沙条綾香はお姉ちゃんを愛してしまった   作:柚葉

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沙条綾香は心中したい

桜の花びらが、私たちの学び舎の石畳を淡く染めている。

卒業証書の筒を抱えたクラスメイトたちが、泣き笑いしながら最後の別れを惜しんでいる中、私たちは喧騒から少し離れた、あの日二人で誓いを立てた裏庭の木陰にいた。

 

「…終わっちゃったね、学校」

 

私は、制服姿のお姉ちゃんをじっと見つめた。

この数年間、私が心血を注いで守り抜いた、お姉ちゃんの普通の女の子としての時間。

それは今日、一つの完成を迎えた。

 

私は、お姉ちゃんの左手を取り、認識阻害をかけたままの指輪に指を重ねる。

そして、眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに彼女へ向けた。

 

「お姉ちゃん。…改めて、言わせてほしいんだ」

 

私は、全知のバックアップを一時的に全稼働させ、周囲の音を完全に遮断した。

世界に、今、私たち二人しかいないかのような静寂を作る。

 

「今までは恋人だった。でも、これからは…私を、あなたの伴侶にしてください。戸籍も、血筋も、運命も、全部を塗り潰して、死が二人を分かつまで、私だけのものになって」

 

お姉ちゃんは、息を呑んで私を見つめている。

私は彼女の手を強く握り、あえて、一番残酷で、一番純粋な言葉を紡いだ。

 

「酷いことを言うけど、聞いてね。…私は、お姉ちゃんを一人で残したりしない。もし私が死ぬ時が来たら、お姉ちゃんも一緒に連れて行く。地の底まで、根源のその先まで、一緒に来てもらうよ」

 

お姉ちゃんを、自由になんてさせない。

私がいない世界で、彼女がまた神に戻ることも、他の誰かのものになることも許さない。

愛おしくて、憎らしくて、守り抜きたい私の半身。

 

「…ふふ、あはははっ!」

 

お姉ちゃんは、突然、鈴を転がすような声で笑い出した。

その瞳には、かつての全能の冷徹さではなく、愛に狂った一人の女としての、歓喜の涙が浮かんでいる。

 

「嬉しいわ、綾香…! ずっと、その言葉を待っていたの。一人で残してあげないなんて、そんなに素敵なプロポーズ、他にないわ」

 

お姉ちゃんは私の首に腕を回し、顔を寄せた。

 

「いいわよ。あなたが死ぬ時は、私も一緒に連れて行って。地獄でも、無でも、あなたの腕の中なら、そこが私の天国(エデン)だわ。…私たちは、二人で一つの命だものね」

 

卒業式の喧騒が、遠くで風の音のように響いている。

私たちは、誰にも祝福されない、けれど誰にも邪魔されない誓いのキスを交わした。

 

かつてお姉ちゃんが望んだ聖杯戦争の勝利も、王子様との恋も、もうここにはない。

あるのは、互いの命を共食いするように愛し合う、歪な、けれど完成された二人の少女の姿だけ。

 

「行こう、お姉ちゃん。…私たちの、新しい家へ」

 

「ええ、綾香。…ずっと、ずっと、一生、一緒よ」

 

私たちは繋いだ手を離さず、学び舎を後にした。

指先で光る銀の輪は、もはや単なるお守りではない。

それは、いつか訪れる終わりの日まで二人を縛り続ける、甘美な鎖。

 

沙条綾香と沙条愛歌。

二人の物語は、ここから永遠という名の、閉ざされた楽園へと踏み出していく。

 

学び舎の門をくぐり、私たちはもう二度と戻らない学生という肩書きを背後に置いた。

家へ向かう道すがら、お姉ちゃんは何度も自分の左手を見つめては、愛おしそうに銀の輪を撫でている。

 

「伴侶…。いい響きね、綾香。なんだか、魂に新しい名前を彫られたみたい」

 

「…大げさだよ、お姉ちゃん。でも、私の気持ちは本気だから」

 

私は少し照れ臭くて眼鏡を押し上げたけれど、繋いだ手の力は緩めなかった。

 

ほどなく沙条邸に帰り着く。

 

「さあ、お姉ちゃん。まずは、お祝いのディナーにしようか。今日は奮発して、いいお肉を買っておいたんだ」

 

「ふふ、楽しみ。…でもその前に、綾香。制服を脱ぐのを手伝ってくれる?」

 

お姉ちゃんが、背中を向けて立ち止まった。

西日に照らされた彼女のうなじは、透き通るように白く、危うい。

私は指先を震わせながら、最後となるセーラー服のファスナーに手をかけた。

 

日常という皮を一枚ずつ剥ぎ取っていく。

普通の女の子として過ごした数年間。

その思い出は宝石のように輝いているけれど、今、目の前にいるのは、私の愛だけで形を保っている私だけの愛歌だ。

 

「…お姉ちゃん。本当にいいの? ずっと、私と二人で。退屈しちゃうかもしれないよ」

 

「退屈? まさか。あなたの愛を数えているだけで、一生なんて一瞬だわ。…それに、あなたが私をどこにも行かせないように、毎日魔法(魔術)をかけてくれるんでしょう?」

 

お姉ちゃんは振り返り、解かれた髪をさらりと揺らした。

彼女の瞳には、かつての全知がもたらした虚無などどこにもない。

そこにあるのは、私への底なしの執着と、愛されているという確信に満ちた熱量だけだ。

 

夕食を終え、ワインで少し上気した私たちは、いつものように一つのベッドへ。

けれど、今夜の空気はこれまでとは違っていた。

卒業し、伴侶となり、そして心中を約束した夜。

 

「綾香…。指輪、もう隠さなくていいわよね?」

 

「うん。…認識阻害、解くね」

 

私が指を鳴らすと、二人の指先でずっと身を潜めていた銀の指輪が、月光を浴びて一気に輝きを放った。

傷だらけで、不器用な、私たちが互いに磨き合った愛の証。

 

「綺麗…。私たちの、本当の形」

 

お姉ちゃんは、その指輪をはめた私の手を自分の頬に寄せ、深く、深く、吸い込むように熱を確かめる。

 

「おやすみなさい、綾香。…明日も、その次も、私を殺すその日まで、ずっと私を愛してね」

 

「…当たり前だよ。お姉ちゃん、愛してる。死んでも、離さないから」

 

私たちは、もう誰の目も気にすることなく、互いの身体と魂を深く繋ぎ合わせた。

窓の外では世界が回っているけれど、この部屋の中だけは、時間が甘く凝固している。

 

お姉ちゃんを人間(おんなのこ)にした報いとして、私は彼女という呪いと共に生きる。

それは、どんな魔術的な成功よりも美しく、どんな地獄よりも幸福な、私たちの永遠の日常の完成だった。

 

二人きりの閉ざされた楽園は甘美だけれど、お姉ちゃんをこの世界の手触りのある日常に繋ぎ止めておくためには、社会との細い、けれど確かな接点が必要かもしれない。

 

外の世界に飲み込まれない程度に、でも、誰かとささやかな言葉を交わす場所。

 

しばらくして私たちは、邸宅の一部を改装して、小さなお店を開くことにした。

看板は出さない。

通りがかりの人がふと足を止めるような、蔦に覆われた古びた洋館の一角。

 

「古本屋さん…。いいわね、綾香。本には誰かの想いが閉じ込められているもの。それを整理するのは、嫌いじゃないわ」

 

お姉ちゃんは、私の蔵書や新しく仕入れた古書の背表紙を、愛おしそうに撫でる。

かつては一瞬ですべての情報を理解してしまった彼女が、今は一頁ずつ、紙の匂いを楽しみながら本をめくっている。

 

「お姉ちゃん、カフェの方は任せていい? ほら、お姉ちゃんの淹れる珈琲、すごく香りがいいから」

 

「ええ。私の伴侶のために磨いた腕を、少しだけ街の人にも分けてあげましょうか」

 

開店の日。

お姉ちゃんは、白いブラウスに深い紺色のエプロンを締めてカウンターに立った。

その姿は、どこからどう見ても、少し浮世離れした美しさを持つ店主のお姉さんだ。

 

「いらっしゃいませ。…今、お湯を沸かしているところよ」

 

時折訪れる近所の人や、迷い込んできた学生に、お姉ちゃんは穏やかに微笑む。

彼女たちの目には、お姉ちゃんがかつて世界を滅ぼしかけた根源の接続者だなんて、露ほども映らないだろう。

 

私は奥のカウンターで、帳簿をつけたり本の修理をしたりしながら、その光景をずっと見守っている。

 

利益なんて、最初から考えていない。

お姉ちゃんが、誰かにありがとうと言われ、小銭を受け取り、夕食の献立について常連客と立ち話をする。

その、なんてことのない交換の一つ一つが、お姉ちゃんの魂をこの地平にしっかりと縫い付けていく。

 

「綾香。…今日の最後のお客さま、私がおすすめした詩集を買ってくださったわ。明日、感想を聞かせてくれるんですって」

 

閉店後、お店の鍵を閉めながら、お姉ちゃんが嬉しそうに報告してくれる。

 

「…よかったね、お姉ちゃん」

 

私は、お姉ちゃんの指に光る銀色の指輪をそっと握った。

このお店は、お姉ちゃんをこの世界に留めておくための重石であり、私たちが二人で生きていくための聖域の窓だ。

 

夜、お店の灯りを消すと、そこはまた二人だけの静かな邸宅に戻る。

 

日常という名の舞台を整え、お姉ちゃんに店主という役割を与える。

私は、お姉ちゃんの笑顔を守るためなら、どんな嘘でも、どんな舞台装置でも用意する。

 

「お疲れ様、お姉ちゃん。…さあ、二階へ行こう。今日は新しいハーブティーを試してみない?」

 

「ええ、喜んで。…あ、でもその前に。今日頑張った私に、特別なご褒美を頂戴?」

 

お姉ちゃんが甘えるように腕を絡めてくる。

古本の匂いと、微かな珈琲の香り。

私たちは、自分たちが作り上げたこの穏やかな箱庭の中で、また一歩、確かな明日へと歩みを進めていく。

 

お姉ちゃん。

あなたがこの街の、この日常の風景に溶け込んでいる限り、私はあなたの妹として、ずっと隣で笑っていられる。

 

それが、私の選んだ、世界で一番贅沢な守護の形。

 

「沙条書房」の窓から差し込む午後の光が、埃のダンスを黄金色に染めている。

 

お姉ちゃんが丁寧にドリップした珈琲の香りが、古い紙の匂いと混ざり合い、この部屋を世界で一番安全な場所に変えていく。

外を歩く人々は、まさかこの穏やかな洋館の主たちが、世界の理を書き換え、運命を食らい尽くした二人だとは思いもしないでしょう。

 

私たちは、こうして生きていく。

 

大きな奇跡も、血塗られた聖杯も、もう必要ない。

朝、お姉ちゃんの柔らかい髪を梳かし、昼は二人で店番をして、夜は同じ布団の中で体温を分け合う。

そんな、かつてお姉ちゃんが退屈だと切り捨てたはずの、けれど私が喉から手が出るほど欲しかった普通を、一日ずつ、丁寧に積み上げていく。

 

「ねえ、綾香。…今日の夕焼け、とっても綺麗よ。明日もきっと、いいお天気ね」

 

お姉ちゃんがカウンター越しに、私の左手をそっと取る。

そこには、かつての呪いも、全知の傲慢さもない。

ただ、私が磨き上げた銀の指輪と、愛を知った一人の少女の温もりがあるだけ。

 

「そうだね。…明日の朝食は、昨日買ったあのパンを焼こうか」

 

「ええ。楽しみだわ」

 

私たちは、お互いを繋ぎ止めるための鎖を、もう苦しいとは思わない。

むしろ、この平穏な繰り返しこそが、私たちが獲得した最大の戦果なのだから。

 

いつか、遠い未来。

私の命が尽き、お姉ちゃんを連れてあちら側へ還るその日が来るまで。

 

私はお姉ちゃんに、この世界の美しさだけを見せ続る。

冷たい雨の日も、凍える冬の夜も、私があなたの傘になり、あなたの暖炉になる。

お姉ちゃんが神様に戻らなくてもいいように、私がこの世界のすべてをあなたに跪かせる。

 

…ごめんね、お姉ちゃん。あなたを、こんな狭い日常に閉じ込めてしまって。

 

けれど、私の指を絡め、幸せそうに微笑むお姉ちゃんの瞳を見るたび、その罪悪感は甘い恍惚に変わっていく。

 

お店の看板を「CLOSED」に返し、カーテンを引く。

世界から切り離された、二人だけの聖域に夜が訪れる。

 

「愛してるわ、綾香。…昨日よりも、さっきよりも。ずっと、ずっと」

 

「…私もだよ、お姉ちゃん。おやすみなさい。また明日、隣で起こしてね」

 

繋いだ手と、重なる指輪。

私たちは、誰にも知られることなく、静かに、そして苛烈に。

約束した最後の日まで、この完璧な平穏を、永遠に繰り返していく。

 

それが、沙条綾香と沙条愛歌が辿り着いた、唯一にして絶対の幸福の形だった。






あとがき
本話の冒頭を書きたかったので書き始めたのですがずいぶんここまで掛かりました。
あと1話「お姉ちゃん」視点のお話を投稿したら一旦完結となります。
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