第一話
高校二年の春
それは、学生という閉鎖的な社会において、向こう一年の立ち位置を決定づける最も重要な季節だ。
開け放たれた窓からは、散り始めた桜の花びらを孕んだ生温かい風が吹き込み、カーテンをふわりと揺らしている。
黒板に残る微かなチョークの匂いと、新調されたばかりの制服から漂う少し硬い布の匂いが、教室を満たしていた。
クラス替えから一週間。新しい人間関係の構築という、目に見えないが確かなプレッシャーに満ちた期間を経て、教室内は少しずつ独自の生態系を形成し始めていた。
気の合う者同士が自然と集まり、机を寄せ合い、グループという名の小さなコミュニティが固定化されていく時期だ。
「でさ、昨日の深夜アニメ見た? あのラスト、マジで熱くなかった?」
「見た見た! まさかあそこで主人公が覚醒するとは思わなかったわ。作画もヤバかったし!」
かくいう俺、藤田悟も、幸運なことに席が近かった数人の男子たちと波長が合い、ホームルーム前の喧騒の中で他愛のない話題に花を咲かせていた。
なんてことのない、ありふれた日本の高校生の日常。
平和で、退屈で、それでいてどこか心地の良い時間が、これからもずっと続いていくのだと、俺は疑いもしていなかった。
──その瞬間までは
「ん……? なんだ、これ」
談笑していた友人の一人が、ふと足元に視線を落として間の抜けた声を上げた。
つられて俺も視線を下げる。
次の瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
床のPタイルが、まるで水面のように波打っていたのだ。
いや、それだけではない。
無機質なはずの床板の奥底から、青白い燐光がジワリと滲み出してきたかと思うと、それは瞬く間に複雑で幾何学的な紋様を描き出し、教室全体を覆い尽くす巨大な『魔法陣』を形成したのだ。
「うわ! なんだこれ!?」
「えっ? いやっ! 眩しい!」
教室のあちこちから悲鳴や驚愕の声が上がる。
紋様はチカチカと明滅を繰り返し、ジジジ……という空気を焼くような耳障りなノイズが空間を満たしていく。
逃げなければ。
本能がそう告げているのに、足は床に縫い付けられたかのようにピクリとも動かなかった。
──────カッ!!
突如、魔法陣から目を開けていられないほどの強烈な光の奔流が噴き上がった。
網膜を焼き切らんばかりの白光。重力が消失したかのような強烈な浮遊感。そして、鼓膜を劈くような轟音。
俺はただ、この現実離れした超常現象に呆気にとられ、身動きすら取れないまま、真っ白に染まる意識を手放すことしかできなかった。
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どれ程の時間が経っていただろうか。
永遠のような、あるいはほんの一瞬だったような、曖昧な時間の空白。
「……う、ん」
頬に伝わる、ひどく硬く冷たい感触で俺は意識を取り戻した。
カビと土埃、そして微かに鉄の匂いが混じったような、むせ返るような冷たい空気が鼻腔を突く。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、そこは先程までの明るい教室とは似ても似つかない場所だった。
「いったた……」
「な、なにこれ、ここ、どこ……?」
辺りを見渡せば、俺と同じように床に倒れ伏していたクラスメイトたちが、呻き声を上げながら次々と身体を起こしているところだった。
制服のあちこちが汚れ、皆一様に怯えと混乱の表情を浮かべている。
ここは、どこだ?
床は磨き上げられた分厚い石板。見上げるほど高い天井には、複雑なレリーフが彫り込まれた巨大なシャンデリアがぶら下がっている。
そして、俺たちを取り囲むように立ち並ぶ、鈍い銀色の輝きを放つ鉄の甲冑を身に纏った騎士たち。
彼らの手には、鋭く研ぎ澄まされた本物の槍が握られていた。
視線を正面に向ける。
少し高くなった段の上には、仰々しい装飾が施された豪奢な玉座。
そこに腰掛けているのは、恰幅が良く、立派な白い髭を蓄えた、いかにも『王様』といった風貌の男だった。
豪奢なマントを羽織り、頭には宝石を散りばめた王冠が輝いている。
さらに、その両脇には透き通るような肌をした見目麗しい美女が、恭しく頭を下げて控えていた。
「よくぞ参られた、異界の勇者達よ」
玉座の王様らしき人物が、よく響く野太い声で、ひどく芝居がかった風に口を開いた。
そこから語られた内容は、アニメやラノベで耳にタコができるほど聞いた、いわゆる『よくある転生もののテンプレ』そのものだった。
『我が国は、突如復活した魔王の軍勢による苛烈な侵略により、滅亡の危機に瀕している』だの。
『神の託宣により、異世界から希望となる勇者たちを召喚する儀式を行った』だの。
『どうか、我々に力を貸し、この国と世界を救って欲しい』だの。
『魔王を討伐した暁には、望む限りの金銀財宝と、望む地位という最高の褒美を出そう』だの。
現実離れした演説に対し、クラスメイトたちの反応は三者三様に見事に分かれた。
「ふざけんな! 家に帰してくれよ! 俺、今日塾があるんだぞ!」
「やだ……お母さん……っ」
と、泣き叫び、真っ当なパニック状態に陥る者たち。これが一番正常な反応だろう。
「……ふっ。ついに、俺の『力』が解放される時が来たか……このぬるま湯のような日常にはウンザリしていたところだ」
と、顔をわずかに俯かせ、メガネの中央を人差し指でクイッと持ち上げながら、痛々しい決め台詞を吐く一部の男子たち。彼らの目は明らかに興奮で輝いていた。
「みんな! とにかく落ち着こう! パニックになっても何も解決しない! まずは、向こうの話を最後まで聞くんだ!」
と、クラス委員長を務めるスポーツマンが、ここぞとばかりにリーダーシップを発揮して周囲をなだめようと声を張り上げる。
そんな喧騒をよそに、俺は奇妙なほど冷静だった。
状況は理解した。異世界召喚だ。間違いない。
となれば、次にやるべきことは一つしかない。自らの強さを確認するための、あのお決まりの儀式だ。
「……ステータス」
俺は周囲に気付かれないよう、小声でそっと呪文のようなその言葉を口にした。
ピロリンッ、という電子音のような幻聴と共に、俺の視界の端、網膜に直接投影されるようにして、青白く半透明な光のウィンドウが浮かび上がった。
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名前:藤田 悟
性別:男女可変(男性選択中)
年齢:16歳(2800歳)
レベル:1
HP:100
MP:120
STR:100
DEF:50
SPD:100
『スキル』
性別変更
『称号』
大日本皇国初代天皇
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「は?」
あまりの情報の暴力に、思わず素っ頓狂な声が漏れ出てしまった。
幸い、周囲は「おおっ! 俺の職業、剣聖だ!」「私の魔法使いってレアなのかな?」と、自身のステータスに一喜一憂するクラスメイトたちの喧騒に包まれており、俺の間の抜けた声は誰の耳にも届かなかったようだ。
いや、ちょっと待て。待て待て待て。
ツッコミどころが多すぎて、脳の処理が全く追いつかない。
まず、『性別:男女可変』ってなんだ!?
スキル欄にもご丁寧に『性別変更』って書いてあるし! つまり俺、男にも女にも自由になれるってことか!? いわゆるTS(性転換)もの要素まで盛られているのか!?
そして年齢! 16歳(2800歳)ってなんだよ! 括弧の中身が本体だとしたら、俺はいつの間にか超絶長寿の化け物になってるじゃないか!
極めつけは、称号だ。
『大日本皇国初代天皇』
……なん、なんだそれは。
異世界に召喚されて、勇者として魔王と戦うのかと思いきや、気付けばどこぞの国家元首になっていましたってか!?
誰が予想できんだよそんな斜め上すぎる展開! そもそも「大日本皇国」なんて国、地球の歴史上のどこを探しても存在しないぞ!
困惑する俺を急かすように、ステータス画面の中で『大日本皇国初代天皇』という文字が、チカチカと淡く点滅を繰り返している。
……これ、完全に「押して詳細を見ろ」って言ってるよな。
えぇ……押さないとダメ?
なんか、パンドラの箱を開けるような、とてつもなく嫌な予感しかしないんだが……
とはいえ、無視して進めるわけにもいかない。
俺は半ばヤケクソになりながら、震える指先を宙に浮く淡く光る文字へと近付け、そっとタップした。
スッ……とウィンドウが拡張され、膨大なテキストが滝のように流れ込んできた。
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『大日本皇国初代天皇』
皇歴2800年、現在も続く由緒正しき国家の母。
皇歴800年に生前退位し、尚も国の行く末を見守り、時折皇民の前でその美貌を振りまく、神格化された現人神。
『大日本皇国』
南は台湾島から北は樺太までを領土とする超大国。
人口3億8000万人を抱え、各地に天を衝く近未来的超高層建造物が立ち並ぶメガロポリスが至る所に点在している。
軍事、経済、技術、文化、全てにおいて他を寄せ付けない圧倒的世界一を維持し、長らく地球圏における絶対的な調停者としての役割を果たしている。
※現在、国ごとこの異世界『アティラス』に転移し、人工衛星等のネットワークを展開して周辺地理を把握中。
技術レベル:
発展型超高効率核融合炉を実用化・保有。地球の重力を容易に振り切る事ができる反重力推進技術や、それらを完全に制御する超高性能量子AI群、気象を操る環境制御技術、大陸プレートをも操作可能な地殻制御技術も保有。文明レベルは『カルダシェフスケール1』に到達している。
軍事力:
世界中を同時に相手取って尚、有り余る圧倒的な戦力を保持。
保有艦艇数は一千隻を越え、その殆どが大気圏内外を航行可能な一千メートルを容易に超える巨大な宇宙艦艇である。
数千万体の完全自律型戦闘ロボットが主戦線を担い、人間は後方、あるいは軌道上から安全に指揮をとるのが基本戦術である。
また──────
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……
…………
………………
えーっと、なんだ。
情報を整理しよう。
つまり、俺(藤田悟・16歳・高校生)は、気付けばこの『大日本皇国』というふざけたスケールの超大国の初代天皇であり、どうやら可変TSスキルを取得しているため女性化も可能で、国家の『母』として崇められ、少なくとも2800年以上生き永らえているガチの現人神(しかも美貌持ち)である、と。
そんでもって、カルダシェフスケール1……つまりは惑星の全エネルギーを完全に制御できるレベルの文明に到達し、宇宙艦隊やら数千万の戦闘ロボットやらを保有する、このアホみたいなチートスペックの巨大SF国家が、現在俺と同じタイミングで、ご丁寧に国土ごとこの剣と魔法のファンタジーな異世界に転移してきている、と。そういうことか?
「(……いや、そうはならんやろ…………)」
目の前では、依然として王様が「そこのメガネの勇者よ、その自信に満ちた顔つき、頼もしいぞ!」などと能天気なやり取りを繰り広げている。
きっと彼らは、魔王軍十万の兵がどうの、伝説の聖剣がどうのと、ファンタジーのスケールで真剣に悩んでいるのだろう。
だが、俺のバックには、今この瞬間も衛星軌道上からこの星の地理を解析し、いつでも一千メートルの宇宙戦艦からレーザーの雨を降らせられる『俺の国』が控えているのだ。
絶望的なまでの世界観のミスマッチ。
俺は、冷たい石の床の上で、もはや笑うことすらできず、胸の中でどうしようもない現実に対する力無いツッコミを呟くことしかできなかった。