あの後、僕とミサキは休憩室に戻ってきていた。
今は、通り雨のせいで濡れてしまった衣服や髪の毛を乾かしている。
ドライヤーでミサキの髪を乾かそうとすると、自分でやる、と言って僕の手からドライヤーを奪い取る。
「私も、一応は大人の部類に含まれるから」
「もう大学3年生だったっけ」
「うん」
「それで、レポートの方は順調かい」
「それなりに進んではいるけど」
彼女は目を合わせようとはせず、高校の頃より少し伸びた髪を風でなびかせている。
ドライヤーを握っている腕を見ると、そこには古い包帯と比較的新しい包帯が巻かれている。
「まだそんな事を続けてるのかい」
その問いをした瞬間、ミサキは反射的に口を開いた。
「これは、私を見失わないため。痛みがあることで私は生きている、と感じられるから」
「あまり勧めたくはないけど、ミサキがミサキでいられるためなら、僕は何も言わないよ。今はもう生徒と教師じゃないからね」
そう言った僕は腕時計で時間を確認する。時計の針は8という数字を指していた。
家に帰ろうと準備をしていると、後ろからミサキの声が聞こえてくる。
「先生は、告白とかはされなかったの?」
「何度かはされたよ。何で睨むの」
「睨んでない」
明らかに不機嫌になり冷たい視線を向けるミサキを横目に僕は話を続ける。
「ただ全部断ったよ。じゃなかったら、今先生という立場にいないしね」
「なら先生は、いつも私達生徒のことをどう思っていたの」
「別になんとも。ミサキが求めている答えはあえいて言わなけど、少なくともそれは一度もないよ」
そう言うとミサキは嬉しそうな悲しそうな声で後ろから手を繋いでくる。
後ろを振り向いても顔は合わせてくれなかった。
「薄汚い私だからだけど、他の子にこんな事をされても」
「恋は盲目と言うよね。僕にとっての親友との関係は恋に近かった。だからそれはないかな」
「あ、別に僕が男性が好みというわけではないよ」
「それは知ってる」
「それじゃ、そろそろ帰るけど準備できてる?」
「帰るのを止めたのは先生でしょ」
「それはそうだったね」
冷めきったコップを洗い場に出しておいて執務室の鍵を閉める。
休憩室の光はつけっぱなしだった。
外に出ると街灯やビルの光が進むべき道を照らしてくれている。
けれど、月の光は進むべき道、ではなく僕とミサキを照らしてくれているようだった。
「そう言えば、合コン抜け出してきたけどどうする?飲み直す?」
ミサキは少し悩んだ素振りを見せた後に言った。
「先生の家でなら」
「え、まぁ別にいいけど。お酒買っていかなくっちゃだね」
「意外、拒否されると思った」
「生徒の時ならまだしも、今は立派な大学生だからね」
そう返すとミサキは照れたのかほんのりと頬を赤らめる。
シャーレの時から手は繋がれたままだ。
と言っても小指と小指をつなぎ合わせているだけではあるが。
「先生、家についても何もしないよね」
「君のことを好きかどうか別として、肉欲に支配されるかもしれないよ」
「そう。ある意味では最低だね」
「僕も人だからね。神のような完璧な存在にはなれないよ。だから最低にもクズにもなりきれてない」
「なら私と一緒に全てから逃げ出してみる?」
「それはまた今度の機会にさせてもらおうかな」
彼女の子供らしい問いかけを受け流す。
ミサキはそう、とだけ言ってちょうど着いたコンビニへと足早に入って行ってしまった。
自分もコンビニに入り見渡すと、ミサキはただ一人お酒が並んでいるコーナーに包帯で巻かれた腕を抑えて佇んでいる。
カゴに少量のおつまみを入れてミサキの隣へと立つ。
「どんなのを飲むの」
「これと、これかな」
そう言って彼女が選んだのはアルコール度数が低いものばかりだった。
「先生とのお酒は飲みたいけど、今日はあんまり酔いたくない」
「確かに、明日も仕事だからね」
自分用のお酒もカゴに入れてレジに並ぶと、ミサキの目線があるものに向きていることに気がついた。
「それ、欲しいの?」
「いや、ちが」
頬を赤らめながら否定するも目線は一つのテディベアに止まっている。
大きさは60cmほどで所々に縫い目が現れていた。見るからに粗悪品ということがわかる。
「欲しいなら買うよ」
「あ、ちょっと」
値段を見ると2500円と書かれてあり、その値段設定に驚きながらもレジに来て財布を出す。
趣味のプラモやフィギアをやめてからというもの、財布の経済はあまり回らなくなっていた。
支払いを終えて、先に外に出ていたミサキにそれを渡す。
「あ、ありがとう」
けっしてこちらを向いては言わなかったが、そこには温もりが感じ取れる声色が載せられていた。
「一応、迷惑をかけたし、もしかすると一生かけるかもしれないからね。そのお詫びってことで」
「それでも、...ありがと」
お礼を言われるのはむず痒さがあるけれど、元教え子に感謝されるなら悪くないと思ってしまう。
そうして、コンビニに入ってから途切れていた指は、いつしか家につくまで繋がれていた。