翌朝
石造りの冷たい壁をすり抜けるようにして、ステンドグラスの窓から差し込んできた色鮮やかな朝日が、俺の瞼をチカチカと刺激した。
「……ん、朝か……」
ふかふかのベッドから、重い身体を引き剥がすようにして起き上がる。
夢であってほしいという淡い期待は、見慣れぬ豪奢な部屋の天井を見た瞬間に呆気なく打ち砕かれた。俺はまだ、この理不尽な異世界にいる。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、重厚な木製のドアが静かに開かれた。
現れたのは、この城に仕えているであろう給仕服に身を包んだ女性だった。
「勇者様、おはようございます。朝食の準備が整っておりますので、食堂へご案内いたします」
「あ、はい……えっと、ありがとうございます」
俺は少し拍子抜けしながら、案内をしてくれる彼女の後ろ姿をついていく。
なんというか、こういう異世界モノのテンプレって、朝の目覚めを告げに来るのは「若くて、ちょっとドジっ子で、巨乳の可愛いメイドさん」と相場が決まっているのではないだろうか。
しかし、前を歩く彼女は、どう見ても五十代半ばの、ふくよかで優しそうなおばちゃんだった。
(……いや、別におばちゃんでも全然良いんだけどさ? むしろ、こういう人がいる方が『ただのファンタジー』じゃなくて『リアルな生活』って感じがするし、あの皺の刻まれた笑顔には、長年勤め上げてきた熟練のメイド長みたいな妙な安心感があるわけだし……)
そんな失礼極まりない、しかし現実逃避めいた考察を脳内で繰り広げているうちに、俺たちは広々とした食堂へと到着した。
長い長方形のオーク材のテーブルには、すでに俺と同じように制服を着崩したクラスメイトたちがぽつぽつと座り始めていた。
俺も空いている席を見つけ、腰を下ろす。
テーブルの上に並べられているのは、いかにも中世風といった趣の朝食だった。
木製の深皿になみなみと注がれた、わずかに豆と野菜の切れ端が浮いているだけの薄茶色のスープ。
そして、ソフトボールほどもある、ゴツゴツとした見慣れぬ硬そうなパン。
(……みんな、見事なくらい微妙そうな表情だな)
パンをかじり、スープを啜りながら、俺は周囲の様子を窺った。
いくら王城の食事とはいえ、ここは未発達な異世界だ。
化学調味料やスパイス、そして品種改良の恩恵をたっぷり受けた『現代日本の濃く、美味すぎる味』に完全に飼い慣らされている俺たち現代の高校生からすれば、この味付けはあまりにも質素で、ひどく薄味に感じてしまう。
パサパサとしたパンを飲み込むためだけに、味の薄いスープで流し込むような作業。
皆、不満を口にこそ出さないものの、その顔には「朝マック食いてえ……」「コンビニのパンの方が百倍美味い」と書いてあるようだった。
ふと隣を見ると、ここに召喚される直前の教室で、昨夜の深夜アニメの話題で盛り上がっていた佐藤もまた、眉間に皺を寄せながら硬いパンと格闘し、渋い顔をしていた。
俺は、咀嚼を止め、昨日からずっと喉の奥につっかえていた疑問をぶつけることにした。
「……なぁ、佐藤。ちょっといいか」
誰も大きな声を出さない、まるでお通夜のような静かな食堂であったがゆえに、俺は気まずさから自然と小声になっていた。
「ん? なんだよ、藤田」
「いや……その、お前のステータス、ちょっと教えてくれないか?」
恐る恐る尋ねる俺に、佐藤はパンを飲み込み、スープで口を潤してから、あっさりと頷いた。
「……ん? ああ、別に隠すようなもんでもないし、分かったよ。えーっと……」
そう言って、佐藤が虚空を見つめながら口頭で読み上げてくれたステータスが、これだ。
────────────────────────
名前:佐藤 武司
性別:男
年齢:16歳
職業:剣士
レベル:1
HP:400
MP:220
STR:600
DEF:420
SPD:300
『スキル』
剣術Lv1
────────────────────────
「……職業?」
俺は思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。
(えっ!? 職業とかあんの!? 俺のステータス画面にはそんな項目、一文字も無かったんだが!?)
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねる。
さらに、なんだその数値は。
HP400? STR600?
俺の『オール100前後(DEFは50)』という貧弱な数字とは、比べ物にならないほど高いじゃないか。
レベル1の初期値でこれということは、もしかして、これがこの世界の『一般的な勇者のステータス』なのか?
「どうした? 俺の職業、なんか変か?」
俺の反応を見て、佐藤が少し怪訝な顔を向けてくる。
「あ、いや! 別になんでもない! すげえ強そうだなと思って! あ、ありがとな!」
俺は引きつった愛想笑いを浮かべ、半ば強引に誤魔化すように感謝を伝えると、再び味のしないパンに視線を落とした。
……非常にまずい。
何がまずいかと言うと、俺の存在の『全て』がまずい。
昨日から感じていた嫌な予感が、ここに来て最悪の形で確信へと変わってしまった。
恐らくこの後、王様か騎士団長あたりが出てきて、俺たちに実力の確認も兼ねた戦闘訓練的なものを課すのだろう。
だが、俺はそこで何をすればいい?
MPは中途半端に「120」とあるが、魔法のスキルなんて持っていないから行使できない。
剣術や体術といった戦闘スキルもない。特筆すべき身体能力なんて欠片も持ち合わせていない。
なんなら、ただの高校生である佐藤の五分の一以下の、圧倒的貧弱ステータスなのだ。
完全無欠の『無能ムーブ』をかましてしまうことは、火を見るよりも明らかだった。
(いや、これ、本当にヤバいぞ……)
冷や汗が背中を伝う。
もし、「お前は役に立たないから出て行け」という追放展開なら、まだマシだ。城を出て、どこかの村で細々と農作業でもしながら大日本皇国の迎えを待てばいい。
だが、ここは人権や倫理観が中世レベルの異世界だ。
もし、「勇者の名に泥を塗る偽物」として処刑されることになったら? あるいは、異世界人の知識だけを絞り出されるために地下牢に監禁されたら?
最悪の場合、この後の訓練中に『不幸な事故』を装って秘密裏に暗殺なんてことになったら……
パンを持つ手が小刻みに震え始める。
想像すればするほど、目も当てられない悲惨な末路しか思い浮かばない。
朝食後、玉座の間のような場所に再び集められ、王様が何やら期待に満ちた有り難い言葉を投げかけていたが、俺の耳には雑音としてしか届かず、何一つ頭には入ってこなかった。
─────────────────────────
そんなこんなで、俺たちは城の裏手にある、土が踏み固められた広大な訓練場らしき場所へと連れてこられた。
武器庫から運ばれてきたらしい、無数の武具が並べられている。
クラスメイトたちは、「うおお、本物の剣だ!」「これ、ゲームで見たことある杖!」と興奮した様子で、それぞれ剣やら斧やら槍やら杖やらを手に取り、嬉々として素振りをしたり、魔法の真似事をしたりと訓練を始めだした。
皆が思い思いの武器を構える中、俺はただ一人、武器の山を前にしておろおろと辺りを見回すことしかできなかった。
剣なんて持ったこともない。槍の振り方も分からない。
「君、何を突っ立っている。さあ、早く武器を持って、あの的を斬るなり、突くなり、魔法を当てるなりするんだ」
不意に背後から、地響きのような野太い声が掛けられた。
振り返ると、そこには丸太のような太い腕に屈強な筋肉を鎧のように纏う、顔に大きな傷のある大男が立っていた。
恐らく、この国の騎士団長か、訓練の教官だろう。
その眼光の鋭さに、俺はヒッと小さく息を呑んだ。
「い、いや、待ってください! 俺、実は戦闘スキルが何一つなくて……! だから、その、戦うとか無理なんです!」
顔面を蒼白にさせ、若干涙目になりながら、俺は命乞いをするかのようにペコペコと頭を下げた。
情けないにも程があるが、死ぬよりはマシだ。
大男は俺の態度に眉をひそめ、顎の無精髭を撫でた。
「む? 戦闘スキルがない? では、鍛冶や調合などの生産職か? しかし、神の託宣によって召喚されるのは皆、一騎当千の戦闘職のみと言い伝えられていたはずだが……」
(……あ、意外と話が通じそうな人だ)
俺は少しだけ安堵し、縋るような思いで言葉を続けた。
「じ、実は俺、ステータス自体も他の人たちよりも圧倒的に低くて……その、スキルも戦闘向きではないと言いますか……完全に裏方というか……」
自分が『可変TS』と『超大国の現人神』という、色んな意味で規格外の存在であることは絶対に伏せたまま、必死の懇願を続ける。
俺の必死すぎる形相が通じたのか、教官の大男は呆れたように一つ溜め息を吐いた後、武器の山から一本の短い刃物を取り出した。
「……なるほど、事情は分かった。ならば、この短剣を使うんだ。軽くて短い故に、素人でも取り回しが良い。皆が訓練している中で、一人だけ何もしていないと逆に目立ってしまうからな」
そう言って、俺の胸に柄を押し付けてきた。
俺は慌ててそれを受け取る。確かに、両手剣や長槍に比べれば、果物ナイフの延長のようなこの短剣なら、なんとか振り回せそうだ。
「あ、ありがとうございます……!」
俺は深く、深くお礼をして、その場から逃げるように離れた。
それから数十分。
俺は訓練場の隅っこで、ひたすら虚空に向けて短剣の素振りを続けていた。
シュッ、シュッと、風を切る音すらせず、ただ腕を上下に動かすだけの単純作業。
しかし、HP100、STR100という、現代日本の帰宅部高校生と何ら変わらない貧弱な身体能力では、いくら軽い短剣とはいえ、数十分も振り続ければ腕が鉛のように重くなってくる。
「……っ……はぁっ……くっ!」
肩で息をし、額から滝のような汗を流しながら、俺は周囲に目を向けた。
「はぁっ! せりゃあっ!!」
「ファイヤー・アロー!!」
周りのクラスメイトたちは、疲労の色など全く見せず、何処吹く風といった様子で生き生きと凶器を振り回していた。
中には、「スキル・剛力斬!」などと叫びながら、訓練用に置かれていた厚さ数センチはあろうかという鉄の塊の的を、何の抵抗もなくバターのように真っ二つに両断している奴までいる。
(くっそ……チートすぎだろ、あいつら……!)
自身の背後に、惑星すら破壊しかねない数千万のロボット軍団や、軌道上からレーザーを降らせる一千隻の宇宙戦艦、そして神の如き科学力を持った『大日本皇国』という最大最強の後ろ盾が存在している事実を完全に棚に上げ、俺は内心で理不尽な世界への愚痴を吐き捨てた。
腕の筋肉が千切れそうな痛みに耐えながら、俺はただひたすらに、この苦痛に満ちた訓練という名の一日が、一秒でも早く終わることだけを神に祈り続けるのだった。