指輪が、フィレンツェの夕日に照らされて、二人の絆を祝うように白銀の輝きを放っています。

 

空港へ向かうバスの中、クラスメイトたちは遊び疲れて眠りについていました。

車内に流れる静かなイタリア語のラジオ。

私はお姉ちゃんの肩に寄りかかり、これからのことに思いを馳せます。

 

日本に帰ったら、また時計塔の連中が様子を伺いに来るかもしれない。

法政科のあのロードも、まだ諦めていないはず…。

 

けれど、以前のような焦りはありません。

この旅で、お姉ちゃんは普通の喜びを完全にその身に刻みました。

お姉ちゃんが私を愛し、私が彼女を守る。

その構図が完成している限り、どんな外敵も私たちの日常を壊すことはできない。

 

「ねえ、綾香。…日本に帰ったら、今度は浴衣を着て、花火を見に行きたいわ」

 

「…お姉ちゃん、気が早いよ。でも、そうだね。夏になったら行こうか」

 

「ええ。約束よ」

 

飛行機が羽田空港に降り立ち、懐かしい日本の空気に触れた時、私はようやく深い息を吐きました。

修学旅行という名の普通の女の子としての卒業試験。

お姉ちゃんはそれを見事にパスしたのだと思います。

 

「ただいま、日本」

 

「ただいま。…さあ、帰りましょう、綾香。私たちの、あのお家に」

 

タクシーの窓から流れる見慣れた景色。

沙条邸が見えてきた時、私は左手の指輪にそっと触れました。

 

誰にも見えない、けれど世界で一番重い銀の誓い。

お姉ちゃんの「普通の生活」を邪魔するものは、これからも私がすべて排除する。

彼女が朝起きて、私に「おはよう」と言い、一緒に料理を作って、同じベッドで眠る。

その、あまりにも平凡で、あまりにも尊い奇跡を守るために、私はこれからも最強の妹であり続ける。

 

「お姉ちゃん、お腹空いたね。今夜は簡単に、パスタでいいかな?」

 

「ふふ、イタリア帰りなのに? …いいわよ、綾香が作ってくれるなら、なんだって最高のご馳走だわ」

 

玄関の鍵を開け、暗い部屋に明かりを灯す。

そこには、私たちの愛の結晶である、穏やかで歪な日常が待っていました。

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